やさしい人

なかむらわんこ

第1話

週末を迎えた繁華街の居酒屋チェーン店は、それはもうひっくり返るほどの喧騒に包まれていた。

給料日直後とも重なったためか、懐にいささかの余裕があるらしい会社帰りのサラリーマンやOLはもとより、こんなところに連れてきていいのかと少々疑いたくなるような小さな子供連れの家族たち。

そして。

「おい宮坂!飲んでるか!ほらほら、もっと飲めよー!」

やっと二十歳を迎え、めでたく堂々と飲酒できる権利を得た大学生のグループだ。

頼みもしていないビールジョッキを目の前にドンと置かれてしまった宮坂颯斗は、さすがに眉間に縦皺を刻んでしまった。

「あ、ちょ・・・っ、オレこんなの頼んでねぇし・・・って、聞いてねぇか」

なみなみとビールの注がれたジョッキを突き返そうにも、持ってきた本人はもうすっかり隣に座った女の子との話に夢中で、颯斗の言葉など全く聞こえていない様子だ。キンと冷たいジョッキを目の前に、颯斗はもう何度目になるかわからない溜息をついた。


オレ、なんでこんなとこにいるんだっけ・・・?

胸の内でぼやきつつ、殆ど無意識にスマートフォンで時間を確認する。無機質なデジタル表示が、まもなく午後九時を知らせようとしていた。

本当はこんなことやってる場合じゃない。オレはこう見えて結構忙しいんだ。

先週、大学に入ってからすぐに始めたバイト先の焼き肉屋が、店主の病気を理由に閉店となってしまった。もう一つコンビニの夜勤帯のバイトに週三回入ってはいるが、それだけでは独り暮らしの生活を維持できない。群馬に暮らす唯一の肉親である祖父には大学の学費を出してもらっている為、それ以外の生活費を颯斗は自身で稼ぐ必要があるのだ。

もちろん、祖父に泣きつけばそれなりの仕送りもしてもらえるのだろうが、大学へ行くと決めたときにそれだけはは絶対にしないと心に固く誓って東京に出てきていたし、祖父にもそう伝えてある。生活費を自分で工面できない状況になるようなら、大学などとっとと辞めて働けばいいのだから。

しかしとりあえずはもう少しだけ足?いてみようと考え、今夜は新しいバイト探しでもしようと颯斗は思っていた。

それなのに。

今日の大学の授業が終わった時に、数人の講義仲間から声を掛けられた。飲み会で20人程度集まるから、颯斗も参加してほしいという話だった。名目は特になかったので、ただ単に集まって騒ぎたいだけだったのだろう。

颯斗は早々に断った。きっぱりと。

そもそも颯斗には、飲み会で楽しく過ごしたいような友人は一人もいないし、作りたいとも思っていなかった。完全に孤立しているわけでもなかったが、挨拶やちょっとした会話程度をするだけの、浅い付き合い方しかしてこなかったはずだ。だから今までそういう会に颯斗が呼ばれることはなかったし、まれに声がかかることはあっても、きちんと断っていた。

今回もそうして、「また今度な」と言って別れるはずだったのに。

たまたまその時にそばにいた女の子数名が、妙に食い下がってきた。「あんまりお話したことないから、宮坂君とも話してみたい」と言いだしたのだ。

そういうときの若い女の子の勢いとは少々恐ろしい。その場のノリと流れでやたらしつこく誘ってきて、結局強引に押し切られた結果、颯斗は今こうしてここにいるというわけだ。

もちろん彼女たちには深い意図など何もなかったのだろう。現に今、そうやって強引に颯斗を連れてきた彼女たちは、もうどこに座っているのかわからない。もちろん会が始まってから一度も話してなどいない。

颯斗はまたしても溜息をついた。

バイトが一つなくなったところへ来て、ここの会費三千円はどう考えても痛すぎる。とりあえずはしばらくの間、昼は学食の50円のパンで凌ぐしかないなと考えつつ、颯斗は鞄の中にしまったままにしておいたバイト情報誌を取り出して、ページをめくり始めた。

その時、不意に学生たちの貸し切り状態となっていた座敷スペースの襖が開き、やたら元気のいい居酒屋の店員が顔を覗かせた。

「すみませーん、そろそろお時間でーす!」

二時間の予約時間は終了、後からの客がつかえているから早く出て行けというわけだ。

まさに宴もたけなわ、いい感じに酔いも回ってこれからというときに水を差され、学生たちからは不満げな溜息がこぼれたが、颯斗としては待ってましたの声だった。

やっと帰れる。これで帰れる。とにかくさっさとアパートに戻って、風呂に入ってバイトを探さなければ。

会費はもう幹事に払ってある。颯斗にはもう、ここでやるべきことはない。後ろで「二次会行くやつー!」とでかい声を誰かが張り上げているが、そんなのは知ったことではない。

名前くらいしか知らない、中には名前すら怪しいやつらもちらほらといる中での飲み会なんて、颯斗には辛い以外の何物でもない。

関わりたくない。関わらないでほしい。

まだまだにぎやかな学生たちに背を向けて颯斗は一人荷物をまとめると、安物の薄いダウンジャケットを羽織り、マフラーを巻いて、店内の喧騒に紛れるようにしてさっさと店を後にした。


ところが、である。

居酒屋のガラス戸を開けて外に出た颯斗は、唖然として空を見上げていた。

いつの間にか雨が降っていたのである。しかも結構な勢いで。

当然だが傘など持っていない。店に入るときは確かに晴れていたと・・・、あ、いや、もしかすると曇っていたかも?

そういえば今朝は天気予報を見る暇もなかった。朝六時までコンビニのバイトに入っていて、いったん家に戻ってから準備をして大学へすぐに向かったからだ。

しくじったなぁと颯斗は口の端を歪めた。

少し行けばコンビニがあって、傘ならそこで簡単に手に入れることもできるだろうが、今日飛んで行ってしまった三千円のことを考え、一層の節約生活をせねばならないと思いなおす。

濡れるくらい大したことではない。幸いにして身体は頑丈だ。こんなことくらいで風邪などひかないだろうし、頑張って走れば五分でとりあえず駅には着ける。アパートの最寄り駅からアパートまでは自転車だ。まぁ、何とかなる。少なくとも死ぬような問題ではない。

自分にそう言い聞かせて、颯斗は濡れたアスファルトに一歩を踏み出した。


しかしながら、ツイていない時というのは、とことんツイていないものだ。

颯斗が雨の中を駅に向かって走り始めて間もなく、まるで空がそれを待っていたかのように雨脚が更に強くなった。

傘を差していても歩きづらくなるような強い雨に全身を打たれ、駅まであともう少しというところだったが、颯斗はたまらず適当に見つけた細い路地に逃げ込んだ。

店舗や雑居ビルが過密なほどに立ち並ぶ地域だ。屋根とはいかないまでも、建物に張り付きさえすれば、そこからわずかに張り出た庇や電柱の影が、少しの雨よけにはなってくれる。ここで雨脚が弱まるのを待てばいい。

わずかに上がった息を整えながら、颯斗は大粒の雨を容赦なく落としてくる夜空を恨めしそうに見上げた。

わずか数分のことなのに、すっかりと水分を吸ってしまったダウンジャケットとジーンズがひどく重く感じる。シャワーを浴びた後のように濡れそぼった髪が額や頬に張り付いて気持ち悪い。そこへ加えて冬の冷気が濡れた体に突き刺さるように纏わりついてきて、颯斗はたまらず細身の体を更に縮めた。

逃げ込んだこの路地はバーやスナックの入った雑居ビル同士の隙間らしかった。

明るいネオンの明かりもここまでは届かず、周囲の喧騒からほんの少ししか離れていないのに不気味なほど静かだ。まるで都会の中にぽっかりと開いた闇の穴みたいだと颯斗は思った。

ここから表の通りを覗き込むと、人々は雨の中にも関わらず、楽し気に行き交っている。

一本の傘に仲良く寄り添って入るカップルも、赤い顔をしてご機嫌なサラリーマンも、大きな声で笑いあっている若い女の子たちの集団も―――。

いっそ毒々しいほどのネオンに照らされたあちら側と颯斗のいるこの薄汚れた路地裏では、すぐ近くなのにまるで別の世界のようだ。

もし今ここで、颯斗が消えていなくなったとしても、きっと誰も気づかない。あちら側の人間には、自分は見えていないのではないか。

そんな漠然とした不安のようなものが、冷え切った心の隙間にふと忍び寄ってくる。

「・・・べつに、それでもいいけど」

路地に吹き込んでくる冷たい風にふるりと体を震わせながら、颯斗は母親譲りだと祖父から聞いた大きなアーモンド形の瞳を伏せた。

べつに構わない。誰にも気づかれなくても。むしろその方がいいじゃないか。どうせみんな、そのうち自分から離れていく。それなら最初から誰もいない方がいい。誰も必要ない。

ぎゅうっと心が硬く凍っていくような気がした。

「そうだよ、オレは一人でも・・・」

自分自身に言い聞かせるように、無意識に呟いた時だった。

不意に、颯斗の立っていた場所のすぐ脇にあった鉄のドアが、耳障りな音を響かせて開いた。

「うわ・・・っ!」

そこにドアがあることさえ気づいていなかった颯斗は、あまりに驚いて悲鳴を上げて飛び退った。

飛び出るんではないかと心配になるほど激しく打つ心臓を宥めるように胸に手を当て、恐る恐る開いたドアの方を窺ってみる。

そういえば忘れかけていたがいくら静かな路地裏とはいえ、雑居ビルということはここにもたくさんの店舗なり事務所なりが入っていて、そこにはたくさんの人がいるはずなのだ。雨よけとはいえ勝手に入り込んだりしてビルの人に怒られやしないだろうかと、今更になって心配になってきたのである。

やがて開いたドアから、まずは大きなポリ製のゴミ箱が出てきた。続いて、それを運んできたのであろう大きな黒い人影。

影はゴミ箱をドアの脇にやや乱暴な手つきで追いやると、そのままのそりと路地に出てきた。

「なんだよ、もう雨降ってやがるじゃねぇか」

ぼそりと呟かれた声音は低く落ち着いていて、自分よりもずいぶんと年上の男性を颯斗に想像させる。

逃げるべきか、謝るべきか、はたまた無視するべきなのか。

どうするのが最善の策なのかわからなくて固まっていた颯斗に、どうやら影の方が気づいたらしかった。

「―――おう、びっくりした。こんな暗い場所で一人でどうしたんだ、おねえちゃん」

路地は薄暗かったが、暗さに目が慣れてきていたせいか、表の通りから差し込んでくるネオンの明かりで颯斗はその人物を確認することができた。

がっしりとした広い肩幅に、バランスの取れた長身の体躯。やや無造作に後ろに梳き固められた黒髪と、そのせいではっきりとあらわになっている顎のごつごつしたラインが妙に男臭くて色気がある。年齢はどれくらいなのだろうか。少なくとも颯斗よりはずいぶんと年上なのは間違いない。

―――が、今はそんなことはどうでもよかった。

「・・・お、おねえちゃんって、な、なにそれっ?!オ、オレ、男なんですけど!」

確かに、目の前に立つこの男に比べたら、自分は随分と華奢なのかもしれない。背だって低い、それは認める。顔立ちだって、母親似だといわれるだけあって、目が大きかったり睫毛が妙に長かったりして、男らしさからは若干遠いかもしれないが、それでも女性に間違われたことなんて今まで一度たりとてない。当たり前だ。

決して寒さのせいだけではなく肩を震わせながら颯斗が睨み上げると、男はたいして悪びれた様子もなく無遠慮にもこちらをひょいと覗き込んできて、

「ああ、本当だ。確かに男だな。いやぁわりいなぁ、暗くてはっきり見えなかった。ちっこくてひょろっとしてるもんだから、てっきり女の子かと」

もしかしてこの男はこれで謝っているつもりなのだろうか。謝罪どころか、さらにひとつふたつ失言を追加されたような気がするのだが、たぶんきっと気のせいではないはずだ。

「あ、あんたなぁ・・・っ!」

とにかく何か反論したかったが、こういう時普段から他人との接触を避けているせいでコミュニケーションスキルが育っていないことが裏目に出る。平時ならともかく頭に血が上っているときは上手い言葉が出てこないのだ。

歯ぎしりするしかない颯斗に気づいているのかいないのか、男の態度は実に飄々としたものだ。颯斗が自分より随分と年下であることに気づき、小馬鹿にしているのかもしれない。

「それで?えらくずぶ濡れみたいだが、傘は?持ってねえのか?」

「・・・・持ってない」

「あらら、そりゃ災難だ。このクソ寒い中でそんだけ濡れりゃ、いくら若くても風邪ひくぞ」

「へ、平気だよ。走っていけば、駅なんてすぐそこだし」

「いやそれにしたってなぁ・・・」

参ったなと頭を掻く男の目元は、存外にも穏やかで優しい光を讃えているように見えた。大きな体と男らしい顔の造形とは対照的で、警戒心を露わにしていた颯斗の身体から少しだけ力が抜ける。

失礼な人物には違いないが悪人でもないようだ。

そもそも勝手にこのビルの裏に入り込んで休ませてもらっていたのはこっちなのだから、颯斗とてあまり偉そうなことを言えた口ではない。怒鳴られたり追い出されたりしなかっただけマシだと思うことにして、少々不本意ながらも颯斗はぺこりと小さく頭を下げた。

「それじゃあオレ、もう行くから。雨宿りさせてもらって、ありがとう」

そう言って踵を返しかけた時だった。

「ああっと!ちょ、ちょっと待った!」

大きな手にいきなり二の腕をつかまれ、引き戻される。

突然のことで颯斗は呆気に取られて男を見上げた。

「な、なに・・・っ」

「そんなナリで帰して、風邪でもひかれたらこっちの寝覚めが悪い。ちょっと待ってろ。いいか、帰るなよ?そこでそのまま待ってろよ?すぐ戻るからな」

しつこいほど念押しして、男は出てきたドアからビルの中へと戻っていった。

一体、なんだというのだ。

男の言いつけを守っているつもりなどなかったが、突然の展開に頭がついていかない。呆気に取られているうちに、結果として颯斗は男が戻ってくるのを大人しく待つことになってしまった。

相変わらず雨は降り続いている。また少し気温が下がったかもしれない。いつの間にかすっかりと冷え切ってしまった手がかじかんで上手く動かせなくなっていることに気づき、颯斗は赤く染まった指先に息を吐きかけた。

と、その時。

ドタドタと大きな足音がどこからともなく近づいてきたかと思うと、目の前のドアが壊れんばかりの勢いで開いた。続いて、例の男が飛び出してくる。

「おお、よかったいたいた。ちゃんと待ってたな。いい子だ」

満足げな笑みを浮かべる男に、「ガキ扱いするな」と思わず反論しかけた颯斗だったが、不意に視界が何か大きなものに覆われて周りが見えなくなり、言葉を飲み込むしかなくなってしまった。

「わっ、ちょ・・・、な、なに・・・っ?」

その正体が大きなタオルだと気づいたのは、男が少々乱暴な手つきで濡れそぼっていた颯斗の髪を拭き始めてからだった。

「あ、あの・・・っ!」

本当にもう予想外の出来事の連続で、颯斗には男の手を振り払うことも何か言葉を紡ぐことも出来ない。ただされるがままに髪を拭かれる。

そもそも、同性とはいえ他人とこんなに近い距離で接触したのは、どれくらいぶりだろう。ましてや相手は、名前もなにも知らない、つい五分ほど前にたまたま出会った男だ。

普段から大学の講義もなるべく他の生徒のいない席で受けているし、食事も一人だ。一日中誰とも話すことなくそのまま帰宅という日さえある。バイトに関してはさすがに全く誰とも言葉を交わさないというのは無理だが、それでも極力接触を避けてきた。

なのに、今はどうだ。

素性のよくわからない年の離れた怪しい男に、自分は今、濡れた髪を拭いてもらっている。

タオルを通して伝わってくる男の手の温度が、冷えた体にぬくもりとしてじんわりと残っていくことに、颯斗は戸惑いを感じていた。

こういう時は、どうすればいいんだっけ。何か言わなくちゃならないんだろうか。

本当はこんなのは嫌いなはずだった。

初めて会ったばかりの、名前も知らない相手と言葉を交わすことも、ましてやそんな相手の息遣いが聞こえてきてしまいそうな距離まで、近づくことも―――。

すぐにでも男の手を振りほどいて、やめろと大声で怒鳴ることも出来たかもしれない。

でもなぜかその時の颯斗には、何もできなかった。

ただ、男の体温が少しずつ少しずつ浸み込んできて、胸の中に小さな火を灯すような感覚に、ただじっと耐えることしか出来なかったのである。

「ほら、やっぱり震えてるじゃねぇか。ガキが強がってばかりいても、ろくなことにならねぇぞ」

震えているのはなにも寒さのせいばかりではない気もしたが、颯斗はそれについては何も言わなかった。

タオルの陰に隠れて、ぐっと唇を噛む。

「・・・ガキって言うな」

「ガキだろうが。他人の善意を素直に受け取れないうちは、まだまだガキなんだよ」

男の口は相変わらず悪かったが、最初ほどの苛立ちも怒りも感じなかった。ただただ、このよくわからない男とのよくわからない接触が早く終わればいいのにと、それだけを願っていた。

「―――よし、終わり。とりあえずはこれで良いだろう」

濡れた髪を拭き終え、男はまた唐突に颯斗を解放した。

タオルに覆われていた世界から急に現実に引き戻されたような感覚に陥った颯斗は、乱暴にかき混ぜられたせいであちこちへと好き放題に向いてしまった毛先を慌てて整える。もちろん乾燥しているわけではなかったが、雨に濡れた髪がじっとりと額や首筋に張り付くような嫌な感触はすっかりとなくなっていた。寒さも幾分か和らいだように感じる。

「ど、どうも・・・・」

なぜだか目を合わせづらく、俯いたままぼそりと言った颯斗に、男はうんと頷いてから続けた。

「本当なら店に入ってもらって、服も乾かしてやりたいところなんだがな。今ちょっとタイミングが悪いことに、来てる客の層が悪い・・・。お前みたいなのを連れてったら、いろんな意味で良いカモにされそうだからな、こんなことしかしてやれなくてすまんな」

「い、いえ、もう充分・・・です」

バカにされたかと思うと変に諭すようなことを言ってみたり、不意に優しくしてみたり。

まるで掴みどころのない男の態度に、正直なところ颯斗はもういっぱいいっぱいだ。とにかく早く解放されたくて、男の前から逃げ出したくて、そればかりを考えていた。

「それじゃあ、オレはこれで・・・」

「あ、待て待て!」

壊れかけのロボットのようにぎこちなく手足を動かして挨拶もそこそこに男に背を向けかけたのだか、またしても引き留められた。

もういい加減にしてくれと思いながら顔だけを振り向かせると、男の手がビニール傘を差し出している。

「これ、持ってけよ」

「え・・・」

「雨、このまま朝まで降り続くらしいからな。せっかく拭いてやったのに、また濡れるつもりか?」

「や、でもあの・・・っ」

断ろうとした颯斗の手に、男が強引に傘を押し付けてくる。

「言ったろ。こういう時は、素直にありがとうって言うもんだ。ほら、言ってみろ?」

「う・・・」

「はい、ありがとうはー?」

一瞬でも、優しい人なのかもしれないと思った自分がバカだった。

今目の前でニヤニヤと口の端を上げていやらしく笑っている男の顔を見ていると、ただ単に颯斗を揶揄って遊んでいるに過ぎないと確信できる。

「っありがとうございました!」

完全に頭にきた颯斗は、半ば意地になって男の手から傘をひったくると、乱暴に開いて今度こそ男に背を向けた。

足元の水たまりを跳ね上げて走り去る颯斗に、少し遠くなった男の声がかかる。

「気を付けて帰れよ」

その声はまた、なぜだか酷く穏やかで優しく聞こえた気がして。

颯斗は反射的に振り返りそうになるのをぐっと堪え、返事もせずにそのまま駅に向かって走り続けたのだった。

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