第13話 境界線上に揺らぐ(後編)
例の衰弱死した猫の死骸については、明理とともに死ぬまでの過程を見守っていたのと、体調が悪くなった明理を送るのに時間を使ったせいで(明理は別に送りはいらないと言っていたが、とてもそんなことが信じられる顔色じゃなかった)、時間が遅くなり、また後日処分するつもりで、ガレージに保管していた。
明理はその死骸を黒ビニール袋に入れて持っていったが、俺にもその用途は言わなかった。
確かなことは一つだけ。
明理がその猫の死骸を持っていってから、学校では戸塚さんはひどく落ち込んだ様子で、噂話をする気力もなさそうだった。
いつもしきりに波口さんが慰めていたが、戸塚さんはいつも顔色が悪かった。
明理に何をしたのか聞いても、得意げな顔ではぐらかすだけだった。
明理が猫の死骸を使って何らかの対策を取った三日後、俺はそれとなく直哉に戸塚さんの身に何があったのか、確かめてみた。クラスのほぼ全員と親交がある直哉なら、噂を知っているかもしれないと思ったからだ。
この見立ては当たって、直哉は戸塚さんの家で起きたことについて話をしてくれた。
「あいつの家、親父さんが毎朝車で通勤してるんだ。それで、ちょっと前の朝にいつも通り車に乗って発進したら、何かタイヤで踏んだ感触がしたらしいんだよ。……で、親父さんが見てみると、猫がタイヤの下敷きになって死んでたらしい。朝からタイヤの隙間に猫が入り込んでたんだな」
そして、直哉は狭いところを好む猫が車のタイヤの隙間入り込むことはそう珍しくないという補足説明をしてくれた。
「ふうん……戸塚さんは猫好きみたいだったし、かわいそうだな」
俺は何も知らない風を装って、そう言った。
「まあな」
そう答える直哉の声には感情はこもっていなかった。自分の友達に猫殺しの嫌疑を受けた相手の家が、車で猫を轢き殺したということを、痛快とまではいかないにしろ、同情には値しないと思っているのだろう。
直哉から話を聞いている間、隣の席で教科書を呼んでいる明理が、得意げに笑っているのを俺は見逃さなかった。
その日の学校からの帰り道、明理は得意げに戸塚さんに対してしたことの種明かしをした。
「陽樹から猫の死骸をもらったその日の真夜中にね、戸塚さんの家に行って、こっそりタイヤの隙間に猫の死骸を挟んでおいたんだ。タイヤの跡がついた死骸を見れば、誰だって車で轢いたせいで死んだと思う。普通の人には、轢かれる前から死骸だったかどうかなんて判別できないし」
弾むような足取りで俺の前を後ろ歩きに歩きながら、明理は微笑んでいた。
「ふふっ、いい考えでしょ。事故とはいえ、自分の家の車で猫を殺しちゃったら別の誰かの猫殺しの噂なんて広める気なんて無くなるよ。『こいつ、どの口で言ってんだ』って思われちゃうから。むしろ今は戸塚さんの方が噂される立場になっちゃったね」
「……よく戸塚さんの家がわかったな」
「自分で言ってたでしょ? 陽樹の家の近くだって。それに、私は前までときどきあの辺りに毒餌を置きに行ってたから、『戸塚』って表札を覚えてたんだ」
目的はわかる。それに、その行動に至った理屈も通っているし、実際に狙った通りの効果を得た。
それでも、俺は頭を手で押さえた。
「……無茶苦茶やるよ、まったく」
俺は感心半分、呆れ半分のため息をついた。
よくよく考えたら、こいつは俺が出会う前から一人で豪快に猫の大量毒殺をしていた女だった。
そのネジの抜けたような行動力には目を見張るものがある。
「俺の猫殺しの噂の芽が消えるのは素直に感謝するけど……にしてもやりすぎじゃないか?」
「やりすぎ? そうかな?」
そのとき、明理の笑みの質が変わった。先ほどと同じ、微笑んでいることには違いない。だが、その笑みの奥に、ドス黒い怒りが渦巻いているのが、はっきりとわかった。
「――猫を道路に放って事故を引き起こすような家には、当然の報いだと思うけど」
「…………」
平然と言い放ったその言葉に、俺はしばらく言葉を失う。
以前、戸塚さんが波口さんと交わしていた会話を思い出す。確か、ゴキブリ騒動のあった日だ。明理はその会話を聞いていて、今に至るまで覚えていたのだろうか。
それほどまでに彼女にとって、路上にいる猫は怨恨と憎悪の対象になっていたというわけだ。
「俺が言った『やりすぎ』は、リスクが高くて大胆すぎるって意味なんだけどな……」
「あ、そうなんだ? でも、陽樹のためだったらどうってことないし」
明理は立ち止り、俺の方を見ながら言った。
「これでわかったでしょ? 私は陽樹と同じ側の人間なんだよ。昔は育音の側の住人だったけど……今の私は境界線のこっち側。陽樹の――猫殺しの側の住人」
少し照れたように明理は言う。
「だからさ、陽樹。私はどんなときでも陽樹の味方だよ。土野くんみたいに、本心を隠して仮面を被って付き合わなきゃいけないような上辺だけの友達じゃない。本当の友達。……少なくとも私は、そうなりたいって思ってるんだけどな」
明理のその言葉で、俺は明理がここまで大胆な行動を取った理由に思い至った。
明理は瀬田山先輩のことを――かつての友達のことをふっ切ろうとしているんだ。
そして、本気で友達になろうとしている。猫殺しの俺と。
そんな明理のストレートな態度に俺は思わず頬をほころばせる。
「もうなってるだろ……友達くらいには」
俺がそう答えると、明理は一瞬驚きの表情を浮かべた後、顔を赤くした。
「え? 嘘、これ本当? 陽樹が友達だって言ってくれた。あのひねくれ者の陽樹が!」
「誰がひねくれ者だ……」
「や、やばい……予想してたより超嬉しい……! これがデレ期ってやつ?」
明理はまるで夢見心地の様子で、自分の頬をつねっている。
「まあデレ期かどうかは知らんけど、とりあえずお前には助けられたわけだしな……お礼に何かおごってやるよ。今日は猫殺しは休みだ」
「え? それなら私、ドーナッツ食べたい! 駅前のドーナッツ屋さんの新商品、砂糖マシマシ蜂蜜生クリームドーナッツ!」
「何だそのクソ甘そうなドーナッツは……」
その日の放課後にわかったことは、明理は猛烈な甘党だということと、うかつに明理に「おごってやる」なんて口走ると財布に大ダメージを受けるということだった。
それでも、心の底から嬉しがっている明理を見ていると、心が和らぐような気がした。まるで、久しぶりに……いや、初めて心を許せる友人ができたようで。
だが、その一方で俺の心にはまるでトゲが刺さったような違和感があった。そのトゲとは言うまでもなく、かつての明理の友達――瀬田山育音のことだった。
財布に大ダメージを受けたドーナッツ屋から帰り、俺は家の玄関を抜け、廊下を歩いていく。
もともとは家族三人で暮らしていた家だ。明理が来ないと途端に寂しくなる。
今まではそんなことはなかったのに、急に家族三人で暮らしていた日々のことを思い出す。
キッチンではおかしくなる前の母さんが料理を作り、玄関からは仕事帰りの父さんの「ただいま」という声が聞こえてくる。もう父さんが逃げるように海外に赴任してから電話ですらろくに会話を交わしていない。今、父さんが帰ってきても、顔すら思い出せないかもしれない。
猫殺しになったことに後悔はしていない。俺はどうしても知りたいからだ。殺していい命と殺してはいけない命、その境界線がどこにあるのかを。
それでも、俺たちの一家が――少なくとも、表面上は幸せに見える一家が崩壊したのは、俺のせいであることは確かだった。
小学生のころ、俺が猫を殺していることを知った母さんは俺を虐待するようになり、ついには発狂した。
すっかり変わってしまった母さんのあの顔は今思い出しても恐ろしい。
だが、それよりも恐ろしいのは――その虐待を止めようともせず、実の子である俺のことを不気味なものでも見るかのように見ていた父さんの顔だった。
自分の部屋に入り、ベッドへと寝転がる。
思考を中断しようとしても、一度回り始めた歯車は止まらない。
もしも明理が猫殺しであることを知ったら、親友だったという瀬田山育音も、明理に同じような目を向けるのだろうか。
あるいは――と。
俺は強いて考えないようにしていたことへと思考を進めてしまう。
瀬田山育音なら……彼女なら、まだ彼女を『まとも』な人間へと引き戻せるのではないだろうか。
一方ではゴキブリを躊躇なく潰して殺し、一方で猫の死に心痛めるような『まとも』な人間へと。
そして、それこそが明理にとってよいことなのではないだろうか、と。
俺にはもうそんな『まとも』へと引き戻してくれるような人間はいない。
母さんは精神病院で、父さんは遠い海外に逃げた。少し前までは、明理も似たような状況だと思っていた。
だが、彼女にはまだ親友が――瀬田山育音がいる。
それならまだ、チャンスはあるのではないだろうか?
俺の思考はそこで携帯電話の音に中断させられた。身体を起こすと、机の上で携帯電話が鳴動し、そして鳴り止んだ。
俺は気だるい身体を動かして、机へと歩いていき、携帯電話を見る。
そして、画面に表示されているのがいつも連絡に使っているメッセージアプリではないことに気づく。それは、『迷い猫情報募集』のために作ったSNSのアカウントに届いたメッセージだった。
すぐにそのメッセージを確認する。
『迷い猫情報募集の画像を見て連絡させていただきました。同じ猫かどうかはわかりませんが、数日前、東公園近くで似たような猫を見ました。そのとき画像を撮ったので添付いたします。お宅の猫ちゃんが早く見つかることを祈ってます』
本文の内容通り、メッセージには画像が添付されていた。それを開くと、そこには公園のベンチの上を歩く三毛猫の画像が表示されている。
その猫の模様は、明理が描いたあのイラストそのままだった――。
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