第7話 殺していい命
結局高坂に対する答えは決まらないまま、翌朝を迎えた。
教室へとやってくると、クラスメイトたちがめいめいにグループを作って雑談しているのが見える。
高坂はまだ登校してきていないようだった。
自分の席へと歩き鞄を机の上へと置く。
すると、教室の真ん中で他の生徒たちと雑談をしていた直哉が気付きこちらへと歩いてきた。
「グッモーニン、陽樹っ! 朝から仏頂面だな?」
直哉はいきなり肩を組んできて、いつも通りのアッパー系のテンションで絡んでくる。
「春休み気分が抜けないんだよ。ふあ……一晩中ゲームやって、おかげで寝不足だ」
本当のところは、昨夜見た夢のせいで寝付きが悪かったせいだった。
「ははっ! わかるぜ。俺も昨日の夜から今日の午前七時までゲームやってたからな!」
「ほぼ徹夜じゃないか。それでこのハイテンションって化け物か……」
「体力が有り余ってるからな! ははっ!」
もしかしたらこいつは朝っぱらからテンションが高いのではなく常に深夜テンションなのかもしれない。
そんなことを考えていると、教室のドアから高坂が入ってくる。
「あ……」
高坂は俺を見ると無言で目を逸らす。
そして、ゆっくりと自分の席へとついた。
その際に軽く「おはよう」と互いに挨拶を交わすだけで、それ以上の会話はない。
クラスメイト達がいる教室で昨夜の返事をするわけにはいかない。
そうだとわかっていても、答えを用意していないというのは気まずかった。
「……なあ、もしかしてお前、高坂さんと喧嘩したのか?」
直哉が小声で耳打ちして聞いてくる。
「そんなんじゃない。ただ、まだあんまり人付き合いに慣れてないんだろう。ゆっくりやればいいさ」
「それならいいんだけどな……」
直哉は心配げにそう言った。
俺に高坂の相手をするように振ったのは直哉だから、いささか責任を感じているんだろう。
つくづく面倒見のいい奴だった。
そのとき、予鈴のチャイムが鳴り響き、雑談していた生徒たちが各々の席に戻り始める。
しばらくして担任の三沢先生がやってきて朝のホームルームが始まった。
「え~……今日の連絡事項は、っと……」
三沢先生はファイルに閉じたプリントをぱらぱらとめくる。
そして、ふと先生は一枚のプリント束を取り出す。
「ああ、これがあったか。じゃあこれ、各列後ろに回せ」
生徒たちが前から順にプリントを回していき、最後列の俺までプリントがやってくる。
内容を見ると、それはこの鈴菜高校内のサークルの一つ、猫保護ボランティアの紹介だった。
この街の野良猫の保護活動を行っているボランティアサークルで、メンバーを募集しているらしい。
ここ数年で結成したばかりで、人手が足りないそうだ。今はまだ規模が小さいが、街の大きなボランティア団体と協力して保護活動を続けているらしい。
もっとも、野良猫を保護するどころか殺している俺には関係のないことだ。
ちらりと隣へと視線を向けると、高坂も同じ気持ちらしく無関心そうに――というか上の空といった様子でプリントを眺めている。
「猫の保護ボランティア……? へえ、こんなのあったんだ。入ろっかな」
ふと、前方の席から間延びした女子の話し声が聞こえてくる。
クラスメイトの戸塚さんだ。
「やめときなよ。きっと面倒くさいよ」
それを窘める声は、その隣の席の波口さんだった。
「ええ? でも、猫かわいそうじゃん。ほら、『野良猫は病気になったり、交通事故に遭うなど危険がいっぱいです』って書いてあるよ?」
「まあ、気持ちはわかるけどさぁ……」
「うちもさぁ……猫飼ってたんだけど、外に出してたらこの前車に轢かれちゃったんだ。本当、ひき逃げとか許せないし」
「それは酷いね……」
俺はふと、隣の明理の顔へと目をやった。彼女ら二人の会話は、明理にも聞こえているだろうから。だが、明理の表情に特に変化は見られない。何にも感じていないわけはないが、押し隠しているのだろう。
女子二人の話し声を聞いて、猫は守られるべき動物であるというのが『まとも』な感覚であることを再認識する。彼女らにとって猫は罪のない被害者で、猫を轢いた人間の方こそ加害者なのだ。恐らく、彼女らには路上に放たれた猫を避けようとして事故を起こすドライバーがいることなど想像もつかないだろう。
自分が外に放した猫のせいで、死ぬ人間がいるかもしれないなんて、考えたことも無いに違いない。
その感覚はまともなのだろう。だが、俺には分からない。彼女たちの話はまるで『世界には牛を神聖なものとして崇める宗教があります』という知識と同じレベルでしか受け取ることができなかった。
知識としては認識できるが、実感がまったく湧かない。その『まとも』な感覚を知りたくて……俺は猫を殺すのだろう。
「あれ……あきゃああっ!」
そのとき、戸塚さんが突然甲高い悲鳴を上げた。
反射的に戸塚さんの席を見ると、彼女は教室の床の一点を指差してわなわなと震えていた。
彼女が指差す方向へと視線を向けると、教室の床に黒い小さな虫が這っていた。
「うわっ! ゴキブリじゃん!」
波口さんも嫌悪感を露わにした声を上げて思わず椅子を引く。
その動作に反応したのか、ゴキブリがカサカサと動き初めて教室の女子たちが悲鳴を上げ始めた。
そのゴキブリを見つめて、昨夜見た夢を思い出した。
小学生のころ、猫殺しを矯正するために母さんが行っていた『教育』。
確かその中でゴキブリは『殺してもいい生き物』に分類されていた。たぶん『まとも』な人間の感覚でもそうなっているのだろう。その点については、俺の感覚も一致している。
「おい、うるさいぞ。高校生がゴキブリくらいで。男子、誰か何とかしろ」
教室中が女子の悲鳴でパニックになる中で、三沢先生は呆れた顔で言った。
「よしっ、俺に任せとけ!」
意気揚々と声を上げて席から立ったのは直哉だった。
直哉は教室後ろの掃除用具入れまで歩き、箒とちりとりを一つずつ取り出すと、ゴキブリのいる床まで歩いていた。
その辺りに座っていた女子たちは皆、椅子を引いていたのでちょうどよく空間が開いていた。
直哉はゴキブリにゆっくりと近づくとその上から箒を振り下ろした。
嫌な音がしてゴキブリは死んだ。
一つの命が潰えた音だ。
だが、教室中の生徒は速やかにゴキブリが殺されたことに安堵している。
直哉はちり取りにゴキブリの死骸を載せて、教室後方にあるゴミ箱へと死骸を捨てた。
その顔には罪悪感は一切浮かんでいない。
当然だ。
ゴキブリを殺すのは別に悪いことじゃない。
この場で直哉がゴキブリを殺したことをなじるような生徒がいたら、誰だってそいつを異常者だと思うだろう。
もちろん俺だってそう思う。
その点では、俺と皆とは意見は一致しているはずだ。
だが――これが猫になると話が違ってくる。
もしも教室に入ってきたのがゴキブリではなく野良猫で、それを誰かが殺したとしたら。
きっと、皆その誰かを非難することだろう。
猫とゴキブリ、その間のどこかに存在するはずの命の境界線。
誰もが疑問も抱かずに引いているその線を、俺は理解できない。
もっともっと、今よりもずっと多く猫を殺し続ければいつか俺にも理解できるのだろうか。
そうすれば、いつかは俺も『まとも』な人間になれるだろうか。
「うっ……」
そのときのことだった。
隣の席に座っていた高坂がうめき声を上げる。
気になって視線をやると、彼女は口元を左手で押さえている。
ただでさえ色白の肌が今は蒼白だ。
彼女は震える右手をゆっくりと挙げた。
「……先生、すみません。保健室に行ってきていいですか」
やっとのことで絞り出したその声は震えている。
「ん……ああ、気分が悪くなったのか?」
三沢先生は高坂の顔を見ると、すぐに察したように言った。
大方、ゴキブリ騒動で気持ち悪くなったと思ったのだろう。
しかし、高坂のこの反応はただそれだけではないような気がした。
何しろ高坂は猫の毒殺魔だ。ただ虫が死んだのを見たくらいで気持ち悪くなるようなタマじゃないだろう。
「じゃあ、保健委員。保健室まで高坂を連れて……っと。そういえばまだ決めてなかったか。じゃあ――」
「俺が行きます」
三沢先生が誰かを指名する前に、俺は席から立ち上がる。
「そうか。じゃあ小川が頼む」
三沢先生の指示を受け、俺はぐったりとした高坂の元へと近づいて肩を貸してやる。
「……私一人で大丈夫なのに」
「バカ言うな。鏡があったらお前の顔色を見せてやりたいよ」
教室の扉から廊下へと出て、俺は高坂とともに保健室を目指して歩いていく。
その間、高坂は何かに怯えるように唇を震わせていた。
「ゴキブリを見て気分が悪くなった? それじゃあとりあえず休むといいわ」
保健室の先生――養護教諭の池中先生は事務机で忙しそうにPCで書類を書きながら言った。
彼女は白衣を着た二十代後半の女性で、髪を短く切っていた。いかにも仕事熱心といった見た目の女性だ
保健室の中には二個のベッドが並んでいるがそのどちらも空だった。
言われた通りに高坂をベッドまで連れていき、その縁に腰掛けさせてやる。
彼女は上履きを脱ぐと、緩慢な動作でベッドの上に身を横たえる。
その呼吸はか細く、胸が小刻みに震えている。
やはり尋常な反応ではない。
「池中先生――」
「じゃあ、私はちょっと職員室に行ってくるから。ゆっくり休んでていいわよ」
俺が声をかけるよりも先に池中先生は席から立ち上がっていた。
その手には一本のUSBメモリが握られている。
職員室に連絡プリントか何かを印刷しにいくのだろう。
彼女は足早に保健室の扉を開けると、外へと出て行った。
「まったく……」
俺はため息をついて呆れる。
だが、まあ考えてみれば保健室の先生は医者じゃない。
『ゴキブリを見て気分が悪くなった』と言われれば休ませる以外にないだろう。
それに、俺にしたって高坂にここまでしてやる義理はない。
「じゃあ高坂。俺、もう行くから……」
ベッドで寝る高坂にそう声をかけ、ベッドから離れようとした。
そのとき、制服の裾を高坂が掴み、俺を引きとめた。
「……どうした?」
「行か……ないで。もう少しだけ、そばにいてほしいし……」
高坂はすがるような目で俺に懇願する。
高坂の弱った様子を見て、立ち去ることなんてできなかった。
ため息をつくと、ベッド脇に置かれていた椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「言っておくけど、本当に少しだけだからな」
「うん……ごめん……」
か細い言葉が高坂の口から漏れる。
こんなにも弱った彼女を見るのは初めてだ。
「一体どうしたっていうんだ? まさか、本当にゴキブリ見て気分が悪くなったわけじゃないだろ? 猫殺しのおまえが」
公園で野良猫に毒餌を盛るような奴がそれほど神経が細いとは思えない。
高坂がこれほど体調を崩しているのは、何か別の理由があるはずだ。
「……私ね。生き物が死ぬ瞬間を見るとこうなっちゃうの……」
高坂は疲れた表情を浮かべながら言った。
「一年前の事故からこうなったの。蚊でもアリでも……どんな小さな生き物でも死ぬ瞬間を目の当たりにすると、両親が死んだときのことを思い出して……」
「トラウマってやつか」
高坂は一年前、両親が交通事故で死ぬ瞬間を車の後部座席から目撃していた。
詳しくは聞かなかったが、そのときに高坂の目にどんな凄惨な光景が映ったか想像だにできない。
トラウマになっても不思議ではないだろう。
「本当は……毒エサなんか使わず、この手で苦しめて殺したい。あのとき父さんと母さんを死なせた三毛猫を探し出して、この手で……!」
高坂の声には悲壮な決意が込められていた。
「それで俺に協力してほしいわけか」
「うん。お願い、小川くん。私に力を貸して。私の復讐に……」
すがるような目で高坂は俺を見る。
そして、ようやく俺は高坂の頼みを断れなかった理由に思い至った。
俺は猫殺しの嗜好のせいで、友達からも家族からも見放された。
だから、ずっと俺は猫殺しの本性を隠していた。
そんな俺を高坂は頼ってくれる。
『生まれてこなければよかった』と母親にさえ言われた俺を認めてくれる。
答えなんてとっくに決まっていた。
ただ、自分が誰かの助けになれるなんて、思いもしなかっただけだ。
「わかった。お前の復讐に協力する」
「勝手なことを言ってるのはわかってる。でも――って、え?」
耳を疑ったように、高坂は俺を見る。
「何驚いてるんだ。お前から持ちかけたんだぞ」
「で、でも……本当にいいの? 本当に、協力してくれるの?」
高坂はどこか不安げに俺を見る。
まるで、すぐに俺が『冗談だ』とでも言いださないか心配しているかのように。
だが、もちろん嘘も冗談も言っているつもりはなかった。
「もちろんだ。ただ一つだけ条件がある。それはお前が自分の手で仇の猫を殺すことだ」
「私が……?」
「ああ。俺は猫を探す手助けをする。そして、お前がトラウマを克服する手伝いも、猫を探す手伝いもする。だけど、猫を殺すのはお前が自分の手でやるんだ」
俺が彼女の代わりに猫を殺しても、それでは意味がない。
それでは本当の意味での復讐にならないということだけじゃない。
俺は高坂自身に命の境界線を乗り越えてほしかった。
命の境界線のわからない俺と同じ側に来てほしかった。
そのためには、彼女は自分の手で猫を殺せるようにならなければならない。
しばらくの逡巡の後、高坂は口を開く。
「わかった。約束する。必ずこの手で猫を殺す。父さんと母さんの仇を取る」
澱みも迷いもないその答えに俺は満足する。
そして、高坂に手を差し出す。
高坂はそれをじっと見つめていた。
不意に彼女の両目に涙が浮かぶ。
「お、おい、泣くほどのことかよ」
俺が呆れながら言うと、高坂は手の甲でごしごしと目を擦るように涙を吹く。
「な、泣いてないし……でも、ただ安心したんだ。ずっと、一人だけで抱え込んでたから」
高坂はその目を涙ぐませながらも口元には嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
やっと落ち着いた様子の彼女は、一つ咳払いをしてから俺の手を握り返した。
「それじゃあ……これからよろしくね」
「ああ。よろしく、高坂」
俺が言うと、高坂は首を横に振る。
「私たち、共犯者なんだよ? 他人行儀に名字じゃなくて、名前で呼んで」
「そうか。じゃあ……明理、よろしく頼む」
「うん、力を借りるよ。陽樹」
二人きりの保健室で、俺と明理は名前を呼び合った。
孤独だった二人の猫殺し。
二人は出会い、こうして一匹の猫を殺すために明理と協力を誓ったのだった。
彼女を俺の側へ――『まとも』な人間から外れた側へと完全に引きずりこむ。握手をしている間、俺は心のなかでほくそ笑んでいた。
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