第3話


 夏の終わりにナツが死んで、蝉もぽとぽと死んで、でも蝉は死ぬまで鳴いて、ナツは何も言わずに死んで、わたしはナツが死んでも泣けなくて、アキも泣いてなくて、蝉は死ぬまで泣いて、夏は終わって、ナツの短い人生も終わって、秋がすぐそこまで迫って。

 だけど、わたしの人生は終わらなくて、時間は巻き戻らなくて。


 アキに蹴飛ばされた蝉はジジジと鳴いて飛び立とうとして、できなくて、羽を無様に開いたまま、また動かなくなった。

 黙ったままのわたしは顔をあげることもせず、動かない蝉を睨んでいた。


「そっか。この蝉が出て来た頃はナツもまだいたんだよね」


 天然にあぐらをかいた、いやただ無神経なだけのアキの言葉にカチンと来て顔をあげる。でも、アキは言葉で言い表せないくらい、寂しげな表情をしていた。で、慌てて顔を伏せる。見ちゃいけない気がして、こんな顔を見たら、アキのことを責められない気がして、だって、アキは決して無神経に言ったんじゃなかったとその表情が語っていたから。


「そーかもね」表情を変えずに答えて目をそらす。でも声は固かった。


「ねぇ。授業サボるんなら、私も行く。今から映画でも見に行こうよ」


 予想外の言葉だった。優等生のアキだから、授業に戻れと言うと思ったのに。


「そんな気分じゃない」


 顔を伏せたまま答える。けど、アキは珍しく引かなかった。


「いいじゃん。私も授業受ける気になれないし」


「見たい映画ないよ」


「ほら、あれ見ようって話してたじゃん。なんだっけ見たがってたじゃん。ほら、古いSF映画の続編」


 違う、見たがっていたのはわたしじゃない。ナツだ。


「……気分じゃない 」 もう一度答える。


「なんで?」


 今日のアキは珍しく引かない。でもその無神経な言葉にわたしは再び苛立った。


 なんでかだって? 

 そんなの決まってるじゃん。ナツがいないからだよ。ナツが見たいって言ってたから、みんなで行こうって言ってたから、だから行きたかったんだよ。

 ナツがいなくなったのに、こんなタイミングで、なんで見に行かなきゃなんないの。ホントにアキは無神経だ。その無神経さは今までは天然として笑って許せてたけど、今はもう許せない。

 わたし達はもう過去の関係には戻れないんだよ。


 喉まで出かかった言葉が寸前で止まったのは、アキが泣きそうな顔をしていたからだ。


「行こうよ……、ナツも見たがってたじゃん。楽しみにしてたじゃん。ナツも見たがってた映画なんだもん、一緒に見ようよ」


 消えそうな言葉でアキが言う。


「それは……」言葉が詰まる。アキはずるい。そんなこと言われたら、見に行かないことの方がナツを思ってないみたいじゃん。 


「……わかった」わたしが頷くとアキはホッとしたように微笑んだ。


「よかった。今からなら二時の回に間に合うから、急ごっ」


 甘えた声で腕に絡みついてくる。彼女はまだわたしのことを親友だと思っているのだろうか。


 心が痛む。アキがつけている香水の爽やかな匂いが、わたしの心の闇もボカして溶かす。

 このまま、何事もなかったかのように彼女と再び仲良くすることだってできるのかもしれない。わざわざ新しく別の女子グループに加わるのも面倒だし。でも、そんな打算で動きたくない自分がいる。それが彼女に対する踏ん切りのつかない中途半端な態度になっていることも自覚している。


 繁華街に出る。

 わたしが心に壁を作ろうとしていることにアキだって気づかないはずはないのに、そのことには一切触れず、いつもよりも賑やかに一方通行のお喋りを続けている。店先に並ぶアニメキャラのストラップが可愛いと行って立ち止まったり、新しい雑貨屋が通りの向こうに出来たから映画の後に見に行こうだの、わたしに似合いそうな帽子があるからプレゼントしようか、だの。

 ずっと喋り続けている。沈黙を恐れるように。


 映画館に入る。

 映画は感動的ではあったけど、今のわたしの心に響くものではなかった。というか、心の底の一番深い海にわたしの感情は沈んでしまっているから、どんな光も今は届かないのだ。

 現実感のない現実の中で、虚構を見る道化。

 ただ流れて行く場面を見つめる横で、鼻をすする音が聞こえた。

 ちらりと覗くと、なんとアキが泣いていた。

 ナツが死んでも泣かなかったのに、こんな映画で泣くんだ。

 不満はあったけど、泣き顔を見ているのも悪趣味なので、すぐ正面のスクリーンに目を戻した。


 エンドロールが終わり再び隣の様子を伺うと、もう泣き止んでいるアキがいた。

 迷ったけど、「面白かった?」って聞いたら「よくわかんなかった」とアキは目を逸らした。

 なんで、よくわかんないのに泣くの?

 違和感を違和感と感じることができるのは最初の一、二回で、その程度の違和感なら、すぐに日常に慣らされ踏み固められてしまう。

 そういえば、ナツの死後、アキにちょっとした違和感を覚えることがあった。今のような些細な違和感。醸し出す違和感は口に出して伝えるほどのものではなく、口に出さないと脳がその違和感自体を忘れる。もうどんなことに違和感を覚えたかも覚えていないほどの小さな違和感だったけど。


 カフェに寄ろうとアキが提案してきて、わたしは断ろうとしたけど、アキは意外としつこくて、その様子から、何かをうちあけようとしている気がしたから、一緒に行くことになった。

 そわそわしながら歩くアキ。わたしとおんなじくらいの背丈なのに華奢で庇護欲をそそる。

 きっと骨が細いからなのだろう。おんなじ太さの足でも、骨太かどうかで印象はずいぶん変わる。足首とか、膝小僧とか。

 いくら痩せても骨は痩せられないから、わたしはアキみたいに可愛くはなれない。

 隣を歩く美少女のただの引き立て役がわたしなのだ。


「ここにしよ」とアキが指差したのは彼女にしては珍しい、小さな味気ない喫茶店だった。


 表通りに面しているけれど、半地下のようになっている店で薄暗く静かで落ち着く大人向けの店だった。

 お客さんが少ないのを見てこの店に決めたようだ。

 奥の目立たない一角に座る。レモンティーを頼む。

 観葉植物の鉢をなんとなく見つめていると、それまで黙っていたアキが口を開いた。


「……私ね。ハルに隠してたことがあったんだ」


「なに?」


 できるだけ平静を装って尋ねる。


「私。あの日ナツに呼び出されたんだ。放課後、話したいことがあるから来てくれって」


 知ってる。けど、知らないふりをする。


「ふうん。どこに?」


「……専門棟の、ナツが階段から落ちたあの踊り場」


「へぇ、知らなかった」平気な顔で嘘をつく。


「……うん。ごめん。隠すつもりはなかったんだけど、あんなことになっちゃったから言いづらくて……」


 アキはうつむいている。


「何を話したの?」


「ううん、なんにも」


「なにそれ。呼び出されて行ったんでしょう?」


「うん……あの日の放課後、ナツに呼び出されて専門棟に向かってたんだ。でも、いざ、階段を登って屋上に続く踊り場に行こうとしたら、階段の上から喧嘩してる声が聞こえて。聞き耳を立てていたわけじゃないんだけど、何が起こってるのかわからなくて」


「それホント?誰と誰?」


「うん。ナツと、ユキ君」


 思いもよらぬ人物の名前に思考が止まる。


「ユキ君って……、誰だっけ?」


「隣のクラスの雪村くんだよ」


「あー……」とは言ったけど、ぼんやりとしか顔は浮かばない。

 雪村くん。わたしは同じクラスになったことはないし、ナツがその彼と仲良くしていた所を見たこともない。


「なんで?」


 二人の接点が思い浮かばなかった。ナツが雪村くんと仲が良かった印象はないし、かといって険悪であったような記憶もない。ただの同級生。


「うん……。ちょっと言いにくいんだけど……」


 口ごもるアキ。でも、二人が口論をしていたというのなら、もしかして……。


「ねえ、アキ。もしかして、ナツは雪村くんに階段から突き落とされたんじゃないの!? それ、警察に言ったほうがいいよ!」


 一見大人しそうな人に限って怒ったら何をしでかすかわからない。口論の末に、カッとなった雪村くんがナツを階段から突き飛ばしたのでは……。


「うん。言った。警察もそのことは知ってた。でも、結局は事故とは無関係だってことと、誤解を招くから口外しないようにって釘を刺されて……。だからごめん。今まで言えなかった」


「そうなんだ……」また、わたしの知らない話。本当にわたしは蚊帳の外にいたのか。疎外感が心に隙間風を吹かす。


「ユキ君はね。一方的にナツを責めていた。ユキ君っておとなしい子じゃん。その彼があんなに感情を露わにしているのって初めて見た。でも、ナツは煮え切らない感じでちゃんと返答してないみたいで、あまりナツの声は聞こえなかったんだ。そしたら、ユキ君は「勝手にしろ」って捨て台詞を吐いて階段を駆け下りてきたの。だから、ユキ君がナツに何かしたってことではない……と思うけど」


「アキはその雪村くんとは話したの?」


「うん。私と目が合って、ひどく怯えた表情で『聞いていたのか?』って。私は首を振って『何も』って答えた。でも、そのやりとりを階段の上からナツが顔を出して覗いてた。ナツもすごく悲しそうな寂しそうな顔をしてた。それでユキくんは『まあどっちでもいいよ。もう』って吐き棄てて去っていって、階段の上のナツも『今日のことは見なかったことにして』って言って黙っちゃった。私、その場にいられなくなって、逃げるように帰ったの……。私があの時、違う選択肢を取っていたら、ナツは死なずに済んだのかもしれない……。ごめんね。私のせいで……」


 声を震わすアキに「違うよ!」とわたしは声を荒げる。「アキは何も悪くない。悲劇のヒロインでもない。思い上がらないで」


 突き放すようなきつい言葉になってしまった。でも、それは彼女に対しての慰めなんかじゃなく、アキが妬ましいと思ってしまったからだ。

 わたしの知らないところで、ナツの運命の輪の上にアキがいたこと。死の直前に話したことで、アキはナツと一生忘れることができない固い関係性を持ったこと。それが羨ましくて、妬ましくて……。わたしの心は濁っているんだ。


「ありがとう……。ごめんね」


 それなのに、アキは涙を。綺麗な涙をポロリと流して、わたしとも美しい友情を感じている。

 そんな彼女を、ずるい、と思ってしまう自分はきっと汚れているんだ。


「わたし、その雪村くんに聞いてみるよ。あの日、何があったのか」


「でも……」と言いかけて、黙るアキ。まだ、何かを隠しているのかもしれない。


「何?」


「ううん……。ユキ君も辛いだろうから、そっとしておいてあげたほうが……」


「は? なんで? ナツが死んだのは雪村くんと喧嘩したのが原因かもしんないじゃん。なんでその当事者の肩を持つの?」


「そんなつもりはないよ……。でも、デリケートな話だから……」


「なにそれ。ねえアキ。もしかして二人の喧嘩の内容を本当は聞いていたんじゃないの?」


「そ、それは……」


「言いたくないならいいよ。自分で聞くから。今日は帰る」


 わたしはそう言って席を立つ。飲みかけのレモンティーと戸惑う顔の友達を残して。

 アキが何かを言いかけたけど、わたしは振り返らなかった。



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