第3話

背後でバタンと閉まるドアの音を、絶望的な面持ちで聞く。

当初の計画ではドアノブに傘をひっかけた後、意気揚々とビルを後にして、今頃は帰りの電車に乗っているはずだった。

なのに、どうしてこうなった―――?

泣きそうになりながら顔を上げると、店内の電気をつけた男が上着を脱ぎながらカウンター内へ入るところだった。

「にいちゃん、何飲む?寒かったろう、コーヒーにするか?」

「お、おかまいなく!」

「うちは基本酒を出す店だからなぁ、コーヒーがダメだってんならあとは・・・、あーウーロン茶ならあるな。ホットにしてやろうか?」

ダメだ、まるで話を聞いていない。颯斗はがっくりと肩を落とした。

「・・・・じゃああの、ウーロン茶で・・・」

「了解ー。ま、遠慮せずに適当に座ってろよ」

奥のキッチンから軽い声で返事が飛んできて、颯斗はようやく観念した。

事ここに至っては、男を無視して逃げ出すような非礼は、颯斗には出来そうもなかった。

お茶を貰って、余計なことは言わずにお礼だけ言って、さっさと帰ろう・・・。

何もかも諦めて溜息をつき、颯斗は初めて足を踏み入れた神楽の店内を見回した。

店内はカウンターのみの思っていたよりは小さな店だった。どっしりとしたカウンターの天板は一枚板でできており、年季の入った渋い色をしている。その後ろには様々な酒の瓶が並んだ棚があった。飲めないことはないが飲む機会の殆どない颯斗にとっては、どれが何という酒なのかまるで分らない。わからないが、変わった形や色をした瓶やそこに張られた異国の文字の書かれたラベルをぼんやりと眺めているだけで、なんだか楽しくなってくる。綺麗に磨かれ、きちんと並べられたグラスが、店の照明をキラキラと反射させていた。

同じ酒を出す店とはいえ、昨日自分たちが入っていた居酒屋とはまるで違う雰囲気に、颯斗は少々気後れ気味だ。

なるほど、大人になればこういう店でお酒を飲むのか。いや、自分も一応二十歳なので『大人』ではあるのだが、どう頑張ってもこんな店に通う将来の自分の姿を想像できない。

ここにはいったい、毎晩どんな客が通ってくるのだろう・・・。

そんなとりとめもないことを考えていると、奥のキッチンからのそりと男が姿を現した。

「おう、お待たせ。ほら、そんなとこに突っ立ってねぇで、こっち来て座れよ」

湯気の上がるマグカップがカウンターに置かれ、颯斗はおずおずとそちらへ向かった。

「ありがとう、ございます・・・」

脚の長いスツールに腰掛けるにも慣れない颯斗は四苦八苦したが、とりあえずそれなりに腰を落ち着けて男の勧めてくれたマグカップに手を伸ばす。

白い大きなマグカップには、テレビや街のあちこちで見かける、某有名携帯電話ショップのマスコットキャラクターになっている白い犬のデフォルメされたイラストが描かれていた。普段は先ほど見た綺麗なグラスを受け止めているはずの立派なカウンターが、今はこんな可愛らしいものをちょこんと乗せられていて、そのアンバランスさが妙に可笑しい。

知らず口の端を上げて小さく笑みをこぼしながら、颯斗はカップに注がれたウーロン茶に口をつけた。

程よく温められたお茶を口に含むと、無意識にほっと吐息がこぼれる。それまで自覚してはいなかったが、寒さと緊張で冷たくなっていた指先に、カップのやさしい熱が染みわたってゆく。

身体の内側と外側からふんわりと広がってくる温かさが心地良く、颯斗は一瞬自分がどこにいるのか忘れかけていた。

「しっかし驚いた。まさかわざわざあの傘、返しに来てくれるなんてなぁ」

―――もちろん、すぐに現実に引き戻されたわけだが。

ヘラヘラと笑っている男を湯気の向こう側に見やりながら、颯斗は僅かに唇を尖らせた。

「借りた物は、返すのが当たり前なんで・・・」

ぶっきらぼうな物言いにも、男は特に気分を害した様子はなかった。カウンターに片肘を置き、口の端をにやりと上げて見せると

「でもあんな、まぁ貸したこっちが言うことでもねぇけど、使い古しのビニール傘だぞ?」

「・・・・・柄の、とこに」

「ん?柄?」

「この店の名前が、書いてあったんで・・・。何となく捨てづらいし・・・」

ああ、そういや書いてたか?と男は記憶をたどるように視線を天井に上げた。

颯斗は俯くと、カップの中のお茶に映る自分の目をじっと見つめる。

「あの・・・、昨日は本当に、ありがとうございました。凄く、助かりました」

何故だかその時は、ずっと言わなければと思いつつもなかなか言えなかったお礼の言葉が、するりと自然に口をついて出た。

あたたかなお茶のお蔭で、少し体の力が抜けたせいだろうか。それとも、言葉尻は相変わらず軽いものの、落ち着いた優しい男の声音に、僅かばかりの安心感を覚えたせいだろうか。

何となく照れくさくてぺこりと頭を下げて誤魔化すと、男はしばしの沈黙の後、喉の奥で小さくくすりと笑った。

「―――なるほど、にいちゃんはイマドキ珍しいほどの、真面目な好青年だなぁ」

「べ、べつに、普通で・・・っ」

茶化したような男の物言いに、またバカにされたのかと颯斗は思わず顔を上げた。

けれども、視線の先に捉えた男が、笑っていたので。

カウンターに頬杖をつき、黒い瞳を眇めて酷く穏やかに、笑っていたので。

「・・・・・・」

「にいちゃんみたいなのはあれだな。きっと、きちんと育てられたんだろうなぁ」

しみじみと言われてしまうと、なんだかどう答えていいものやら困ってしまう。颯斗は手の中のマグカップをぎゅっと握りしめた。

「あー・・・、じいちゃんが。あ、オレ、父方の祖父に育ててもらったんですけど、田舎の古い人間なんで、そういうとこ結構口うるさくて」

なんでこんなこと喋ってんだと内心で自分に突っ込んでみたものの、何故だか言葉が勝手に口を滑っていくのだからどうしようもない。

本当は自身のことを話すのは、あまり好きではないのに、よりによってなんでこんな正体不明の男なんかに・・・。

「へぇ、じゃあそのじいちゃんに、感謝しないとな」

「ふ、普通だよ、こんなことは」

「いやぁ、その普通がなかなかできねぇのが今の世の中っていうか。『普通』のことを『当たり前』にやるってのは、案外難しいもんなんだよ」

「そ、そうかな・・・?」

「そうだよ。現ににいちゃん、実際のところ、ここに来づらかっただろう?」

ちらりと横目で見やってきた男の表情には、僅かに揶揄うような色が滲んでいる。

完全に心の中を見透かされていたことがわかり、颯斗はぐっと言葉に詰まった。

「―――ま、そういうことだ。それでもわざわざ返しに来てくれたんだから、大したもんだということだ」

どうやらおそらく多分、褒められたのだと、思う。

非常に分かりづらかったが。

いよいよどういう顔をしていいのかわからなくなり、颯斗はたまらずスツールから降りた。これ以上、ここに長くとどまっているのはまずい気がする。理由はわからなかったが、絶対にまずい。

「あ、あの、それじゃあオレはこれで。お茶、ごちそうさまでした」

「あれ、なんだもう帰るのか?」

「い、色々と忙しいんで」

嘘だけど。

そそくさと店を後にしかけた時だった。

不意に胃のあたりに違和感を感じて、颯斗ははっとした。

ちょっと待ってくれ、いくらなんでも今はまずい・・・!

―――グー、キュルルルル・・・

「・・・・・・」

「・・・・・・」

何年かに一回あるかないかの盛大すぎる腹の虫の音に、一瞬時が止まる。

そういえば、節約のためと今日は昼食抜きだった。それがまさかこんな最悪のタイミングで、腹の虫が悲鳴を上げてくるとは夢にも思っていなかった。

おまえなん当然聞かれた、よな・・・?

恥ずかしさで首まで真っ赤にしながら恐る恐る後ろを振り返ると、男が目を丸くしてこちらを凝視しているところだった。

穴があったら入りたいどころか、穴に落ちてそのまま死にたい―――。

よりによってこんな男の前でと颯斗の目の前を真っ暗にしていた颯斗をよそに、男が堪えきれずといった様子で吹き出す。

「あっはは!なんだにいちゃん、腹減ってんのか?」

「う、うるさいっ!」

「若いやつってのは胃も元気だよなぁ、おっさんは羨ましいよ。昼飯は?食ってねぇのか?」

「い、色々忙しいって言っただろっ!食ってる暇なかったんだよ!」

ムキになって反論するから余計に男に揶揄われてしまう事はわかってはいたが、羞恥で沸騰する頭では上手い言い訳も躱しも思いつかない。

そもそも、この男を上手く躱せたことなど、今まで一度もなかったが。

「か、帰る!」

叫ぶように言って店のドアに手を掛けた颯斗に、まだ笑っている男から声がかかった。

「まぁ待てよ。なんか食ってくか?つっても、オレが買ってきたコンビニ弁当くらいしかねぇけど」

「い、いらないっ!あんたのメシだろ!」

「いやまぁそれはそうなんだが。・・・あ、じゃあ、おっさんと仲良く半分こってのはどうだ?」

「絶対に、イ・ヤ・ダ!!」

冗談だとわかってはいても、その提案には背筋にゾゾっと悪寒が走り、颯斗は悲鳴を上げた。

その時。

何の前触れもなく、店のドアが勢いよく開いた。と同時に、店内に飛び込んでくる野太い声。

「おっはよーー!お腹空いちゃったー、誠仁、何か食べせてぇん!」

驚いて見上げると、開け放ったドアの前で仁王立ちする、男性。そう、確かに男性だった。

髪は短く刈り上げてるし、日焼けしてるし、顎には髭もある。それにとにかくあちこちゴツい。どこからどう見ても男性だ。

だが。

「あー、お腹空いたわー。昨夜からろくなモン食べてないのよぉー」

今までの人生において、テレビの中でしか見たことのなかった人種が目の前にいることに、颯斗は驚きと若干の感動をもって目の前の人物を凝視してしまった。

「アタシらももう年ねぇ。若い子に付き合って飲んでたら、朝起きらんなくて・・・って、あら?あんたなぁに?ここらじゃ見かけない顔ねぇ?」

じっと見つめられる視線に漸く気づいたのか、ぎょろりとした目がこちらを向く。颯斗は飛び上がった。

「あ、いいい、いや、あの・・・っ!」

頭の先からつま先まで、じろじろと値踏みされるような視線に晒され、颯斗が縮み上がっていると、カウンターの中から助け舟が飛んできた。

「おい慎太郎。あんまりビビらせてやるなよ。そいつはうちのお客だ」

客じゃない!という反論はこの際飲み込むとして、泣きそうになりながらカウンターの方を見ると、男がすまねぇなとでも言いたげに苦笑を浮かべていた。

「ちょっとぉ!アタシをその名前で呼ばないでって何度言ったらわかるのよ!アタシはカヲルちゃんよ!」

「阿呆か。ガキの頃から知ってんのに、今更そんな名前で呼べるか」

「あいっ変わらず失礼な男ね、ホントに!―――ちょっと坊や、こんな男の店に通ってもろくな大人にならないわよ。アタシの店に遊びにいらっしゃい。色々と楽しいこと教えてあげるわよ」

「やめとけやめとけ、お前なんかがそいつの店行ってみろ。もみくちゃにされて着せ替え人形にされるのがオチだぞ」

「可愛らしい子に可愛らしい服着せてあげるののどこが悪いっていうのよ!」

自分の頭の上をポンポンと通り過ぎていく二人の会話の内容は、颯斗には半分も理解出来なかった。出来なかったが、とりあえずこの二人が旧知の仲であり、お互い言いたい放題言える間柄であるらしいことだけはわかった。

完全に帰るタイミングを失してしまい、半ば呆然と二人のやり取りを見守るしかない颯斗をよそに、カヲル(慎太郎?)がはたと思い出したように手をたたいた。手はグローブのようにでかいが、仕草は女性のそれだ。

「そうよ、こんなことしてる場合じゃないわ。アタシお腹減ってんのよ。なんか食べさせてって言ってるでしょ」

イラついたようにカウンターをバンバンと叩くカヲルに、男が顔を顰める。

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