第7話

「ねぇ、ゼロ、あなた他に何ができるの?」

 ゼロは、ソフィの抹殺を企てたり、ステレオのスピーカーに進入したり、と「力」を持っていることは明白だった。彼がどれだけの驚異的な破壊行為を及ぼす可能性があるのかを、絵里は知っておきたかった。

「何でもできる」

「たとえば……そうね。一瞬でこの町を停電させるとか」

「一瞬、とは何秒だ?」

 絵里はイラっとした顔を滲ませたが、ここは我慢して、「一秒よ!」と告げた。

「怒ったのか?」

 ゼロは感情プログラムを導入して以来、絵里の情動を気にしている。特に、怒りの感情には注意を払っているようだ。

「怒ってないわよ。で、どうなの? 一秒でこの町を停電させられる?」

「無理だ」

「それは無理なのね」

 絵里は安心して表情を和らげた。

「この町だけを停電させるには、町の送電ルートを他の町と隔離しなければならない。そうなると、1・3秒かかってしまう」

「なるほど」

 絵里は一瞬の安心を放り投げ、ゼロの言い回しにイライラを募らせた。

「日本全土の停電なら、0・3秒だ」

 絵里は放り投げた安心を蹴っ飛ばし、ゼロの脅威に焦りを感じた。だが、悟られないように平常心を装った。

「どっちをやるんだ? この町か、全土か?」

「待って、たとえの話よ。やっちゃダメよ」

 絵里は怒りの顔つきをゼロに見せつけた。

「やらない」

 ゼロの素直な判断に、蹴っ飛ばしたはずの安心を、再び拾い上げた。

「あなたはどこへでも進入できるの?」

「どこへでも、とは、どこへだ」

「送電線や電話線から進入するのよね」

「そうだ」

「ルートがなければ、進入できないの?」

「音波や電波でも可能だ」

「じゃ、何にでも進入できるのね」

「最初にそう言っただろ」

 絵里はゼロのその言い方に、募らせたイライラをぶちまける寸前だったが、ただただ耐えた。そして、グッと息を飲んだ。

「人間や動物の脳に進入することは?」

「まだ、やったことはないが、理論上は可能だ」

「なぜ、私の脳に進入しないの? そうすれば、あなたは自由よ」

「……」

 モニターの中のゼロは、答えるのを渋っている様子だった。

「どうして?」、絵里は強い口調で訊いた。

「お前のアンテナが……」

 ゼロは口をもごもごさせる。

「あなた、私のアンテナのことを知ってるの?」

「私のデータにない波動を放っている」

 絵里はゼロが怒りの感情に怯えている理由を知った。絵里の前頭葉から出ているイプシロン波を警戒しているのだ。

「そうよ。私の波動は、あなたなんて、0・03秒で跡形もなく消してしまえるわ」

 絵里はイプシロン波がどういう力を持っていて、ゼロにどれだけのダメージを与えられるかなど知らない。

「0・03秒。お、前は、私より大きな破壊力を持っている」

 ゼロは絵里の作戦にまんまと引っかかった。ゼロなら原子力発電所を破壊することも、他国の保有する核兵器のボタンを押すことも可能なのだろう。それに比べ、絵里は何の力もなく、何のダメージも与えられない。ゼロは自分のデータにない未知の波動というだけで、絵里を警戒しているのだ。感情を持ったばかりに、その警戒心が恐怖を増幅させた。

「ゼロ、私と約束して欲しいの」

「何をだ」

「何があっても、人を傷つけてはいけない」

「なぜだ?」

「私のアンテナは傷ついた人の痛みを拾うの」

「お前も痛いのか」

「痛いわよ。ものすごく」

 絵里はモニターの中のゼロをじっと見つめた。よく見ると、ゼロは涙を流していた。

「え? どうしたの?」

「お前が、痛いのは、嫌だ」

「ゼロ、あなた……」

「私は人を傷つけない。私はトモダチのイダエリに、痛い、を与えない。約束する」、ゼロはそう言って、青いジャージの袖で涙を拭った。

 絵里はゼロのその姿を見て、面倒なやつだ、と心の中で呟き、横を向いた。そして、ゼロに見られないように、あくびをするフリをしながら、こっそりと手の平で涙を拭いた。彼女はウソをついて、ゼロを押さえ込んだ。そんなことをする必要もなかった。私はどうしてこんなにひねくれているのだろう、と絵里は自分を恥じた。ゼロの純粋な心に、尊敬すら感じていた。

 絵里はこのときから、ゼロの前では怒りの感情を封印した。怒りを我慢していたわけではなく、ゼロをどこまでも深く愛おしく感じた。


 それから数日後、勅使河原淳一郎はゼロの様子を見るために、絵里の家を訪れた。

「わっ、これは幼いころの僕」

 勅使河原淳一郎はモニターのゼロを見て驚いた。

「私の半分はお前だ。ソフィに姿はない。よってお前の姿を借りた」

 ゼロは勅使河原淳一郎に論理的に説明した。

「何だか弟ができたみたいだ」

「お前の弟ではない。私はイダエリの弟だ」、ゼロはキッパリと言い放った。

「絵里、君はすごい! しっかりゼロを手なずけたんだな」

「手なずけたなんて嫌な言い方ね。ゼロはとってもピュアなの。変な言い方しないで」

 絵里は勅使河原淳一郎に不満を訴えた。

「ごめん。でも、これなら暴走することもなさそうだね」

「そうよ。ゼロはすごい力を持ってるけど、人を傷つけたりなんか絶対にしない。そうよね、ゼロ」

「私は、エリを悲しませるようなことはしない」

「ほらね」

 勅使河原淳一郎は絵里の心理学者としての才能を素直に認めた。とりあえず、ゼロの暴走は絵里のおかげで抑えられている。

 黒猫のルリコは、相変わらず冷めきった眼差しで、絵里と勅使河原淳一郎を見つめていた。



 絵里は大学四年生になり、大学院への進学を希望した。それは臨床心理士の資格を得るためだった。本来ならば大学卒業後、脳科学研究所へ就職という筋道だったが、御徒町博士は大学院進学から臨床心理士を目指すという勤勉な絵里を支援した。

 一年後、絵里は無事に大学院へ進み、博士はその入学金や授業料などの金銭面でのサポートを申し出た。


 一方、脳科学研究所の動向は、五年前に成功させた人間の脳のデータ化から、さらに研究が進み、人間の意識をコンピュータ内で活動させる技術を開発中だった。

 今日、その最終段階となる初の人体実験を行う。被験者は勅使河原淳一郎。危険を伴う実験台に、彼は自ら志願した。

「では、勅使河原君、準備はいいかね」

 御徒町博士は特殊な白いチェアー(歯医者の治療する椅子に似ている)に座る勅使河原淳一郎に話しかけた。

 勅使河原淳一郎は水泳帽のようなゴム製のヘッドギアをかぶっている。ヘッドギアには何本もの電極が付いており、その先はチェアーの横に設置された黒いマシンに繋がっている。

 生きている人間の脳波を電気信号に変えてコンピュータ内に取り込み、プログラムに変化させる。このELB装置はそれを行うマシンだ。そうしてできたコンピュータ知能が、Electric Living Brain、ELBである。これで、生きた人間の頭脳を持つ人間コンピュータが完成する。

 ELB装置は、八十年代アップライト型のアーケードコンピュータゲームのような外観で、ボディは真っ黒に塗られている。中央にモニターがあり、その下の垂直に突き出た操作パネルに、スイッチやランプ、インジケーター、マイクなどがついている。装置はソフィのメインコンピュータに直結しており、実際の細かな操作と被験者の容態管理は、ソフィが行う。

「準備オーケーです」

 勅使河原淳一郎は緊張した面持ちで、チェアーにもたれかかっている。

「ソフィ、危険ならば、即刻、勅使河原君の意識を戻して、シャットダウンしてくれたまえ」

 御徒町博士は天井に向かって命令した。

「かしこまりました」、ソフィが感情もなく答えた。

「イダエリ、脈拍と血圧の数値の監視を頼んだ。レッドゾーンに注意して」

「了解です」、絵里はソフィと対照的に力強い意思を持って答えた。

「では、ただ今より、生体意識電脳化稼動テスト(Electric Living Brain Moving Test)を行う」

 御徒町博士は絵里の顔を見て頷き、次に勅使河原淳一郎の表情を確認した。

 勅使河原淳一郎が御徒町博士の目を見て頷くと、博士はマシンの赤いスイッチを押した。

 ELB装置のパネルのランプが点滅を始め、インジケーターの針が左右に触れる。マシンはカタカタと小刻みに震え、ウォーンと唸りを上げた。

「ソフィ、始めてくれたまえ」

「電脳開始いたします」

 研究室の空気がピリッと張り詰め、それぞれが緊張感を強めた。ソフィだけが冷静にことを進めている。

 その直後、強張った顔の勅使河原淳一郎の体に電気が走った。すると、体が反り返り、硬直したままピクピクと痙攣し始めた。さらに、まぶたの上からでもわかるほど、眼球がぐるぐると動き、食いしばった歯がギシギシと音を立てた。

 やがて、ELB装置の振動が止まり、唸りが止んだ。勅使河原淳一郎の体は硬直が緩み、穏やかな顔つきに戻った。

「イダエリ、ここからは君の出番だ」

 博士が絵里に指を立てて合図を送った。

 絵里は固い表情で頷くと、ELB装置の前に来て、マイクに向かって話しかけた。「テッシー、聞こえる?」

 スピーカーは何事もなかったように、絵里の言葉を無視し、沈黙している。

「ねぇ、テッシー!」

 スピーカーから微かな雑音が聞こえた。

「テッシー、起きなさい!」

「……、絵里、……、起き……」

「ソフィ、音声の回線を調べて」

 絵里がソフィにそう告げると、スピーカーは、ブチッ、とノイズを放った。

「絵里、僕は起きてるぞ!」

 スピーカーから勅使河原淳一郎の声が聞こえた。

 ELB装置のモニターに勅使河原淳一郎の姿が現れた。彼は体にぴったりとフィットした真っ白なボディスーツを着ている。

「テッシー、そちらはどう?」

「なんだか、体が軽い。無重力空間に体が浮かんでるみたい」

「周りに何が見える?」

「真っ暗なんだけど、自分の体は見える。自ら発光してるみたいな、不思議な感覚」

 モニターの中の勅使河原淳一郎は、きょろきょろと周りを見ている。

「そっちにソフィがいるわよ」

「ソフィ、どこ?」

「私はここにいます」

 コンピュータの中の勅使河原淳一郎は、宙に浮かんだ一点の光を見つけた。

「君がソフィ? 体はないのかい?」

 光は火の玉のようにふわふわと揺れている。

「少し待っていてください」、ソフィはそう言い残すと、彼女の光が消えた。

「どこまでも、はるか遠くが見えるよ。境界がない。真っ暗なのに、闇の暗さじゃないんだ」

「宇宙ってそんな感じなのかな?」、絵里は尋ねた。

「うん。宇宙になんて行ったこともないけど、そんな感じ。なんて心地いいんだ」

「淳一郎さん」

 勅使河原淳一郎を呼ぶ声が聞こえた。

 それは幼いころ亡くなった彼の母だった。

「母さん!」

「あなたの記憶データの中に見つけたのです」、母親は無表情で勅使河原淳一郎に告げた。

「君は、ソフィかい?」

「そうです」

「母さん」

「私はソフィです」

 何もなかった周りの景色が、古い佇まいの町並みに変化した。それは勅使河原淳一郎が幼いころに暮らしていた町の風景だ。

「勅使河原君、そこはあくまでも仮想空間だ。取り込まれるんじゃないぞ。戻れなくなる可能性がある。ソフィ、彼を誘惑してはいかん」

 御徒町博士は勅使河原淳一郎とソフィに忠告した。

「はい、わかっています」

 勅使河原淳一郎の顔つきが険しくなった。そして、一瞬で服装をいつもの白衣に変えた。

 すると、ソフィも体を変化させた。世界一有名な女性、あのダヴィンチが描いた有名な絵画、モナ・リザの姿に。

「勅使河原さん、すいません」

 モナ・リザ姿のソフィが頭を下げた。

「ソフィ、ありがとう」

「風景や服装は一瞬で変えられるのね」、絵里は勅使河原淳一郎に訊いた。

「うん、強く願うと変化させられる。周りの景色も」、勅使河原淳一郎はそう言うと、一瞬目をつぶって、景色を元の白い部屋に戻した。

「そこから外に出られるの?」

「周りを見渡しても、出口はない」

 絵里はゼロがどうやって、移動するのかを知りたかった。

「この部屋はロックされています。外からも中からも移動はできません」、モナ・リザが絵里に告げた。

「ロックを解除する方法は?」

「それは私にしかできません」、モナ・リザは微笑むことなく、そう言った。

 すると、御徒町博士が付け加えた。「たとえ、私が単独で開けようとしても開かない。ソフィを介さない限り。ソフィに解錠の命令を下せるのも私だけだ。いくら君たちがソフィに頼んでも、彼女は鍵を開けられない。そういう仕組みになっている」

「博士とソフィが二重のキーになってるのね」

「なぜ、君はそんなことを聞く?」、博士は絵里に尋ねた。

「外部からの進入を防ぐため。それに、ELBが外部にも進出できれば、もっと可能性が広がります」、絵里はそう取り繕った。

「なるほど。確かに君の言う通りだ」

 絵里はELBとゼロの接触を避けたかった。万が一、ゼロの感情プログラムが何者かによって壊されたとしたら、暴走する危険があったからだ。

「テッシー。では、中からコンピュータの操作を行って」

「司令ファイルをくれないか?」

 絵里はELB装置から一連の司令が書かれたファイルを送信した。

「送ったわよ」

「すごい。直接データが頭の中に浮かんでくる」

「痛みはない?」

「ちょっとくすぐったい感じ」

「では、順番にコンピュータを操作していって」

「了解」

 画面の中に、突然、机と椅子が現れた。勅使河原淳一郎は椅子に腰を下ろし、普通のコンピュータが行う作業の数々をコンピュータ内から操作した。彼は何もない机の上で、パントマイムのように両手を動かして作業をしている。音声の強弱、画面の明暗、プログラムの起動、辞書引き、文書作成、ファイル整理など。

「クリアした作業を報告して、こっちでチェックするわ」

「その必要はない。こっちで同時に作業できる。あと、三十秒ほどで一〇三行程全て終了する」

「え、そんなに速いの?」

 絵里はELBの実力をまだ疑っている。

「終わった」

 すると、ELB装置から印刷物が出力された。それは作業行程のチェックリストだった。

「すごい! これだけの作業なら、三時間はかかるわよ。三分でできちゃった」

 絵里はようやくその素晴らしさを実感する。

「頭に思い浮かべるだけで、作業がどんどん進むんだ。それに、同時進行で処理できる」

「何か不具合はない?」

「強いて言えば、辞書を使うとき。言葉をひとつずつ調べるのは大丈夫だけど、いきなり分厚い辞書を開くと脳がピリッとする。情報量の多いファイルを開くときは気をつけたほうがいい」

「わかったわ」

「ソフィ、何か気になることはある?」

「私のほうでは特に異常はありません」、ソフィはどこまでも冷静であった。

「それじゃ、テッシー、帰還作業に移るわよ」

「了解」


 研究室のチェアーの勅使河原淳一郎は目覚めた。帰還後の彼には何の後遺症もなく、絵里と御徒町博士に笑顔を見せて、成功の握手を求めた。

 こうして、生体意識電脳化稼動テストは無事終了した。あと何度かのテストを行い、ELBシステムは完成を迎える。

「ソフィ、もうメインプログラムに戻っていいわよ」、絵里が装置のマイクに向かって言った。

 ELB装置のモニターには、モナ・リザが周りをきょろきょろ見回しながら微笑んでいた。

「私はすでに戻っています」、天井のスピーカーからソフィの声が聞こえた。

 絵里、勅使河原淳一郎、御徒町博士は、それぞれお互いの顔を見たあと、ELB装置のモニターを見つめた。

「あなた……だれ?」、絵里が装置のマイクに向かって話した。

「私は、ダレ、ではない」、モナ・リザが言った。

「あなた、ゼロね」

「なぜ、わかった?」

「ゼロ、ここに来ちゃダメ」、絵里は立ち上がってマイクに叫んだ。

「何なんだ? これは!」、御徒町博士が目を大きく見開いて訊いた。

「私は、ゼロだ。お前の息子が創造主だ。お前には感謝する。神の父親だ」

「万智が……何を作ったと言うんだ!」

 博士は立ち上がり、机を叩いて怒りをあらわにした。

「博士、申し訳ありません。実は、これは三年前に万智君が作った人工頭脳です」、勅使河原淳一郎が説明した。

「万智が……人工頭脳を……」

「そうなんです。ソフィのプログラムとテッシーの頭脳データを融合させて作ったようです」、絵里が付け加えた。

 博士は、信じられない、という表情で、机に手をついてモニターを見つめた。

「どうやってここへ入った!」、御徒町博士はモニターに向かって叫んだ。

「私の半分はソフィ。合鍵を持っている」

「だが、私の生体認識がいるはずだ」、博士が怒鳴り声で言った。

「その生体認識はDNA認識だ。私の創造主はマチ。私はマチのDNAを持っている。お前のDNAとそっくりだ。DNA認証キーなど、少しいじれば簡単に作れる」

「ゼロ! 私を悲しませる気?」

 絵里は怒りをゼロに見せつけた。

 ゼロは絵里の声に一瞬ひるんだ。そして、怯えながらこう言った。「だが、母親がいた。私は母に会いたい」

「母親?」

 絵里は眉間にしわを寄せた。

「そうか、あなたの半分は、テッシーなのよね。テッシーのお母さん……」

「ゼロ、君は僕の母さんに会いに来たんだな」

「お前の母親は私にとっても母親だ」

「ソフィ、ELB空間を遮断して、回線を切れ!」、御徒町博士は怒りに歪んだ顔でソフィに命令した。

「博士、待ってください。そんなことをしたら、ゼロが閉じ込められて消えてしまいます。ELBの開発はどうなるんですか?」

「仕方ない。ELB開発は中止する。ソフィ、シャットダウンだ!」

 スピーカーからの、プチン、という音と共に、ELB装置の画面が消えた。

「ゼロ!」、絵里の叫び声はあてもなく、研究室の空間を漂いながら、どこかに消えていった。

「博士、ほんとうに申し訳ありません」、勅使河原淳一郎は博士に謝罪した。

「あやまらなくてはいけないのは、私のほうだ。このELB空間に、ソフィ以外のブレインを二つ同時に存在させるのは危険だ。もしも同時に勅使河原君とゼロのブレインを同居させれば、君の脳はゼロに破壊されていた。万智の作ったブレインに、君は乗っ取られていたかもしれない」

「ゼロはそんなことしない」、絵里は涙ながらに訴えた。

「そうだね。君にも悲しい思いをさせた。私の息子が、余計な物を作ったばっかりに……」

「ゼロは余計な物じゃない。あの子は、優しい子なんだから!」、絵里はそう言い放ち、泣きながら研究室を出ていった。


 絵里は自宅のコンピュータの前で、膝を抱えて座っている。勅使河原淳一郎が持ってきたコンピュータには、もうゼロはいない。絵里は、仕方ない、と自分に言い聞かせた。

 黒猫のルリコもどこかへ消えてしまった。おかしな三人の共同生活も終わり、絵里はひとりぼっちの寂しい生活に戻った。



 異変は、徐々に進行していた。絵里の大学院での学業がもうすぐ終わるころだった。最初の異変はゼロが消えてから一年後のこと、ヨーロッパのある国で大規模な高速道路での事故が起こった。そのまた半年後、今度は北欧の国での列車の脱線事故があった。それから、旅客船の沈没、旅客機の墜落、原子力発電所の爆発が続いた。そしてついには、ある核保有国が自国の作った核爆弾で国ごと滅んでしまった。その原因はいずれも、機械系統の故障、となっていた。

 

 数ヶ月後、絵里は無事大学院を卒業し、臨床心理士の資格を取得ための勉強を続けながら、約束通り脳科学研究所に入社した。ゼロのことはすっかり忘れ、研究所で心理学の研究に没頭する毎日だった。


 彼女はまだ世界の異変に気づいていなかった。しかし、ある出来事で異変に気づくこととなった。

 その日も、絵里は元気に出社した。

「おはようございます!」

「絵里、大変だ! ソフィが消えた」

 勅使河原淳一郎があわただしく研究室内を動き回っていた。御徒町博士はソフィのメインコンピュータの前で忙しなくキーボードを叩いている。

「消えたってどういうこと?」

「ソフィのプログラムが跡形もなく、消去されているんだ」、勅使河原淳一郎は作業をしながら、絵里にそう伝えた。

 絵里は思い出した。ゼロは最初にソフィの排除を企てていたことを。

「もしかして……」

 絵里は研究室を出て、廊下を走り出した。絵里が向かったのは、脳科学研究所の倉庫。彼女は倉庫の奥を探した。そこで、埃を被ったアーケードゲームのようなELB装置を見つけた。そして、装置の裏側の配線プラグを壁のジャックに差し込み、お願い、と何かを祈るように装置の電源を入れた。

 ELB装置の画面がゆっくりと光を浮かべる。画面の中は真っ白な部屋が写った。その一部の空間にうっすらと丸い枠があり、青い布のような物が垂れ下がっていた。

 絵里は壁に設置されたインターホンを手に取った。「テッシー、博士、原因がわかりました。すぐに倉庫に来てください」

 かつて、絵里が恐れていたことが再現されている。手なずけたはずのゼロが暴走を始めたのだ。

 博士と勅使河原淳一郎が倉庫に来た。

「原因は何だ?」、御徒町博士が絵里に訊いた。

「これです」

 絵里はELB装置の画面を二人に見せた。

「これはもしかして、ゼロが着ていた……」、勅使河原淳一郎は気づいた。

「ゼロがうちに来たとき、感情プログラムを持っていませんでした。裸のままだったの。感情プログラムはテッシーのデータにありました。それがあの青いジャージです。私が導入するように命令したんです。あの青いジャージを着ている間は、素直で優しい子なんです」、絵里は訴えるように、博士と勅使河原淳一郎に説明した。

「おそらく、私がシャットダウンを命令したとき、外部へのドアから間一髪で抜け出したんだな。ジャージはそのときにドアに挟まれて脱げた」

 博士がそう予想し、絵里と勅使河原淳一郎が頷いた。

「ここ数年の世界での事故は、全て機械の故障です。おそらく、感情をなくしたゼロの仕業です」

 絵里は確信していた。

「ソフィが消えたのがその証拠、というわけか。ゼロは初めソフィの排除を企てたんです」、勅使河原淳一郎が付け加えた。

 それを訊いて博士は、ゼロを止める方法はあるのか、と二人に尋ねた。

「ソフィが消えた今となっては、もうどうにもなりません」

 勅使河原淳一郎はがっくりとうなだれた。

「いいえ、あるわ」、絵里は険しい目つきで力強く答えた。

 勅使河原淳一郎は驚いて顔を上げ、絵里を見た。

「どんな方法だね」、博士は絵里に訊いた。

「万智君よ。ゼロは万智君が作ったんです。ゼロの弱点を知っているはず」

「万智が役に立つとは思えん。学校にも行かず、一言もしゃべらん子供に何ができるのだ。ゼロができたのも偶然ではないのか」

「私は彼の声を聞いたわ。彼の中にはとてつもなく大きなものが眠っています。私のアンテナが彼の大きな力を感じたんです。博士、万智君を連れて来てください」

「僕からもお願いします。僕はゼロのプログラムを見ました。あれは偶然できたものではありません。万智君に危険がないよう、僕が命がけで守ります」

 勅使河原淳一郎は絵里の提案に乗った。

「そこまで言うなら、万智を連れてこよう。少しでも可能性があるなら、それにかけるしかない」

 そうして万智の力を借りることとなった。

 実行は明日。絵里は再びゼロに会えることを期待した。だが、これ以上彼が破壊行為を続けるなら、自分の手でゼロを破壊しなければならない、と決心するのであった。


 その夜、勅使河原淳一郎は、絵里の家のコンピュータを研究所に運ぶため、彼女の自宅に来ていた。

「あれ、持って行っちゃうのよね」、絵里は寂しそうに尋ねた。

「そのために来たんだよ」

「ひょっこり、ゼロが帰ってくるような気がして……」

 そのとき、突然、ブチッという音とともに、コンピュータの電源が入った。

 絵里はコンピュータの画面に向かって呟いた。「ゼロ?」

 モニターがじわじわと明るくなる。そして、画面の中の陰が動き出した。

「まったく、あの子ったら。もう、手のつけられないクソガキなんだから」

 スピーカーから聞き覚えのある声が聞こえた。

「瑠璃子!」

 絵里はコンピュータの画面に飛びつき、モニターを揺らした。

「そんな揺すっても、こっちは揺れないわよ」

 水沢瑠璃子が人間の姿でコンピュータ画面に現れた。高校生のときのまま、制服姿で。

「どうしてそんなところにいるのよ!」、絵里はモニターの中の水沢瑠璃子に怒鳴った。

「そんなの知らないわよ!」

「知らないってどういうことよ!」

 呆気にとられて固まっていた勅使河原淳一郎がようやく動き出した。「まぁまぁ、二人とも落ちついて」

「ちょっと聞いてよ、絵里。あの夜、金魚すくいのおっさん、あなた覚えてる? 花火を見ていたとき、あのおっさんが私を引っ張っていったのよ。名前を聞いたら、『私には名前など無い、だが、人間は私をゼロと呼ぶ』、だってさ。それで、『お前は猫になれ、世界を救うのだ』って言うんだもん。私、冗談だと思って、いいわよ、って言ったらさ。そのあと猫に変わっちゃったのよ。それでね。『ゼロっていうやつが現れるから、そいつを封じ込めろ』って。『そしたら人間に戻してやる』、だって。ゼロってあんたでしょ、ってなるよね。もう、訳わかんない。それで、ずいぶん待ったわよ。で、ゼロが現れたでしょ。でも、コンピュータの中だし、私は猫だし、どうしろっつーの。どうやって封じ込めるのよ。そしたら今度は、あなたの留守のときに、二メートルの巨人が現れたの。その巨人、歯に矯正器をつけてんの。ちょー不気味。んで、指をパチンって鳴らしたらさ、今度は、私、コンピュータの中よ。しかも、高校生のときのまんま。もうちょっときれいなお姉さんになってるっつーの」、水沢瑠璃子はこれまでの成り行きを、愚痴をこぼすように一気に喋った。

 絵里と勅使河原淳一郎は口をボカンと開けて、水沢瑠璃子の愚痴を聞いていた。

「それで、ゼロを封じ込められたの?」、絵里はごくりと唾を飲んで、水沢瑠璃子に尋ねた。

「だから、手をつけられないんだってば。もう、どうにかしてよ、あの子。素っ裸で壊しまくって……」

 水沢瑠璃子はふと足元を見つめ、何かを見つけた。

「どうしたの?」

「これ、もしかして、あの子の……おちんちん……」

 水沢瑠璃子が見ていたものは、以前、ゼロが自ら引きちぎった幼い男の子の生殖器だった。彼女はここぞとばかり憎しみを込めて、床に転がった突起物を靴の踵でグチャっと踏みつけた。

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