第3話 猫殺しの少女

「おい……おい陽樹!」


 背後から直哉がしきりに肘で突いてくるのにも、俺は反応できなかった。


「……何やってんだ陽樹。早く話しかけろよ。こういうの、第一印象が肝心なんだぞ?」


 事情を知らない直哉は小声でせっつくように促してくる。


 だが、俺にはそれに答える精神的余裕はなかった。


「ったく、しょうがないな……え~っと、高坂先輩ッスか?」


 直哉は女子生徒――高坂明理にそう声をかける。


 心の中で「やめてくれ」と祈っていたが、その祈りが直哉に届くことはない。


 高坂明理はどこか気だるそうに俺と直哉の方へと視線を向ける。


 そして、俺の顔を見た瞬間、その目が驚きに見開かれていく。


「俺は土野直哉。で、こいつは小川陽樹。見ての通りダウナー系の奴だけど、ま、クラスメイトとしてこれからよろしく」


 直哉ののんきな紹介の声が高坂明理に聞こえていたのかどうか。


 彼女はわなわなと唇を震わせて俺を指差す。


「き、きみは……昨日の……!」


『もしかしたら他人の空似なのではないか』という俺の淡い希望が打ち砕かれた瞬間だった。


「え? 二人、まさか知り合い?」


 直哉がきょとんとした表情でそう訊ねる。


「ちっ、違う! 初対面だし!」


 それを高坂明理が必死にぶんぶんと手を振って否定する。その反応のせいで余計に怪しく見える。


 公園で会ったときも思ったが、つくづく誤魔化すのが下手なやつだった。


「でもさっき『昨日の』って……」


 直哉は狐につままれたような顔で俺に視線を向ける。


「初対面だよ。会ったことあるはずないじゃないか。多分、人違いだ。……ですよね、高坂さん」


 俺がそう話を振ると、高坂明理はしばらくきょとんとしていたが、すぐに首を縦に振った。


「そ、そう! 親戚の顔に似てて……いや、本当によく似てるね……! あはは!」


 誰の目から見ても狼狽した様子で高坂明理は言った。


 正直なところ、彼女は黙っていた方がまだごまかしようがありそうだった。


 どう考えても嘘をつけるタイプの人間じゃない。


「ふうん……?」


 直哉はそれでも怪訝そうな表情を浮かべて腕を組んでいた。


 だが、そのときちょうど担任の先生が教室に入ってきたところだった。


 朗らかな笑みを浮かべた若い男性教師。


 一年生のときもクラスを担任していた三沢(みさわ)先生だ。


 今回は二年生の担当になったらしい。


 面倒見がよく、さらに顔もいいおかげで生徒に人気の先生だった。


 彼が入ってきた途端に、教室前方にいた女子のグループが黄色い声を上げる。


 そして、直哉の注意もそちらへと向けられる。


「ほら、出席取るぞ~。いつまでも駄弁ってないで席につけよ」


 三沢先生がそう言って、生徒たちが自分の席へと戻り始める。


「ま、とにかく……うまくやれよ」


 そう言って俺の肩を叩くと、直哉も自分の席へと戻っていく。


 何とかごまかせた……だが、安堵するのはまだ早かった。


 極力目を合わせないようにしていても、隣の席の高坂明理がちらちらと俺の方を見ているのに気付いていたから。


 波風の立たない学校生活――そんなささやかな夢は新学期早々、泡と消えそうな予感がした。




 授業中、真面目に黒板の板書を眺めるふりをしながら猫の殺し方について妄想するのが俺の日課だった。


 昨夜、ハンマーで猫を殺したときの反省点について考える。


 猫は顔面への衝撃に対しては強いが、頭部への衝撃に極端に弱い。


 恐らくはかなり扁平で眼窩の占める空間が多すぎる頭蓋骨の形状が関係しているんだろう。


 頭頂部に振り下ろすような軌道で叩くと、よほど加減をしない限り頭蓋骨が砕け、脳が潰れて即死してしまう。瓦割りを想像してみるとわかりやすい。平たい瓦は横から殴る分には強固だが、上からまっすぐ衝撃を与えるといとも簡単に割れる。それと同じ理屈だ。


 ああ、やはり即死ではダメだ。


 俺が見たいのは命と物の境界線で苦しむ猫の姿なのだから。


 そう、ちょうど幼い頃に見た、道路の真ん中で死のダンスを踊る野良猫のように。


 力加減が難しいハンマーより、やはり刃物での殺し方を追求するべきだろうか。


 何にせよ、今夜にでも家の裏の捕獲器に野良猫がかかってないか確認するか――


「……いてっ」


 そんなことを考えていたとき、右側から腕を突かれるのを感じ、思考を中断させられた。


 見ると、隣の席の高坂明理がシャーペンで俺の腕を突いている。


 そして、一枚のルーズリーフを丸めたものを手に持ち、こちらへと差し出してきた。『見ろ』ということらしい。


 しぶしぶルーズリーフを受け取って広げてみると、そこには文章が書かれていた。


『昨日の夜、公園で会ったよね?』


 ――自分からその話題に触れてくるのか。


 もう昨夜のことはさっさと忘れてしまおうと思っていた俺は呆れながらもシャーペンを手に取った。


 適当にしらばっくれてもさらに問い詰めてくるだけだろう。


 仕方なく『YES』と書いてルーズリーフを返す。


 すると、高坂明理はすごい勢いでルーズリーフにシャーペンを走らせる。


 そして、再び渡されたルーズリーフを手に取ると、そこには新たな文章が追加されていた。


『お願い、秘密にして。何でもするから』


 その文章を読んで俺はため息をついた。


『別に何もしてほしくない』


 そう返事を書いて、ルーズリーフを突き返した。


 返されたルーズリーフを読んだ高坂明理はしばらくの間怪訝な表情でこちらを見つめていた。


 信用できない、という表情だ。


 自分は嘘をつくのが下手なくせに、猜疑心の強い奴だ。


「え~、ではこの方程式の解を……小川。小川陽樹。わかるか?」


 突然、教壇の数学教師が俺の名前を呼んだ。


「あ、はいっ!」


 慌てて返事をして、黒板を見た。


 だが、とっさのことで黒板に書かれた方程式を見ても答えはすぐには出なかった。


 さらにまずいことには、その数学教師は授業中に当てられて答えられなかった生徒に罰として大量の宿題を出すことで有名だった。


「え~っと、その……」


 思考の時間を稼いでも焼け石に水だった。


 そのとき、ふと高坂明理がルーズリーフをさりげなくこちらへと見せているのに気付いた。


 ルーズリーフには大きく『9』という字が書かれている。


「……9?」 


「む、正解だ。春休みも復習していたようだな」


 数学教師は満足げにそう言って、次の問題の解説に移る。


 安堵にため息をついて、高坂明理の方をちらりと見る。


 彼女はどこか不安げな表情でこちらを見ている。


 そして、ルーズリーフを一枚、俺の方へと渡す。


『これで秘密にしてくれる?』


 そこにはそんな文章が書かれていた。


 俺は呆れてため息をついた。


『放課後に話そう。校舎裏で』


 そうルーズリーフに書いて、高坂明理に返す。


 しばらく彼女はルーズリーフの文面を見つめていたが、納得したようにルーズリーフを引き出しの中に入れた。


 そのとき、ちょうど授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。


 律儀なことに、高坂明理は放課後になるまで一切俺に話しかけてこなかった。


 ルーズリーフによる筆談なんて、証拠が残るコミュニケーション手段を使われるよりはいい。


 とにかくこいつの誤解を解かないと秘密にできるものもできない。


 俺は疲労感にため息をついた。

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