第2話

―――翌日。

独り暮らしのアパートの部屋で、颯斗はひたすら思案に暮れていた。

リサイクルショップで格安で手に入れた座椅子に座り、これまた同じショップで手に入れたこたつテーブルを前にして、かれこれ一時間は経つ。

眉間に深い皺を刻み腕を組んでああでもないこうでもないと考えあぐねる彼の視線の先には、テーブルの上に置かれた一本のビニール傘があった。

どこにでもある、コンビニで500円程度で売られているような普通の透明の傘。昨晩、例のあの胡散臭い男から貸してもらった傘だった。


正直なところ、颯斗としては大変不本意ではあったが、昨夜はこの傘を借りられたお蔭で本当に助かった。

あの後、男と別れてからも雨脚はほとんど弱まることはなく、気温もどんどん下がってくるような状況で、あのまま雨に濡れて帰らなければならなかったかもしれないことを考えると少しゾッとした。

たかがビニール傘、されどビニール傘だ。

冷たい真冬の雨から身を守って貰えただけで、本当にありがたかった。

ところが、だ。

颯斗は眉間の皺を更に深くした。

この傘は、昨夜は雨から颯斗を守ってくれたが、一夜明けて役目を終え、今度は大きな問題を彼にもたらしていた。

さて、この傘をどうするべきか、ということである。

昨夜は飲み会と雨と、何よりあの男とのわけのわからないやり取りで疲弊しきっていたため、本当はするはずだったバイト探しを諦めて、風呂に入った後にさっさと眠ってしまった颯斗である。

深く考えず、というよりも考えたくなくてそのまま布団に潜り込み、朝を迎えたまではよかったのだが、翌日になって玄関に置いたままにしていた傘の存在が否応にも目についてしまい、さてどうしたものかと考えあぐねているのだ。

今日は土曜日で大学も休み。本来なら午後から焼き肉屋のバイトがあったのだが、それがなくなってしまったため、真剣に次のバイト探しをしなければならないところだったのだが、何故だか傘が気になって気になってそれどころではなく、結局こうして傘と睨みあうこと一時間だ。

いい加減疲れてきた颯斗は、ふうと小さく息をつき、肩の力を抜いた。そっと手を伸ばし、テーブルの上に鎮座するビニール傘に触れてみる。

本当に、なんてことのない、ただの傘だ。当然だが。

骨が折れているようなことはなかったが、あちこちに小さな傷もあるし、今までに何度か使われたであろう使用感もあった。使い捨てと言ってもいいいような簡素な作りのその傘は、借りたとはいえ律義に返しに行くようなものではないことは、颯斗とてわかっている。ましてや相手は、名前も住んでいる場所も、何もわからない男だ。

唯一颯斗が彼に関して知っていることといえば、繁華街の片隅の、古い雑居ビルのどこかの一室で仕事をしているらしいということだけだ。そう、確か店がどうのこうのと言っていた気がする。

本来であればこの傘は、このまま捨ててしまうか次の雨の時に使った後に、気づけばどこかに置き去りにしてしまっていつの間にかなくしてしまうか、せいぜいその程度のものなのだと思う。きっとあの男も、返してもらうことなど期待してはいないだろう。

だが颯斗には、どうしても一つだけ気になって仕方のないことがあったのだ。

傘に触れていた指先が無意識に動いて、白い柄の部分をなぞる。

そこに少しかすれたマーカーで、文字が書かれていた。


『Bar 神楽』


それはきっと、あの男がいる店の名前なのだと容易に想像できた。つまりこの傘は、あの男の店の物なのだ。

無機質な傘が、そこに名前が記されているだけで、途端に誰かの所有物である感覚が強くなる。

こうなってしまうと颯斗の性格上、おいそれと捨ててしまうことも勝手に使うことも最早出来ない。変なところで真面目なのか何なのか自分でもよくわからないのだが、とにかく社会のルールは守らねば、颯斗自身が落ち着かないのだ。

だから、さっきからずっとずっと考えている。

この傘は、やはりあの男に返すべきなのではないかと。

一応スマホで調べてみたが、昨夜のあの雑居ビルの二階に、確かに『神楽』という名のバーが存在していた。

どうせ今日は一日何もないし、傘を返しに行くだけなら電車に乗って一時間もかからない。適当に昨日の礼を言って、ぱっと返してぱっと帰ってくるだけの簡単なミッションだ。なんということはない。

ないの、だが。

「行きたくねぇ・・・」

心の奥底からの本当に正直な気持ちを漏らし、颯斗はテーブルに突っ伏した。

この傘を返すということはすなわち、必然的にあの男とまた顔を合わせるということに他ならない。颯斗としては、それだけは何としても絶対に避けたかった。

傘を借りて濡れた髪を拭いてもらって、確かに恩があると言えばある。実際この傘のおかげで、真冬の雨の中でもなんとか凍えずに済んだのだから。

それに対して昨日の自分がきちんと礼を言えていたのかといえば、まぁ、言えていなかったと思う。というよりむしろ、大概失礼な態度で帰ってきてしまった自覚も、ある。

借りた物はきちんと返すことと、お世話になったお礼はちゃんとすること。

どちらもこの社会に暮らすものとして、当然やらければならないことだとわかっているのだが。

そういう変に真面目な颯斗でも、あの奇妙な男ともう一度会うことはどうしても躊躇ってしまうのだ。

何というか、とにかく掴みどころが、ない。

自分と比べて随分と年上であることは間違いないのに、妙に浮ついたことを言ったかと思えば、年相応の落ち着いた言動を垣間見せる。こちらのことを揶揄っているのかバカにしているのか見下しているのか、それとも単に心配してくれているのか。

とにかくまるで心が読めなかった。


もうずっと長い間、颯斗は他人との接触を極力避けて生きてきた。何も知らなかった小学生時代は別としても、中学に上がるころには自分を取り巻く環境が、普通とはかなり違っているのだという自覚を持つようになっていた。

思い返せば小学生の頃でも、仲良く遊んでいた友達が理由もわからず急に自分を遠ざけるようになり、そのまま疎遠になってしまうことも一度や二度ではなかったと思う。

思春期を迎え、様々なことに多感な時期に入ると、それがより一層顕著になってきた。

田舎の小さな中学校だ。目に見えるようないじめはなかったものの、周囲の友人たちから明らかに壁を作られていることに気づいた。

だからいつの間にか颯斗の方も、周囲に対して壁を作るようになった。

それはある意味、彼なりの一種の自己防衛反応だったのかもしれない。

昨日まで友達だと思っていた急によそよそしくなる。ひそひそと陰口を言われているのに気づいたこともある。

信頼していた人たちから突然に裏切られたと感じて、当時はひどく傷ついたものだ。

だからこその、自己防衛だった。

どうせみんな、いつかは裏切る。自分から離れていく。でも、仕方がない。自分にはそうされるだけの理由があるのだから。

それなら最初から、誰とも関わらなければいい。関わらなければ、裏切られることもないし、傷つくこともない。

そうして周囲を遠ざけ、距離を置いて生きてきた颯斗は、いつの間にか壁を作ることばかりが上手な人間になっていた。

周りの人間に不快な思いをさせたいわけじゃない。だからきちんと挨拶はするし、それなりの礼儀もわきまえる。

でも、それ以上は踏み込まない。踏み込ませない。

そうすることで颯斗の周りには、祖父を除いて気づくと親しいと呼べる人間は誰もいなくなっていた。でもその代わり、傷つくこともなくなった。

颯斗としては、それが自分にできる、精いっぱいの穏やかな生活だった。

大学に入り、新しい人間関係が出来上がったが、それでも何も変わらない。朝に挨拶をして、講義で必要な会話だけは普通にして、終われば別れる。バイトも同じ。簡単だ。今までずっとやってきたことなのだから。


なのに。

昨夜のあの男には、何故だかそれが全く通用しなかった。

初対面のくせに突然ぐいぐいと踏み込んでくるようなそぶりを見せたかと思えば、不意に突き放すようなことを言ってみたりする。

颯斗は終始、ペースを崩されっぱなしだった。

くそ真面目に傘なんかを返しに行こうものなら、また何を言われるのか・・・。

そこまで考えて、颯斗はふと気が付いた。慌ててテーブルから顔を上げる。

群馬の祖父の家の自室から持ってきた古い壁掛け時計が、まもなく午後二時を指そうというところだった。

今からアパートを出てあのビルに向かえば、おそらく二時半過ぎには到着できるはず。颯斗は行ったことがないからよくは知らないが、ああいうお酒を出す店というのは、大抵夕方以降の開店と相場が決まっている。ということは、颯斗が訪ねるくらいの時間には、まだ店は閉まっていると考えられる。店の場所自体ははっきりとわかっているのだから、閉まっている店のドアにでもこの傘を立てかけておけば、あの男が出勤してきたときに嫌でも気が付くだろうし、颯斗としても一応最低限の礼儀は果たしたことになる。

まぁ本当なら、顔を合わせてきちんと礼を述べるべきところなのだろうが、ここは背に腹は代えられない。また揶揄われて嫌な思いをするくらいなら、少しの罪悪感くらいは飲み込んでやろうと思った。

そうと決まれば、行動を起こすのは早い方がいい。

今までぐたぐたと悩んでいたのが嘘のように、颯斗はマフラーを巻き乾いたばかりのダウンジャケットを着込んで、古ぼけたビニール傘を片手に勢いよくアパートを飛び出したのだった。




「よし、ここだ・・・」

その扉の前に立った時、颯斗の息は若干上がっていた。

とにかく早く、一秒でも早くと急いた気持ちが、駅からこの店まで向かう颯斗の足を知らず知らずのうちに小走りにさせていた。

『Bar 神楽』

傘の柄に書かれていたのと同じ店名が、颯斗の目の前の扉の横に掲げられたプレートにも書かれている。

銀色のプレートに瀟洒な筆致で書かれたその文字を見つめ、颯斗は無意識に口元を引き締めていた。


土曜の午後の繁華街は、昨夜とはだいぶ雰囲気が違っていた。

繁華街とはいえ飲み屋が多く立ち並ぶ地域でもあることから、この時間帯はまだ人もそう多くない。開店している店も少なく、昨夜の喧騒が嘘のようだ。夜の間に降った雨がこの街のそこかしこに淀んでいた空気を洗い流したかのように、一種の清々しささえ感じる。

まぁそれもあと数時間のうちには綺麗になくなり、日が暮れて街が再び目覚めるころには、また新たな闇が溜まり始めるに違いない。

颯斗のたどり着いた神楽というバーのある雑居ビルも、まさにそういう暗い空気が好んで集まりそうな場所だった。

昨夜は暗かったし雨も降っていたためよくわからなかったが、昼間に改めて確認してみると、なるほど思っていた以上にレトロと言えば聞こえはいいが、平たく言って古臭くて薄汚れたビルだった。もっとも、周辺に立ち並ぶビルがどれも似たような風情なので、特に目立って汚いというわけでもなかったが。

神楽の入っているビルは他にも似たようなバーやスナック、クラブが入っている建物で、颯斗のような若者は雰囲気だけで門前払いを食らいそうだった。昨日、大学の仲間たちと行った居酒屋チェーン店とはわけが違う。今は昼でどの店も閉まっているから入ることができたが、夜なら絶対無理だったと、颯斗は改めてこの時間にやってきた自分を褒めてやりたくなった。

神楽のドアはやたら古めかしい重厚な木製のもので、昨夜見た男の軽い雰囲気とは少々そぐわないような気がして、颯斗は思わず小さく肩を竦めた。『CLOSED』の札が掛けられたドアノブも趣向の凝らされた洒落た作りで、もう何年も多くの客を迎えてきたらしく、人の手が触れる部分が自然と色褪せていて、それがまたドアの重厚さと相まって独特のモダンな空気を醸していた。

こういう店に自分が自然に入れるようになるまでは、少なくともあと二十年くらいは必要なんだろうなと考えつつ、颯斗は手にしていたビニール傘をそのドアにそっと立てかける。

ちらちらと周囲を窺ってしまうのは、なんとなく後ろめたい気持ちが抜けきらないからだ。どう考えても場違いな自分がこんな場所にいることも、礼も言わずメモも残さず、傘だけ置いて逃げようとしていることも、とにかくなんだか居心地が悪い。

それでも他にいい方法など思いつかなくて、颯斗は今はまだしんと静まっている廊下に立ち、神楽のドアに向かって小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

―――よし、これで良い。もうこれ以上は勘弁してください。

一体誰に対してお願いしているのかもわからなかったが、とりあえず懇願しつつくるりと踵を返す。

そして早速、颯斗のお願いは裏切られた。

「あれ?なんだ、昨夜のにいちゃんか?」

狭い廊下の端。颯斗がこれから下りようとしていた階段を上がってきた大柄な人影。

それはまさしく、今颯斗が世界で一番会いたくないと思っていた昨夜のあの男だったのである。

「っぎゃあああっ!!」

人間、驚きすぎると本当に漫画のような叫び声が出るものらしいと、その時颯斗は初めて学んだ。

反射的に反対側に逃げようとしたが、下へ下りるための階段は男が上がってきた場所一か所だけで他になく、一人で勝手に追い詰められた颯斗はとりあえず壁に張り付いてひきつった表情で男の様子を窺う。

男は両手に大きなスーパーのビニール袋を提げて廊下をやってくると、颯斗を見やって苦笑いを浮かべた。

「おいおい、よくわからねぇがまた随分な反応だなぁ。さすがにおっさん傷つくぞ」

「な、な、なんで、こ、ここに・・・っ?」

「なんでって・・・、ここはオレの店なんだが?」

「し、知ってるけどっ!そ、そうじゃなくて、時間、まだ早いんじゃ・・・」

近づかれた分だけ男と距離を離しながら颯斗が言うと、男は腕時計で時間を確認しつつ答えた。

「ああ、まぁ、ちょっと早いかもしれねぇけど、オレは大体いつもこれくらいに来るんだ。開店の準備もあるし、メシも食っておきたいからなぁ」

言いながら男は自らのズボンのポケットを探り、カギを取り出すと店のドアに向かう。

「そういやにいちゃん、昨夜あれからどうだった?あの後もずっと雨降ってたからなぁ、結構心配して・・・ん?」

鍵を開けようとしていた男の手が、ふと止まる。ドアノブに颯斗が掛けたビニール傘に気づいたようだった。

「―――あー、にいちゃんもしかしてこれ、わざわざ返しに来てくれたのか?」

傘を片手に振り返り、二カリと笑ったその笑顔が思いのほか人好きのする、人懐こいものだったので。

一体何を言われるのかと身構えていた颯斗は、完全に出鼻をくじかれた。くじかれすぎて、勝手に言葉が口をついて出る。

「べ、べつに!ち、近くまで来る用事があったから、ついでに持ってきただけで・・・!」

「ほう、そうか。それにしたってわざわざすまなかったなぁ。せっかくの土曜日だ。遊びに行ってたんじゃないのか?」

何気ない男の言葉に、一瞬言葉が詰まる。

そういえばもう随分と長い間、遊びになんて出かけていない気がする。特に東京に出てきてからはバイトと勉強と家事で、呑気に遊んでいる暇などなかった。そもそもそうする為の金もない。

「―――遊びとか、そういうんじゃないし。結構色々と忙しいんだよ、こう見えても」

ぼそりと落とした言葉が、なんだか妙にいじけた口調になってしまい、颯斗は内心しまったと焦った。これではまるで、やりたくてもできないことを拗ねている子供のようではないか。

そうではない。自分はそういうことに興味がないだけだ。忙しいのは本当だが、とにかく誰にも関わらず、関わられず、静かにひっそりと暮らしたいだけなのだから。

ふと、二人の間に沈黙が落ちる。

なんでここで黙るんだと不安になって颯斗が恐る恐る視線を上げると、男は感情の読めない顔でじっとこちらを見つめていた。

さっきまで人懐こく笑っていたくせに、今度は妙に冷めた大人の視線を向けられて、颯斗はひどく狼狽する。

なにか、心の中を見透かされている気がして、胸がざわついた。

やはり、この男の傍は落ち着かない。年が離れすぎているせいもあるかもしれないが、自分とはリズムのようなものが合わない。いつも大学の連中にやっているように、適当に合わせるところだけ合わせて躱すことができないのだ。

少し目尻の下がった落ち着いた瞳が、まるで全部分かっているとでも言いたげに見つめてくるから。

胸の奥の、颯斗自身もよくわからない、でもとても大事で誰にも見せないように必死になって守っているものを、簡単に暴かれてしまいそうで。

―――怖くなる。

胸に浮かび上がるその感情が確かに恐怖心だと悟った颯斗は、男から視線を剥がすとごまかす様に笑って手を振った。

「あー・・・、それじゃあ傘も返したし、もう用事は済んだので。オレはこれで・・・」

そそくさとその場を逃げ出そうとした、その時。

「まぁ待てよ」

「ひいっ!」

さっきまでの真面目な表情はどこへ消えたのか、二カリと笑った男にがっちりと腕を掴まれ、颯斗は情けなくも文字通り飛び上がった。

「な、なに、なん・・・」

「まぁせっかく来てくれたんだ。茶でも飲んでいけ」

「え、あの、ちょ、ちょっとーーっ!」

有無を言わせず、とはまさにこのことで。

そのまま掴まれた腕をぐいぐいと男に引っ張られた颯斗は、いつの間にか男が開けていた『Bar 神楽』の店内へと引きずり込まれてしまっていた。





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