第11話 境界線上に揺らぐ(前編)
瀬田山先輩と初めて出会った日から一週間。
明理はほとんど毎日のように放課後になると俺の家に来た。
俺の家でやることは、裏の空き地に設置した捕獲器に野良猫がかかっていると『練習』を行うか、獲物がかかっていないときは例の迷い猫について情報のメールが来ていないか確認するかの二通りだった。
今日は前者だった。ちょうど明理と二人で学校から帰ってきたところガシャン、と捕獲器の扉が落ちる音がした。
家の裏へと回って確かめてみると、一匹の黒猫が捕えられたことにも気付かずに餌を貪っていた。
そして、いつも通りの流れでガレージに猫を連れて行き、明理の猫殺しの『練習』を始めたのだが――。
「うぶっ……うっ、おえええっ! げほっ、げほっ!」
薄暗いガレージの中に明理の嘔吐の声が響く。
その手にはナイフを持ち、目の前には黒猫がガムテープで手足を縛られて横たわっている。
今回捕獲した個体は成猫の割にはひどく大人しかった。人に慣れているから……ではないだろう。その毛並みはひどく悪く、顔にえぐれるほどに傷がついている。縄張り争いで負けた老猫だろう。傷口が化膿していて、酷い臭いを放っている。
もしかしたら手足を縛る必要さえなかったかもしれない。それほどに抵抗の少ない猫だった。
だが、それでも明理に殺せるかどうかとなると問題は別だ。
身体をくの字に折り曲げ、嘔吐をする明理。
それでも彼女はナイフを手に持ち、頑なに放そうとしない。
見かねて、明理の背後に近付いた。
「今日はもうこのくらいにしよう」
「陽樹……うん、わかった……ごめんね……」
明理はひどく申し訳なさそうに謝る。その表情は憔悴しきっていて、見ているこちらが後ろめたさを感じるほどだ。
「私、ダメだね……こんなんじゃ、いつまで経っても猫を殺せないし」
以前は少なくとも、猫にナイフを振り上げるまでは行けた。
だが、今回は明理はナイフを手に取っただけで嘔吐を催してしまった。練習によって慣れるどころか、かえって後退している。
その原因は恐らく精神的なものだろう。
「……瀬田山先輩のことを思い出したのか?」
言うまいとしていた言葉が、ほとんど無意識のうちに俺の口をついて出た。
瀬田山先輩の名前を出した途端、明理は身を硬直させたようにして、驚きの目を俺に向ける。
それから、険しい目で俺を見つめる。
「何でそこで育音の名前が出てくるの? 全然意味わかんないし!」
明理にしては珍しく怒っているようだ。
だが、その反応こそが図星だということを如実に語っていた。
「動揺してるんだろ。瀬田山先輩と会ってから。一度くらい、きちんと話した方がいいんじゃないのか? 一年前の事故から話してないんだろ?」
「大きなお世話だし。何で陽樹にそんなことを心配されなきゃいけないの?」
「だって……友達なんだろ?」
「友達『だった』が正解。今はもう違う。それに、もう向こうがどう思ってたって、私は友達面なんてできない。だって私は猫を憎んでるから。殺したいくらいに!」
声を荒げ、明理は俺に背を向ける。
そして、床に転がる黒猫へとナイフを振り下ろした。
一瞬の沈黙があった。明理はナイフを振り下ろした体勢のまま、微動だにしない。
明理の背中が陰になって、俺の位置からは黒猫が良く見えない。
殺したのだろうか――そう思ったとき、黒猫の弱弱しい鳴き声がガレージ内に響いた。
顔の傷が口にまで及んでいるのか、ひどく掠れた鳴き声だった。
歩いて明理の横へと移動すると、ナイフは猫の腹の直前で止まっていた。
ナイフを握る明理の手は震えている。懸命にナイフを動かそうとしているが、恐怖がそれを押さえつけているようだ。
「今日はもういい。休もう」
明理の手に手を伸ばし、ナイフをひっこめさせた。そして、脱力した明理の手からナイフを取り上げる。
「うぅ……!」
とたんに明理がその目から涙を流し始めた。
顔をくしゃくしゃにしてその手で涙をぬぐうが、それでも涙はとめどなく溢れてくる。
肩を震わせ、しゃくりあげる明理。
俺はその肩に手を伸ばし、身体を抱き寄せた。
「あ、ああ……陽樹……私、やっぱりダメだ……育音の顔が頭に浮かぶの。お父さんとお母さんが死ぬ前、一緒に猫のことを話して笑ってた育音の顔が……!」
決壊したダムのように明理の喉から言葉が溢れてくる。
俺はそんな明理の身体を強く抱きしめる。
「私、どんな顔して育音に会えばいいかわかんないし……! 私が猫を殺そうとしてるって知ったら……ううん、私が今までに何匹も猫を毒殺してきたって知ったら……育音がどんな目で私を見るか……それが怖い……!」
明理はすがりつくように俺の服を手で掴む。彼女の頭を、俺はなだめるように手で撫でる。
「悪かった、明理。もう瀬田山先輩の話はしない」
それでも、しばらくの間明理は泣きじゃくり続けた。
数分の後、何とか落ち着いたらしい明理は泣き腫らした眼をしながら、俺の身体から離れた。
「ごめん……ありがと。もう大丈夫だから」
明理のその声はまだ弱弱しかったが、それでも少しは元気を取り戻したようだった。
「今日のところはこれで終わりにしよう」
床に転がった黒猫に近づいていき、そのテープをほどいた。
ガレージのシャッターを少しだけ開けてやると、黒猫は外へとよたよたと歩いていった。その歩き方を見て初めて、どうやらその猫が足を怪我しているらしいことに気付く。
命が助かって運のいい猫だ――とは思わなかった。
あの様子では長くは持たないだろう。
また他の猫との争いでなぶり殺されるか、あるいは化膿した傷口から病気に感染して野たれ死ぬか……最大限に運が良くても餌を狩れずに餓死が関の山といったところだ。
この鈴菜沢市は条例によって行政による野良猫の殺処分がほとんど行われていない。だが、たとえ処分されないとしても結局路上で野良猫が野垂れ死ぬ運命には変わりない。
ただ病死や餓死なら、人間が手を汚さずに済む。それだけの話だ。
その猫の結末を想像しているのか、明理も気分が悪そうに黒猫が去って行ったシャッターを見つめている。
「今日も送っていこうか?」
訊ねると、明理は首を横に振った。
「平気だよ。今日は猫が死ぬところを見たわけじゃないし……心配してくれてありがとう」
それから、明理は少し気恥ずかしそうに顔を赤らめた。今さら、さっき俺の身体にすがりついたことを思い出しているのだろうか。
「ねえ、今更こんなこと聞くのも何だけどさ……私たち、友達だよね……?」
少し不安そうに明理は訊ねた。
「……一般的には『共犯者』じゃないか?」
答えると、明理は怒ったように眉根を寄せた。
「もう! 一般論じゃないよ。聞きたいのは……陽樹がどう思ってるかってこと」
どうやらはっきりと答えないと逃がさないつもりらしい。
今度は俺の方が照れ臭くなる番だった。
明理の目から視線を逸らしながら俺は答える。
「まあ、一般論はともかくとするなら……客観的に見ればやっぱり共犯者じゃないか?」
「もう! 一般的にー、とか客観的にー、とかじゃないし! 陽樹がどう思ってるかってことだよ!」
明理はムキになってしつこく質問してくる。
友達であるかどうかなんて、いちいち言葉で確認するようなものじゃない。それでも、明理は確かめたかったのだろう。
この一年間、彼女は誰にも秘密を話せず、孤独に生きてきたのだから。
「ま、まあ……そのうち考えておくよ」
明理は俺の答えにいつまでも不満げな顔をしていた。
「むー……絶対いつかはっきりさせてやるし」
別れ際の明理の言葉には決意がにじみ出ていた。
そして、明理がガレージから出ようとしたときのことだ。
「あ……」
ふと、明理はガレージの外で声を上げた。
俺も外に出ると、夜の闇にまぎれて先ほどの黒猫が倒れている。その口からは掠れた呼吸が漏れ、目はあらぬ方向を向いている。
どうやら、死の淵に瀕しているようだ。俺たちがわざわざ手を下さなくても、既に飢えと病で限界だったらしい。
「明理、見るな」
俺はとっさに明理の手を掴んで後ろに引いた。明理の顔が蒼白だったからだ。
「ううん、見る。我慢するから……」
だが、明理はそう言って死にかけの猫を見つめていた。
その顔には、決意が滲んでいた。
結局、猫が完全に絶命して動かなくなった後も、明理は猫を見つめ続けていた。今度は嘔吐することはなかった。
ゆっくりと……だが確実に、明理は猫の死に慣れていっている。このままいけば、やがて俺と同じように猫を自分の手で殺せるようになるだろう。
それは喜ばしいことのはずだ。それなのに――何故だか俺は、そのことを素直に喜べなかった。
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