「アノリス」の由来

暁烏雫月

確執の始まり

 ハベルト皇国には古くより「神の眼」の存在は知られていた。だがその能力の恐ろしさを国中に広めたのは一つの事件がきっかけであった。それはまだ、今の皇帝がまだ皇子であった頃の事件。「カラードの乱」が起きる前の、ひと騒動である。


 西は険しい山脈を境とした他国、東は海、北と南は川を境とした他国と隣接している皇国ハベルト。山脈や川が遮っているものの、隣国との国境争いが絶えない。とても安全とは言えない国であったが、一部を除いた人々は平和に暮らしていた。


 そんなハベルトの頂点に君臨するは、世襲制によって古き時代から続く皇族。国の長となる者は皇帝と呼ばれ、多くの政治家と共に内政を行う。さらには戦闘貴族なる、ハベルトの五大都市を統治する五つの氏族を束ねる。かつて、そんな皇帝の地位を巡り、二人の皇位継承者が争うこととなった。



 皇帝継承権を巡り影で暗躍する者。皇帝継承権を持つ者に仕え、主君を守る者。さらには他の皇位継承者を失脚させようと企む者、皇位継承者に入れ知恵をする者。皇帝とその家族の住まう宮殿では、そんな様々な者がうごめいていた。


 皇位継承者は二人。名をリスレクト、イグニスと言う。二人は異母兄弟で同い年、同じ年月日に僅か数時間の差でこの世に生まれ落ちた。たった数時間の差が皇位継承権に差をつけ、リスレクトが皇位継承権一位となっている。リスレクトとイグニスは幼き頃は仲の良い兄弟であった。


「兄上、お待ちくだされ! どこへ行かれるのです? 我もお供してよいですか?」

「どこも何も、食堂に行くだけじゃ。ちと、お腹が空いてしまってのう。料理人にクッキーの一つでもいただきとう思ってな。お主も来るか?」

「もちろん! 兄上だけ軽食を余分に頂戴するなんて、認められぬので」

「見つかってしまったからのう。二人で一枚ずつ、焼きたてをいただくとしよう。ほれ、厄介な護衛が来るぞ。こっちじゃ!」


 二人は見た目の違いなど気にせず、本当の兄弟のように育った。イグニスはリスレクトがどこに行くにもついて歩き、リスレクトもそれを咎めない。その仲睦まじい姿は見ていて微笑ましいもの。宮殿内ではよく、幼少期の二人が手を取り合って廊下を走る姿が目撃されていたそうだ。


 イグニスとリスレクト。二人の皇位継承者が仲良く向かう先は食堂と決まっていた。食堂で料理人からこっそりと焼きたてのクッキーを貰う。そうでもしなければ、毒味のされていない、冷めていない料理を食することなど出来なかったから。


「リスレクト殿下! イグニス殿下! お待ちください!」

「止まってください!」


 手を取り合って廊下を走るイグニスとリスレクト。そのあとを追うのは、皇位継承者の身を守るためにとあてがわれた護衛達。追いかけてくる護衛達に気付いた二人の皇位継承者は、ケタケタと楽しそうに笑いながら宮殿内を逃げ回る。この鬼ごっこは毎日のように続いていた、ある事件が起きるまでは。





 当時、宮殿内には二つの家族が住んでいた。一つはリスレクトとその母親、第一皇妃。もう一つはイグニスとその母親、第二皇妃。どちらも父親は同じ人物である。しかし、同じ皇妃と言えど二つの家族には差が出てしまう。その理由は、ただの地位の差ではない。


 皇位継承者の二人が護衛達と鬼ごっこを繰り広げている頃のこと。宮殿の最上階では不穏な空気が流れていた。事が起きているのは皇帝がいる謁見えっけん室ではない。謁見室の奥にある、イグニスと第二皇妃の暮らす部屋。そこでは奇妙な出来事が起きていた。


 部屋と言ってもさほど広くない。の家具で室内が埋め尽くされてしまう。そんな三人家族が暮らすには狭い部屋に、訪問者がやってきていた。訪問者は部屋の中で第二皇妃と言葉を交わす。


「そなた、まだおったのか。早く祖国へ帰ってはどうじゃ? いっそ、そなたに相応しい豚箱でも用意させようか? いや、豚に失礼じゃな。糞尿を被っておる奴には、下水道がお似合いじゃ」


 その声の主は第一皇妃。雪のように白い肌と眩い金色の髪は装飾品を思わせる。しかしその薔薇色の唇から出てくる言葉は、見た目からは想像出来ないほど汚らしい。翡翠ひすい色の双眸そうぼうが第二皇妃の姿を見下す。


 第二皇妃は、第一皇妃の足元で土下座をしていた。その背中には第一皇妃の右足が乗っている。履物の鋭いピンヒールが、布越しに黒檀の皮膚に深く食い込む。苦痛に顔を歪ませながらも、第二皇妃のの瞳は刃物のような鋭い眼差しを放っていた。


「そろそろこの薄汚いゴミを捨てたいのう。黒くて目障りじゃ。糞尿ごときが『第二皇妃』だなんて笑わせてくれる。私はゴミを見たくてここで暮らしてるわけじゃない!」

「『第一皇妃』が、ここまで差別的でいいんですか?」

「黙れ! 『神の眼』無くして皇室にも入れぬくせに。その目が無ければ、陛下は、そなたを気に入りなどせんかった!」


 第二皇妃は銀色の目を持つ黒人女性だった。ハベルトでは、奴隷制度こそ廃止されたが有色人種に対する差別がまだ残っている。その肌色が理由で第二皇妃にはベッド一つ与えられず、第一皇妃をはじめとする宮殿内の人々にさげすまれる。


 険悪な状況ではあったが、実害を出すことは無かった第一皇妃。だがついに事態が動き始める。それは、イグニスとリスレクトが十四歳になったばかりの頃から始まった。





 その日、イグニスとリスレクト、二人の皇位継承者は仲良く食堂でクッキーを食べていた。皇帝は職務のために謁見室に篭っていた。護衛達は皇位継承者を追いかけて出払っている。それを好機と判断し、第一皇妃が第二皇妃の部屋にやってきた。


 白い肌を少し赤く染め、血走った目で第二皇妃の姿を捉える。般若のような恐ろしい顔からは、地位に相応しい気品を微塵も感じることが出来ない。白い肌のせいか、光沢のある黒いドレスに嫌でも目が奪われる。震える手は、短剣の柄をしっかりと握りしめていた。


「何の御用ですか、第一皇妃様?」


 第二皇妃は眉一つ動かさずに問うた。青みがかった銀色の瞳が、目の前の女性とその手元をにらみつける。窓から射し込む光に照らされ、まばゆきらめく刃。その鋭い切っ先は第二皇妃の胸元に向けられている。彼女の周りには身を守る護衛は愚か、付き人の一人もいない。黒人というだけで使用人が拒絶してしまうのだ。


 刃を向けられているというのに、彼女はさほど驚かない。銀色の双眸で第一皇妃の動向を観察するだけ。身を守ろうとはせず、緊迫した状況であるというのにその口元は緩やかな弧を描く。首を僅かに傾げれば、その動きに合わせて金色の毛先が滑らかに揺れる。


「次期皇帝はリスレクトじゃ。イグニスになど、譲らぬ。けがれた血を引く者は、皇帝に相応しくない」

「どうぞ好きになさってください。皇位継承順位は変わりません。リスレクト様が継承権一位なのですから、何も心配することなどないのでは?」

「リスレクトが死んだあとも、譲らぬ。……イグニスなどいなかった。宮中にゴミなどいなかった。そなたとイグニスが死ねば、万事解決じゃ」


 現状では、何もなければ次期皇帝はリスレクトになる。リスレクトの次にイグニスが来て、その先は二人の子孫が引き継ぐ。それを知っているはずなのに、第一皇妃の様子はどこかおかしかった。異変に気付いて人を呼ぼうとしてようやく、第二皇妃は問題に気付く。


 第二皇妃である彼女はその見た目のせいで仕える使用人が一人もいない。第一皇妃の方は使用人を置いて単独でやってきたらしい。皇族の命を守る役目を担う護衛達は今、リスレクトとイグニスを追いかけて食堂に向かっている。最上階からどんなに叫んでも、その声は誰の耳にも届かないのだ。


 じりじりとすり足で間合いを詰めてくる第一皇妃。短剣を持つ手は震えているが、その切っ先は一点を向いている。鋭い先端の先にあるのは第二皇妃の胸部。肋骨の隙間にある、肺と心臓を狙っている。狭い部屋では逃げ回ることも出来ず、すぐに壁で行き止まってしまう。


「……刺したければ刺しなさい。私は、逃げませんから」


 逃げ場を失った第二皇妃が、壁にもたれかかって声を出す。その声を最後に、第二皇妃の記憶は途切れた。






 黒人の第二皇妃は壁に寄っかかったまま座り込むように気を失っている。上衣は無残にも引き裂かれ、あらわになった乳房には、短剣が深々と刺さっていた。不幸中の幸いは、豊かな乳房のおかげで刃が肺や心臓に到達していなかったこと。第一発見者は彼女の息子、イグニスだった。


 第二皇妃の近くでは第一皇妃が虚ろな目でブツブツと何かを呟いている。口から溢れ出るその言葉を正確に聞き取ることは出来ない。だがその左手に握られた短剣の鞘が、第二皇妃を刺した犯人であることを裏付けている。


「母上が何をした? 母上はただ、生きていただけではないか。それともあれか。母上が有色人種カラードだからいけんのか? これが、第一皇妃のやり方か?」


 第二皇妃の身に起きた出来事に、イグニスは冷静さを失った。動けないイグニスに代わりリスレクトが、皇帝と人を呼びに行く。




 幸いなことに、第二皇妃は一命を取り留めることが出来た。第二皇妃の証言から、第一皇妃が犯人であることが判明。しかしその第一皇妃は、人を刺したことにより狂ってしまった。


 此度の襲撃を受けて、第二皇妃とイグニスは宮殿から引っ越すこととなった。第一皇妃はその立場の関係で罪を隠蔽いんぺいされ、宮殿から離れたところにある独房に死ぬまで収容されることなった。国民には「病気による長期療養のために宮殿から去る」と伝えられ、関係者には口封じのために多額の賄賂が渡された。


「イグニス。我は……」

「兄上は、いつも誰かに守られておるのう。さらには第一皇妃を使って母上を殺そうとした。兄上の狙いは何じゃ?」

「我は何も知らぬ! あれは、母上が勝手にしたことじゃ。我はただ、父上と同じように――」

「この場においても虚言を吐く、と。もうよい。兄上には我の気持ちがわからんじゃろ。我は、兄上を許さぬ。何があっても許さぬぞ」


 去り際、イグニスに声をかけるリスレクト。しかしイグニスはもう、それまでのようにリスレクトを慕いはしなかった。第二皇妃が襲われるまでは仲良くしていたというのに、今やリスレクトの言葉を信じようとしない。関係性が変わってしまうほどに、イグニスの心の傷は深い。


「イグニス……」

「その名を軽々しく呼ぶでない。罪人の息子に、皇帝の地位は譲らぬ!」

「のう、イグニス。我の話を――」

「今更聞く話などない! 第一皇妃が母上を襲った。誰の差し金かは関係ない。兄上のために、我と母上を狙う者がいる。その事実が全てじゃ」


 去り際にイグニスが言い放った言葉は、リスレクトの胸に残り続ける。彼らはまだ知らない、二人の皇位継承争いは始まったばかりだということを。此度の事件はほんの序章に過ぎないことを。


 この事件をきっかけにリスレクトは「第一皇妃の息子リスレクト」と呼ばれるようになる。さらにそれが少しずつ短くなり、いつしか「アノリス」という愛称で呼ばれ始めた。そんなアノリスとイグニスの皇位継承を巡る争いに決着が着くのは、遠い未来の話である。

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「アノリス」の由来 暁烏雫月 @ciel2121

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