猫殺しの放課後

藻中こけ

第1話 不凍液の夜


 初めて猫が死ぬのを見たのは小学生のころのことだった。


 家族で動物園に行った帰り道、家族で和気あいあいと車の中で話していたときのこと。


 交差点で信号待ちをしていた俺たち一家の車の前を、一匹の野良猫が交差点の中央へと歩いていくのを見た。


 何の危機感もない、まるで車の方が自分を避けて当然と思っているような悠然とした歩き方だった。


 猫が本当にそんなことを思っていたかは定かじゃないが、現実には野良猫は次の瞬間には交差点を走る車のタイヤで轢き潰された。


 猫を轢いた車はそのまま走り過ぎていく。


 別に薄情な運転手だとは思わなかった。交差点のど真ん中でブレーキなんか踏んだら後続車に激突されて死ぬ。


 小動物を轢いても慌てず騒がず突き進め。


 きっとそのドライバーは安全運転の原則を守っただけなのだろう。


 だから、責める気はまったく無い。


 まったく無いが――もしかしたら、と思うことはある。


 もしもそのドライバーが猫を轢かなかったら……あるいは逆に、野良猫に完全にトドメを刺してくれていたら、


 俺ももう少し『まとも』な人間になれていたかもしれない。


 だが、とにかく、驚いたことに轢かれた野良猫はまだ生きていた。


 腹にタイヤ痕があり、明らかに内臓が潰れていて、口からはだらしなく舌を出し、眼窩から目が飛び出ていた。


 意外にも血はあまり出ていなかったが、口からは赤い液体が滴り落ちているのが見えた。


 それでも、猫は生きていた。


 どうしてわかったかというと、倒れ伏していた猫の身体がしばらくして動き始めたからだ。


 内臓を潰された苦痛に野良猫がのたうち周り、道路の上で文字通り跳ねまわっていた。


 その様子を見て俺はすぐにブレイクダンスを連想した。だが、人間のやるブレイクダンスのような華麗さは欠片もない。


 地獄の苦痛に身をよじらせる、悪夢のような踊りだった。


 俺たち一家は信号が青に変わるまで、車の中でずっとその踊りを眺めているしかなかった。


 ミラーに映る父さんの顔も母さんの顔も、どちらも嫌悪感をあらわにして目を逸らしていた。


 だが、家族の中で俺だけは視線を逸らさなかった。その光景に嫌悪を抱く両親を不思議に思っていた。


 命が物へと変わっていくその瞬間を、瞬きもせずにじっと見つめていた。


 そして、現在。高校生になった俺、小川(おがわ)陽樹(ようき)は、子供のころの記憶をまるで昨日の出来事のように思い出しながら、目の前の光景を見ていた。


 冷たいコンクリート製のガレージの床で、テープで前脚と後ろ脚を固定された猫が横たわっている。


 束縛された手足を煩わしげに動かしてはいるが、自分が置かれている危機に気付いている様子はない。


 よほど人慣れしているのだろう、こちらを威嚇する様子さえ見せない。


 恐らく、普段からボランティアか何かにエサやりをされているに違いない。警戒心が薄いのはそのせいだ。


 人に慣れていない野良猫は目を細くして、牙を剥いて威嚇してくるものだが、この猫はそうじゃない。


 いい獲物を捕獲できた――


 そう思いながら、猫へと向かって小型の金槌を向けた。


 片手で扱えるが重さと強度は十分だ。


 猫は金槌を見ても、大して反応を見せない。


 ネコには、それが鈍器であると理解できるだけの知能も知識もないだろう。


 金槌を、無邪気にこちらを眺めている猫の額へと思い切り振り下ろす。


 ゴン、という鈍い音がしたと思った次の瞬間、猫は床に倒れて痙攣していた。金槌のヘッドが頭蓋骨を砕いて脳にまでめり込んだ感触があった。


 一撃で即死してしまったようだ。猫は眼窩から目を飛び出させて痙攣している。それは命が残っているからではなく、ただの死体に残った神経の反応にすぎない。


「くそっ……強すぎたか。失敗したな……」


 ため息をつきながら猫が痙攣を終えるまで見守る。


 完全に脱力した猫の身体を、ゴム手袋で覆った手で掴み、用意しておいたごみ袋の中に放り込む。


 ガレージの床に散らばった猫の体毛は後で掃除することにしよう。


「また新しい猫、手に入れなきゃな……」


 せっかく苦労して捕獲したのに、やすやすと殺してしまった野良猫の死骸を見ながら再びため息をつく。


 だが、いつまでも死骸に未練を抱いていても仕方ない。


 ゴミ袋の口を縛ると、それを持ったまま家の外へと出た。


時刻は夜の十二時ごろ。


 高校生が出歩いているのを警察に見つかったら確実に補導される程度の時間帯だ。


 だが、この辺りには大学があり、よく飲み会帰りやバイト帰りの私服の大学生が夜中に騒がしく歩いている。


 高校の制服さえ着ていなければ高校生だとはバレない。


 それに、この家に今住んでいるのは俺だけで、深夜の外出を咎める両親はいない。


 堂々と玄関の脇に留めている自転車へと歩き、自分の自転車のカゴへと猫の死骸入りゴミ袋を入れた。


 そして、住宅街を自転車で適当に走り始める。


 その間にも、家々の間から野良猫が飛び出してくることが数回あった。


 この街――鈴菜沢(すずなさわ)市は県の動物保護条例のせいでやけに野良猫が多い。


『動物と人間が共生する社会の実現』という目的で野良猫の捕獲や殺処分は極力行われていない。完全にゼロにはなっていないが、それでも削減目標を設定している。


 行政が野良猫を殺さないのはいいとしよう。でも、だからといって野良猫が消えるわけじゃない。野良猫の避妊去勢などについては市民のボランティアに任されている。ボランティアが捕獲器を設置して野良猫を捕まえているのはよく見る光景だ。


 要するに、俺のような『猫殺し』が手ごろな野良猫を手に入れるには絶好の環境というわけだ。


 特にうちの近所では、数年前に家で数十匹の猫を飼っていた独居老人が亡くなり、その飼い猫がそのまま野良猫化している。正確に数えたことはないが、今では繁殖によってこの近所だけで野良猫の数は3ケタ近くになっていることだろう。そうじゃなくてもこの街はネット上では『猫町』なんて呼ばれて持て囃されているくらいだ。獲物には事欠かない。


 街を歩きながら適当に猫の死骸を置けそうな場所を探す。


 猫の死骸を処理するとき、気をつけるべきことはあまり作為的に隠そうとしないことだ。


 街中に猫の死骸が転がっていても、多くの人は目を背けるか関心を示さないか二つに一つだ。


 それが人為的に殺された死骸であっても、猫なら『事故にでもあったか、他の動物に殺されたのだろう』という程度にしか思わない。


 多くの人にとって道端に転がっている猫の死骸が事故死によるものだろうと他殺によるものだろうと猫同士の共食いによるものだろうと、区別なんてつかないしそもそも関心がない。


 つまり、見つかりにくいところに死骸を隠したりするより堂々と道端に放っておいた方がいい。


 せいぜい注意するのは、猫の死骸を一つの地域に集中して放置しないことくらいだ。


 俺は猫殺しを十年近く続けている。本格的に殺すようになったのは高校生になってからだが、既に殺した猫の数は百を超えているだろう。


 それも単に命を奪ったわけじゃない。


 より長く野良猫の断末魔の動きや鳴き声を観察できるように、細心の注意と工夫を払ってきた。命がものへと変わる、その境界線を確かめるために。


 もっとも、今日は失敗したが……それでも猫の死骸の処理はいつもやってる。


 今日も同じように死骸を始末するだけだ。


 周囲に人気がないことを確認して、俺は適当な道路の路側帯に猫の死骸を置く。


 何回も繰り返した作業だから慣れたもので、ほんの数秒で片付いた。


 手についた猫の体毛をはたき落としながら俺は家へと帰ろうとする。


 ――ちょうどそのときのことだった。

 近くで足音が聞こえ、俺は身を硬直させる。心臓の音が一気に高まっていく。


 すぐに辺りを見回して人影を探すが誰もいない。


 猫の死骸を始末するところを見られたわけじゃないようだ。


 そう判断して、ひとまず俺は耳に神経を集中させ、足音がどこから聞こえてくるのかを探る。


 猫の死骸を置いた通りを曲がった角には小さな公園がある。


 休日の昼間には住宅街の子供たちがよく遊んでいるが、深夜に人がいるのは珍しい。


 不良グループとか飲み会帰りで浮かれた大学生だろうか。


 だが、それにしては足音が一人分しか聞こえないのはおかしい。


 不思議に思った俺は、自然と足を公園へと向けていた。


 その場から逃げようとは思わなかった。既に猫の死骸を置いた以上、近くを歩いているからといって俺が猫を殺した証拠はない。むしろ、猫の死骸を置いた場所からコソコソ逃げるよりは堂々とした方がいい。


 それにこんな時間に出歩いている足音の主にも興味があった。今回は目撃されずに済んだが、ひょっとしたら、今度この場所に死骸を捨てにきたらばったり出くわすかもしれない。


 生垣で囲まれた公園の入り口に辿りつき、入り口のフェンスから公園内を覗き込んでみる。


 すると、公園の奥――砂場の辺りに一人の少女がしゃがみこんでいるのに気付いた。


 長い黒髪にキャスケット帽を被り、黒いダッフルコートを着ている。


 明らかに夜に人目を忍ぶための服装で、見るからに怪しい。


 彼女はちょうどこちらから見て公園の反対側、その街灯の下にいた。その明かりのおかげで、彼女が公園の砂場で何かの作業をしているのがわかった。


 彼女は砂場に何か粒状の固形物を置いている。


 そして、その上から、手に持った透明のガラス瓶から何らかの液体を振りかけていた。


「何やってるんだ……?」


 不審に思い、もう少し近づいて見てみようとした。


 そのとき、不注意なことに公園入り口に落ちていた木の枝を踏んづけてしまう。


 パキ、という木の枝が折れる微かな――だが、夜の静寂には大きすぎる音が響く。


「誰!?」


 ダッフルコートの少女が弾かれたように振り返る。


 街頭の明かりの下で、少女の顔がはっきりとわかった。


 端正に整った顔だ。


 すっきりと大人びて整った造作に、どこか幼さを残した目。


 年齢は俺と同じくらいに見える。


 怯えに見開かれた目と病的なほどに白い肌の色が気になるが、十分に可憐といっていい容貌の少女だった。


 それだけに、いっそう彼女が夜の公園で何をしているのか気になった。


「あんた、こんな時間に何してるんだ?」


 あえて堂々と、そう問いかけてみる。


 姿を見られた以上、慌てて逃げるのは得策じゃない。


 まるでたまたま公園のそばを通り過ぎただけのように振る舞うべきだ。猫の死骸と同じで、下手に隠そうとすれば怪しまれる。


 そう思い、俺は猫の死骸を運んでいたゴミ袋をさもコンビニ帰りでもあるかのように持ち直した。


「あ……わ、私は……その……えっと……!」


 少女は目をあちこちの方向に泳がせ、必死に身ぶり手ぶりで意味をなさないジェスチャーをする。


 ……ひどく混乱しているようだ。


「そ、そう! 新聞配達! 新聞配達のバイトをしてるの! だから、深夜に出歩いてても何の不思議もないの!」


 少女がやっとのことで絞り出した言い訳がそれだった。


 どう考えても怪しい。


 百人が彼女の姿を見れば、百人ともが「絶対に新聞配達のバイトではない」と断言するだろう。


 そもそも新聞配達のバイトだからといって夜の公園でこそこそするのは変だ。


「嘘つけ。絶対新聞配達じゃないだろ。だいたい、何で新聞を一部も持ってないんだよ」


 指摘すると、少女はダッフルコートの少女は露骨にうろたえる。


「あ……あうぅ……! う、嘘じゃないし……! もう配り終えてサボってたんだし……」


「不真面目なバイトだな」


「うるさい! と、とにかく私忙しいの! 誰だか知らないけど、きみの相手なんかしてる暇ないし!」


「配り終えてサボってたのに? 言い訳にしても設定がブレブレじゃねえか」


「あぅ……と、とにかく忙しいの! 忙しいったら忙しいの! それじゃっ!」

 そう言って、ダッフルコートの少女は無理やり話を切り上げてこちらへと駆けだす。


 今さら無意味なのに、キャスケット帽を目深に被りながら俺の横を走り抜ける。


 街頭が並ぶ夜道の向こうにバタバタとダッフルコートの裾をはためかせながら走る少女の後ろ姿を眺めていた。


「何だったんだ、あいつ?」


 公園に取り残された俺は、再び公園の奥へと目を向ける。


 そこには、少女が置いていたらしき粒状の固形物の山と、ガラス瓶が一本落ちている。


「――って、あいつ忘れ物してるじゃねえか」


 呆れながら公園の奥へと歩いていく。


 そして、街頭の下にある固形物を見て、初めてそれが何かわかった。


 キャットフードだ。


 何の変哲もない乾燥させた茶色のエサで、よくデパートとかでも市販されているメーカーのものだった。俺がよく猫を捕獲するときにもエサとして使う会社のものだ。


  問題は近くに落ちているガラス瓶だ。


 彼女は間違いなくそのガラス瓶の中の液体をキャットフードへとかけていた。


 何の気なしにそのガラス瓶を拾ってみる。


 そして、その瓶に張られたラベルを見て怪訝に眉をしかめる。


「『エチレングリコール』……?」


 深夜の公園で、俺はガラス瓶を見つめながら立ちつくしていた。

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