第8話 ナイフと、血と、臓物と

 俺が明理と仇の猫を殺す協力を約束した日から二日後の土曜日。


 これからの計画を相談するため、俺は明理を家に呼び出していた。


「……それで、背中にかけてこんな感じの模様があって……口の辺りに黒い斑があったのは覚えてる」


 俺の家の俺の部屋。


 本棚と勉強用の机、それからベッドと一台のテーブルがあるだけの殺風景な部屋だ。


 この部屋には今まで誰も人を呼んだことがない。


 母さんが精神病院にブチ込まれ、父さんが俺から逃げるように海外赴任してしまってからは家族でさえ足を踏み入れたことがない。


 そもそも、この家のガレージでいつも猫を殺しているのに家に人を呼ぶような神経の図太さは俺にはない。


 だから、この部屋に俺以外の人間――明理がいるという光景は奇妙な気分だった。


 明理はテーブルの上に一枚の紙を置き、集中して猫の絵を描いていた。


 様々な方向から描かれた、赤い首輪をした三毛猫のイラスト。


 それが明理が目撃した、両親の死の原因となった猫の姿だという。


 俺はベッドの縁に座りながら明理がそのイラストを描いている様子を眺めていた。


「うん、大体こんな感じ」


 そう言って、明理は紙を俺に見せる。


 そのよく特徴を捉えた写実的なイラストを見て、俺は感心した。


「なかなか上手いな。絵心があるじゃないか」


「別に……ただ事故のときの記憶が頭に焼きついてるだけだし。褒めても何も出ないから」


 俺が素直に褒めると、明理は照れながら目を逸らした。


 相変わらずごまかすのが下手な奴だ。


 あるいは褒められるのに慣れていないのかもしれない。


 明理から紙を受け取り、その猫の特徴を頭に刻み込む。


 こいつが、明理の両親の仇。


 俺たちが殺すべき猫。


「それで……今のところ、この猫の手がかりはないんだな?」


「うん。両親が死んでから一人で近所を探してみたんだけど、全然。この街、ただでさえ野良猫が多いし。わかってるのは、交通事故が起きた場所だけ」


「交通事故現場の周辺は探してみたのか?」


「何度も。でも、その猫は見つからなかった。どこか別の場所に行ったんだと思う」


「おかしいな。猫の行動範囲はそこまで広くないはずだ。人からエサをもらって飼われてる猫ならなおさらだ」


「もしかして放し飼いじゃなくて迷い猫や捨て猫……だったのかな?」


 不安そうに明理は言う。


「どうだろうな。ただ、確かなのは交通事故が起きたときはその周辺に生息してたんだろう。そして、今は飼い主のもとに戻ってるか、他の飼い主に拾われたかして移動したんだ。だから、今ごろ交通事故現場の周辺を探しても見つからないんだ」


「だったら、見つけるのは難しいよね」


「まあな。一人じゃできることには限界がある。でも、二人なら」


 その言葉に、明理は不安げな顔をして俺を見つめる。


「協力をお願いしておいてこんなこというのはアレなんだけど……二人で協力したところで見つけられるのかな?」


「心配するな。その点については俺に考えがある。この絵、借りてもいいか?」


 明理は怪訝そうな表情を浮かべている。


「別にいいけど、いったい何に使うつもり――」


 明理が質問しようとした、ちょうどそのときのことだった。


 家の裏側からガシャン、という微かな金属音が鳴り響いた。


 続いて猫の興奮した鳴き声が聞こえてくる。


「今の音は?」


「裏の空き地に捕獲器を仕掛けてるんだ。野良猫がかかったみたいだな」


 答えながらベッドの縁から立ち上がる。


 そして、部屋の出口へと歩いていく。


「どこへ行くの?」


「おまえも来るんだよ。言っただろ? 復讐はおまえが自分の手でやるって。その『練習』だよ」


 明理は意味が飲み込めないのか、まだ怪訝な顔をしていた。


 うす暗いガレージの中に金属製の捕獲器が置かれている。


 その中にはぐったりとした白猫が横たわっている。


 体力を奪うために既に水責めをしておいたのでその体毛はびしょ濡れだ。


 俺が捕獲器の扉を開けても、逃げ出す気力もないのか白猫はただ恐怖の混じった目で睨みつけるだけだ。


 白猫の襟首を掴み、捕獲器の外側へと出す。


 そして、予め敷いておいた新聞紙の上へと運ぶ。


 既に抵抗しようとする気配さえ見せないが、俺は念には念を入れてガムテープで白猫の前足と後ろ脚を縛る。


 そして、完全に身動きのできない状態になった白猫をガレージの床に置き、一部始終をガレージの隅から見ていた明理へと向き直った。


「さあ、この白猫を殺すんだ」


 俺が言うと、明理は信じられないものを見るように俺を見た。


 そして、ガレージの床の白猫と俺とを交互に見る。


「こ、殺すって……私が?」


「当たり前だろ」


 そう言って、手に持ったナイフを差しだす。


 明理はごくりと唾を飲み込んでナイフの刃を見つめていた。


 ナイフはガレージ内の淡い電灯の光を反射して、妖しく銀色に輝いていた。


「私……できるわけない。言ったでしょ? トラウマだって」

「今まで、猫を殺してみたことあるのか? 毒じゃなくて自分の手で」


「ないけど……」


「だったら、試してみるのもいいんじゃないか? おまえのトラウマ――生き物の死を見れないっていうのはどの程度のものなのか知っておきたい。もしかしたら、やってみればすんなりいけるかもしれないぞ? 他の生き物はともかく、猫は両親の仇だろ?」


「それは……ううん、わかった。私、やってみる……!」


 しばらく明理は躊躇していたものの、俺の手からナイフを受け取る。


 そして、白猫へと歩いていき、ひざまずくようにして逆手にナイフを構える。


 その切っ先は白猫の心臓へと向けられている。


「はあ、はあ……!」


 明理の荒い呼吸がガレージの中に響く。


 ナイフの切っ先は震え、定まっていない。


 明理の顔には大粒の汗が伝い落ちていた。


 それでも、明理は意を決したように表情を引き締めると、ナイフを逆手に振り上げた。


 だが、その瞬間、猫が怯えたように鳴き声を一つ上げる。


 それだけで明理は身体をこわばらせて手からナイフを取り落としてしまう。


 ガレージの床にナイフが転がる空しい音が響く。


 明理はしばらくの間荒い呼吸を続けていたが、やがて「うっ」とうめき声を上げる。


 そして、立ち上がってガレージの隅へと走っていく。


 そこには、水責めに使ったバケツが置かれていた。


 彼女はそこで身体をくの字に折り曲げて嘔吐を始める。


 吐瀉物がビチャビチャと音を立ててガレージの床を叩く。


「大丈夫か?」


 俺は明理のそばへと近づき、背中をさすってやる。


「ありが……とう……うぷっ……」


 明理は何度も何度も、胃袋の中のものを吐きだした。


 酸っぱい匂いが立ち込め、明理の口から胃液だけが出るころになってようやく嘔吐は収まった。


「ごめん……私、やっぱりダメみたいだし……自分の手で生き物を殺すのを想像しただけで、両親のことを思い出して……」


「そうか。いや、謝るのは俺の方だ。どうもおまえのトラウマはかなり重いらしい」


 明理の背中をさすりながら俺は彼女を気遣う。


 明理はゆっくりと深呼吸をすると、落ち着きを取り戻したようだった。


「ふふっ……こんなんじゃ先が思いやられるね」


 明理は自嘲気味に笑う。


 しかし、この様子を見るとよほどトラウマは根深そうだ。猫なら憎悪によって殺せるかもしれないと考えたが、浅はかだったらしい。今の明理の反応は、先日ゴキブリが死ぬのを見たときよりも酷い。


 少し考えた末、俺は口を開く。


「なあ、明理。どうしてもっていうなら、やっぱり俺が――」


「やめて」


 俺の言葉に先んじて、明理が遮る。


 その目からは固い決意が見て取れた。


「陽樹も言ったはず。私がやらなきゃ、復讐の意味がないって」


「……わかった。でも、焦る必要はない。まだ仇の猫がどこにいるのかさえわかってないんだ。ゆっくり練習すればいい」


 そう言って、俺は明理のそばから離れ、床に転がる白猫へと近づいていく。


 そして、猫の前脚と後ろ脚を縛るテープをほどいていく。


「その猫、逃がすの?」


 背後から明理がそう質問する。


「ああ。今日は練習はもういいだろ」


「私、陽樹が猫を殺すところが見たい」


 驚いて俺は明理の方を振り返る。


 嘔吐は落ち着いたものの、まだ顔色は青いままだ。


「それって大丈夫なのか? 生き物が死ぬのを見るだけでもキツいんだろ?」


「それでも自分で殺すよりはまだセーフ……だと思う」


 そういう問題ではないと思ったが、明理の視線には鬼気迫るものがあった。


 明理は両親の仇を取るために本気でトラウマを乗り越えようとしている。


 その決意に俺も応えてやらなければならない。

 そんな使命感が俺の心に満ちた。


「わかった。そこまで言うなら」


 ガレージの床に転がったままのナイフを手に取る。


 白猫が暴れないように膝で首を押さえ、体重をかける。


 そして、その切っ先を白猫の腹へと向けた。


 ナイフの切っ先を白猫の腹へと触れさせ、さらにゆっくりと力を込めていく。


 白猫は異変を悟ったのか脚を動かすが、水責めで体力を失われていているために抵抗はできない。


 やがて、ナイフの先に感じていた弾力が失われ、切っ先が皮膚へとめり込む。


 しばらくしてナイフを刺した部分から真っ赤な血が溢れ始める。


 赤い血は白い体毛にひどく鮮やかに見えた。


 まるで真っ白なキャンバスに赤い絵の具を一つ垂らしたかのようだ。


 そのまま、ナイフを深く刺しすぎないように注意しながら切っ先を白猫の胸の方へと移動させていく。


 切っ先は内臓を傷つけないまま肉だけを切り裂き、胸にまで到達する。


 肉の切れた間からピンク色の内臓がゆっくりと出てくる。


 筋肉によって体内に収められていた内臓が、圧力を失ってボドボドと傷口からこぼれ出してきた。


 白猫は口を開け、か細い呼吸のような鳴き声を上げている。


 脚を動かすこともできず、ただ尻尾だけがパタパタと力なく揺れ動いていた。


 俺は明理の方へと視線を向ける。


 彼女は先ほどよりも顔色を青くしながらも、内臓の飛び出した白猫を凝視していた。


 目を逸らすこともなく、まばたきをすることもなく。


 次第に、猫の苦しみの声が弱くなってきた。


 痛みで失神しそうになっているのかもしれない。


「……じゃあ、殺すぞ」


 言って、俺は白猫の首へとナイフをあてがった。


 それを真一文字に横へと引くと、白猫の喉笛は裂けた。


 真っ赤な血が傷口から溢れだした――。


  ***


「うぷ……もうお腹の中、吐くもの残ってないし……」


 夕陽がすっかりと水平線に沈み、暗闇に染まりつつある道を、俺は明理に肩を貸してやりながら歩いている。 


 白猫を殺した後までは明理も何とかこらえていたものの、結局気が遠くなって倒れてしまった。


 そして、やっと立ち上がれるようになるまでには夕方になってしまっていた。


「たとえ胃袋の中に残ってたとしても今は我慢してくれ。すぐ家に送り届けてやるから」


 明理がよりかかってくる体重を感じながら、俺は歩き続ける。


「うぅ……面目ないし……こんなザマで……」


「そうしょげるなよ。きちんと最後まで見たじゃないか。俺が猫殺すところ」


 意気消沈している明理を俺は励ましてやる。


 傍から見たらどんな二人組に見えていることだろう。


 たまに道を通りすぎる人たちが不思議そうな視線が身をつついて痛い。


「それより、道こっちでいいのか?」


「ん……そこの路地、右に入って」


 住宅街を歩き、明理の指示のままに歩いていく。


 そして、それなりにきれいな新築の一軒家の前へとやってくる。


 小さくもなければ大きくもない、よくある中流家庭の家といった印象だった。


「ありがと。あとは自分で歩けるから……」


 そう言って明理が俺の肩から腕を離したとき、家の前に一人の人物が立っているのに気付いた。


 玄関のドアの前には、一人のスーツ姿の中年男性が立っていて、ドアノブに鍵を差し込んでいるところだった。


 どうやら、今帰ったところらしい。


 中年男性はドアを開きかけたところで俺たちの足音に気付き、振り返る。


 神経質そうな顔をした、眼鏡の男性だった。


 年齢は40歳前後といったところだろうか。


「……ただいま、伯父さん」


 俺の横に立つ明理がそう挨拶をする。


 その言葉には、どこかよそよそしい響きが含まれていた。


「ああ……何だ、明理か」


 そのとき、男性――明理の伯父らしき人は俺に気付いたようだった。


「きみは明理の友達かい?」


「えっと。はい、まあ……」


 話を振られは適当に話を合わせる。


 友達という表現が正確かどうかはわからない。


 ただ他にうまい言い方が無いのも確かだ。


 まさか『共犯者』なんて言うわけにもいかない。


「ふん……明理に友達がいたとはな。それじゃ、失礼するよ」


 大して興味無さそうに言うと、明理の伯父は挨拶もせずに玄関のドアの中へと入っていった。


 明理が入るのを待たず、バタンというドアが閉まる音がする。


 名前くらい聞いてもよさそうなものだ。


 だが、彼の反応でだいたい明理がこの家でどんな立ち位置を占めているのかは理解できた。


 事故で両親を失い、親戚の家に預けられた娘。


 明理の伯父は、こんな暗い時間に返ってきた明理に対して叱ることさえしなかった。


 つまりはそういうことなのだろう。


「今日はありがと。あとごめん、いろいろ迷惑かけて」


 明理は殊勝にもそんな風に謝ってきた。


 さきほどの伯父のことについては何も触れない。


 触れたくないのかもしれない。


 俺はそんな明理にどんな言葉をかけたものか迷った末に、


「気にするな」


 とありきたりの言葉を返すことしかできなかった。


 そして、明理はよろめきながらも閉められた玄関のドアへと歩いていく。


 でもきっと、その家は彼女にとって『家』ではないのだろう。


 その後ろ姿はひどく寂しげに見えた。


「おい」


 思わず、俺はその背中へと声をかけていた。


 明理はドアを開けかけたまま足を止め、俺の方を振り返る。


「何?」


「俺の家、父さんも母さんもいないから……だから、いつでも来ていいからな」


 俺の言葉の意味を咀嚼するように、明理はしばらく考え込んでいた。


 そして、自らの胸を強調するようなポーズを取った。


「それってもしかして……誘ってる?」


 自称『豊満な身体』を抱きしめるような仕草をしながら、明理は若干身を引いた。


「ぶっ飛ばすぞ。人がせっかく気を遣ってやってんのに」


「冗談だし。でもまあ……ありがとね、陽樹。またね」


「ああ、また学校でな」


 そう言って俺たちは別れた。


 明理の家からの帰り道、明理のことを考える。


 彼女は一年前の事故で両親を失い、それからずっと孤独なままだったのだろう。


 もしも仇の猫を見つけ出し、『復讐』を遂げたとして――彼女が失ったものは埋め合わせられるのだろうか。


 そんな益体もないことを考えながら、俺は夜道を歩いていった。

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