第8話

 脳科学研究所では、絵里、勅使河原淳一郎、御徒町博士の三人が、ゼロ撃退の作戦会議を始めようとしていた。彼らの前には空っぽになった二台のコンピュータが置かれている。御徒町博士の隣で、少し大きくなった万智が二台のコンピュータを順番に睨みつけていた。

「博士、思わぬ助っ人が協力してくれることになりました」、勅使河原淳一郎はコンピュータのスイッチを入れながら、博士に伝えた。

「その助っ人はどこに来てるのだね」

「ここです」

 左のコンピュータが起動すると、モニターに女子高生ルリコが現れた。

「これは、誰が作ったAIかね」、博士が尋ねた。

「AIじゃないわ。JKよ」、画面の中の女子高生ルリコが短くした制服のスカートを揺らしながら答えた。

「JK……? それはどういったシステムかね」

「おっさん、いやらしいわね。三十分五千円とか言って欲しいわけ? キャバクラじゃないんだから。私は本物の、ジョ、シ、コ、ウ、セ、イ、よ」

 女子高生ルリコは長い髪を両手でふわりと撫で上げた。

 モニターの女子高生ルリコを見ながら唖然としている御徒町博士に、勅使河原淳一郎はことの成り行き話した。絵里の同級生である水沢瑠璃子の失踪、彼女が猫になったこと、女子高生ルリコが話した金魚すくいのおやじのこと、巨人があらわれたこと、などを。

 女子高生ルリコは、腕を組んだままツンと斜め上を向いて、説明が終わるのを待った。

「それを私に信じろと言うのかね」

 博士は眉間に皺をよせ、腕を組んで靴をタンタンと鳴らした。

「信じられないでしょうけど、そういうことなんです」

「私が嘘ついてるって言うの? ジョーダンじゃないわよ。私だって、猫にされたり、コンピュータの中に入れられたり、好きでやってるんじゃないんだから。信じないんだったら、手伝ってあげない」

 女子高生ルリコは後ろを向いてイライラと足を揺すった。

「あなた、博士に何を偉そうに言ってるのよ。ゼロを捕まえられるのは、コンピュータの中のあなたしかいないんだから、協力しなさいよ!」

 絵里はヒステリックに女子高生ルリコを責めた。

「まぁまぁ、二人ともケンカしないでくれ」

 勅使河原淳一郎は仲裁に入った。

「信じようにも、私は信じられん」

 博士も頑固に勅使河原淳一郎の話を拒否した。

 そんな最中、絵里はふと博士の隣の万智を見た。「万智君、どうしたの?」

 万智の顔や手に赤い斑点が出ていた。

「万智、その顔は……」

 博士は万智の顔をいろんな角度から見渡し、袖をまくりあげて腕を調べた。

 やはり、そこにも赤い斑点が出ていた。

「この子は猫アレルギーなんだ」

「以前にもルリコが黒猫のとき、赤い斑点の反応が出たんです」

 絵里は以前のアレルギー反応のことを話した。

「また私が悪者なのー? 今は猫じゃないのに……」

 女子高生ルリコは不貞腐れて、口を尖らせた。

「博士、万智君のアレルギーはルリコが猫だった証拠です」

 博士は、うーん、と唸ったあと、根拠はないが信じるしかなさそうだ、と呟いた。絵里と勅使河原淳一郎は、ほっ、と安堵した。

「だが、君は何ができるのかね」と博士は女子高生ルリコに訊いた。

「何もできないわよ。できるはずないじゃない」と女子高生ルリコは早くも、お手上げ、という風だった。

「万智君、あなたの作ったプログラムの弱点を教えて」、絵里は万智に訊いた。

 万智は何も答えなかった。

 絵里は、ふと彼の手元を見た。万智はまた膝を指で叩いている。そこで、彼女は二台の空のコンピュータにキーボードをセットした。

「万智君、またこれで遊んでみる?」

 絵里はコンピュータの前に万智を呼び寄せた。

 万智はすっと立ち上がって、コンピュータの前に座った。そして、右と左のコンピュータ画面を交互に見比べた。右のコンピュータ画面は真っ白。左には女子高生ルリコが映っている。万智はふーっとため息をついて立ち上がり、御徒町博士の隣の椅子に戻った。

「何もないところから、プログラムを組むのは無理みたいだ」

 勅使河原淳一郎は腕を組んで目をつぶった。

「テッシーのプログラムデータのバックアップはないの?」、絵里は勅使河原淳一郎に尋ねた。

「バックアップはないよ。あれを作るには半年ほどかかる」

「何かベースになるプログラムがいるのよ」

 絵里は勅使河原淳一郎に詰め寄った。

「それならあるわよ」

 答えたのは女子高生ルリコだった。ルリコはそそくさと画面から消え、それ、を探しに行った。

 万智のアレルギーはすでに消えていた。

 トントンと小さく何かが鳴っている。時間が静かに音を立てて進んでるように。それは、万智が膝を叩いている音だった。

 しばらくして、左のモニターに女子高生ルリコが戻ってきた。車椅子に、それ、を乗せて。

 絵里と勅使河原淳一郎は車椅子の、それ、を見て立ち上がった。

「お母さん!」

「悦子さん!」

 二人は同時に叫んだ。それは亡くなった絵里の母親、悦子だった。

「もうひとつあるの、待っててね」

 女子高生ルリコは、車椅子の悦子を置き去りにして、また画面から出て行った。

 しばらくして、今度は右のモニターに現れた。車椅子に、もうひとつのそれ、を乗せて。

「じいちゃん!」

「鉄蔵さん!」

「ゼロが残していったのよ。これ、絵里のお母さんとおじいちゃんだよね。あなたの家で写真を見たわ」

 女子高生ルリコが得意気な顔をして、どう、と評価を仰いだ。

「どうしてそんなところに?」、絵里が目を見開いて、誰に訊くでもなく尋ねた。

「もしかしたら……、僕のプログラムにあったものかもしれない」、勅使河原淳一郎がそう予想した。

「そうだ。テッシーはおじいちゃんとお母さんに輸血してもらったんだ」

「うん。それで、悦子さんと鉄蔵さんの遺伝子プログラムが残っていた」

「だけど、これ、動かないの。万智、おばさんとおじいちゃんを生き返らせて!」

 コンピュータの中から、女子高生ルリコが色気たっぷりに万智にお願いしたあと、モニターを黒いコマンド入力画面に変えた。両方のモニターには、緑色に光る文字や記号が浮かび上がった。左のコンピュータには悦子のプログラムデータ、右には鉄蔵のものを表示している。

 万智は再び立ち上がり、モニターの前の椅子に座った。次に、両方のモニターを交互に繰り返し見比べた。そして、左のコンピュータのキーボードに両方の手を置き、ゆっくりと画面の文字をスクロールさせた。それは徐々に速度を上げ、画面の上へと流れていった。スクロールが止まると、今度は右のコンピュータの画面に取りかかる。先ほどと同じ動作を繰り返し、右の画面のスクロールを終えると、もう一度左のキーボードに戻った。その後、画面を睨みつけながら、ひとつのキーを押し、プログラムデータの文字を全て消した。続いて右の画面も消去した。万智は両方の手を膝に戻し、トントンと指で弾いた。

 そして、沈黙する。

 万智は左手を左のコンピュータのキーボードに、右手は右のコンピュータのキーボードに置いた。やがて、万智の両方の手がゆっくりと動き出す。万智は天井を見上げながら、右のコンピュータと左のコンピュータを同時に操作した。その動きは徐々に加速していく。しばらくして、右のキーボードを両手で叩き、またしばらくして、左のキーボードを両手で叩き、これらの動作を数分おきに繰り返した。ものすごい速さで。

「こ、これは!」、勅使河原淳一郎は立ち上がり、万智の後ろからその光景を見た。「万智君は、ソフィのプログラムと僕のデータを覚えてる。四つのデータを混ぜて、新しいプログラムを作ってるんだ」

「なんだって!」、御徒町博士も万智のところへ駆け寄った。「なんだ、このプログラムは?」

 万智は御徒町博士の想像もしない解釈でプログラムを組んでいる。御徒町博士と勅使河原淳一郎は、万智のプログラムを目で追い続けた。その間、絵里はすることもなく、ただ、再び母と祖父に会えることに小さく期待を膨らませていた。


 万智の作業は午後の時間に突入した。絵里は万智の前方に回って、左のコンピュータと右のコンピュータの隙間から手を伸ばし、彼に水を飲ませたり、サンドイッチを口元に運んで食べさせたり、チョコレートを小さく割って口に入れたり、と彼の体力を考えて、途中で倒れないようにサポートをしていた。万智の両手の動きは止まることなく、キーボードを叩き続けている。研究室にはその乾いたプラスチック音だけが響いていた。


 キーボードのカタカタという音が止まったのは、窓からオレンジの光が差し込む夕暮れ時だった。万智は手を止めて、コンピュータの後ろの壁を見ている。窓から訪れた夕焼けの光が何かに反射して、壁の一部を虹色にきらめかせていた。万智はそれを見ている。博士はずっと万智の後ろに立って、画面のデータソースを見ていた。そして、視線を万智の背中に移し、涙を浮かべて、「素晴らしい!」と小さく洩らした。

 とっくに万智のプログラムを目で追うのを諦め、椅子に座ってうとうとしていた勅使河原淳一郎は、ようやく気づいて、「終わったのですか?」、と御徒町博士に訊いた。絵里はその声を聞いて顔を上げた。

「終わったようだ」、博士が告げた。

 万智は立ち上がり、後ろを振り向いた。そしてそのまま、父親に体を預けた。御徒町博士は万智の脇に手をかけ、抱き上げた。彼はすでに大きないびきをかいて眠っていた。博士は小さな天才をぎゅっと抱きしめ、研究室から出て行った。

「ねぇ、もう終わったの?」、コンピュータから女子高生ルリコの声がした。

「終わったみたいよ」、ルリコの素っ気ない質問に、絵里が無愛想に返事をした。

 左のコンピュータのコマンド画面が閉じ、女子高生ルリコが現れた。「じゃ、再起動するわね」

 両方のコンピュータの画面が消えた。

 勅使河原淳一郎が大きく伸びをすると、絵里も口に手を当てて遠慮がちにあくびをした。

 真っ暗になったコンピュータの画面が、再び立ち上がった。

 絵里は母と祖父の登場を期待した。しかし、画面に現れたのは、絵里の知る姿の彼らではなかった。

「お母さん?」

 絵里は立ち上がり、そのまま呆然と立ち尽くしていた。

「絵里?」、画面の中の長い黒髪の美女がそう言った。

 左のコンピュータ画面の女性は、彼女のデータに絵里の存在を見つけて、声をかけた。「おとなになったわね」

 絵里は目に涙を浮かべた。

 右の画面には、すらっとしたハンサムな若者がいた。

「絵里かい? ずいぶん大きくなったな」、ハンサムな若者は絵里を見てそう言った。

 その言葉が絵里の目に溜まった涙を押し流した。「おじいちゃん」

 右の美女は左のハンサムな若者に声をかけた。「お父さんなの?」

「おお、悦子。お前はずいぶん若返って」

 コンピュータの中と外とはいえ、家族三世代が揃った。

「悦子さん、鉄蔵さん、お久しぶりです」

 勅使河原淳一郎はコンピュータの中の二人にあいさつした。

「淳一郎君か、立派になったな」、鉄蔵が勅使河原淳一郎に声を送った。

「淳ちゃん、絵里のこと、ありがとう」、悦子は勅使河原淳一郎に感謝を伝えた。

 彼らはコンピュータのプログラムであり、本物の悦子でも鉄蔵でもない。彼らの遺伝子をもとに、人工頭脳が場に相応しい会話を発している。絵里も勅使河原淳一郎も、それを知っていたが、ただその雰囲気を存分に味わっていたかった。

「では、本題に入りましょう」

 女子高生ルリコだけが情に押し流されず、淡々と事を進めようとしていた。おじいさま、おばさま、お願いがあるんです。ルリコは最低限の気遣いをもって、彼らにそう言った。

「私の友達のゼロを止めて欲しいの。彼は感情プログラムを失くして暴れているの」

 そのお願いを伝えたのは絵里だった。

「ゼロはソフィとテッシーの融合プログラムよ。あちこちで破壊行為をしているの」、女子高生ルリコが簡潔にこう説明した。

 万智が作りあげたプログラムの二人には、それだけの説明で十分だった。それに二人はゼロが残していったプログラムでもあるのだから。

「わかりました。ただ、ゼロは手強いわ」

 コンピュータ頭脳となったエツコがそう分析した。

「居場所はわしが見つけられる。だが、彼がわしらに近づいてくるかどうかだ」

 テツゾウの分析はこうだった。

「それならおびき寄せる方法がある。僕のお母さんを使うんだ」

 勅使河原淳一郎は、以前ソフィが母親に扮したときのことを話した。

「ゼロをおびき寄せたところで、彼を停止させる方法はあるの?」、女子高生ルリコが訊いた。

「彼は淳ちゃんのDNAベースのプログラムよね。私と父も人間のDNAベースのプログラム。ならば、X遺伝子プログラムとY遺伝子プログラムに解体して、それぞれを私と父に取り込めば、彼を封じ込めることができるわよ」、エツコが提案した。

「なるほど、精子と卵子に帰還させるわけだな」

 御徒町博士がいつの間にか研究室に戻ってきていた。

「そんなことが可能なのですか?」、勅使河原淳一郎が博士に訊いた。

「ソフィ自体が、オス型思考プログラムとメス型思考プログラムに分かれているのだよ。オス型思考プログラムは、従属的な階級意識の発想の思考回路。一方、メス型思考プログラムは、横の繋がりを重んじる同調性の思考。ソフィはそれを柔軟に発想できるように、別々にプログラムされているのだ」、御徒町博士は説明した。

「だけど、おばさまもおじいさまも、もとはゼロの中にあったものでしょ。逆に取り込まれちゃうんじゃないの?」、女子高生ルリコは疑問を呈した。

「いや、万智がただのデータであった彼らに命を吹き込み、プログラム化し、容量を増幅させた。ゼロのプログラムより、彼らのプログラムのほうがはるかに大容量なのだ。それは彼らの姿を見ればわかる。ゼロは子供の姿だ。まだ未完成の部分がある。エツコとテツゾウは二十代の姿だ。いわば完成されている。自分より大きなプログラムを取り込むのは不可能だ」、御徒町博士は論じた。

「お母さんとおじいちゃんは、どこにゼロを取り込むんですか?」、絵里が訊いた。

「彼らは人間のDNAベースのプログラムだ。二十代の姿の彼らには、データソースの中に生殖ユニットが存在する。そこにオス型思考プログラムとメス型思考プログラムを分離させて取り込めばよい。分離させれば、ゼロ自身の頭脳回路も運動機能も停止する」

「分離する方法は?」、今度は勅使河原淳一郎が尋ねた。

「まず、ゼロに感情プログラムを戻す必要がある。おそらく、今はオス型思考プログラムで動いている。彼の思考を感情プログラムを使って、幼年期思考プログラムに戻し、オス型、メス型の思考プログラムを停止させる。そこまでくれば、簡単に分離できる。幼年期思考プログラムを発動させるには、絵里君、君のアンテナが必要だ」

「私のアンテナ?」

「そう」、博士はしっかりと頷いて、続けた。「君のイプシロン波は、幼年期に最大の力を発揮していたはずだ。その後、イプシロン波は他の感情と融合し、新しい力を生んだ」

「おじいちゃんと私の予言力のことね」

「そのイプシロン波は他者の幼年期の思考波を引き寄せるのだ」

「それで、私は何をすればいいの?」

「何もすることはない。君のイプシロン波は以前に取り込んでいる」

「ルリコとおじいちゃんもイプシロン波を持っているはずよ」

「イプシロン波のプログラムを彼らに見せよう」

 博士はカタカタとキーボードを叩いてコンピュータを操作した。

「君たちの中に、こういうプログラムを見つけてくれ。これは絵里のイプシロン波だ。もしかしたら、悦子さん、あなたも持っているかもしれない」

 コンピュータの中の三人はそれぞれ目を閉じて瞑想を始めた。

「あったわ。これね」、女子高生ルリコが見つけた。

 続いてテツゾウ、そして、エツコにもやはり存在していた。それは、りんごの形として画面に映っている。しかし、エツコのりんごはまだ青く、ルリコのは半分に欠け、テツゾウのものはドライフルーツのように乾燥していた。絵里のりんごは小ぶりではあったが、きれいな形をしている。

 御徒町博士はキーボードを操作して、絵里のりんごをベースに、他の三人のりんごを組み合わせ、ひとまわり大きな艶のあるそれを完成させた。

「これをゼロに食べさせればいいのね」、女子高生ルリコが訊くと、博士は無言で大きく頷いた。

 さらに、数時間かけて、作戦が練られた。その作戦とは、まず、ルリコが勅使河原淳一郎の母親に変装してゼロをおびき寄せ、感情プログラムのジャージを着せる。そして、イプシロン波のりんごを食べさせる。ゼロは幼年期思考に入り、オス型メス型思考プログラムが停止したところで分離させ、エツコにオス型思考プログラムを、テツゾウにメス型思考プログラムを吸収させる、といった手はずだ。

「こんなに簡単にうまくいくかしら?」、絵里は疑問を感じた。

「うまくいくわけないじゃない」

 女子高生ルリコは早くも音を上げた。

「やってみるしかない」、勅使河原淳一郎は二人をけしかけた。彼もそんなに簡単にはいかない、と感じていた。だが、もし失敗したときのために、ある作戦を立て、覚悟を決めていた。

「仕方ないわね」、女子高生ルリコは渋々同意した。

 

 数時間が経過した。研究室の時計は午後の九時を回った。コンピュータには勅使河原淳一郎の母親に扮装した女子高生ルリコがひとりで待機していた。青いジャージを手にして。

「来たぞ!」、スピーカーからテツゾウの声が伝えた。

 ルリコのいる左のコンピュー画面の中の空間に、丸く窓が開き、そこから裸のままのゼロが出てきた。

 ゼロは勅使河原淳一郎の母親を睨んだ。

「お前は黒猫だな。同じ手は二度も通用しない」、ゼロは勅使河原淳一郎の母の姿のルリコに言い放った。

「あら、最初からバレてるじゃない」

 ルリコは勅使河原淳一郎の母の姿から、女子高生の姿に戻った。

「私を騙せると思ったのか。私はゼロだぞ、わはははー」、ゼロは高飛車に笑った。

「ねぇ、仲直りしない? これ、仲直りの印。おいしいわよ」

 ルリコは機転を利かせて、イプシロン派のりんごをゼロに差し出した。

「どうせ毒でも入っているのだろう」

 ゼロはそれも見抜いていた。

「ゼロ、私よ。あなた約束したわよね。人を苦しませないって」、コンピュータの外から、絵里がゼロに告げた。

「イダエリか。そんな約束は忘れた。この世界、全部破壊する」

「私のアンテナの力を知ってるわよね。ルリコも同じ力を持ってるわよ」

「あー、イプシロン波か。それは私には効かないのだよ」

 ルリコがコンピュータ内に侵入したときに、ゼロはそのことを調べ、何も害がないことをすでに知っていた。

「やめなさい。私と父があなたを救ったのよ」

 エツコが画面に入ってきた。

「そのようなデータはもう存在しないのだ」

 何を言ってもゼロは聞きそうになかった。もはや実力行使しかない。女子高生ルリコは、ゼロに飛びかかり、むりやり感情プログラムの青いジャージを着せようとした。

「あーっ!」

 ルリコの叫び声と同時に、彼女の体は三メートルほど後方に吹っ飛んだ。次にエツコとテツゾウが飛びかかった。しかし、ゼロに触れることもできず、ルリコと同じように彼らも吹き飛ばされた。

 ゼロは絵里たちがいるコンピュータの外をじっと睨んだ。すると、研究室の天井の蛍光灯がひとつ、パン、と乾いた音と共に閃光を放ち、割れて飛び散った。絵里は首をすくめて、割れた蛍光灯のあった天井を見上げた。もしあの下にいたら、と絵里はぞっとして震え、ゼロの力に恐怖を感じた。

「お前たち、私を怒らせると、どうなるかわかっているのか?」

 勅使河原淳一郎は目を吊り上げて怒りをあらわにした。そして、拳を握りながら研究室のドアへ向かい、外へと出て行った。

「まさか、勅使河原君!」

 御徒町博士が勅使河原淳一郎の後を追った。そして、絵里も何かに気づき、部屋を出た。

 ゼロは画面の中で優越感に浸り、腕を組んで笑っている。

 絵里が地下室の倉庫の前に着いたとき、御徒町博士は倉庫のドアを叩いていた。勅使河原淳一郎は、以前試したELB装置を使ってコンピュータ内に侵入し、ゼロの動きを止めようとしていた。

「勅使河原君、危険だ! 戻れなくなるぞ!」

「それでも、僕はゼロを止めなければ!」

 勅使河原淳一郎は倉庫の内側からロックをかけていた。

「どうやってゼロを止めるの?」、絵里がドアの向こうの勅使河原淳一郎に叫んだ。

 電極のついたヘッドギアをかぶりながら、彼は言った。「ゼロの半分は僕のプログラムだ。融合できるはずだ」

 そして、彼はELB装置のスイッチを入れ、マイクに向かって叫んだ。

「ルリコ、よく聞いて、僕がコンピュータの中に入る。手伝ってくれ?」

 床にうずくまっていたルリコは、ようやく立ち上がり、画面の向こうの勅使河原淳一郎に言った。「私が入ってきたときと同じようにやればいいのよね」

「そうだ! 準備はいいかい?」

「いいわよ」

 絵里は研究室に急いだ。ルリコ、ダメよ。テッシーがそっちに入ったら、戻れなくなっちゃうの……。

 勅使河原淳一郎は実行ボタンを押した。ソフィの消滅と同時に、ELB装置のロックは解除されていた。ルリコは目をつぶって何かを念じている。彼女の手が空中の何かを掴む。そして、体重をかけて、全力でそれを引っ張った。絵里が研究室に着いたときには、勅使河原淳一郎の体の半分が画面の中に現れていた。ゼロが勅使河原淳一郎の侵入を阻止しようと、ルリコに駆け寄った。だが、テツゾウがゼロの足を掴み、動きを止めた。さらに、エツコが勅使河原淳一郎の手を握り、ルリコと一緒に引っ張った。

 倉庫の勅使河原淳一郎は体を硬直させ、歯を食いしばっている。

 突然、研究所の電気が消えた。そして、二台のコンピュータのモニターにノイズが走り、同時に画面が光を失った。研究室は真っ暗になり、辺りは静まり返った。

 次の瞬間、コンピュータ画面が息を吹き返し、再び光がじわじわと戻り始めた。研究室の電気がついた。コンピュータに色が戻ると、画面の中にもうひとつの人影が現れた。

「テッシー!」、絵里が叫んだ。

「ゼロ、もう遊びは終わりだ」、コンピュータの中の勅使河原淳一郎は落ち着いた表情でゼロを諭すように告げた。

 ゼロはテツゾウの制止を振り解き、勅使河原淳一郎に向かって走り出した。そして、右腕を振り上げ、拳を勅使河原淳一郎の腹にめり込ませた。勅使河原淳一郎は笑っていた。ゼロが右手を引くと、そこにあるはずの右手の手首から先が消えていた。

「なに!」

 ゼロはこわばった表情で、なくなった右手を睨みつけた。しかし、左手で右手の先を掴むと、その先から肉がもりもりと盛り上がり、あっと言う間に右手が再生した。

 再びゼロは勅使河原淳一郎に向かい、今度は右足を大きく後ろへ引きつけ、体を後ろへ反らせて、勅使河原淳一郎の左の腹を蹴り上げた。ゼロの右足は勅使河原淳一郎の腹にめり込んだ。足を引いたときには、先ほどと同様、ゼロの足首から先が消えていた。しかしまた、両手で右の足先を掴むと、右足が再生した。

「ゼロ、あきらめろ」、勅使河原淳一郎は何のダメージもなく、余裕の表情でゼロに忠告した。

「くそっ!」

 ゼロは唇を噛んで悔しさをこらえた。

 勅使河原淳一郎は、ルリコが持っていた青いジャージを受け取り、バサッと空にひるがえして、袖に片腕を入れ、もう片方の腕も通してそれを着込んだ。そのあと素早くゼロの背後に回り、後ろから覆いかぶさった。そしてそのまま、ゼロを背後から羽交い締めにし、動きを止めた。ゼロの体は勅使河原淳一郎の体に吸収されるように、少しずつ消えていった。勅使河原淳一郎の胸にゼロの顔だけが残った。これでゼロを封じ込められる、と誰もが期待した。

 しかし、勅使河原淳一郎の胸についたゼロの顔は、冷ややかに笑っていた。ゼロが反撃に出た。一瞬の隙をついて、ゼロは顔を入れ替えた。勅使河原淳一郎の顔がゼロに、ゼロの顔が勅使河原淳一郎に変化した。さっきまでとは逆に、ゼロの胸に勅使河原淳一郎の顔だけが残ってる。

「しまった!」、ゼロの体の真ん中で、勅使河原淳一郎の顔が嘆いた。

「ははは! 人間が私に勝てるはずがない!」

 ゼロが笑う。

 勅使河原淳一郎は力を振り絞り、ゼロの体の脇腹から、両手を突き出した。そいつは、顔が二つ、腕が四本の怪物。彼はゼロの体を分離させようと試みたが、これ以上はどうあがいても体が動かなかった。

 今度はエツコがテツゾウに合図を送った。エツコはゼロの脇腹から出ている勅使河原淳一郎の右腕を掴み、テツゾウは左腕を掴んだ。すると、二人の体は勅使河原淳一郎の腕と絡み合い、同化し始めた。エツコとテツゾウの体が、勅使河原淳一郎の腕を伝って、ゼロの体に吸収されてゆく。ゼロの体は、徐々に膨らみ始め、もとの倍ほどの大きさになると、今度は収縮し始めた。そして、体のあちらこちらが、膨らんだり萎んだりを繰り返し、はちきれんばかりに膨らんだところで、ようやく動きが止まった。

 パンパンに膨らんだゼロの体を、勅使河原淳一郎が体の内側から、エツコとテツゾウは脇腹に体を突き刺しながら、ゼロの動きを封じ込めた。

「ルリコ、今よ! ゼロにりんごを食べさせて!」、コンピュータの外から絵里が叫んだ。

 ルリコは大きくなったゼロの体によじ登り、りんごを口に押し込んだ。しかし、ゼロは短くなった手でルリコを払いのけ、りんごを掴んで壁に叩きつけた。イプシロン波のりんごは粉々に砕けてしまった。ルリコは真っ赤な顔で怒りをあらわにし、ゼロの右腕を掴み、体に直接イプシロン波の刺激を送った。ゼロの体はビリビリと震え始めた。

「そんなものは効かぬと言っただろ!」、ゼロは震えながら叫んだ。

「私のアンテナだけでは効かない。おばさん、おじいさん、お願い!」

 エツコとテツゾウは、ゼロの体に刺さりながらイプシロン波を送った。

「これでも効かないの!」、ルリコが根を上げ始めた。

「ルリコ、私のイプシロン波をそっちに送る方法は?」、絵里は叫んだ。

 答えたのは、勅使河原淳一郎だった。「右のコンピュータのケーブルを体に巻きつけるんだ!」、勅使河原淳一郎は苦しそうにそう叫ぶ。

 絵里は返事もせず、勅使河原淳一郎の言う通り、ケーブルを体に巻きつけ、念を送った。

「ギャー!」、ゼロが叫び声をあげ、暴れ出した。

 ゼロは右腕を大きく振り回し、ルリコの体が宙を舞う。エツコとテツゾウも振り回された。絵里は体に電気を浴びる。それぞれがゼロの抵抗に耐えていた。

 次の瞬間、ゼロの体が止まった。彼は画面の外の一点を見つめていた。

 絵里は電気を浴びながら、後ろを振り向いた。

「万智!」

 ゼロの視点の先には、万智がいた。

「か、神よ!」

 ゼロはその場にひれ伏した。万智は険しい表情で、コンピュータにゆっくりと近づく。

「おい、ゼロ。僕はこの世界を破壊させるために、お前を作ったんじゃない」、万智は怒りの形相でゼロに告げた。

「お怒りを……お鎮めください!」

 ゼロは震えながら土下座していた。

「お前が動くのは今じゃない。お前には使命がある。人類を救うために、生まれてきたんだ。忘れたのか!」

「いいえ、マチ様。お許しください」

「ならば、この者たちに、素直に取り込まれよ。いつの日か、お前が必要とされる、トキ、が来る」

 ルリコ、エツコ、テツゾウ、そして、絵里は、引き続き、ゼロにイプシロン波を送った。

 ゼロはエツコとテツゾウの体を解放し、体から分離した。すると、体が収縮し始め、もとの大きさに戻った。ゼロと勅使河原淳一郎の顔が入れ替わり、勅使河原淳一郎の体の胸にゼロの顔が戻った。やがてゼロは徐々に勅使河原淳一郎の体に吸収され、胸にあった彼の顔が消えていった。さらに、勅使河原淳一郎の体がみるみる小さくなっていく。子供の小さな体になったとき、勅使河原淳一郎の顔はゼロの顔になった。もともとゼロは幼い勅使河原淳一郎の姿だったのだ。そして、どんどん成長の過程を逆に辿り、赤ん坊にまで変化した。

 エツコは赤ん坊になったゼロ(あるいは勅使河原淳一郎)を抱きかかえた。テツゾウがその顔を覗き込む。そしてさらに赤ん坊は小さくなり、やがて体が分離し始めた。分離したそれぞれは、小さな黒い丸い卵と、小さな白いおたまじゃくしのようなものになった。ルリコとエツコ、テツゾウの三人はお互いの顔を見つめ、黙って頷いた。テツゾウはエツコの手のひらのおたまじゃくしを指で掴み、口に放り込む。エツコも卵を口に入れ、一息に飲み込んだ。

 絵里は大量の電気を浴び、研究室の床に倒れていた。

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