第12話 境界線上に揺らぐ(中編)


 そのときは軽く流した『友達』という概念について、再び突きつけられることになるのは奇しくもその翌日のことだった。


 一日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、クラスメイト達が下校の準備を始める。


 だが、一部の生徒たちは気だるげに掃除用具入れへと向かっていく。この鈴菜高校では、一日の終わりのホームルームが終わった後、当番制で5、6人程度の生徒が自分たちの教室の掃除をする決まりだ。


 廊下やトイレは業者が掃除しているが、教室くらいは生徒たちが自分で――という方針らしい。


 そして、今日は直哉もその掃除当番に入っていた。


「はぁ……掃除当番かよ、面倒くせえ」


 直哉は愚痴りながらも率先して掃除用具入れへと向かっていく。


 口では愚痴りながらも、直哉は掃除をサボったことは一度もない。直哉は軽薄そうにふるまっているが、根が真面目なのだろう。ただ、本人が真面目に見られることを嫌っているだけだ。


「じゃあ、直哉。また明日な」


「おう。じゃあな。それから高坂さんも」


 直哉はほうきを片手に持ちながら、俺と明理に手を振った。留年生としてクラスから浮きがちな明理にも、直哉がそうやって声をかけることで明理は何とかクラスに溶け込むことができていた。


 直哉は明理の話し相手としてダウナー系の俺に白羽の矢を立てたが、やっぱりそういう気配りがうまいのは俺より直哉の方だ。


 それでも、明理は直哉に対して小さく手を振るだけだった。


 どうも、明理は直哉を避けているらしい。


「おまえ、直哉とあんまり話したがらないよな。苦手なのか?」


 廊下を歩いていく途中、俺は軽い気持ちで聞いてみた。


 別にそうだからといって驚くには当たらない。直哉自身が『周波数が違う』と言っていたのだから。それが正しかっただけだろう。


 しかし、明理は首を横に振った。


「違うよ。別に嫌いなタイプってわけじゃない。ただ、ちょっと怖いだけ」


「怖い?」


 首を傾げる。


 直哉は親しみやすくて人好きのするタイプだ。怖がる要素なんて少しもないように思えるが。


「いい人だから……だから怖いの。陽樹は怖くないの? 土野くんは、陽樹の秘密を知らない……普通の人なんでしょ?」


 不安そうに訊ねる明理の言葉で、俺は「ああ、そうか」と納得する。


 そういう意味での怖さということか。明理は猫殺しになって一年も経っていない。『まとも』な人間に恐怖を覚えるのは当然だ。


「別に。俺は嘘や誤魔化しが得意だ。知ってるだろ?」


「でも、もしも土野くんに知られたらどうするの? 仲良くしてた分、軽蔑されたらダメージが大きいんじゃ」


「ダメージなんてないさ。俺は本心では直哉のことを友達なんて思ってない。心を許してない。上辺だけの付き合いだ」


 そうでなければ、とても『まとも』な人間の代表格である直哉と笑い合ったり、雑談に興じたりなんてできない。


 小学生のとき、猫殺しを知られて友達だと思っていた相手が離れていってから、俺は本当に心から友達だなんて思える存在を作ったことがない。


「でも……」


 明理はどうも心に引っかかる点があるようだ。


 その原因はわかりやすい。先日、かつて友達だった瀬田山先輩と再会してから『友達』ということにこだわっている。


「変なこと言って悪かったな。この話は終わりだ」


 自分から出した話題を、自分で打ち切る。


 明理に対して瀬田山先輩のことを思い出させるようなことをするのはうまくない。先日の明理の苦悩を見た俺は、そう判断した。


「うん……そうだね、私こそ変なこと言ってごめん」


 明理も素直にこの話題をやめた。


 生徒用玄関へとやってきた俺たち二人の間には、無理やりに話題を終わらせた後特有の沈黙が満ちていた。


 だが、その沈黙のおかげで俺はふと忘れ物をしていることに気付いた。


 何となく違和感を覚え、鞄のジッパーを開けて確かめる。


「参ったな。筆箱を教室の引き出しに入れたまんまだった」


「筆箱?」


「ああ。ちょっと取りに行ってくる」


 別に筆箱くらい持ち帰らなくても家に文房具はあるが、今日はノートに英語長文の訳を書くつもりだった。そして、筆箱の中に入っている千円もした製図用のシャーペンは手が疲れにくくて愛用している。


 俺が行こうとすると、「私も行くよ」と明理もついてきた。


 やはり、瀬田山先輩と再会してからだが、明理はいつも俺と一緒に行動をしようとする傾向にあった。必要以上に。


 明理は表に出さないようにしているようだが、その微妙な変化は俺には明らかだった。


 明理とともに廊下を歩き、教室の前までやってくる。掃除はまだ続いているようで、中からはほうきで床を掃く軽い音が聞こえていた。


「そういえばさぁ、うちの近所でよく猫の死骸が見つかるんだよね、最近」


 普通にドアを開けて教室に入ろうとしたとき、俺は中から聞こえてきた声で手を止めた。


 ドアから離れ、教室の中の会話に聞き耳を立てる。明理もまた、先ほどの声が聞こえていたらしく、息を潜めている。


 俺はドアについたガラス窓から教室内の様子をうかがう。


 どうやら、教室のドア近くで二人の女子生徒が話しているらしい。それはこの前のゴキブリ事件のときに真っ先に大騒ぎをした、波口さんと戸塚さんだった。


「死骸って? 交通事故とかの?」


 波口さんはほうきを申し訳程度に動かしながら、少し嫌悪感を表しながら言う。


 それに対して、戸塚さんは教室の壁に背を預けながら、いかにもサボっている様子を隠さずに答える。


「うん、うちの親とかもそう言ってるんだけど、な~んか多い気がするんだよね。私、月一くらいの頻度で猫の死骸発見するんだよ」


「うわ……それは多いね」


「それでさ……私の部屋の窓からだと道路が見えるんだけど……夜によく道を通ってる奴がいるんだよね」


「誰が?」


「驚かないでよ? 何と、このクラスの奴なんだよね」


「え……何それ、怖い……」


「それがさぁ……小川陽樹なんだよね。私、近くに住んでるんだけどさ」


 その名前が出た途端、背後で明理が身を固くするのがわかった。


「え? 小川くん? マジで? でも、偶然じゃない? 夜にコンビニとかさ……普通に行くでしょ」


 波口さんは驚いた様子で戸塚さんに言う。


 ただ二人の話に聞き耳を立てる。それがただの根拠のない噂話として放っておくべきものか、対処するべき問題かを考えている。


 実際のところ、俺は家の近所に猫の死骸を捨てることはあまりない。ましてや、月一で同じエリアに死体を捨てることなどない。


 だから、戸塚さんが月一で見るという猫の死骸はマジでただの交通事故か病死、餓死だろう。あの辺りの野良猫の数から考えれば別に不思議な話でもない。猫が好きな人は、野良猫の死を「何者かの悪意がなければ絶対に起こらない悲劇」だと考えている。だが、路上での野良猫の死なんてのはありふれた日常茶飯事であり「滅多に起こらないこと」だと考えるのはただの願望からくる幻想にすぎない。


 問題は、たとえ疑惑の発端が勘違いからだとしても、俺が猫殺しだというのは事実だということだ。


 戸塚さんがベラベラと噂を流せば、これから動きにくくなるだろう。


 さて、どうしたものか……


 俺が思案していたそのとき、二人の元へ歩いてくる足音がした。


「よう、そこの女子二人。掃除サボって何か面白そうな話してるじゃねえか」


 二人の噂話に割って入ったのは直哉だった。


 波口さんと戸塚さんの二人は驚いたように振り返った。


「うわっ、土野じゃん。びっくりさせないでよ。小川かと思ったじゃん」


 戸塚さんは動揺を取りつくろうようにわざとおどけた調子で言った。


「くっだらねえ噂流してんじゃねえよ、戸塚。陽樹が猫を殺してるって言いたいわけか?」


 直哉はいつもの軽い口調だったが、明らかにその言葉には怒りが滲んでいる。


 それを察してか、波口さんの方は萎縮したのか気まずそうに眼を逸らしている。


 だが、当の戸塚さんはというと、かえって意地になったようだった。


「土野さぁ、よく小川とつるんでるよね? ぶっちゃけどうなの?」


「ちょっと……」


 波口さんが咎めるように声をかけるが、戸塚さんは手を払うような仕草をしてそれを遮った。


「波口は黙ってて。ねえ、土野。どうなの? あいつ、真面目そうな顔してるけど、私はけっこうああいう奴ほどヤバイことやってるもんだと思うけどね」


 戸塚さんの挑発するような言葉に、直哉はため息をついて首を横に振った。


 そして、戸塚さんをまっすぐに睨みながら言う。


「ふざけんな。この際言っとくけどな、陽樹はいい奴だ。猫を殺すなんて最低なことをするような人間の屑じゃない」


 人間の屑――その言葉を聞いた瞬間に俺は、心臓に冷水を注ぎこまれたような気分がした。


 直哉は俺のことをかばってくれようとして言っている。それはわかっている。だが、実際のところ、直哉の言葉は直接罵倒する以上に効果があった。


 ――猫を殺すなんて最低なことをするような奴じゃない。


 わかっていたことだ。さっき明理に行ったばかりじゃないか。直哉は俺といつも友達のように接してくれているし、そう信じていることだろう。俺も表面上は友達として振る舞っていた。


 だけど、俺と直哉は根本的に違う。直哉は『まとも』な側の人間だ。ゴキブリを平気で殺しながら、猫を殺してはいけないと何の葛藤もなく命の境界線を引くことができる側の人間だ。


 そして、俺はそんな『まとも』を理解できない側の人間だ。


 最初から俺たちは友達じゃなかった。ただの上っ面だけの関係で、お互いに理解などしていなかった。


 気にするな、こんなことは今までにいくらでもあった。ショックでも何でもない。いつもと同じように、何事もなかったかのように仮面を被ればいい。それだけのことだ。俺は自分に言い聞かせる。


 そうやって、俺は大して今の出来事を大したダメージも無く心に刻むこともなく、忘れ去ろうとする。ちょうど、いつもそうしているように。


 だが、いつもと違うことが一つだけあった。


 それは、俺の制服の袖を引っ張る人間がそばにいたことだ。


「陽樹、帰ろ。ここにいても、いいことなんて何もない」


 明理は小声で、だけどいつになく真剣な口調で言った。そして、俺の腕を掴むと、無理やり引っ張っていく。


 俺は手を引かれながらも、教室の方を見ていた。今日は製図用シャーペンは諦めよう。家にあるシャーペンで英語の長文を訳すとしよう。


 明理は生徒用玄関まで俺を引っ張っていった。俺の腕を掴む明理の手は、徐々に力が強くなっていくような気がした。


「明理、痛いぞ」


 俺が言うと、明理ははっとしたように俺の腕から手を放した。


「……ごめん。ちょっと我を失ってた」


「何怒ってんだよ。言っておくけど、俺は別に何もショックなんて受けてないぞ」


 俺が呆れながらいうと、明理は俺の顔をまじまじと見つめた。


「本当に? でも、涙出てるよ」


 言われ、とっさに手で顔を確かめる。目元に手を当てても、乾いた感触が伝わるだけだ。


「出てないじゃねえか」


「うん、嘘。でも、確かめたってことは『泣いてるかも』って自分で思ったってことでしょ」


「…………」


「陽樹は、嘘をつくのが上手だね。上手すぎるよ。自分自身まで騙しちゃうくらい」


「……何が言いたいんだよ」


「私は陽樹よりも泣き虫のプロだってこと。陽樹自身がわからなくても、泣いているの我慢しているの、わかるんだから」


 明理は「チッチッチ」と言いながら指を横に振る。


 俺は明理のその言葉を不思議と否定する気にはならなかった。


 俺が泣いている? そんなこと、バカバカしい。そう思っていたのに、言葉にならなかった。


「……それより、戸塚さんをどうするかだな」


 俺は強引に話題を変えた。


「うん。あんな風に噂をバラまかれたら、陽樹が動きにくいよね」


 明理の方もそれを当面の問題だと受け取っているらしい。


 だが、何か対策をするにしても、俺が動くと藪蛇になりかねない。となると、明理に何とかしてもらうしかないわけだが……


 俺が不安げに明理に視線を向けると、彼女はにやりと笑った。


「ねえ、陽樹。昨日のあの猫の死骸、まだあるよね? 私に任せてくれないかな」


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