Valentine's Day
織音りお
Valentine's Day
家に帰ると、何やら甘い香りがした。
「おかえりなさい」
玄関のドアを開ける音に気がついたのだろう、キッチンの向こう側から妻がひょいと顔を出した。
「あぁ、ただいま」
返事をしながら靴を脱ぐ。床の硬さに、冷えた足先がじんと痺れた。
ちょっと待って、今行くね、という声と共に、手を洗う音。それから直ぐに水音はやみ、妻はスリッパをパタパタといわせながら駆け寄ってきた。
使い慣れた桃色のエプロンの裾で手を拭いて、両の手を差し出す。
「今日もお疲れ様。コート脱いで、かけちゃうから」
「あぁ、ありがとう」
「一応お風呂も沸いてるし、お夕飯の残り物もあるからね」
「分かった」
付き合い始め、結婚し、そして子どもができてからも、妻は俺の身の回りの世話を焼きたがる。
それは俺が亭主関白だからとか、妻が必要以上に気を遣っているとかいう理由ではない。最近では〝時代後れ〟ともいえるような帰宅後のやり取りも、強要しているわけでなければ、別にご両親の影響というわけでもないらしい。
単純に妻の性格なのだと気がついたのは、もう随分前のことだ。
「ところで、この匂いは?」
黒いロングコートを手渡し、俺は玄関まで広がっている甘い匂いを尋ねた。
「ああ、これね」
コートを受け取り、妻はふふっと顔を綻ばせる。
「真由がクッキーを焼いてるの。明日クラスの子達に配るんだって」
「クッキー?また何で突然」
「もう、孝ったら」
妻はむっと顔をしかめた。相変わらず表情がコロコロと変わる。
「それ、本気で言ってるの?」
本気なのだが、そうだと頷くと更に機嫌を損ねそうだ。ここは一つ、無難に謝っておくことにする。
「ごめんごめん。何があるんだっけ」
俺が下手に出ると、妻は怒りながらも必ず相手をしてくれる。それは今日も例外ではなかった。
妻はため息を吐き、そして教えてくれた。
「明日は、バレンタインデーよ?」
あ、と時計を確認。
そうか、今日は2月13日だったけな、と思い出す。会社で書類に日付を打ち込んだのに、明日がバレンタインだなんて1ミリも思い出さなかった。
そういえば会社からの帰り道、世間はピンク色に染まっていた気もする。近所のコンビニには、赤やらピンクやら幾本もの旗が立っていた気もする。
だがそんな浮き足立った空気に気がつかないんだから、俺はもうバレンタインを特別に思っていないらしいことも確か。
「すっかり忘れてたな」
「何言ってるの。孝も、昔はドキドキしてたでしょ?」
「いつだよ」
「バレンタイン当日に決まってるじゃない」
「……覚えてないぞ」
「まったく。おじさんになったのね」
「俺がおじさんならお前はおばさんだろう」
そんなやり取りをしながらリビングに入る。––––おっと。ここは玄関よりも匂いが濃い。リビング中に、焼きたてのクッキーの香りが立ち込めている。
鼻腔をくすぐる匂いは、甘く香ばしい。これは大分いい感じじゃないか。
「あ、お父さん。おかえりなさい」
キッチンから、娘の真由が顔を覗かせた。
「ただいま。真由、クッキーはうまく焼けたのか」
「うん!ほら、見て見て!結構きれいじゃない?」
真由がはしゃいだ声をあげて、きれいに並べられたクッキーを指差した。
金網の上に並べられたクッキーは、星やらハートやらに切り抜かれた可愛い形をしている。
確かに美味そうだ。我が娘ながら、なかなかの出来栄え。
「うん、美味そうだ」
そう言うと、真由はえへへと嬉しそうに笑った。
バレンタイン、か。
リビングのソファに腰掛けながら、俺はぼんやりと考えた。
学生の頃は、毎年のバレンタインが楽しみだった気もする。
意中の子から貰えるか、意中のあの子は誰にあげるのか。単純に貰ったチョコの数で競ってたこともあったか。
馬鹿な男子の、楽しくも辛い一日。
懐かしいな、と思うと同時に、自分が歳をとったのだと思い知らされる。
「はい、孝。コーヒー」
「おう」
なんだかんだと気がきく妻である。
「わたし、先にお風呂に入ってくるね」
「おう」
妻が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、俺は20年前のあの日を思い出していた。
*ー*ー*ー*ー*ー*ー*
「どうしよう、孝。何作ればいいんだろ」
隣で悩ましげに考え込む由梨を見ながら、俺はため息をついた。
「バレンタインって、そんなに特別な行事かよ」
二月に入ってから、学校からの帰り道はひたすらこの話題だ。
もうそろそろいい加減にして欲しい。
「当たり前じゃん!バレンタインは!女の子にとって大切な行事だもん!」
さっきまでの表情はどこへやら、由梨は眉根をぐんと寄せてまくしたてた。そのまま、ツンとそっぽを向く。
白い頰が薄っすら赤く染まっているのは、寒いせいか怒ってるせいか。
とりあえず俺は面白くない。
いや、バレンタインが嫌いなわけじゃないんだ。特別な日だって思ってはいる。むしろ彼女いない、年頃の男勢の一人としては、義理であろうと貰えることが嬉しいのだから。
それでも、由梨が何を作ろうか悩んでいる姿は面白くない。だって、
「うぅ……隼人先輩、何が好きなんだろぉ」
––––––あぁ、まったく。これだから。
一言目には隼人先輩。二言目にも隼人先輩。三言目にも四言目にも、口を開けば隼人先輩。
バスケ部のエースで爽やか系イケメンだからって、何がそんなにいいんだ。いや、それ全部がいいのか。
でもお前、隣で毎日送ってる俺の気持ちも考えろよ。そのチョコ、一番欲しいの誰だと思ってんだ。
そんな本音は、幼馴染として10年も一緒にいる由梨には言えるわけがなかった。
**
バレンタイン当日。
俺はいつものように、家まで由梨を迎えに行った。
「由梨!孝くん、もう来てるわよ!」
「わかってる、もう行く!」
いつもいつもごめんなさいね、と由梨の母親が頭を下げた。これも日常茶飯事だ。
「今日がバレンタインだからって、昨日の夜からずっとバタバタしてるのよ」
「そう、ですか……」
俺にとっては全然嬉しくない情報だ。朝からちょっと憂鬱な気分になる。
そうこうしているうちに、由梨が慌てて飛び出してきた。余程急いで支度したのか、制服の赤いリボンが曲がっている。
「おまたせっ!」
「おう」
「じゃあ、ママ、行ってくるね!」
「行ってらっしゃい」
母親に一礼して、俺は由梨と並んで歩き出した。
「いやー、実は昨日、遅くまでラッピングしてて寝坊しちゃった」
由梨はそう言って照れくさそうに笑った。
「まぁ、そんなことだろうと思ったよ」
「ひどい‼︎」
ひどいのはお前だろ、とは言えない。その代わり、ちょっとだけ意地悪をして制服のリボンについては黙っている事に決めた。せいぜい、チョコを渡した後にでも気づけばいい。
「で、そのチョコ、上手くいったのか?」
意地悪な気持ちのまま聞いて、途端にちょっと後悔。俺、何でこんな話題振ってんだろ。
そんな俺の気持ちに気がつくはずもなく、由梨は照れくさそうな表情のまま平らな胸を張った。
「もちろん!過去最高傑作だよ!」
「過去も何も、初めて作ったんだろ」
「ちょっともう、屁理屈!ばか!」
「屁理屈じゃなくて事実だろーが」
あぁ、俺、ホントに何言ってんだ。バカなんじゃねぇの。そうだ、バカだ。
由梨の持っている紙袋から、薄いピンク色のラッピングが覗いている。そんな事に気づいてしまうところも。
「まぁ、なんだ。––––チョコ、先輩に渡せるといいな」
「あ、……うん」
「何だよ、歯切れ悪ぃな」
「や、孝が優しいのって何か変じゃん」
「おい」
「でも、ありがと。頑張る」
由梨は少しだけ俯いてそう言った。
緊張してるんだろうな。
そう思ったら少しだけいじらしい。染まった頰は、鼻の頭と同じ薄紅色だ––––まあ、どーせその隼人先輩のことを考えてるんだろうけどさ。
どうやら俺のバレンタインは、失恋記念日になるかもしんねぇな。
そのまま学校に着くまで、由梨とは言葉を交わすことはなかった。
じゃあと軽く手を振って、俺たちはそれぞれの教室に別れていった。
**
放課後。
帰り支度をする俺に、クラスメイトの飯田裕樹が話しかけてきた。
「なぁ、孝」
「ん?」
「お前、チョコ、貰えた?」
「あー……まぁ、部活の先輩から何個か」
「先輩っ⁉︎」
「なんだよ、うっせーな」
昼休み、一人で廊下を歩いていたら、同じ部活の先輩たちに呼び止められチョコを貰った。続けざまに、三人分。
どうやら先輩たちは気に入った後輩に配っているらしく、他の同期には秘密ねとかなんとか念を押されたが。聞いた感じ俺は一部の先輩に人気らしい。
「孝の先輩たちって美人多いじゃんよー。まじで羨ましいわ」
「そんなことないって」
こっちは、由梨に人気じゃなきゃ何も嬉しくねぇんだよ、と心の中で付け加える。これからまた一緒に帰るのだ。きっとチョコを渡したであろう由梨と。
––––––なんか、考えると結構辛いな。
「じゃ、俺、そろそろ行くわ」
カバンを掴んで、立ち上がる。
「おーす。今日も佐々木と帰んの?」
「おう」
「いいなー。どーせ佐々木もくれんだろーなー」
飯田がわざとらしくため息を吐いた。
––––––お前、俺の気持ちも知らないで。
「……んなわけ、あるかよ」
「え?」
「いや、何でも。じゃ、また明日な!」
ぽかんと口を開けた飯田にひらりと手を振って、教室を後にする。学校中のバレンタイン一色の空気から、早く解放されたかった。
**
「あっ!孝、遅いよもう!」
校門に行くと、由梨は既に待っていた。
「先に帰っちゃったのかと思ったじゃん!」
由梨がぷく、とほおを膨らませる。正直、今一番会いたくない顔だ。
俺は何事もないように装いながら、少しだけ顔を背けた。
「待たせて悪かったな。帰るか」
「当たり前じゃん!」
そうして、俺たちはいつものように歩き出した。
「それで、孝は、いくつ貰ったの?」
道すがら興味津々な顔で、由梨が俺の顔を覗き込んできた。
「いくつって何を?」
「もう、意地悪!チョコに決まってるじゃん!」
「そんな怒んなって。からかっただけだから」
「じゃあ教えてよ!」
「––––三つ。部活の先輩からな」
平常心、平常心だぞ、俺。
心の中は早く家に着けと願うばかりだ。
「ふーん……」
俺の返事に、由梨は少しだけ唇を尖らせた。え、俺、なんか変なこと言ったっけ。
「孝、何気に上級生に人気あるもんね」
戸惑う俺を置いて、由梨は続けた。
「隼人先輩も言ってた。女子バスケ部の先輩も、孝のことかっこいいって言ってるって」
––––––なんっでそこで隼人先輩なんだよ⁉︎
「いや、そんなことねーって」
「そんなことあるよ!」
「何ムキになってんだよ」
「ムキになってないもん!」
「はぁ?」
由梨の言動が分からなくなって、俺もイライラしてくる。
目の前に、由梨の家の赤い屋根が見えてきた。
俺はもう、我慢できなかった。
「お前、さっきからなんなんだよ!」
怒鳴った声に、由梨はビクッと固まった。そんなの知ったことか。俺は構わずに続ける。
「隼人先輩、隼人先輩、隼人先輩!朝も帰りも、最近そればっかじゃねーか!俺が先輩に人気あろうが、どうしようが、チョコ貰おうが、お前には関係ねーだろ!」
––––––言ってしまった。
少しだけ息が荒い。
由梨は固まったまま、なぜだか悲しそうな顔をしていた。
「……ごめん、ちょっと言い過ぎた」
呟くように出た謝罪に、答える声はない。
「じゃあ、な。また、明日」
俺は由梨に背を向けた。
言ってしまったことは仕方ない。後悔したところで、もう、戻れない。
さすがに、関係ないだろは酷かったか。
でも、俺のメンタルもそろそろ限界だった。あれだけ隼人先輩隼人先輩って言われ、失恋し、それでいて勝手にムキになられたら訳が分からない。
––––––その瞬間だった。
後ろから、ぎゅっと由梨が抱きついてきた。
「ちょっ、おまっ!」
––––––待て待て待て!
「関係あるよ!」
咄嗟のことに慌てる俺に構わず、由梨は叫んだ。
「孝が先輩に人気あるの、わたしには関係あるもん!」
だって、と言って由梨はカバンから何かを取り出すとぐいと俺の胸に押し付けた。
「だって、わたしは孝が好きだから!」
「なっ……」
胸に押し付けられたそれは、俺が朝見た、薄いピンク色の包みだった。透けて見える中には、ハート型のチョコレートケーキが入っている。
言葉を失っている俺に、由梨はまくしたてた。
「隼人先輩は、女子みんなの憧れで。確かにかっこいいし、バスケ部のエースですごい人だけど。別に付き合いたいとかそんなんじゃなくて。今日だって友達と、みんなでチョコ渡そうねって約束してただけで」
––––––そんなことは、初耳だった。
「顔見たら確かにドキドキするけど、それはなんか、アイドル見て騒いでるみたいな感じで」
––––––でも、ようやく納得した。
「隼人先輩には、普通にチョコ受け取って貰った。でも、特別なチョコじゃないの」
そこまで言うと、由梨は俯く。その頬は今までで一番紅い。
もしかしたら、もしかするのか。
俺は、本当に、期待しても。
「孝に、一番、ちゃんとしたチョコ。本命チョコ、あげたかったの」
心なしか、由梨の声は震えている。
もしかしたら、なんて思うのはやめにした。
「だからっ!よかったら、これ、貰って……!」
そう言って、もう一度押し付けられたチョコ。綺麗にラッピングされたそれを、俺は由梨の手ごと包み込んだ。
「なっ」
真っ赤に染め上がる耳元に、そっと顔を近づける。
そして俺は答えた。
由梨の、全力の、この想いに。
「由梨、さんきゅーな。俺、ちゃんと受け取ったから。大事に食べるから。––––俺も、由梨が好きだよ」
顔を上げた由梨は、此れ以上ないくらい真っ赤になりながらも、嬉しそうに大きく頷いた。
*ー*ー*ー*ー*ー*ー*
「孝」
いつの間にか風呂からあがった妻が、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「いやだ、何にやにやしてるの」
「にやにやなんてしてない」
「そう?とても幸せそうな顔してたけど」
そう言うと、妻はふふっと微笑む。
こいつには、もう何でもお見通しだな。
「そろそろ寝るか」
俺はソファから立ち上がった。
昔を懐かしんでいたら、どうやら日付を跨いでしまったらしい。
明日、いや、今日も朝から仕事だ。もしかしたら職場でも、チョコレートが配られるかもな。
そんなことを考えていると、はい、と妻が何かを手渡してきた。
「ん?」
「今日はバレンタイン、でしょう。わたしも作ったのよ」
受け取った手のひらには、薄ピンク色の箱。
「由紀が作ってるのを見てたら、何だか懐かしくなっちゃって。ここしばらく手作りなんてしてなかったから、たまにはいいかなって思ってね」
「開けていいか?」
「もちろん」
妻がにこにこと見守る前で、俺はそっと箱にかけられたリボンを解いた。丁寧に結ばれた赤いリボンがするりと解け、なめらかに手のひらを滑る。
そうして開けた箱の中。
「––––––いつかのバレンタインを思い出すな」
そこには懐かしい、ハート型のチョコレートケーキ。
「ありがとな。大事に食べるよ」
俺の言葉に、今は妻となった由梨が、あの日の笑顔で頷いた。
Valentine's Day 織音りお @orine_rio
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