第2話 新学期の朝

 俺が通う鈴菜(すずな)東高等学校は全校生徒900人程度、一応は進学校だが、地域では中堅といったポジションの可もなく不可もない学校だ。


 入学案内のパンフレットに書かれていた教育理念は『自由な校風で生徒の自主性を重んじる』――つまり、勉強さえしてれば特に生活態度にはうるさく口出しはしないってわけだ。


 たぶんこの学校に赴任している教師に思春期の悩みを相談すればカウンセラーを紹介されるだろうし、イジメの被害を打ち明ければ警察を紹介されることだろう。


 悪くいえば放任主義だが、俺はこの校風が気に入っている。教師が生徒たちに対して一線を引いていて、そのラインからこちら側には決して踏み込んでこない。そういう『境界線』がはっきりしている感じが好きだ。


 登校してきたクラスメイトたちが雑談に興じる朝の教室。


俺はその隅の一番奥の席で机に肘を突きながら昨夜のことを考えていた。


 公園で出会った少女。そして、彼女が落としていった薬剤のガラス瓶。そこに貼られていた薬品名は――エチレングリコール。


 エチレングリコールとは主に不凍液として利用される薬剤だ。


 車のラジエーターの冷却水とかに広く利用されているし、入手も簡単だ。


 だが、エチレングリコールは肝臓で代謝されるとシュウ酸カルシウムなどの物質を作り出し、腎臓に多大な負担をかける猛毒でもある。


 その毒性は最悪の場合死に至ることも十分にありえるほど。それが身体の小さな猫ならなおさらだ。そして、腎不全は猫が発症しやすい病気であり、一見して毒殺か自然死か判断がつきにくい。そういった事情もあり、猫用の毒餌としてよく利用される。……言うまでもなく違法行為だが。


 つまり、それを公園でキャットフードにかけるということは……


「明らかに猫殺しだよなぁ……」


 ため息混じりに独り言をつぶやいてしまっていた。


 一瞬、誰かに聞かれはしなかったかと思い、辺りを見回す。


 だが、教室にいる生徒たちは皆、めいめいに雑談に集中していた。


 それもそのはずだ。今日は二年生の春、これから一年間教室をともにするクラスメイトが判明する日。


 教室中の生徒たちはあちこちでグループを作って同じクラスになれたことについて雑談に花を咲かせている。


 誰も俺の独り言を聞いている様子はなかった。


 それを確信してから、安堵のため息をつく。


「よぉっ、陽樹! 二年生でもまた同じクラスだな!」


 そのとき、背後から思い切り背中を平手で叩いてくるやつがいた。


「いてぇっ! 何するんだ……」


「ははっ、悪い悪い! 強く叩きすぎたな!」


「くぅ……お前は朝っぱらから心臓に悪いテンションしてるな、直哉(なおや)」


 背中をさすりながら振り返ると、日焼けした肌に髪をツンツンに立てた男子生徒が立っていた。


 制服の袖を常に腕まくりしていて、そこからサッカー部の練習によって日に焼けた腕が見えている。


 クラスメイトの土野直哉(つちのなおや)だ。


 俺のような教室の隅が定位置の生徒とどうして仲良くしているかわからないくらいの人気者だ。


 嫌みのないまぶしいルックスには女子のファンも多いらしい。


 小学生から高校生の今に至るまで一度もクラス長に選ばれなかった年はないというほどのリーダー気質。


 こいつが同じクラスにいるということは少なくともくじ引きで負けてクラス長にされるという心配はないわけだ。


「おまえのテンションが低すぎるのさ、陽樹。朝からユーウツな顔してると一日中気分ノらないぞ?」


「朝っぱらにエネルギー使う方があとあと疲れそうだけどな……俺は午後からエンジンがかかってくるんだよ」


「ははっ、んなこといって、午後の授業も居眠りしてるくせに!」


「適度な睡眠は記憶にいいんだぞ」


「英語と現代文とか暗記系だけは得意だもんな、陽樹。他はめっきりだけど」


「痛いところを突くなよ」


 新学期そうそうに直哉とのバカ話を楽しんでいると、昨日の出来事など頭の片隅に追いやられた。


 考えてみれば、あの少女が猫殺しだろうと何だろうと俺には関係がない。


 だって俺自身が猫殺しなのだから。


 警察に届ける気もないし、別に義憤もない。かといって親近感も覚えない。


 今まで通り夜は趣味として猫殺しを続け、学校では「人気者の友達」という目立たないポジションに収まる。


 それで俺の生活は問題なしだ。


 変にトラブルに首を突っ込むことはない。


 うっかり持ち帰ってしまい、今は家の引き出しの中にあるエチレングリコールの瓶もさっさと捨ててしまおう。


 そう思っていたとき、「そういえば……」と直哉が切り出した。


「聞いてるか? このクラスにダブりの先輩が入ること」


「ダブり……ああ、留年か? いや、初耳だよ」


 この鈴菜東高等学校は県下有数の進学校で、カリキュラムも相応に厳しい。


 よって、稀に留年生が出ることも十分にありえる。


 単なる世間話だと思っていたが、直哉の表情を見るとやけに深刻そうだった。


「その先輩――高坂明理(こうさかあかり)っていうんだけどな。単に単位が足りなくて留年したってわけじゃないらしいんだ」


「というと?」


 直哉の態度を不思議に思い、俺はその話に興味を持った。


 すると、直哉は声を潜めて話し始める。


「実は……一年前に家族でドライブしているとき、交通事故に遭って両親が亡くなったらしい。高坂先輩自身は大した怪我じゃなかったが、そのときの精神的ショックで学校に通える状態じゃなくなって……それで一年留年しちまったそうだ」


「へえ……」


 なかなかに重い話題だった。


 朝っぱらからそんなことを話されると気分が滅入るくらいには。


「へえ、ってそれしか感想ないのかよ?」


「そんなこと言われても……まあ、かわいそうだな、って思うよ」


 本心からそう言った。


 正直なところ、そんな話を聞かされてもそういうくらいしか反応のしようがなかった。


「だろ? それで俺が心配してるのは、だ。その先輩がクラスになじめないんじゃないかってことだ」


「ん……まあ、そうかもな。ただでさえ留年生ってのは腫れもの扱いされやすいし」


「その通り。で、俺はクラス長として考えた」


「待てよ、まだクラス長選挙すらやってないぞ」


「ほっとけ。どうせ俺くらいしか立候補しないんだ」


 平然と直哉は言う。


 実際にその通りで、クラス長なんていう面倒くさい役割を自分から進んで引き受けるような奇特な奴は直哉くらいだ。


 直哉は鹿爪らしい顔をして腕を組む。


「二年生といえば、何も考えず精いっぱい青春を謳歌できる最後の学年だ。修学旅行があるのだって二年の二学期だ。三年になったらいやでも受験を意識することになるからな。そんな貴重な二年生という時間を、一人だけ仲間はずれのギスギスした気まずい雰囲気で過ごしたくないんだ。わかるだろ?」


「まあ、わからないでもないかな」


 とは言ったものの、正直なところどうでもよかった。


 俺は猫さえ問題なく殺せればいい。学校生活は波風立たずに過ごせればそれで満足だ。


「そこでだ、陽樹に協力してほしいんだ。高坂先輩がクラスになじめるように」


「は? 俺? 何で?」


 唐突に振られ、思わず聞き返す。


 話の途中を聞き逃してしまったのかと思ったが、どうもそんな風でもなさそうだ。


 直哉は「チッチッチッ」と舌を鳴らしながら芝居がかった動作で指を振る。


「いいか? 相手は留年でナイーブな気分になってる先輩だ。しかも両親を失って気が滅入ってる。きっとダウナー系の性格をしていることだろう」


「それで?」


「そこへ行くと俺はアッパー系だ。このウザいテンションで絡んだらドン引きされて、さらにクラスと距離を取ってしまうだろう」


「自覚あるんだな……」


「テンションってのは電波の周波数みたいなもんだ。合ってる相手じゃないとうまく通信できない。というわけで俺は不適当だ。そこでおまえを選んだわけだ」


「その話聞いてると俺がダウナー系の性格みたいなんだけど」


「自覚ないのか?」


「……あるけどさ」


 ため息をついて答えた。そんなにまっすぐに告げられると、ぐうの音も出ない。


「よし、それなら決まりだ。じゃあ隣の席同士仲良くやれよ?」


「隣の席?」


「ああ、靴箱前の掲示板に出席番号が張られてたから見た。新学期は出席番号順に席が決まるから調べてみたら、ちょうど高坂先輩はお前の隣だ」


 今朝から今までの間にそこまで調べて俺に根回しをしたのか。


 直哉の用意周到さに俺は心の中で舌を巻いた。


 こういう気配りがこいつをリーダー気質たらしめているのだろう、と改めて感心する。


「まあ、できるだけのことはやるよ。挨拶とか、世間話くらいは。でも所詮ダウナー系だからあんまり期待するな」


「それでもいいぜ。助かる。さすが陽樹だぜ」


 直哉は気合いを入れるように俺の肩を軽く叩く。


 まるでそれを合図としたかのように、そのとき教室のドアが開く音がした。


 何の気なしに俺はドアの方へと視線をやる。


 そして、教室に入ってくる女子生徒の顔を見て思わず息を飲んだ。


 長い黒髪に花をかたどった髪留めをしたきれいな顔立ちの女子生徒。


 どこか憂鬱そうに視線を床に向け、ため息をつきながら歩いている。


 学校の制服だから、昨夜とは服装が違う。


 だが、その女子生徒の顔立ちに俺は見覚えがあった。


 昨夜、公園で出会ったあの少女だ。


 女子生徒は目を伏せて、ほとんど教室の誰とも目を合わせることなく歩いてくる。


 そして、あろうことか俺の隣の席へと鞄を置き、椅子に腰を下ろした。


「はぁ~…………」


 机に頬杖を突き、長い溜息をもらす女子生徒。


 そんな彼女の横顔を、俺は呆然と見ているしかなかった。

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