第4話

「ねぇ、テッシー。科学者の意見を聞きたいの」

 のんびりと昼休みを過ごしていた勅使河原淳一郎に、絵里が尋ねた。

 勅使河原淳一郎は突然の質問の詳細を絵里に訊いた。絵里はそれをできるだけ詳しく伝える。勅使河原淳一郎は白衣の襟を正し、科学者らしく論じ始めた。

「では、仮説を立てよう。第一の仮説。水沢瑠璃子がいつも持ち歩いてる物に、発信機あるいはGPSやビーコンのような追跡装置が仕掛けられている、とする」

 勅使河原淳一郎は立ち上がって、ホワイトボードにマーカーを走らせた。ボードには「1追跡装置」と、ミミズが這ったようなくねくねの黒い文字が並んだ。

「電波を遮断する方法はある?」

「電波というよりも、発信機そのものを発見できる。それを除去すれば何も問題はない」

 絵里は、水沢瑠璃子の保護に何かいい方法はないか、と方法勅使河原淳一郎の働く脳科学研究所に来ていた。

「発信機らしいものは見つからなかったって」

「超小型の発信機なら、米粒ほどの大きさのもある。カバンや服なんかに縫い込まれていたら見つからない」

「体に埋め込まれてる可能性は?」

「奥歯に仕掛けられた事例もあるし、注射器で体に埋め込むこともできる。いずれにしても、除去することは可能だ」

「つまり、第一の仮説なら回避可能なのね」

「そういうことさ。だが、親子の関係で、発信機なんてのは、どう考えても可能性が低い」

 勅使河原淳一郎はホワイトボードのミミズを、赤いマーカーでバツをつけて排除した。

 脳科学研究所では人工知能の研究が行われており、コンピュータや発信機のほかにも、脳波測定装置、心拍計測装置、電磁波発生装置など、あらゆる電子機器が備わっている。勅使河原淳一郎は手のひらサイズのメーターのついた機器を絵里に見せた。発信機を見つける装置だ。絵里はそれを手に取り、裏返したり、ボタンを押したりして、ふーん、と興味がなさそうに頷いた。

「第二の仮説。尾行」

 勅使河原淳一郎はホワイトボードに「2尾行」と書いた。

「それなら変装したり、人の多いところに紛れたりすれば、尾行を撒くことは可能ね」

「これまでの彼氏たちは、全員が父親に見つかっている。もし、尾行ならプロの仕事だね」

「撒くのは難しい?」

「尾行するには、追う人物の行動パターンを知っておく必要がある。一週間ごとに代わる人物を追跡するのはかなり難しい。町の興信所や探偵業者には不可能だ。つまり、尾行する人物は特殊な訓練を受けたプロ中のプロだね」

「じゃ撒くのは不可能ね」

「いや」

 勅使河原淳一郎はホワイトボードの尾行の文字に、再び赤いマーカーで大きくバツを書いた。

「方法があるのね」

「方法はない。しかし……」、勅使河原淳一郎は一瞬の間を置いて続ける。「水沢瑠璃子の父親はおそらく普通の会社の単身赴任サラリーマンだ。プロ中のプロの追跡人を、長期に渡って雇えるほどの金銭的余裕はないはずだ。つまり、尾行の可能性はほぼないと言っていいだろう」、勅使河原淳一郎は絵里に背を向けたまま、自信満々に答えた。

「なーんだ。だったら、そんな仮説を立てないでよ」

 絵里はほっぺを膨らませて勅使河原淳一郎の背中を睨んだ。

 勅使河原淳一郎は絵里のほうに向き直った。そして、絵里の顔をじっと見つめながら言った。「第三の仮説」

 絵里は勅使河原淳一郎に見つめられ、その目から何か不穏な電波をキャッチした。

 勅使河原淳一郎は、再びホワイトボードのほうを向き、青いマーカーを走らせた。

「3アンテナ」

 絵里はその意味を考えた。

「君以外にもアンテナを持っている者がいたら?」

「私以外に?」

 勅使河原淳一郎は振り向き、無言で頷く。

「水沢さんのお父さんはアンテナを持ってるの?」

 勅使河原淳一郎は絵里を見つめたまま、無言を続けた。

「でも、私には居場所なんて見つけられない」

 絵里は勅使河原淳一郎の視線から逃れられなかった。

「本当にそうかい?」

 今度は絵里が無言になる。

「鉄蔵さんは僕を見つけた。当時、僕は鉄蔵さんと面識はない。両親もだ。でも、鉄蔵さんは僕を見つけたんだ」

 絵里は何もない空間を見つめ、答えを探す。強い電波を受信したのは二回。母のときと水沢瑠璃子のとき。絵里は空の中から何かを探り当てた。「水沢さんからの電波、方向はわかる」

 勅使河原淳一郎は絵里の結論を待った。

「お父さん、アンテナを持ってるのね」

 勅使河原淳一郎はゆっくりと頷く。

「アンテナの受信を止める方法はあるの?」

「それは君のほうが専門でしょ」

 絵里は眉間にシワを寄せて天井を見上げた。

「例えば、それが物質的な有限体と仮定しよう」

「また、仮定?」

 絵里は視線を天井から下ろし、腕を組んで不勅使河原淳一郎に不満をぶつけた。

「君は発信者からの電波物質をひとつ残らず吸収できるかい?」

「え? わからないわ。電波って物質なの?」

「本来、電磁波は物質ではなく、光や音と同じで媒体を伝わる振動なんだ。だけど、君は発信者の負の要素を取り除くことができるだろ。つまり、君が受け取っているモノは、波動ではなく、物質であり、有限体だと思われる」

「そういえば、お母さんが言ってたわ。お父さんがガンで入院してたとき、痛みで苦むことはなかった、って。私はその間、意識はなかったけど」

「君は、人の痛みを吸収し取り除くことができる、ってことだ」

「自分では意識していないけど、そういうことなのかも」

「水沢瑠璃子は君と一緒にいる間、彼女の負の感情を君が吸収し、外には漏れない。つまり、父親のアンテナには届かない、っていうわけさ」

「なるほど。でもそれって仮定の話でしょ」

「君は負の電波に耐えられるのかい?」、勅使河原淳一郎は絵里の問いかけを無視して質問した。

「金曜日の電波は何度も感じてるけど、気絶するほどではないわ」

 絵里は勅使河原淳一郎の科学的な仮説を鵜呑みにすることはできなかった。彼女は非科学的な能力の祖父を持ち、自分自身も超自然的な能力をようやく受け入れることができたばかりだ。しかし、その仮説が間違っていたとしても、他に方法はない。絵里は水沢瑠璃子の「掃除機」になると決心する。



 夏休みまであと二週間。日曜日の夜に絵里は行動を起こした。

「水沢さん、私の家に来ない?」、絵里は水沢瑠璃子に唐突に打ち明けた。屋根の上で。

 水沢瑠璃子は父親に逃亡を妨げられ、自宅の部屋に軟禁されていた。絵里は壁をよじ登り、屋根を伝って、水沢瑠璃子の部屋の窓を叩いた。七月初めの暑い日で、窓は少し開いていた。

 パジャマ姿の水沢瑠璃子は窓からの意外な訪問者に驚き、体を硬直させたまま、絵里のアンテナに恐怖の感情を投げつけた。彼女は右手の人差し指を立てて、しー、と静かに声を漏らしながら、絵里のいる窓に近寄った。「あと一時間待って」と絵里に伝え、彼女は窓を閉めてカーテンを引いた。

 幸い、天気は良く、星空が綺麗だった。絵里は水沢瑠璃子の指示どおり、一時間待つことにした。星空を見上げながら、あと一時間待って、と言った水沢瑠璃子の冷ややかな顔を思い浮かべる。構ってくれなくていい、絵里にはそんな顔に見えた。猫みたい、そう思うと自分も猫になりたくなった。西の空には半分になった月が沈みかけている。


 ちょうど一時間が過ぎた。玄関のほうで物音がした。ドアから誰かが出て行った。絵里は屋根伝いに玄関のあるほうへ移動する。見つからないように、身を屈めて。出て行ったのは男の人で、それが水沢瑠璃子の父親だと絵里はすぐにわかった。

 水沢瑠璃子の部屋の窓が開いた。

「イダエリ、お待たせ」

 水沢瑠璃子は笑顔で窓の外に顔を出した。さっきとはまるで別人だ。愛想のない猫が、構って欲しそうにまとわりつく甘えん坊の犬に変わっている。

 絵里はやれやれとため息を漏らす。

 水沢瑠璃子は長い足を窓枠から突き出した。体の全部を窓の外に出すと、振り返って窓を勢いよく閉めた。

「さぁ、行きましょ」

 水沢瑠璃子は背中に大きなリュックを背負っている。

「え?」

 絵里は水沢瑠璃子の意外な行動に驚いた。

「あなたのお家に泊めてもらえるのよね」、水沢瑠璃子は眉をハの字に寄せて尋ねた。

「そうだけど、あなたは玄関から出ればいいんじゃないの?」

「それもそうね」と水沢瑠璃子はきょとんとした顔で言う。「まぁ、いいじゃない」

 絵里は呆れ顔で水沢瑠璃子から目線を外した。

「昔、母が猫を飼ってたの。いつもこの屋根にいたわ。案外、気持ちいいものね。母が死んですぐいなくなっちゃったけど」

 水沢瑠璃子はスルスルと屋根から壁を伝って道路に降りた。気まぐれ猫め、と心の中で呟きながら、水沢瑠璃子のあとを追って、絵里もゆっくりと壁伝い道路に降りた。

「ふぅ」


 水沢瑠璃子は絵里の自宅のほうへ歩いてゆく。絵里は少し離れて彼女のあとに続く。

「ねぇ、どうして」、水沢瑠璃子は後ろを歩く絵里に、振り返りもせず尋ねた。

「何が?」

「何でもない」

「何となく、よ」

「そう」

 絵里の自宅への道では、こんなぎこちない会話が数回続いた。絵里は、二週間こんな息苦しい状況が続くのか、と不安を募らせた。


 絵里の自宅に着いてからも、二人はほとんど話すことはなかった。

「お腹は?」

「食べた」

「あなたは?」

「食べた」

 長年連れ添ってお互いの存在に飽き飽きした熟年夫婦のように、会話というほどの会話もなく、時間が過ぎてゆく。

「お風呂、どうぞ」と絵里が勧めると、「あなたのお家なんだから、あなたから入って」と水沢瑠璃子は遠慮した。

 絵里は面倒な譲り合いを避け、素直に風呂に入った。

 湯船の中で、絵里は水沢瑠璃子との会話の話題を探していた。趣味のこと、勉強のこと、私生活のこと。しかし、共通する話題は見つからない。

 突然、風呂場のドアが開いて、白くて長い足が浴室に侵入してきた。

「おじゃまします」

 水沢瑠璃子が入ってくる。絵里は驚く。なんて綺麗なの、と水沢瑠璃子の裸に見とれた。

「あんまり見ないで」と水沢瑠璃子は絵里に促すと、絵里は真っ赤になって横を向いた。

 水沢瑠璃子は浴槽に入ってきた。二人では少し狭い浴槽の中で、お互いの腕と腕が密着する。絵里は恥ずかしさを隠そうと湯船に顔を沈める。長く。

「イダエリ、ありがとう」、水沢瑠璃子は湯の中に顔を沈めた絵里に伝えた。

 絵里は聞こえないフリをして、さらに顔を沈め、それからゆっくりと湯船から顔を上げた。「ふぅ」

「ため息ばかりね。アンテナが近くにあると、干渉しちゃってノイズが多いのよね」

 水沢瑠璃子の発言に驚いて、絵里は突然立ち上がり、彼女を見下した。

「ア、アンテナ、って……」

 絵里は水沢瑠璃子に裸を見られていることに気づき、慌てて湯船に浸かった。

「隠さなくっていいわよ」

「でも、あなたと違って、小さいし……」

「あなたのアンテナ小さいの?」

「え? アンテナじゃなくて……」

 一瞬の沈黙のあと、しどろもどろになった絵里を見て、水沢瑠璃子は吹き出してしまった。その笑い声につられて、絵里も笑いだす。

 絵里はふと我に返り、真剣な表情で水沢瑠璃子に尋ねた。「あなたもアンテナを持ってるの?」

「え? 知ってたんじゃないの? 私、てっきりあなたには気づかれてると思ってたわ」

「まさか、あなたも……」

「うちは父もアンテナを持ってるわ。だから、一緒にいると息苦しくてね」

 勅使河原淳一郎の仮定は、半分正解で半分が間違いだ。水沢瑠璃子本人もアンテナを持っているのだ。インチキ科学者め、と絵里は心の中で勅使河原淳一郎を罵った。

「私のところは母も父もノーマル。祖父が予言者だった」

「予言? 私たちにはない能力ね」

「死を予言できるのよ。私は母の死を予言したわ」

「そうなの」、水沢瑠璃子はあっさりと冷ややかな返事をした。何事にも冷静で動じない猫のように。

「あなたのお母さん……」

「私と父は人の感情が読めるの。母はかわいそうだったわ。二人から感情を読まれるんだからさ。病気で死んじゃうのも無理ないわね」

 父親に殺された、との噂は間違いだった。絵里は、噂なんて適当なものね、と心の中で呟いた。

 ふと隣の水沢瑠璃子の横顔を見ると、泣いているように見えた。水沢瑠璃子は絵里の視線を感じると、湯船で顔を洗った。

「でも、父と私が、殺したようなものだわ」と水沢瑠璃子は湯船の揺らぎを見つめながら言う。

 絵里は感情が読まれているのを感じた。だが、それは苦痛ではなく、恥ずかしくもなく、嫌ではない。絵里のアンテナには、暖かく、穏やかで、心地よい電波が伝わっていた。

 それから二人は風呂を出て、朝まで語り明かした。アンテナによるお互いの苦労話、能力の話、家族の話。絵里はこれまで誰にも言えなかった秘密を包み隠さず水沢瑠璃子に話した。水沢瑠璃子も同じだった。

 明け方、新聞配達の自転車のキーというブレーキ音が聞こえたころ、二人は眠りについた。この日は二人揃って一時間目の授業に遅刻することになった。


 クラスの雰囲気が大きく変わった。絵里、田辺加代、三浦千枝のいつもの仲良し三人組に、水沢瑠璃子が加入した。それに伴い、キャンプのメンバーであった学級委員の大石美穂が加わった。さらに、男子メンバーの柴田陽介が引きずり込まれ、杉村と伊藤が紛れ込んだ。昼休みにはこの八人で戯れることが多くなった。

 金曜日。絵里に水沢瑠璃子からの怪電波は届かなかった。問題は週末の土曜日と日曜日。水沢瑠璃子の父親が帰ってくる。


 金曜日の放課後、絵里は勅使河原淳一郎の仕事場へ向かった。

「噂はほとんど噂でしかなかったの。あなたの仮説も半分は間違い。瑠璃子とお父さん、ふたりともアンテナ保持者だった。保持者が近くにいると、ノイズが発生する。私も感じたわ。瑠璃子はそれを避けたいのよ。おそらく、それはお父さんも同じ。だから別々に暮らしてる。だけど、お父さん、瑠璃子を愛しているの。だから、週末だけ、一緒に過ごしたい。それだけなのよ。私、どうするべき?」

 絵里は水沢瑠璃子の話を聞いて、判断に困っていた。

「ならば、仮説を立てよう!」

 勅使河原淳一郎はホワイトボードに「1」と書く。

「あなたの仮説なんてあてにならない」と絵里はストレートに訴えた。

「もし、水沢瑠璃子の言っていることが嘘なら?」、勅使河原淳一郎は絵里の制止を無視して尋ねた。

「彼女が私に嘘をついて得することは何もないわ」、絵里は強い口調で断言する。

「ならば、君は彼女を信じること」

「もちろん信じるわ」

「君と水沢瑠璃子の波長はぴったり重なっている。一緒にいると振幅が倍になる。一方、水沢瑠璃子と父親の波長は真反対だ。振幅が打ち消されて消え、ノイズだけが残ってしまう」

 勅使河原淳一郎はホワイトボードにサインカーブを描いて説明した。

「それで、どうするの?」

「君と水沢瑠璃子と父親が三人一緒にいると、どうなる?」

「そうか! 父親のいるときに私が瑠璃子の家に行けばいいんだ」、絵里はそう言い残すと、勅使河原淳一郎をほったらかしにして、慌てて研究室を出て行った。


 土曜日の夜。

「おじゃまします」、絵里は背が高く体格のいい目の前の男性に告げる。

 うっ、これはキツい、絵里のアンテナは震えた。この感覚を毎週受けているのだ、と絵里は水沢瑠璃子の心情を察した。

「瑠璃子は二階にいるよ」

 父親は優しい笑顔を絵里に見せた。

「あのー、お父さん、身長何センチですか?」

「え? 178センチだけど……」

 男子たちからは185センチの大男だと聞いている。やはり噂は嘘ばかりだ、と絵里はうんざりする。

 階段を上がると、「るりこのへや」と書かれた木製のプレートがぶら下がるドアがあった。絵里はそのドアをノックした。

 部屋のドアが開き、水沢瑠璃子が顔を出し、いらっしゃい、と愛想悪く言った。父親と一緒なのが嫌なのだろう、と絵里は悟った。絵里のほうは、水沢瑠璃子の部屋に入った途端、さっきまでの息苦しさが消えた。

「おじゃまします。どう、アンテナ?」

「え?」

「息苦しさは?」

「そう言えば、あなたが来てから何ともないわね」

「私の知り合いのインチキ科学者がね。私が中和剤になる、って分析したの。あなたと私は同じ波長で、お父さんとは位相が逆なんだって」

「へぇ。でも、インチキなんでしょ」

「そんなにお父さん嫌いなの?」

「嫌いじゃないわ。だって親子なんだもの。多かれ少なかれ、親って息苦しいものでしょ」

「確かに私もそうだったけど……」

 絵里は昔の自分を思い出す。

「いくら息苦しくても仕方ないわよ。親子の縁は切れても、血の繋がりは切れないもの」

「そうね」

 絵里は返す言葉を探したが、見つからない。

「小さなころね。家族でおばあちゃん家に行ったの。そのとき、お父さんと近所の銭湯へ行ってね。お父さんと男湯に入ったのよ。私は嫌だった。早く出たかったの。するとね、近所の子供らしい兄妹が入ってきてね。お兄ちゃんは私より少し上の、小学校五年生くらいかな。妹は私よりも小さくて。それでね。お兄ちゃんが妹の頭を洗ってあげてたの。でも、妹はシャンプーが目に入って、痛い痛い、って泣くのよ。周りの大人たちは、うるさいなー、って顔で知らんぷりしてたわ。そのときね。お父さん、スーッと湯船から出て、おじさんが洗ってあげるよ、って妹のほうの頭を洗ってあげたの。女の子を仰向けに膝の上に乗せてね。その子、気持ちよさそうにお父さんの顔をじーっと見てた。私のお父さんよ、って嫉妬しちゃったわ。でも、私、そのとき、こういう人になろう、って思ったの。ただの優しい、ただのいい人。それでいいと思わない?」

 絵里はキャンプのときの水沢瑠璃子を思い出した。確かに、周りによく気を遣う「いい人」がそこにいた。水沢瑠璃子が父親を本気で嫌っていないことがわかり、絵里は安心する。


 夕食は水沢瑠璃子の父親が作り、三人で食卓を囲んだ。独自でブレンドした香辛料のカレーライス。水沢瑠璃子がキャンプで作ったレシピだ。食卓では、水沢瑠璃子の隣に父親が座り、彼女の前に絵里が座った。

「瑠璃子が友達を連れてくるなんて初めてだな。絵里さん、ありがとうね」

「いやだ、初めてじゃないわよ」

「男は友達と言わない」

「別にあの人たち、彼氏じゃないわよ」

「だったら何者だ?」

「……親衛隊」

「なんだそりゃ」

「絵里さん、どう思う?」

「あ、あの人たち、ほんとに親衛隊なんです」

「ほうほう。だが、父さんには敵だ!」

 ごく普通の親子にしか見えない。これが自分の中和効果のせいなのか、絵里にはわからなかった。

「母さんが事故で死んでからは、この子には寂しい思いばかりさせてるからね」、父親はぼそっと呟いた。

 絵里は気づいた。事故? 確かに父親は、母さんが事故で死んだ、と言った。噂では「自殺」であったり「父親が殺した」であったり、水沢瑠璃子から直接聞いた話では「病死」であった。どれが真実なのか。絵里は混乱の中で、勅使河原淳一郎の仮説を思い出した。

 もし、水沢瑠璃子が嘘をついているとしたら?

 水沢瑠璃子は父親と腕を組み、頭を父親の肩にもたげた。月曜日のイチャイチャ儀式のように。

 絵里はふと我に返った。見せつけられている。二人に心を読まれている。絵里はアンテナの回線をシャットダウンした。

 夕食後、三人はリビングでくつろいだ。バニラアイスを食べながら。絵里の回線遮断を気遣ってか、ほとんど会話もないまま時間が過ぎた。水沢瑠璃子はよく鼻歌を歌う。彼女の歌声は、リビングルームに落ち着く場所を探して漂っていた。

 夜は更けて……。絵里の寝床は水沢瑠璃子の部屋。水沢瑠璃子は自分のベッドで、絵里は床に敷いた来客用のふかふかの布団で。水沢瑠璃子に借りたパジャマは少し大きかった。絵里はなかなか寝付けずにいた。頭の中では、いつまでも水沢瑠璃子の鼻歌が繰り返し流れていた。女の子の失恋の歌。彼女は失恋をしたことがない。恋すらしたことがないのだから。毎週のように新しい恋をしている水沢瑠璃子のことを、絵里は別世界の人のように感じていた。


 絵里が目覚めたのは、朝の十時。ベッドに水沢瑠璃子の姿はなかった。絵里はパジャマのまま部屋を出て階段を降りた。水沢瑠璃子はすでに着替えてソファーでくつろいでいる。父親はスーツ姿だった。日曜日なのに。

「絵里ちゃん、ごめんね。急な仕事で名古屋に戻らなくちゃいけなくなったんだ。ゆっくりしていってね」

 父親は大きなバッグを抱えて玄関へ急いだ。水沢瑠璃子は見送るでもなく、ソファーから父親に軽く手を振る。玄関のほうからバタンとドアが閉まる音がした。絵里はパジャマ姿のままだったことに気づき、父親に見られたことをあとになって恥ずかしくなり、胸元を押さえた。

「なんだか緊急事態だってさ」

 水沢瑠璃子はそう言うと、ソファーから立ち上がり、隣のキッチンで食器をカチャカチャと鳴らした。

 再びリビングに戻ってきたときには、両手に赤と青のマグカップを持っていた。そして、青いほうをテーブルの絵里の前に置く。

「どうも」

 絵里はマグカップを手に取って、中に入った黒い液体を睨みつけ、一口すすった。苦い。ふと、水沢瑠璃子を見ると、美味しそうにブラックコーヒーを飲んでいる。絵里も平気な顔を装ったが、水沢瑠璃子はその顔を見て、ふふふ、といたずらな笑顔を見せた。だが、シュガーもミルクも持ってくれようとはしなかった。

「ねぇ、おじいさんの家に行かない?」

 絵里は以前のおじいさんの提案を思い出した。

「この前言ってた、赤の他人のおじいさんとおばあさんのところよね。私なんか突然おじゃまして迷惑じゃないかしら」

「大丈夫よ。前にも連れてきなさいって言ってたし」

「うん、なら、私は構わないわよ」

「よかった。私、着替えてくる」

 絵里は水沢瑠璃子の部屋へ戻った。マグカップのブラックコーヒーは半分残してリビングのテーブルに置き去りにした。

 絵里が着替えていると、水沢瑠璃子がノックもなしに部屋に入ってきた。自分の部屋なのだから、ノックをする必要もないのだが……。着替え途中であった絵里は、パニックになって、Tシャツから首を出すのに悶えうごめいた。芋虫の脱皮のように。ようやく皮が剥けたとき、水沢瑠璃子はベッドの上でカバンをゴソゴソとかき回していた。ふと机の上を見ると、置き去りにしてきた青いマグカップが乗っていた。仕方なく、絵里は苦いのを我慢して、ブラックコーヒーを一気に飲み干した。

「あー、美味しい」と絵里は大げさに言ってみた。水沢瑠璃子の反応は、ない。


 絵里と水沢瑠璃子は比嘉のおじいさんの家へ向かった。絵里は水沢瑠璃子の後ろ三メートルほど離れて歩いた。彼女は比嘉宅を知らないのだが、まるで行きつけの親戚宅へ向かうように、迷うことなく道を選んだ。心を読まれているのだろう、と絵里は推測していた。水沢瑠璃子は歩きながら、また鼻歌を歌っていた。

 比嘉宅の門まで来ると、絵里は水沢瑠璃子を追い越して、玄関を逸れて庭へ向かった。

「イチ!」と絵里が声をかける。

「ワン」、イチは一声吠えて絵里の足元に駆け寄った。

「おかえり」

 縁側からおじいさんが顔を出した。

「ただいまー!」、絵里はしゃがんでイチの頭を撫でながら、おじいさんに挨拶をした。

「おやま、べっぴんさんじゃな」、おじいさんは水沢瑠璃子を見るなり、そう言った。

「お友達の水沢瑠璃子さんよ」

 絵里は水沢瑠璃子をおじいさんに紹介した。

「こんにちは」

 水沢瑠璃子は愛想よく、可愛らしく挨拶をした。

「瑠璃子さんかい、おあがんなさい」、おじいさんはそう言うと、家の奥に向かって声をかけた。「おい、べっぴんさんがおふたりお越しじゃ」

 すると、奥からおばあさんが出てきた。「あらま、お人形さんみたいね」

 絵里は、おばあさん、と手を振った。水沢瑠璃子は頭を斜めに揺らせてお辞儀をした。

「お昼は食べたのかい?」とおばあさんは絵里に尋ねた。

「朝ごはんもまだよ」

「あら、急いで用意するわね」

 おばあさんは奥に引っ込んだ。

 イチは絵里からたっぷりの愛情をもらい、満足気にしっぽを振る。次に、水沢瑠璃子の足元に寄り、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。

「イチ、はじめまして」

 水沢瑠璃子はしゃがんでイチの背中を撫でた。すると、イチが気持ち良さそうに寝転んでお腹を見せた。

「なーに、イチ。会ったばかりなのに、もうお腹見せちゃうの?」

 絵里は嫉妬半分、イチに抗議した。

「イチも男の子じゃ。べっぴんさんが好きなんじゃの」、おじいさんが言う。

「おじいさんまで。ふんっ!」

 絵里はふくれっ面で縁側から部屋に上がって奥に消えた。

「おじいさん、お年寄りの女性が好きなものって何ですか?」、水沢瑠璃子は唐突におじいさんに尋ねた。

「ん? そうじゃのー。うちのばあさんは花が好きじゃが」

「北海道におばあちゃんがいるの。夏休みに行くんだけど」

「そうかい、おばあさん、喜ぶじゃろうな。おまえさんの笑顔が一番じゃ」

「うーん。そんなのつまんない。もっとこう、うれしーって感じので……」

 おじいさんは水沢瑠璃子の顔を見つめて考えた。「そうじゃのー。わしら年寄りはもうすぐあっちに行ってしまうんじゃ。いくら高価な物を貰っても、あっちには持っていけん。心に刻めるものを残したいんじゃ」

「そんなの嫌よ。私のおばあちゃんは死なないわ」

「あはは、おばあさんは幸せじゃのー」

 おじいさんと水沢瑠璃子はしばらくの間、そんな風に話していた。

 二人が笑って話していると、何の話? と絵里が現れた。ごはんよ、と呼びに来たのだ。

 夏の初めの賑やかな昼食会は、水沢瑠璃子の提案で縁側にて行われた。おにぎりと卵焼き、お味噌汁、お新香。絵里と水沢瑠璃子は遠足気分でささやかな昼食を楽しんだ。そんな二人を眺めながら、おじいさんとおばあさんはニコニコと微笑んでいた。水沢瑠璃子は比嘉のおばあさんに、北海道のおばあちゃんへのプレゼントは何がいい、と終始相談していた。おばあさんはおじいさんと同じく、あなたの笑顔が一番よ、と答えた。

 昼食の洗い物は水沢瑠璃子が手伝った。おじいさんもおばあさんも水沢瑠璃子を、いい子だ、と褒めていた。絵里はまた嫉妬することとなり、薄汚い雌猫め、と心の中で彼女を罵倒した。彼女に心を読まれることがわかっていながら。


 昼食の片付けが終わると、おばあさんは和箪笥を開けて、何やら物色し始めた。

「あ、私のお気に入りの浴衣!」

 絵里はおばあさんのそばに駆け寄った。

「来週はお祭りだからねー。陰干ししておきましょう」

 おばあさんは絵里のお気に入りを衣紋掛けに通し、鴨居に引っ掛けた。白地に黄色いひまわりの花が描かれた浴衣が、和室の壁の一面を覆う。

「わー、素敵!」

 水沢瑠璃子が胸の前で両手を絡ませ、目を輝かせた。

「瑠璃子ちゃんには、これ。どうかしら?」、おばあさんは畳まれたもう一枚を半分広げ、水沢瑠璃子の右の肩にかけた。

「私も着られるの?」

「昔のだから、地味なのしかなくてごめんね」

 水沢瑠璃子の肩には、藍色とえんじ色の朝顔が咲いてる。

 おばあさんは押入れから針箱を出してきて、朝顔の浴衣を広げ、ちょっと通してみて、と水沢瑠璃子に浴衣を着せた。そして、手際よく寸法を合わせる。絵里はこれから始まるおばあさんの仕事に目を輝かせた。水沢瑠璃子もそれをじっと見ている。

 おばあさんは座布団の上に正座すると、老眼鏡をかけた。針箱から縫い針を出すと、その穴に白い糸を通した。次に、糸の端を親指と人差し指でこすり、玉結びを作る。そして、右手の親指と人差し指で針を摘み、左手の指で玉結びを摘むと、糸をピンと張って、右手の中指でそれを弾いた。おばあさんの針と糸に命が吹き込まれた。針は生き物のように、朝顔の浴衣の布に吸い込まれ、糸が布をつなぎとめる。柔らかな背骨のように。おばあさんは次に、浴衣の別の端を摘み、糸切りバサミを入れる。もう片方の布端を摘んで引くと、古い背骨がするっと抜けた。朝顔の浴衣はふわりと呼吸して重力に従った。そして、おばあさんはもう一度、糸に命を吹き込み、布に新しい骨を入れた。朝顔の浴衣はしゃんとして、新しい主人にアピールしてみせた。

 絵里はおばあさんのこの動作が好きで、終始じっと見ていた。

 おばあさんは浴衣にアイロンをかけ、水沢瑠璃子の朝顔の浴衣が完成した。

「ねぇ、瑠璃子、次の週末、これ着てお祭りに行こう」

 絵里は水沢瑠璃子を初めて、瑠璃子、と呼んだ。水沢瑠璃子は壁の衣紋掛けにかかった朝顔とひまわりの浴衣に見とれて、うん、と愛想のない返事をした。

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