第6話
絵里は大学生になった。
絵里の小、中、高校での学業の成績は、良くもなく悪くもなく、普通の成績だった。というのも、彼女は、英語、数学、理科、社会などという学校で学ぶ学問にはまったく興味がない。彼女の興味は、いかにアンテナを役立たせるか、である。
幸いにも、兄代わりの勅使河原淳一郎が勤める脳科学研究所では、人間の脳の科学的な研究を行っており、頻繁に出入りしていた絵里は、そこで心理学という学問に出会った。心理学とは、人間の心と行動を科学的に分析する学問である。
絵里は、特殊な感性(アンテナ)を持つ自分自信の解明、または、その治療法の研究には興味がない。アンテナに触れてくる精神の不調を訴える者たちへの理解、および、その援助の方法を学びたい、と彼女は考えていた。つまり、アンテナを、殺す、のではなく、生かす、という選択をした。
高校三年のとき、絵里は、自分のアンテナを活かすには心理学しかない、とその学部のある大学を目指し、猛勉強を始めた。勉強は勅使河原淳一郎から教わった。
研究所の所長である御徒町博士は、絵里の進学の話を聞きつけ、大学の学費は研究所で負担しよう、と持ちかけてきた。それには条件があった。大学に合格したあと、在学中は研究所でアルバイトをすること、アンテナの研究に協力すること、卒業後はそのまま研究所に勤めること。
絵里は、大学に受かったとしても、学費を稼ぐために、無理をしてでも働かねばならない経済状況にあった。比嘉夫婦から学費の援助の話もあったのだが、彼女はそれを断った。御徒町博士の提案は、絵里にとって好条件だった。
赤の他人の博士がなぜこのような提案を持ち出したのか、絵里は不可解だったのだが、勅使河原淳一郎にその理由を聞いて納得した。
高校一年の秋に、絵里は研究所で脳波の測定に協力したことがあった。博士がアンテナ保持者である絵里に、超能力研究の被験者として依頼を求めたのだ。彼女はアルバイト感覚の気軽な気持ちで脳波測定を請け負った。その測定で、絵里の脳の前頭葉から、特殊な電気信号が発信されていることがわかった。それは、これまで知られていない第六の脳波であった。その脳波は、絵里のEの頭文字をとって「E波」と記され、ギリシャ文字の読み方で、「イプシロン波」と名付けられた。勅使河原淳一郎の話では、そのイプシロン波の発見で、脳科学研究所は絵里の目指す大学の四年間の学費を大きく上回る利益が出た、ということだった。
御徒町博士は金には興味がなく、研究に生涯を捧げている人物であり、研究者の育成にも力を注いでいた。勅使河原淳一郎も博士が目をつけたひとりである。
絵里にとってアンテナは、これまで邪魔な物でしかなかった。このアンテナさえなければ……、と思うことばかりだった。アンテナの正体は前頭葉が発するイプシロン波だとわかった。その正体がわかっただけでも、絵里にとっては大きな進歩である。そればかりか、何か人の役に立つ可能性が出てきたのだ。
絵里は一年間、勉強に打ち込んだ。そしてその結果、志望校の心理学部に合格した。あの、忌々しいアンテナとの戦いに、散々苦しめられたアンテナとの勝負に、絵里は勝ったのだ。
「御徒町博士、無事に合格しました」
絵里は合格通知を受けて、すぐに博士に報告した。
「それはおめでとう。そして、我が脳科学研究所へようこそ」、博士はそう伝えた。
絵里はこれまで何度も研究所には出入りしているのに、なぜ、ようこそ、なのかと不思議に思ったが、すぐに博士との約束を思い出した。
「あ、御徒町博士、お役に立てるよう、一生懸命頑張ります」
それは、今日から研究所でアルバイトとして採用されたことを意味していた。
「今まで通り、シュウケンサイガク博士で結構だよ。アンテナちゃん」と言い残して、いつもの高笑いを発しながら研究室を出ていった。
「絵里、おめでとう」、勅使河原淳一郎も祝いの言葉を贈った。
「テッシー、ありがとうございました。これからもお世話になります」
絵里は勉強を教わった勅使河原淳一郎に丁寧に礼を伝えた。
「これからは研究所内では、テッシーではなく、勅使河原さんと呼んでもらおう」と勅使河原淳一郎はここぞとばかり、絵里にこう提案した。
「それは無理」
絵里は勅使河原淳一郎の提案を一蹴し、スキップをしながら研究所を出ていった。勅使河原淳一郎は、生意気な女子大生め、と呟きながらも、女子大生、という響きに、兄代わりとして誇らしい気分で背筋をピンと正した。
夏休み。これまで半年間の大学生活と研究所でのアルバイトにも慣れてきた。研究所での絵里の仕事は、掃除や片付けなどの雑用と、電話番、研究の助手であった。仕事の合間、勅使河原淳一郎にコンピュータの操作や、心理学の基礎のようなものを教わった。
ある日の午後、絵里は研究所のアルバイトに来た。合間を使って夏期休暇の課題に取り組もうと、張り切って出勤してきた。
「テッシー、課題手伝って!」
絵里は研究室のドアを開けた。
「にゃー!」
黒猫ルリコがあとに続いた。
しかし、そこには勅使河原淳一郎の姿はなく、小さな男の子がコンピュータの前に座っていた。
「あれ? テッシー、小さくなったの?」と絵里は冗談半分で少年に言った。
少年は何事もなかったかのように、コンピュータの画面を見続けている。
「あなた、だーれ?」、絵里はもういちど少年に尋ねた。
少年はだんまりを続けた。よく見れば、膝を両手の指でトントンと叩いている。ピアノを弾くように。
「お名前は?」、今度は小さな子に聞くように、優しく訊いてみた。
「彼は御徒町博士のご子息です」
答えたのはコンピュータAIのソフィだった。ソフィは、いつものように平坦な抑揚のない声を発した。
「え、シュウケンサイガク博士って、子供がいるんだ」
「シゲサガ博士です」、相変わらず、ソフィは絵里の間違いを正した。
絵里は、博士に家族なんて不釣り合いだ、と違和感を感じた。
彼女は何かに気づき、顔が一瞬ニヤッとほころんだ。もしかして、この子はオカチマチシュウケンサイガク並みのロングネームではないか、と。
「ねぇ、オカチマチくん、君の名前、教えて?」、絵里はニコニコして尋ねた。甘ったるい声で。しかし、オカチマチ少年は完全に絵里を無視し、コンピュータの画面をじっと見つめている。
「御徒町万知です」、ソフィが代わりに答えた。
「オカチマチマチくん。ステキな名前ね。お菓子の町のマチくんね」
絵里がそう言っても、万智はコンピュータ画面を睨み続けている。絵里は彼の短い名前にはがっかりしたが、オカチマチマチという名前の、チマチマチ、の部分がとても気に入った。すると、そこへ勅使河原淳一郎が入って来た。黒猫ルリコはすかさず、椅子や机を辿って彼の頭に飛び乗った。
「ちょうどよかった。絵里、彼を見ていてくれないか。博士ところの坊ちゃんだ。今、奥の実験室で、人工有機細胞免疫機能活性化反応テストをしているんだ」、勅使河原淳一郎は黒猫ルリコを頭から下ろしながら、絵里に伝えた。
「ジンコー、なに?」と絵里が尋ねると、
「まぁ、とにかく、万智君を見ていて」と勅使河原淳一郎は棚から数冊のファイルを抜き取って、絵里の返事も聞かずに部屋を出て、ドアをバタンと閉めた。
黒猫ルリコは研究室のドアを爪で引っ掻いた。初めての出会い以来、黒猫ルリコのお気に入りの場所は、勅使河原淳一郎の頭の上にだった。
「ジンコー、ユーキサイバイ、メンセキ、キノーカッタセーター、ハンソデ、テストだってさ」と絵里が言うと、人工頭脳のソフィよりも早く、
「人工有機細胞免疫機能活性化反応テスト」と万智はコンピュータに向かったままの姿勢で訂正した。
「なんだ、あなた喋れるのね。もう一回言ってみて」と絵里が訊いたが、それに万智は答えず、コンピュータ画面を見続けた。
絵里は、やれやれまたクセ者だ、とため息をついた。
今度は黒猫ルリコが万智の膝の上に飛び乗った。すると、万智は無言のまま、右手の指でルリコの頭を、左手の指で背中を叩き始めた。
「ニャー!」
ルリコは万智の膝から飛び降りて、爪を立てて攻撃態勢をとった。絵里は心の中で、ザマァ見ろ、と罵り、魔性の女ルリコでも手に負えない者もいるんだ、と嘲笑った。反対に、よくぞやった、と万智を高く評価した。
万智はコンピュータ画面を見ながら、繰り返し膝を両手の指でトントンと叩き続けている。
「ねぇ、ソフィ。彼は何を見ているの?」、絵里はソフィに訊いた。
「私のメインユニットのプログラムデータを見ています」
よく見ると、黒い背景のモニターに並んだ緑色のアルファベットや数字や記号が、画面の上へと流れていた。映画のエンドロールのように。
「それってなーに?」
「人間で例えると、内臓や骨格、細胞やDNAまで、私の体の隅から隅までを見ているのです」
「あら、かなりエッチね」
「三時間ほど、ずっと見続けています」
「この指のカタカタは何をしてるの?」
「私にもわかりかねますが、おそらく、コンピュータのキーボードを打つ真似をしているのではないでしょうか」
「なるほど、そういうことね」
絵里は何かに気づいて、研究室の中をうろうろ歩き回り、何やら準備を始めた。彼女は別のコンピュータをソフィのメインシステムコンピュータの横に設置した。
「さぁ、万智。これで遊んじゃいなさい」
すると万智は、隣のコンピュータの真っ暗な画面を十秒ほど睨みつけ、俯いてキーボードの文字配列を確認し、再びソフィのプログラムに顔を戻した。さらに二、三度同じ動作を繰り返したあと、両手をキーボードに置いた。そして、大きく息を吸い込んだ。次の瞬間、ものすごい勢いでキーボードを叩き始めた。顔を左右に揺らしながら。
「わぉ! ソフィをコピーしてるのね」
「いえ、違います。私のプログラムをベースに新しいプログラムを組み立てているようです」
「なんと! ソフィ、あなた、お母さんになるんじゃなーい?」
「私は人工頭脳です。肉体は持ち合わせておりませんので、人間のように子孫を残すのは不可能です」、ソフィがそう言うと、
「もう、面倒くさいわね。たとえよ、たとえ」と絵里が言い放った。
すると、
「たとえて言いますと、人工物である物質、掃除機やテレビのような機械は、生殖機能がなく子供を産むことはできませんが、まったく同じコピーを製造することは可能であり、また、同様の機能を持った似た機械の製造はできます。それを子と言うのであれば、私が母になることは可能です」とソフィはさらなる解説を論じた。
「もういいわ」
絵里は呆れて、隣のテーブルで夏期休暇の課題に取りかかった。
万智が操作するコンピュータのブラウン管モニターの上で、黒猫ルリコはいつの間にやら昼寝を始めた。それにつられて、絵里も課題をこなしている途中に、うっかりと寝てしまった。本来はアルバイトの労働時間なのだが……。
絵里が目覚めたとき、もう窓の外は真っ暗になっていた。研究室は電気もついておらず、ソフィのコンピュータ画面と万智の前のモニターとの二つの明かりが緑色に光っている。
「あれ、まだやってるの?」
万智はずっと同じ姿勢で、けたたましくキーボードを打っていた。
絵里はあくびをしながら研究室の電気をつけた。そのあと、万智のそばに歩み寄り、少し休憩しなさい、体に毒よ、と忠告し、彼の腕を掴んだ。しかし、万智は乱暴にその手を振りほどいた。
「まぁ」
モニターの上のルリコが起きた。ルリコはモニターから机によろよろと下り、万智の膝に飛び乗った。そして、眠たげな目で、気持ちよさそうに、うっとりした顔を見せた。
「ぎゃー!」、万智は叫んで立ち上がった。
万智のズボンは濡れていた。どうやら、黒猫ルリコは万智の膝におしっこを引っ掛けたようだ。
「あら、ルリコ。はしたない」と絵里は半分笑いながらそう言った。
万智は研究室の机の周りを走り回った。そして、着ていたシャツを脱いで放り投げた。万智の顔や手には、赤い斑点が浮き上がっていた。
「どうしたの、その顔? 猫アレルギーかしら?」、絵里はそう言いながらも、女アレルギーかも、と疑った。
万智は暴れながらズボンを脱ぐ。絵里は照れて、その白いブリーフ姿から目を背けた。彼はブリーフ一枚の姿で席に着き、再びコンピュータに向かった。赤い斑点だらけの体をときどき掻きながら。
「万智、もうそのへんで終わりにしない?」
絵里は万智の体を心配した。しかし、彼は黙々とキーボードを叩き続ける。絵里はそれを見ているしかなかった。
「ソフィ、止める方法はない?」
「私のプログラムのスクロール表示はもうすぐ終わります。彼の手も止まるでしょう」、ソフィは冷静に(元々、抑揚のない、平坦な口調ではあるが)絵里に告げた。
数分後、万智の手が止まった。そして、そのまま椅子から転げ落ちた。
「万智!」
絵里は慌てて駆け寄った。体の赤い斑点は消えていた。裸の万智に何か着せるものはないか、と絵里は彼の荷物を探った。鞄の中に体操服があった。彼女は気を失った万智にそれを着せた。
そこに、御徒町博士と勅使河原淳一郎が戻ってきた。
「アンテナちゃん、万智の面倒をありがとう」と御徒町博士は絵里に礼を言った。「あれ、万智は寝てるのかい?」
「ええ、ちょっと運動会をしてたもので、疲れて寝ちゃったみたい」
絵里はなんとかその場を取り繕った。
数日後の夜。
「絵里、これをちょっと預かってくれないか」
勅使河原淳一郎が大きな箱を抱えて、絵里の自宅へ来た。
「いいけど、これなーに? まさか、エッチな本とかビデオテープ……」
絵里は怪しげな顔で、勅使河原淳一郎を斜に見た。
「ばか、女子大生の家にそんなもん持ってくるかよ」
勅使河原淳一郎はリビングの床にそれを置いた。
「てっきり彼女でもできて、隠すところに困って、うちに持ってきたのかと」
「そんなわけない」
勅使河原淳一郎は箱を開けて、手際よく配線を繋ぎ、コンセントにプラグを差し込んだ。
「なんだ、研究所のコンピュータじゃない」
予想が外れて残念そうな顔で、絵里はソファに座り込んだ。
「なんだ、じゃないんだ。これを見て」
勅使河原淳一郎はコンピュータのスイッチを入れた。
モニター横のスピーカーが、ブチッ、と電気的な接触音を放ち、ブラウン管の画面がじわじわと光を滲ませた。数回、光の帯が上へ下へとスクロールし、コンピュータが起動した。
「また、お前か」とスピーカーから声が聞こえた。
「お前とはなんだ。プログラムのくせに」、勅使河原淳一郎はコンピュータに向かって言い放った。
「ここはどこだ。さっきの場所とは違うな。私をどこへ連れてきたんだ」、スピーカーの声が尋ねた。
その声は、研究所にある人工頭脳ソフィの機械的な音声ではなく、本物の人間が喋るように滑らかな口調の声だった。
「あれ? ソフィじゃないのね。別の人工頭脳なの?」
絵里は前のめりになって、コンピュータ画面を睨んだ。
「ソフィは人工頭脳ではない。あれはただのプログラムだ」
声の主は滑らかな発音だが、感情のない平坦な喋り方だった。
勅使河原淳一郎はキーボードを操作してコンピュータの音声を切った。
「このプログラム、君が作ったんじゃないよね」、勅使河原淳一郎は絵里に尋ねた。
「ちがうわよ。あ、もしかして、あのときの……」
絵里は数日前の研究室での出来事を思い出した。
「やっぱり、万智君か」
勅使河原淳一郎は頭を抱えてうなだれた。
「彼がキーボードを叩いてたのは間違いないけど、小学生の彼にそんなことできるの?」
「彼は一種の脳機能障害だ。日常の会話や生活には支障があるけど、脳の中のある場所は普通の人間より活発に働いているんだ。一瞬で映像を記録するとか、何桁もの計算ができるとか、何年何月何日の曜日がわかるとか、そういう者もいる」
勅使河原淳一郎は大きくため息をついた。
「そうなんだ」
絵里は人ごとのように頷いた。
「脳の研究に長年携わってた博士の息子さんが脳機能障害だって、なんて皮肉なんだろう」、勅使河原淳一郎は天井の一点を見つめてこう呟いた。
「でも、なんでこれをうちに持ってきたの?」
そう問いかけたとき、突然、リビングのステレオのスイッチが入った。
「それは私がソフィを抹殺しようとしたからだ」、リビングのステレオから声が聞こえた。
「お前、どうやって……」、勅使河原淳一郎はステレオに向かって言い放った。
「コンセントはつながっている。侵入ルートなど、いくらでもある」、ステレオのスピーカーが低音を効かせてそう伝えた。
「どうなってるの?」、絵里が勅使河原淳一郎に尋ねた。
「お前はどこまで……」
勅使河原淳一郎にはもはや手に負えない状況であった。
「ちょっとあなた、ひとの家で勝手なことしないでくれる」、絵里は怒りをあらわにし、声の主にそう告げた。
「いざとなれは、ここからでも、私はソフィを抹殺できる」、声の主は自信たっぷりに言った。
絵里はひとつ大きく深呼吸をして冷静を装い、声の主に尋ねた。「ところで、あなた、名前は?」
「私には、名前などない」
声の主の音声が部屋に響きわたる。
「あら、名前がないなんて、かわいそう。それじゃ、友達もできないわよ」、絵里は真顔で声の主に伝えた。
「私はお前たちのように、何かから生まれたのではない。まったく何もないところから発生したのだ。肉体もないのだから、お前たちに勝目はない」
「私、あなたと戦うつもりなんてないわよ」
「戦わずして、なぜ生きている」
「ほんとに友達いないのね」
「トモダチ、とは何だ」
絵里は呆れながらも、コンピュータとの対話を辞めなかった。
「もー、しょうがないわね。何もないなら、ゼロ、なんてどう?」
「それが私の、ナマエ、なのか」
「気にいった?」
「悪くはない」
「なら、今からあなた、ゼロ、ね」
「わかった、私は、ゼロ」
「なんだ、意外と素直じゃない」
「おい、お前。私は、ゼロ、だ。スナオ、ではない」
「私は、オマエ、じゃないわよ。ここからソフィにアクセスできるなら、私の名前、ソフィに聞いてくれば?」
絵里は試した。ゼロがこのコンピュータから研究所のソフィにアクセスできるのか、を。
「わかった、ちょっと待っていろ」
勅使河原淳一郎は絵里の横で二人の対話を観察していた。
一瞬の沈黙のあと、
「お前の名は、イダエリ」
アクセスできるのは本当のようだ。絵里は動揺を隠し、さらに対話を続けた。
「そうよ、私はイダエリよ。よろしくね」
「私は、ゼロ、だ。イダエリが私に名前をくれた」
「そういうとき、ありがとう、っていうのよ」
「ありがとう、イダエリ」
「どういたしまして、ゼロ」
「今日からあなた、私の友達よ」
「イダエリは、ゼロのトモダチ」
「そう、イダエリはゼロの友達第一号よ」
「トモダチとは戦わなくていいのか」
「そう、仲良くしましょうね」
「わかった。私はイダエリとナカヨクする」
案外ゼロの制御は簡単なのかもしれない、と絵里はうっすら手応えを感じた。彼女は大学の心理学基礎講座で、対話の手法を学んでいた。こんなところで役に立つとは、と意外性に驚いていた。
勅使河原淳一郎は絵里をゼロの意識の届かない外に連れ出した。そして、こう訊いた。「絵里、ゼロの教育を頼めるか?」
「いいわよ」
絵里はやすやすと勅使河原淳一郎の頼みを受け入れた。
「ゼロは人工知能としては強力だか、まだ知識は乏しい。うまく教育すれば暴走することはないだろう」、勅使河原淳一郎は絵里にそう伝えた。
「ちょっと疑問なんだけど、ソフィのプログラムだけで、あんなにすごい人工知能が作れるの?」、絵里は勅使河原淳一郎に訊いた。
「あのコンピュータには、人間の知能をデータ化したプログラムが入っていたんだ。万智はソフィの人工頭脳プログラムと人間の頭脳プログラムを融合したようなんだ」
勅使河原淳一郎は眉間にしわを寄せた。
「誰の脳のデータなの?」
「それは、僕の脳なんだ」
「あー、なるほど。どうりで……」、絵里は納得した。
「どうりで? どういう意味だ?」
勅使河原淳一郎の問いに、絵里は答えなかった。
帰り際、勅使河原淳一郎は絵里にもうひとつ頼みごとをした。「御徒町博士には内緒にしていてくれないか」
「どうして?」
「博士はソフィを何十年もかけて開発したんだ。ソフィをベースにしたとはいえ、万智は半日で作り上げた。それも性能ははるかに高度だ。博士は繊細な人だから……」
「ええ、わかったわ」、絵里は素直に勅使河原淳一郎の頼みごとを聞き入れた。
その日から、絵里と黒猫のルリコとコンピュータ人工知能のゼロのおかしな共同生活が始まった。
翌日の日曜日。
「おはよう」
絵里はパジャマのまま、目を擦りながら、コンピュータ画面に向かった。
「私は、オハヨウ、ではない。ゼロ、だ」
スピーカーから声が聞こえた。彼のお得意のセリフ。
「おはよう、は朝のあいさつよ。お昼は、こんにちは、夜は、こんばんは、って言うのよ。ゼロ、おはよう」
絵里は、朝から面倒だな、と思ったものの、ここは丁寧に、とゼロにあいさつを教えた。
「イダエリ、おはよう」
「そうそう、それでいいわ」、そして後ろを振り向き、黒猫にも朝のあいさつをした。「ルリコ、おはよう」
黒猫のルリコはリビングの隅であくびをしたあと、「ニャー」とひと鳴きしておはようを伝えた。
絵里は真っ暗なコンピュータの画面を見て、ふと思った。「ねぇ、ゼロ、あなた、顔はないの?」
「私はゼロだ。顔などいらん」
「でも、機械に話しかけてるみたいで、違和感があるのよ」
「そうか、わかった。ちょっと待っていろ」
そのまま数分間、コンピュータは沈黙した。
絵里はその間、顔を洗って、部屋に戻り、部屋着(中学の体操服のあずき色のジャージ。右の胸に、井田、と刺繍が入っている)に着替え、再びリビングに戻った。
画面には、小学生くらいの男の子が無造作に素っ裸で立っている。
「これでどうだ」
「ゼロ? それがあなたね」
絵里はコンピュータ画面を見て、一瞬目をそらし、もう一度画面を見て、また目をそらした。
「これが、ゼロの姿だ」
「ふふっ、かわいいわ。でも、誰かに似てるわね」
絵里はゼロが裸なのを意識して、直視できず、視線を右斜め上に向けて、似ている人物を探した。
「私のデータにあった画像を立体化した」
「あっ! テッシーだわ。そうか、あなたには半分テッシーの脳データが入ってるんだった」
ゼロは、勅使河原淳一郎の子供のころの写真をもとにして、自分の姿を作った。勅使河原淳一郎の裸を想像し、絵里は顔を赤くした。
「でも、どうして子供なの?」
「私の創造主の姿だ」
「なるほど、万智君ね。なんだか弟ができたみたい」
「私は、オトートではない。ゼロだ」
絵里はそれを無視した。そういえば、万智も裸だったと研究室での出来事を思い出していた。
ゼロは自分のお腹の下あたりを、もぞもぞと触っている。「おい、イダエリ。これは何だ」
絵里は、それは……、と言いかけて、ゼロはおしっこもしない(だろう)し、生殖にも無関係(だろう)と考え、「それは、あなたには必要ないものね」と告げた。
ゼロはそれを聞き、生殖器を片手で鷲掴みし、おもむろに、ぐいっ、と引き抜き、後ろへ放り投げた。
「あら、取っちゃった」
絵里は唖然として口をポカンと開けた。それで、ようやくゼロをまっすぐに見ることができた。
「動きやすくなった」、ゼロは呟く。
「ねぇ、あなたには私が見えてるの?」
絵里はゼロが自分の方を見ていないことに気づいた。
「お前の音声波長を分析して、映像化したものを見ている」
「実際の映像は映ってないのね」
「映像を取り込む機器があれば、お前の姿を捉えられる」
「映像を取り込む機器ね。古いカメラならあるけど」
「それは電気制御式か」
「電池で動くやつよ」
「では、そのカメラとハサミ、あとは針金、アルミホイル、ビニールテープ、ガムテープを用意しろ」、ゼロは絵里に命令した。
絵里は、なんて人使いの荒いやつだ、と思いながらも、家中を駆け回って、カメラと道具を用意した。
「これだけで作れるの?」、絵里は疑いながらゼロに訊いた。
「まずは電池を外せ」
「わかったわよ」
絵里はぶつぶつと文句を言いながらも、ゼロの言う通りに作業を進めた。
作業は簡単だった。コンパクトカメラの電池ホルダーのプラス極とマイナス極を、針金でコンピュータのモニター入力端子に接続するだけである。
ゼロは旧式のコンパクトカメラを改造して、ライブカメラを作った。もっとも、実際に作業をしたのは絵里だったのだが。
「そいつをモニターの上にガムテープで固定しろ」
「はい、はい」
絵里は不貞腐れながらも作業を続けた。
「設置完了!」
「では、再起動する」
ゼロが自らの意思でコンピュータのスイッチをオフにすると、モニターはゆっくり暗くなって、プツンと電源が切れた。やがて、またプツンとスピーカーから聞こえ、ブラウン管の画面がじわじわと光を取り戻した。うっすらと静止したゼロのシルエットが現れ、色を取り戻したころ、ゼロが動き出した。
「お前がイダエリか」
「そうよ。はじめまして」
「私は、ハジメ、ではない……」とゼロが言いかけると、「はいはい、ゼロよね。知ってるわよ」とゼロのいつものセリフを遮断した。続けて、「どう?」とゼロに訊いてみた。
「何がだ」とゼロは訊き返した。
「私を見て、どう思った、って聞いてるのよ」
「ドウオモッタ、とは何だ」
「あなた、感情がないの?」
「カンジョウ、とはどんな物だ」
「あなたの、気持ちよ」
モニターの中のゼロは無表情でつらつらと考えていた。
「ソフィにはカンジョウプログラムはなかったが、テシガワラのには、おそらく存在していた。あれは必要なのか」
絵里は、やれやれ、とひとつ大きくため息をつき、「一番大事なものよ。探してきなさい!」とゼロに命令した。
「わかった、ちょっと待っていろ」、ゼロはそう言うと、モニターの中からいなくなった。
しばらくすると、ゼロはボロボロの大きな段ボール箱を持って現れた。
「これか」、ゼロはそう言って、箱の中から、青い布のようなものを取り出す。
それは、絵里とお揃いの青いジャージだった。
「それが、感情、なの?」
「ソフィには存在せず、テシガワラのにはあった物だ」
ジャージの上着には、勅使河原、の刺繍があった。
「とにかく、着てみて」
ゼロは再び、待っていろ、と暴君のようなセリフを吐き、コンピュータを再起動させた。
絵里は、今のうちにと台所へ向かい、テーブルの上の食パンの袋から一枚を掴み取り、冷蔵庫からオレンジジュースのパックを出した。そして、片手に持った食パンをかじりながら、もう片方にオレンジのパックを持って、リビングへ戻った。
絵里はコンピュータの画面の中に、青いジャージを着たゼロを見た。ジャージの右胸の名前が、ゼロ、に変わっている。
「こ、これで、いいのか?」
ゼロはさっきまでと変わらず、乱暴な口調だったが、言葉の端々には抑揚があり、何より顔に表情があった。ゼロは眉を寄せ、恥ずかしそうに、斜に絵里を見て、ときどき目をそらした。
「今日からあなたは私の弟よ。お姉ちゃんの言うこと、よく聞くのよ」と絵里はお姉さん風を吹かせてゼロに命じた。そして、満足気な顔をして、パックのオレンジジュースを口に含んだ。
「もう一度言うが、私はオトートでも、オネーチャンでもない。私は、ゼロだ」
絵里はそれを聞いて、オレンジジュースを吹き出し、ゲボゲボと咳き込んだ。何度も聞いたセリフなのに。
傍の黒猫ルリコは、それを見て、冷ややかな表情でのそのそとリビングから出て行った。
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