第4話 紫陽花の髪飾り


 そして放課後になり、「一緒に帰ろう」という直哉の誘いを適当に断り、俺は校舎裏へと向かった。


 校舎の敷地のそばには鬱蒼と茂る雑木林が広がり、校舎裏はちょうど校舎と雑木林に挟まれた空間だった。


 一年中日当たりが悪く、ジメジメとしていてほとんどここを訪れるものはいない。


 密談には最適の場所だった。


 校舎裏についたときには、高坂明理は既に待っていた。


「遅い……来ないかと思ったし」


 高坂明理は不満げな表情でそう言った。


「そっちが早すぎるんですよ。えっと、高坂先輩」


 一応敬称をつけたものの、高坂明理は露骨に嫌そうな顔をした。


「『先輩』はやめて。あと敬語も。……同級生に先輩呼ばわりされるのはかなりキツいものがあるし」


 そういうものなのだろうか。


 留年の経験がない自分にはわからない感覚だったが、とにかく本人がそういうならそうしよう。


「それじゃ、高坂。念のために聞くけど、ここに呼び出された用件はわかってる?」


「もちろん。昨夜のことを秘密にしてくれる代わりに……私に見返りを払えっていうんでしょ? この豊満な身体で!」


 高坂は頬を赤らめ目を涙ぐませながら、自分の上半身を両腕で抱きしめるようなポーズを取った。


 その様子を見て思わず脱力する。


 やっぱり完全に勘違いしているようだ。


「……? どうしたの、小川くん」


 高坂は目を丸くしながら俺を見る。


「そんなもん別にいらない。そもそも言うほど豊満じゃないだろ」


 昨夜はダッフルコートを着ていたせいでわからなかったが、高坂の胸は悲しいほどに慎ましやかだった。


 壮大な表現でいば断崖絶壁、卑近な表現でいえばまな板といったところだ。


「き、着やせするタイプだから! Bカップはあるし! 触ってみる?」


 高坂は顔を真っ赤にしながら反論する。


 ちょっと興味が頭をもたげたが、ぶんぶんと頭からその邪念を振り払う。


 高坂のズレたペースに惑わされると、いつまで経っても本題に入れない。


「話を戻すぞ! とにかく、昨日お前が公園でやってたことについてだ。俺は別に誰にも話す気はないし、見返りも貰う気はない。だから安心しろ」


 俺の言葉に高坂は驚いたような顔をする。


「誰にも話す気はないって……何で? もしかして、昨夜私がやったことの意味、わかってないとか?」


「わかってるよ。猫殺しだろ? キャットフードにエチレングリコールをかけて野良猫を殺そうとしてた。だろ?」


 答えると、高坂は唇に指を当てて「静かに」という動作をする。


 それから彼女は周囲を警戒するように視線を走らせる

 

 誰も周囲にいないことを確かめると、高坂は安堵の息をついた。


 だが、心配しなくてもこの校舎裏に来るような生徒も教師もいない。


 彼女は気を取り直したようにこちらへとまっすぐに視線を向ける。


「わかってて秘密にしてくれるの? 何で? きみに私をかばう理由ないじゃない」


 どこまでも疑り深い奴だ。


 だが、けっこう痛いところを突かれている。


『俺も猫殺しだ』と明かすのが一番手っとり早い。だが、こいつに話すと簡単に秘密を漏らしてしまう気がする。


「別にいいだろ。秘密にしてやるっていってるんだから、これで話は終わりだ」


 これ以上話を続けると、こちらのボロが出そうだった。


 少し焦り、話を切り上げてその場から立ち去ろうとした。


「よくないし! 何か怪しい!」


 高坂が声を荒げ、立ち去ろうとする俺の腕を掴む。


 俺は何とかその手を振り払おうとするが、その華奢な身体のどこにそんな力があるのか、彼女は少しも離れない。


「し、しつこいぞ! 何が不満なんだよ!」


「タダほど高いものはないし! ほら、だから私の胸触れ~! 既成事実作れ~!」


 高坂は掴んだ俺の手を無理やり自分の胸へと伸ばそうとする。


「くっ……見返りだ何だのいって、ただ弱みを握って口封じするつもりなんじゃねえか!」


 ただのアホかと思ったが、妙なところで悪智恵の働くタチの悪いアホだった。


 こいつがエサに毒を盛って野良猫を殺そうとしてる猫殺しであることをすっかり忘れていた。


「触れ! 触れ! 触れ~! 自分で言うのも何だけど、けっこう柔らかくて気持ちいいし!」


「誰が触るか! うおおお!」


 しがみつく高坂を無理やり振りほどこうとして、腕を払った。


「あっ……!」


 そのときちょうど高坂の身体を突き飛ばす形になってしまった。


 高坂は尻もちを突く。


「あ……悪い。そこまで強くするつもりじゃ……」


 罪悪感に襲われてつい謝罪を口にする。


 だが、高坂には俺の言葉は届いていないようだった。


 高坂はしきりに自分の頭を手で触り、目を見開いていく。


 見ると、彼女が髪につけていた髪留めが外れている。


「髪留め……母さんの髪留め……!」


 高坂の顔にみるみるうちに恐慌の色が浮かぶ。


 俺はその変化に驚きながらも、周囲の地面を探す。


 見ると、俺の足元に高坂の髪留めは落ちていた。


 紫陽花を模した形の髪留めだった。


「おい、これ――」


 それを拾い上げたとき、高坂は弾かれたように起き上がり、俺の手から髪留めを奪い取った。


 呼吸を荒くし、肩を上下させている高坂の姿に呆気に取られる。


 そして、高坂の言った言葉――『母さんの髪留め』について考える。


 そういえば今朝、直哉が言っていた。


 高坂明理が留年した理由は交通事故で家族を失ったショックのせいだ、と。


「それ、家族の形見なのか?」


「…………」


 高坂は答えない。


 ただ、髪留めをじっと握りしめて息を整えているようだった。


 その表情はどこか憂いを帯びていた。


 そのときのことだった。


 近くから人が近づいてくる足音が聞こえた。


 それに反応したのか、高坂は反対側の校舎の影へと一目散に走り去っていってしまった。


「あ、おい!」


 声をかけても、もう彼女の姿は見えない。


 仕方なく、俺は足音のした方へと視線を向ける。


 見るとそこには申し訳なさそうな顔をした直哉が立っている。


「悪い、邪魔しちまったか?」


「直哉……いつからそこにいたんだ?」


 俺は驚いてそう問いかける。


「さっき来たところだ。おまえが校舎裏に行ったって見た奴がいたから、気になってな。そしたら、話し声が聞こえて」


 気まずそうに答える態度からして、どうやら先ほどの俺と高坂の話を聞いていたわけではないようだった。


 直哉は高坂が走り去っていった方向へと視線をやる。


「まさか高坂さんと話してたのか。俺の約束を律儀に守ってたんだな」


「ん……まあな」


 別にそういうわけでもなかったが、変に否定するよりは話がこじれないだろう。


 俺は話を合わせておいた。


「で、話した感想はどうだ? 彼女、どんな感じだ?」


「変な人だよ。ただ……」


「ただ……?」


「……もう少し話してみないと、わからないかもな」


 高坂の走り去った校舎の影へと視線を向けながら、そう呟いた。

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