第5話

 一学期最後の週の月曜日。

 水沢瑠璃子はすっかりクラスに打ち解けていた。これまでの怪しげな行動はなかったかのように。

「ねぇ、みんな、今度の週末、お祭りに行くよね」、水沢瑠璃子は誘うのではなく、当然みんな行くと決め込んで話し出した。「みんな、浴衣着てきてね」

「持ってないよ」と田辺加代が抗議した。

「加代ちゃん、私、貸してあげる。お母さんが着付けしてくれるわ」と三浦千枝が言うと、「ほんと! なら、行く!」と田辺加代はあっけなく抗議を撤回した。

「大石さんは?」、絵里が大石美穂に尋ねた。

「うん、私は毎年浴衣で行ってるもの。当然行くわ」

「じゃ、決まり!」

 水沢瑠璃子は比嘉のおばあさんの浴衣を見せびらかしたいのだ。私のおばあさんなのに、と絵里は嫉妬していた。そして、泥棒猫、と水沢瑠璃子のアンテナに不満をぶつけた。直接言葉で伝えると、あなただって血は繋がってないでしょ、と言い返されることはわかっている。

「男子たちは? 誘ってみる?」

 田辺加代が提案した。

「いらないわよ」、絵里は怪訝な顔をして即答した。

「多分、神社で出会うことになるわ。さっき、私、誘われたの。柴田君に」

「え、それって……」

 田辺加代はいたずらな目をして大石美穂を斜めに睨んだ。

「そ、そんなんじゃないわよ。勘違いしないでよ。杉村君たちも一緒だって」

 大石美穂は耳を真っ赤にして繕った。

「じゃー、誰の浴衣姿が一番か、柴田君たちに決めてもらおう!」

 田辺加代がはしゃいだ。


 金曜日、一学期の終業式の日。

 水沢瑠璃子は明後日の日曜日に北海道のおばあさんのところへ行く。父親から逃れるために。予定では今日のはずだったが、お祭りのため、いや、比嘉のおばあさんの浴衣のために、一日出発を遅らせた。その夜、水沢瑠璃子は絵里の家に泊まった。父親は迎えに来なかった。絵里と一緒だと父親に伝えている、と彼女は言った。絵里は信頼されている、ということなのか。


 土曜日、夏休みの初日。

 今日はお祭りの日。昼過ぎに絵里と水沢瑠璃子は比嘉宅へ向かった。

 比嘉の家に着くと、早速、浴衣の着付けが始まった。絵里と水沢瑠璃子はおばあさんの指示通りに、腕を上げたり、後ろを向いたり、息を止めたり、と言われるがままに従った。

 三十分後、絵里は隣室でくつろぐおじいさんを呼んだ。

「どうかしら?」

「おお、二人とも、可愛らしいのー」

 おじいさんは眉をハの字に傾けて二人を眺めた。

 絵里は朝顔の浴衣に包まれた水沢瑠璃子をじっと見つめ、そのまま硬直した。

「いやーね。そんなにまじまじと見ないでよ」

「だって、あんまり綺麗だから」

 水沢瑠璃子の浴衣姿には、おとなびた妖艶さがあった。一方、絵里の浴衣姿は、少女のあどけなさを残し、可愛く仕上げられている。

「あなただって可愛いわよ。小学生みたいで」と水沢瑠璃子は冗談を投げつけた。

 絵里は、老け顔の雌猫め、と心の中で揶揄した。


 集合場所は、寝言目神社の大階段の下。地元の者は、ねごめ、とは言わず、ねこめ、と呼ぶ。神社には猫がたくさんいることから、こう呼ばれている。毎年、寝言目神社では、七月の第三土曜日にお祭りが催される。夜の八時には花火が上がる。

「お待たせ」

 絵里と水沢瑠璃子が到着したときには、すでに大石美穂が待っていた。黒地に赤、青、黄色の花があしらわれた浴衣を着て。

「わお! 瑠璃ちゃん素敵! あ、絵里も可愛いね」

 大石美穂は二人の浴衣を褒めた。絵里はついでに褒められたとひねくれて、一瞬むっとする。

 次に、田辺加代と三浦千枝がやってきた。田辺加代は白地に黄色のアザミ、三浦千枝は黄なり地に赤い手毬桜の浴衣を着ていた。

「どお?」、田辺加代は到着するなり皆に自分の評価を尋ねる。

「まぁまぁね」と大石美穂が冗談で答えた。

「瑠璃ちゃん、綺麗!」

 三浦千枝が水沢瑠璃子を見て称賛した。

「これは、男子たちに聞くまでもないわね」と早くも大石美穂が負けを認めた。

「瑠璃子が一番ね」

 田辺加代も素直に同意した。

 誰の浴衣姿が一番かは、早くも水沢瑠璃子に決まった。絵里は心の中で、私は認めない、と呟く。

「この階段の伝説、知ってる?」、大石美穂が寝言目神社へ続く急な階段を指して尋ねた。

「普段は百八段だけど、百九段になることがある、ってやつ?」、田辺加代が答えた。

「そうそう、百九段になったとき、不吉なことが起こるのよ」と大石美穂は声色を変えて大袈裟に言った。

 一、二、三、四、……。早速、五人は段を数えながら石段を上がった。

 オレンジ色の夕焼け空の下、涼しげな五つの浴衣が揺れる。

 ……、十四、十五、十六、……。この辺りで声が小さくなる。石段と下駄のぶつかる音がまばらに響く。

 もうすぐ日が暮れる。

 満月が東から顔を出す。

 鳥の群れが西に向かう。

「ひゃくはち!」

 一番に着いたのは田辺加代だった。

「ふー! ひゃくはち段」

 二番目は水沢瑠璃子。

「やっと着いた! 千枝、頑張れ。ひゃくはち!」

 大石美穂が三浦千枝の手を引いて到着した。

 絵里はまだ石段の三分の二あたりにいた。

「絵里、早くー! 置いてっちゃうわよー」と水沢瑠璃子が叫んだ。

 水沢瑠璃子はこのとき、初めて井田絵里を下の名で呼んだ。言われなくてもがんばってるわよ、と心の中で思いながらも、水沢瑠璃子から初めて名前で呼ばれたことに、絵里は少し照れていた。

 田辺加代が階段を降り、絵里のもとへ駆けつけた。

「……、九十五、九十六、九十七、ふー、……」、絵里は荒い息で数を数えた。

「もう少し!」

 田辺加代が絵里の手を引っ張った。

「……、ありが、とう、百四、百五、百六、……」

 絵里は力を振り絞って数を数えた。

「あとちょっと」

 皆が応援する。

「……、ひゃく、なな、ひゃく、はち、ふー、ひゃくきゅー、やっと着いたー!」

 絵里は石段の最上段を強く踏み、カランと心地よい音が響いた。そして、田辺加代の手を掴んだまま座りこんだ。

「え? イダエリ、いま、ひゃくきゅう、って」

 水沢瑠璃子が気づいた。

「えー!」、五人は一斉に叫んだ。

 田辺加代は掴んでいた絵里の手を払いのけた。

「いやだー!」

 絵里は空に向かって、もう一度叫んだ。すると、鳥居の周りで寝ていた猫たちが一斉に起き上がり、散らばって逃げていった。

 その後しばらく、絵里は不貞腐れていた。「冗談じゃないわよ。そんなのただの迷信よ。不吉なことって、あの階段を登ること自体が不吉なのよ。疲れたし」

「そうそう、ただの数え間違いよ。絵里は数学苦手だし。でも、気をつけてね」

 水沢瑠璃子は意地悪な目をして絵里をからかった。絵里はぼやきながらも、また名前で呼ばれたことに照れていた。

 神社の鳥居をくぐると、たくさんの出店が出ていた。りんご飴、金魚すくい、たこ焼き、輪投げ、綿菓子、かき氷、お面、射的、……。女子たち五人のお目当ては、もっぱら食べ物の方だった。彼女たちは神社の横に設置された休憩所の長椅子で、出店から調達したお気に入りの食べ物を、それぞれの胃袋に流し込んでいた。田辺加代はたこ焼き、三浦千枝はりんご飴、大石美穂はチョコバナナ、水沢瑠璃子はかき氷、絵里は綿菓子。神社の猫たちは物欲しそうに、彼女たちを見ている。

「まだ花火まで時間があるわね」、田辺加代が呟いた。

「あと、一時間」、三浦千枝が腕時計を見て答えた。

「じゃ、もうひと皿」、田辺加代が言うと、

「あなた、まだ食べるの?」と水沢瑠璃子が皮肉った。

「まだ、たい焼きとたこ焼きしか食べてないわよ」

「それだけ食べれば十分よ」と大石美穂がそう言って笑った。

 田辺加代は気にせず、再びたこ焼きの屋台へ走った。

 しばらくすると、そこへ柴田洋介がやって来た。

「やあ、みんな来てたんだ」

 杉村と伊藤も一緒だった。三人とも浴衣を着ている。

「あら、三人ともカッコいいじゃない」

 田辺加代がたこ焼きを片手に乗せて戻ってきた。

 突然、大石美穂が水沢瑠璃子の前に立ちはだかった。「あなたたち、いいもの見せてあげる」、そう言って一歩右へ出て、水沢瑠璃子の浴衣姿を男子たちに披露した。

「おー!」、男子三人は一斉に声をあげた。

 田辺加代は杉村の背中を押した。杉村は水沢瑠璃子の前に出た。

「やぁ、ゆ、浴衣、綺麗だね」と杉村は頭を掻きながら照れていた。

 大石美穂は、あっち、と指をさしてみんなに合図した。絵里は何のことかわからずに、きょとんとしていると、三浦千枝が絵里の手を引っ張った。大石美穂は、水沢瑠璃子と恋人第一号の杉村をふたりっきりにさせる計画を実行した。

 水沢瑠璃子はふと周りを見回した。やられた、と思ったが声には出さなかった。水沢瑠璃子と杉村の二人を猫たちが見守っている。

「じゃー、花火までその辺ぶらぶらしましょう」と水沢瑠璃子は杉村を誘って歩き出した。

 一方、残りの女子四人と男子二人は、たくさん並んだ夜店の列を行ったり来たりと徘徊していた。辺りは暗くなり、夜店の周り一帯に飾られた提灯に火が灯る。

 絵里は金魚すくいの店が気になった。金魚ではなく、出店のおじさんの姿に。おじさんはとても身丈が小さく、禿げ上がった白髪で、白いシャツに白いスラックス姿だった。

「お嬢ちゃん、金魚すくいはどうだい?」と出店のおじさんが絵里に声をかけた。

「ねぇ、みんなで金魚すくい大会しよう!」

 そう持ちかけたのは田辺加代だった。

 早速、六人は金魚と格闘を始めた。

「絵里ちゃん」

 絵里の後ろで声がした。

「おじいさん! おばあさん! なんだ、テッシーまで」

 絵里は立ち上がって駆け寄り、おばあさんに擦り寄った。

 三人とも浴衣を着ている。

「なんだ、ってなんだよ!」と勅使河原淳一郎が憤慨した。

「えーと……」

 絵里は三人を紹介するのに戸惑っていた。三人とも家族同然なのであるが、血のつながらない他人である。

「みなさんお友達? いつも孫がお世話になっております」とおばあさんは何のためらいもなく、そう挨拶をした。

 絵里は、孫、というおばあさんの言葉が照れくさかった。

「そっちは、んー、お兄ちゃん」

 絵里はおばあさんに習い、勅使河原淳一郎をこう紹介した。

「あ、兄の淳一郎です」と勅使河原淳一郎は嬉しそうに答えた。

「一緒にやりませんか?」

 柴田洋介が比嘉の老夫婦と勅使河原淳一郎を誘った。

「僕らはいいよ。んー、では、一番たくさん金魚をすくった人に、何か商品を出そう」

 勅使河原淳一郎は兄貴ぶって提案した。

「お面が欲しい!」、田辺加代が遠慮なく言う。

「いいよ。じゃ、隣の出店の商品をひとつプレゼントしよう」と勅使河原淳一郎は玩具の出店を指して言った。

 そこへ、水沢瑠璃子と杉村が戻ってきた。

「あなた、せっかくふたりっきりにしてあげたのに、もう戻ってきちゃったの? ばか!」と田辺加代は杉村を小声で貶した。

「私もやりたい!」

 水沢瑠璃子も金魚すくいに参加し、杉村も加わった。

「一番たくさん取った人に、お兄さんからプレゼントがあるのよ」と大石美穂は水沢瑠璃子と杉村に説明した。

 こうして、みんなは張り切って金魚すくいに挑んだ。

「絵里ちゃん、彼女が例の……」と水沢瑠璃子を横目で見ながら、勅使河原淳一郎は耳もとで絵里に尋ねた。

「そうよ。それより、金魚をたくさんすくえる方法を教えて」、絵里は勅使河原淳一郎を科学者と見込んで尋ねた。

「水の抵抗を最小限にするために、ポイは水面に平行に動かすんだ」と勅使河原淳一郎は絵里にアドバイスした。

 だが、

「あーっ!」

 一番初めにポイを破いたのは絵里だった。やっぱりインチキ科学者だ、と絵里は心の中で呟く。

「あはは、イダエリ、もう終わり?」

 ポイを水につけたとき、田辺加代の紙も破れた。

 結局、三浦千枝は五匹、大石美穂は三匹。他は一匹も取れず。最終的には八匹すくった水沢瑠璃子が勝利を勝ち取った。露店のおじさんは、金魚をすくった三人には二匹ずつ、すくえなかった者にも一匹ずつの金魚を与えた。

 水沢瑠璃子は隣の出店から、水玉のグラスを選んだ。そして、お兄さんありがとう、と言って、満月にグラスをかざして眺めた。

 八時まであと十五分。

「花火がよく見える穴場があるの。丘の上の公園に行きましょう」とお祭りの常連である大石美穂が提案する。

 女子五人と男子三人、そして、おじいさん、おばあさん、勅使河原淳一郎の十一人は、神社から続く丘の上の公園へ急いだ。


 公園には数組の男女がベンチにいる。

 柴田洋介はどこからかビールのケースを二つ抱えてやって来た。「おじいさん、おばあさん、どうぞ!」とケースを裏返して椅子代わりに差し出した。大石美穂と田辺加代、男子三人はジャングルジムの上段に座り、下段には三浦千枝が座った。絵里と水沢瑠璃子はおじいさんとおばあさんの後ろに立ち、勅使河原淳一郎は絵里の横でジャングルジムにもたれて立っていた。

「八時ぴったりに、花火が上がるのよ」とジャングルジムの上から大石美穂が言い、カウントダウンを始めた。「十、九、八、七……」

「ごー、よん、さん、にー、いち」とみんなが声を揃える。

 神社の屋根の上から、ひょろひょろとうねる白い煙が上がった。丘の公園の高さを遥かに超え、満月の反対側の空に赤い花が咲く。数秒遅れて、パン、と乾いた音が鳴った。

「たまやー」と誰かが叫び、おー、と歓声が上がる。

 絵里は一歩前に出て、おばあさんの肩に手を乗せ、きれいねー、と後ろにいる水沢瑠璃子に同意を求め、振り返った。

 水沢瑠璃子が近づいて、絵里の耳元で囁いた。「……、ありが……、ね……」

 周りの歓声で絵里は聞き取れない。

「なに?」と訊き返したとき、二つ目の花火が鳴り、絵里は夜空の花火のほうに向き直った。月夜の花火の音に絵里のアンテナが震えていた。

 そのときは気がつかなかったが、それが絵里の記憶にある水沢瑠璃子の最後の姿だった。

 これから十六歳の彼女たちの夏が始まる。満月は、私も見てよ、と恨めしそうに、夜空に浮かぶ花火を見ながら、十六歳の彼女たちをぼんやり照らす。猫たちは花火の音に怯えながら、公園の隅で様子を伺う。

 最後の花火が連発で放たれ、満月は花火の煙で霞んでむせぶ。夜空は、一瞬、明るくなった。猫たちは驚いて草むらに隠れた。

「すごーい、瑠璃子! お昼みたいね」と絵里が後ろを振り返る。

 そこに水沢瑠璃子の姿はなかった。絵里の声が所在なく夜空に漂い、花火の音の振動と冷たい不安感が彼女のアンテナを直撃した。絵里の体は硬直した。

 花火は終わり、煙が流れ、再び満月が笑顔を見せた。空はもとの黒を取り戻し、猫たちはおそるおそる草むらから出てくる。

 絵里は何かを失ったことに気づく。

「瑠璃子がいない!」

 おじいさんとおばあさんが振り向き、ジャングルジムの上の女子と男子が見下ろす。それぞれがきょろきょろと周りを伺った。

「るりこー!」、ジャングルジムの上から田辺加代が呼んだ。

「誰か、瑠璃子を見た?」

 絵里は焦りだす。

 みんなは目を凝らして周りを見渡し、お互いの顔を見た。

「もしかしたら、神社に戻ったのかも」

 大石美穂はジャングルジムから降りる。

「みんな、落ち着いて。絵里も」

 勅使河原淳一郎は穏やかに、みんなを諭した。

「きっとトイレよ」、三浦千枝が不安げな声を出した。

「よし。男子三人はこの公園を探して。女子たちはトイレ。おじいさん、おばあさん、僕と神社に戻りましょう」

 勅使河原淳一郎はみんなに指示した。

 絵里は震えて泣いていた。それを見た勅使河原淳一郎は、「絵里、僕とおいで」と優しく声をかけ、手を引いた。そして、おじいさん、おばあさんを連れて神社へ降り始める。

 神社の境内に入るところで、絵里は黒い猫を見た。そして、黒猫についていった。黒猫は絵里を休憩所の長椅子に連れて行く。すると、長椅子の上に、見つけた。朝顔の浴衣と帯と下駄を。

 きれいに畳まれた浴衣の横には、水玉のグラスが置いてあった。グラスの中では二匹の金魚が狭苦しく泳いでいる。黒猫は長椅子の上に乗り、グラスの金魚を物欲しそうに見つめていた。いつの間にか他の猫たちも集まり、状況を静かに見守る。

「瑠璃子の浴衣……」、絵里は力なく呟いた。

 みんなが公園から降りてきて、絵里たちに合流した。

「いなかった」、大石美穂は勅使河原淳一郎に伝えた。

「瑠璃子の浴衣が置いてある」、絵里は誰に伝えるでもなく呟いた。

「え? 裸で?」、田辺加代は疑問を投げかけた。

「拐われたの?」、三浦千枝が震えた声で誰かに尋ねた。

「浴衣はきれいに畳まれてる。その可能性は低い」、勅使河原淳一郎は冷静に答えた。

「きっと、服をどこかに隠していて、着替えて帰ったのよ」、大石美穂はそう予想した。

「お父さんかも」、柴田洋介は過去の経験を思い出しそう言うと、杉村と伊藤は頷いた。

「よし、みんな。もう遅いし、君たちは帰りなさい。あとは僕に任せて」、勅使河原淳一郎はみんなに告げた。

「そうじゃな。絵里ちゃん、あとでみんなに連絡してあげなさい」

 おじいさんは同意した。

「絵里、水沢さんの電話番号知ってるか?」、勅使河原淳一郎は絵里に尋ねた。

「知らない」

 絵里だけではなく、誰もそれを知らなかった。

「なら、家に行ってみよう。絵里、彼女の家を教えて。僕と一緒に行けるかい?」

 勅使河原淳一郎の質問に絵里は黙って頷いた。


 神社で皆は解散し、絵里と勅使河原淳一郎は、水沢瑠璃子の自宅へ向かった。絵里は途中、一言も喋らなかった。彼女は水沢瑠璃子の電波を微かに感じ、それを追っていた。勅使河原淳一郎は絵里の手を握り、彼女を支える。

 二人は水沢家に着いた。

「誰もいないみたいだ」

 勅使河原淳一郎は水沢家の塀の中を除き込んだ。どの窓も真っ暗で、玄関の灯さえついていない。絵里は玄関のチャイムを押したが何の反応もなく、空虚なボタンの感触だけが絵里の指先に残った。次に、家の周りを探った。隣の家のほうから水沢瑠璃子の部屋を見ると、何かが光った。

「猫だわ。また、黒猫」

 暗闇の中に猫の目が浮かんでいた。

「仕方ない、帰ろう。明日また来てみよう」、勅使河原淳一郎はそう言って、絵里の手を引き、帰路に就いた。


 二人は絵里の家に着いた。勅使河原淳一郎は絵里を気にかけて、しばらく家に留まった。軽くご飯を食べ、テレビをつけた。黙ったままの絵里の代わりに、テレビタレントの声が部屋の静寂を埋めた。


 午後十一時。絵里のアンテナが不穏な電波をキャッチした。絵里は目を見開いて玄関のほうを向く。すると、玄関のチャイムが鳴った。

「瑠璃子……」

 勅使河原淳一郎は玄関へ向かった。「どちらさまですか?」

「夜分遅くにすいません。瑠璃子はお邪魔してないでしょうか?」

 それは水沢瑠璃子の父親だった。

 勅使河原淳一郎は玄関のドアを開け、水沢瑠璃子の父親を招き入れた。

「瑠璃子……消えたんです」、絵里は下を向いて、ありのままに伝えた。

「消えた?」

「あ、いや、消えたんじゃなくて、実際はねこめ神社で一緒だったんですが、はぐれてしまったんです」と勅使河原淳一郎はそのときの状況を説明した。

「消えたって、どういうこと?」

 父親は絵里の言葉に反応した。

「いや、消えた、というのは比喩的な言い方でして、その……」、勅使河原淳一郎は誤解を招く絵里の言い方に、まんまと誤解した父親の反応に困って、「そんな非現実的な言い方じゃ、不安をあおるだけだ」と小さな声で絵里に注意した。

「どうやって、消えたんですか?」

 父親はさらに絵里を追求した。

「えっと……」

 絵里は勅使河原淳一郎の言う通り、現実的な言葉を探っていた。すると、それを掻き乱すように、瑠璃子の父親が言った。

「あの子の母親も、消えたんです」

 絵里と勅使河原淳一郎は同時に顔を上げ、父親の目を見た。

「消えた、って。この前は事故って……。瑠璃子は病気だと……」、絵里は疑問をぶつけた。

「本当のところは、消息不明です。たてまえ上、事故や病気と言っています」

 沈黙のあと、父親はさらに語り始めた。

「当時、瑠璃子が六歳のときでした。あの子と母親は風呂に入ると言って、浴室に入りました。一時間経っても出てこないので、私は風呂場に様子を見に行ったんです。風呂場には瑠璃子がひとり、放心状態でぬるくなったお湯に浸かっていました。ママはどこ、と尋ねると、彼女は、消えちゃった、と言ったんです。それまで着ていた服は脱衣所にありました。風呂場の窓には格子があって、外には出られない。風呂場からはリビングを通らなければ、玄関には行けない。私はずっとリビングにいたんです」、瑠璃子の父親は一気に言葉を吐き出した。

「今の家でのことですか?」と絵里が訊くと、父親は黙って頷いた。

 絵里は水沢家の間取りを思い出した。確かに、風呂場からはリビングを通らなければ外へ出られない。父親の話の半分を飲み込んだ。

 絵里は水沢瑠璃子がいなくなった状況を説明した。

「神社の上の公園で、みんなで花火を見ていたんです。瑠璃子は私の後ろにいて、花火が上がり始めたとき、私に何か言ったんです。花火の音ではっきりと聞こえなかったんだけど、私は花火に気を取られて……。最後の花火が上がり、振り向いたとき、瑠璃子はもういなかった。公園や神社のトイレ、みんなで探したけど、いなかった。だけど、神社のベンチの上に、浴衣と露店でもらった金魚が置いてあったんです」

「そうですか、あの子まで……」

 父親は膝に手をついてうなだれた。

「もしかして、北海道のおばあさんのところへ行ったんじゃ……。瑠璃子、明日出発するって言ってたんですけど」

「北海道のおばあさん? それは、妻の母親なんですが、去年の秋に亡くなっています」

「え? 亡くなってるんですか? 瑠璃子、おばあちゃんに会いたい、って言ってました」

「そうなんですか。ずいぶん懐いていましたからね。あの子、祖母の死を受け入れられてないのかな……」

 父親の目に涙が滲んでいた。

「そうだ! おじさん、アンテナを探れば瑠璃子を見つけられるんじゃ……」と絵里は父親に尋ねた。

「アンテナ? 何ですか?」

「え? いつも、瑠璃子を見つけるとき、アンテナを使うんじゃないんですか?」

「アンテナ、って……? いつもは、何時にどこそこにいるから迎えに来て、というメモが残されてるんです」

 絵里は状況が掴めず、勅使河原淳一郎の顔を見た。

「そのアンテナで瑠璃子を見つけられるのかい?」、父親が絵里に尋ねた。

「彼女から電波が来れば、私にも見つけられるかもしれません。でも……」

 しばらくの間、沈黙が続いた。

 水沢瑠璃子の父親は、もしかしたらもう帰っているかもしれません、と絵里の家を出た。絵里は、何かわかったら連絡します、と水沢家の電話番号を訊いておいた。しかしその後、その番号を回すことはなかった。


「彼女、自殺しようとしてたのよ」

「ってことは、まだ生きてるってことかい?」

「うん。微かに電波があるの」

「じゃ、早く探さないと」

「大丈夫よ。私は予言者。彼女が本気で死ぬのなら、私に予言がくるはず」

 絵里はこれまでの出来事を整理し、そして確信した。

「彼女は気づいて欲しかったのよ。教室でのイチャイチャの儀式も、毎週彼氏を代えるのも、父親へのメモも、私への怪電波も……。すべて、私を忘れないで、ってアピールだったのよ」

「なら、探さないと」

「でも、今は違ってる」

「自殺はやめた、ってこと?」

「そう」

「じゃ、どうして消えたんだい?」

「……わからない。でも、彼女、最後に私に伝えたの。あの花火のとき」

「なんて言ったか覚えてないのかい?」

「私、確かに聞いたの。でも、思い出せない。大切なこと。私は忘れてる」

 絵里は頭を抱えて思い出そうと必死で考えた。

 勅使河原淳一郎は、水沢瑠璃子が生きているなら急いで思い出す必要もない、と優しく絵里を諭した。


 勅使河原淳一郎は深夜過ぎに帰った。

 絵里は二階の自室に入り、ベッドに潜って静かに眠りにつく。

 その夜、彼女は夢を見た。夢の中であの花火の場面が再現された。絵里の意識は満月となって、それを見ている。


 一発目の花火が上がった。

 公園から歓声が上がる。

 絵里が一歩前へ出ておばあさんの肩に手を乗せる。

 振り向くと、水沢瑠璃子が絵里に向かって、大切な何か、を伝える。

 絵里は二発目の花火に気を取られる。

 満月の絵里は、公園の絵里に叫んだ。「絵里! 聞くのよ。瑠璃子の言葉を聞いて!」、と。

 満月の絵里の前には花火の煙が立ち込み、視界を遮った。水沢瑠璃子が消える瞬間は見えなかった。


 絵里は目覚めた。外はうっすらと明るい。目尻が濡れている。意識がはっきりしてくると、絵里はアンテナに刺激を送る電波に気がついた。怪電波、水沢瑠璃子の、窓の外。

「瑠璃子!」

 絵里は窓際に駆け寄った。そのとき、思い出した。水沢瑠璃子の言葉の一部を。

『イダエリ、ありがとう。私……になるわ。世界を救うために』、水沢瑠璃子はそう言ったのだ。

 絵里は、窓を勢いよく開け、それを見た。

 それと目が合った。その目は間違いなく、水沢瑠璃子の目であった。

「あなた、その姿でどうやって、世界を救うのよ」、絵里は目の前の生き物に告げた。

 窓の外、屋根の上には、黒い猫が一匹。絵里をじっと睨んでいた。



 次の日。

「テッシー、人間はどうやったら猫になれるの?」

 絵里は脳科学研究所を訪れ、コンピュータで作業をする勅使河原淳一郎に尋ねた。

「いい質問だ。結論から言うと、人間が完全に猫になることはできない。なぜなら、猫と人間の遺伝子そのものを総とっかえし、さらに、細胞をすべて入れ替えなければならないからだ。そんなことは不可能だ。それが可能だとしても、新しく生まれた猫は、もはや人間ではなくただの猫でしかない。だが、もし猫の体に、ある人間の意識を植え付けるのなら、それは可能だ。体は猫だが、意識は人間となる。君の言う、人間が猫になる、というのはどっちのことかな?」

 勅使河原淳一郎はコンピュータの画面を見てキーボードを叩きながら、後ろにいる絵里に論じた。すると、絵里は勅使河原淳一郎の頭に、それを乗せた。

「ニャー」

 勅使河原淳一郎の頭の上で、黒猫が鳴いた。彼は驚いて、絵里のほうを振り向いた。

「その猫、水沢瑠璃子よ」

 絵里は腕組みをして勅使河原淳一郎を睨みつけた。

 勅使河原淳一郎は頭の上に黒猫を乗せたまま、絵里に尋ねた。「消えた水沢瑠璃子がこの猫になった、ってことかい?」

「そうよ」

「その根拠は?」

「私のアンテナが証明してる」

 勅使河原淳一郎は、絵里の不確かな存在のアンテナの証明を疑った。「では、この猫が水沢瑠璃子である、と仮定しよう」

 勅使河原淳一郎は頭の上の黒猫を床に降ろした。

「また仮定? テッシーの仮定はあてにならないことは、すでに証明済よ」

「確かに」

 勅使河原淳一郎は絵里の証明を承認した。

 絵里はやれやれと肩の力を抜き、椅子に座った。「比嘉はじめ、水沢瑠璃子、その母の消息不明は何か関係があるのかしら」

「うん。僕もそれを考えていたんだ。比嘉はじめは五十年前、水沢瑠璃子の母親は十年前。そして、昨日。共通するところは?」

 絵里は再び腕を組んで考えた。

「そうね。はじめちゃんは犬と一緒に消えた、って言ってた。瑠璃子のお母さんが亡くなったあと、飼い猫がいなくなった。今回は瑠璃子が猫に。動物が絡んでるわね」

「犬と猫か」

「あと、瑠璃子が言ったこと、思い出したの。世界を救うために猫になる、って」

「人間が猫になって世界を救う、ってことか」

 すると、コンピュータに繋がれたスピーカーから声が聞こえた。

「人間は、人間自身が思っているほど高度な生き物ではありません。人間は意外に単純な動物です。例えば、人間と猫のハイブリット生物は簡単に作り出せます」

 その声は、少しイントネーションのずれた、抑揚のない、どこか違和感のある声だった。

「え? コンピュータが喋ってるの?」、絵里は勅使河原淳一郎に尋ねた。

 しかし、答えたのはコンピュータだった。

「私はソフィ。人工頭脳です」

 絵里は勅使河原淳一郎の顔を見た。

「絵里、こちらはソフィ。彼女の言う通り、人工頭脳だ」

 勅使河原淳一郎は、人工頭脳というものが当たり前に存在するものだ、という風に、さらりとソフィを紹介した。

「よろしくおねがいします」、スピーカーからの音声が言う。

 絵里は、水沢瑠璃子よりも厄介者に出会った気がしたが、とりあえず挨拶だけはしておいた。よろしく、と。

 黒猫は、コンピュータの画面を見ながら、爪を立て、今にも襲いかかろうと攻撃体制をとった。絵里は、いいぞ、やれ、と心の中で黒猫に命じた。

「これ、あなたが作ったの?」、絵里が訊いたとき、部屋の入り口からモジャモジャの白髪の男が現れた。

「ソフィは、私が開発したAIだ」

「御徒町博士」

 勅使河原淳一郎は立ち上がってお辞儀をした。

「お菓子町?」

「おかし、じゃなくて、お、か、ち、ま、ち」

「おじゃましています。オカシマチ博士」、絵里はそう言って頭を下げた。

「あはは、お菓子の町かい。光栄だね」

「博士、彼女が例の……」

「ほうほう、アンテナの女の子だね」

 絵里は勅使河原淳一郎を睨んだ。アンテナの女の子って何よ、と。勅使河原淳一郎は絵里の不快な表情に気づき、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「気分を害させたようだね。すまない。決して君に危害を加えたりはしないよ。ただ、科学では証明できない能力を君は持っている。私は科学者として、それに興味があるだけだ。もちろん、君が私の研究に否定的ならそれまでだ。君は勅使河原君の妹同然だと聞いている。ならば、私にとっても家族のようなものだ」

 博士はそれだけ言うと、あはは、と笑いながら、部屋を出て行った。

 絵里は、モジャモジャの白髪の、いかにも博士で御座います、という風貌がおかしくて、ぷっ、と吹き出してしまった。

「へんなの」、絵里は思わず声を漏らした。

「こら、博士だぞ!」

「だって、あの髪型。おもしろすぎる!」

 絵里は博士の下の名前はなんていうのだろうと想像した。

 オカチマチ ジロウザエモン、

 オカチマチ シンジロウノスケ、

 オカチマチ コタロウノウタマロ。

 絵里は、テシガワラ ジュンイチロウよりも長い名前を期待した。ふと部屋の奥のデスクを見た。絵里は机の上にプレートを発見した。そこには、「所長 御徒町 秀賢才学」と書いてあった。

「シュウケンサイガク」、絵里は声に出して読んだ。「テッシー、見て! テッシーよりも長い名前はっけーん! オカチマチシュウケンサイガクだって」

「シゲサガ、と読みます」

 スピーカーからのコンピュータの声が絵里の間違いを指摘した。

「えー、シュウケンサイガクにしようよ。全然足りないじゃない」

「人の名前で遊んじゃだめ」

 勅使河原淳一郎は平坦な口調で絵里に注意した。

「オカチマチシュウケンサイガクさま、

 三番窓口までお越し下さい!」

 絵里は調子に乗ってアナウンスの真似をした。

「オカチマチシゲサガさま、

 三番窓口までお越しください」

 再びコンピュータが間違いを指摘した。

「君たち、遠回しに、僕の長い名前をバカにしてないか?」

 勅使河原淳一郎は手を止めて、コンピュータ画面と絵里を交互に見た。

「オカチマチシュウケンサイガクさま、

 オカチマチシュウケンサイガクさま、

 お友達のテシガワラジュンイチロウさまが、

 一階サービスカウンターでお待ちです」

 絵里は、机にあった太いマジックをマイク代わりに、なおもふざけた。

 すると、コンピュータAIのソフィも、

「オカチマチシゲサガさま、

 オカチマチシゲサガさま、

 お友達のテシガワラジュンイチロウさまが、

 一階サービスカウンターでお待ちです」と訂正した。

 勅使河原淳一郎は机の上にあった消しゴムを絵里に投げつけた。

「あて!」

 それは見事に絵里の頭に命中した。そして、勅使河原淳一郎は席を立ち、部屋を出て行った。

「あら、テッシー、怒っちゃった」

「あら、テシガワラジュンイチロウ、怒っちゃった」

 ソフィのそれを聞いて、絵里は「あなた、なかなかやるわね」とソフィを褒めた。

「ニャー」

 黒猫のルリコも、それに同意した。

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