第3話 はるかなる東より(3)

 雲の垂れこむ夜はまるで時が凝ったような静けさで迎えられる。虫も鳴かない。じっとりとした暑気を払う風もない。

 水薙守みなかみの御所内では法度はっととされる夜のかがり火にかわり、要所には忍が控えている。彼らは寄り添う柱や軒下や庭石に気配を溶け込ませ、常人にその存在を気がつかせない。

 その、渡り廊下に、どよりと影を落とす巨大な質量があった。蛇が藪を這うより細やかな擦り音は二足歩行が為すものだ。躓くことなく、道を過たず、常闇をしゅるりしゅるりと進む。

 聴覚に優れた忍はあるいは気がついたろう。その足音が酷く不均衡であることに。上半身の荷重から、さらには脚の悪さから、身体が右に左に傾ぐことに。

 夜目の利く忍にはおそらく見えたかもしれない。胸は布を纏わぬ成年男子のそれ。袴には三門直系を表す菱形の花と魚の鱗の紋様。人の四肢に、獅子の頭をいただく異形の姿が。

 人の肉を借りた神の姿だとされるものだ。

 ――御姿を見てはなりません。口をきいてはなりません。全てを神に委ねるのです。

 死んだ乳母の嗄れ声が耳について離れない。こうなっては呪詛以外のなにものでもない。

 たとえば食事の前の小さな祈りの先にある神様、たとえば春を呼び豊穣をもたらす神様、花や木々や水や風に宿る神様、それらはハルカにとって好ましい。見えなくとも感じられなくとも畏敬の念が胸を熱くする。

 けれど、真夜中に邸を練り歩くその神とやらは怖ろしい。幼い頃、蝋燭の明かりも許されぬ暗闇に、丹前たんぜんを頭から被って、しゅるりしゅるりの音が遠ざかるのを祈っていた。今こそ天井の狐のような龍のような板目が化けて、退治してくれたらと。

 十三になったハルカはあれが何なのかわかる。

 だからこそ一層それが怖ろしいと思う。おぞましいと思う。

 あれは神ではない。神であってたまるか。

 足を擦る音は六瓢舎むびょうしゃの、ハルカの部屋の前で止まった。麻の葉を描く組子細工の障子がするすると開いていく。ぶふうというどこか間の抜けた息遣いが部屋の四隅まで届く。びっしりと剛毛に覆われた獅子の頭部が左右に振れる。かつては眼があり今は虚になった切れ目が今にも雪崩れそうな書物を一瞥し、寝間へと続く襖をとらえた。噛みあわせの悪い顎の隙間から、再度ぶふうと音が立つ。

 いっそう濃くなる暗闇のせいか、期待と焦燥が手元を狂わせるのか、引手を爪で何度も引っ掻いて襖は開かれた。

 簡素な部屋だ。天井、床、壁にいたるまで、三門の姫の寝所とは思えない素っ気なさ。奥に幾つか几帳きちょうがあるが、壁際に押しやられて用途を為しているか怪しい。

 間抜けた広い寝所の真ん中に天蓋があって、その中で重ねられた緋色の丹前が微かに上下している。

 あっけにとられて思わず立ち止まった足が、袴を引きずって進みだす。

 黒沈香くろじんこうの匂いが強くなる。

 鼻息は荒く、ぐじゅぐじゅとした水音がくぐもって、獅子の頭と人の胸元の境目からだらだらと滴った。怒張した下腹部が袴の形を不格好にしていた。もがくように両腕で宙を掻いて均衡をとりながら天蓋を摑んで引き下ろす。まろび転ぶ勢いで覆いかぶさり、中身までむしる強さで丹前をはぎ取り、

「ばハっ、は、はぐ、はルガ――」

 獣頭はぐっと息を呑んだ。

 喉元に、毛皮越しの鋭利な刃。あとわずかでも力を込めたら喉を貫くだろうぎりぎりの圧迫。

 刃で獣頭をじりじりと押しやり、布団から腹の力だけで身体を起こしたの顔に表情はない。血が通っているのか、息をしているのかわからぬほどに静謐で、能面のようだ。立ちのぼる香の匂いは確かにハルカのものだ。

 獣頭がそれをハルカでないと認識すると同時に、ハルカ当人は几帳の影から姿を現した。透かし彫りの扇を優雅に傾けて目許だけをみせる。計ったかのように雲が割れて鏡の月が六瓢舎を明らかにする。獣頭は落ち着きなく二人のハルカを交互に見やる。

「あれ、神とやらはの子も好むか。どうぞ続けられよ」

 青白い月影を踏んで、ハルカはしとしとと歩む。

「いくら神に仕える三門の姫神子ひめみことはいえ、我は騎士の国へと参るゆえ、この身は清らかでなくては。獅子頭の神に宇気比うけいなどせずとも我は男を知らぬ身体よ」

 純潔無垢の肉体であることの証をたてるために、まぐわうことでそれを証明するという神事のおぞましさに身震いしたが、ハルカはおくびにも出さず、刃を突きつけるの傍らに立つと怒気を含む声を響かせた。

「疾く去ね。獅子頭の神。おまえにくれてやる御饌みけなどここにはない」

「姫様」

 はまばたきのうちにハルカの腰を抱いて後方へ飛んだ。正確にはおそろしい速さで畳をにじり壁際まで摺り足で下がったのだが、ハルカは目の前の獣頭が、四つ這いになり、毛を逆立たせた様に目を奪われて声もあげられない。

 獣頭は床に落ちた天蓋を立てた爪で引き裂いて前掻きし、くぐもった呻きをあげて駆け出した。すぐに襖に衝突して酷い物音をたてる。破れた襖を蹴って異国の敷物を乱し、組子細工の障子戸をバラバラにして、六瓢舎は夜の静けさを取り戻した。

 あまりに静かで、月光からさやさやと音がしそうだ。

「……よもや本物の神が降りていたか、それともただの獣憑けものつきであったか」

 ハルカは長い溜息をついた。胸が空っぽになるまで吐ききって、隣のを見やる。

 短刀をどこぞにしまい、襟元を正した彼女と正対すると、鏡をみているのとなんら変わりない。片眉をひそめて首を傾けると、そっくりそのまま真似してきたのでハルカは小さく笑う。

「変装どころか、まるきりわたしじゃないのカナタ」

「骨格を変えることもできますが、今回は化粧とかつらだけです。薄暗さも手伝っているのでしょう」

 眺めただけでは違いがわからずハルカはカナタの頬にそっと手を触れてみる。

 カナタの頬は熱かった。

 ハルカはすぐに手を引っ込める。カナタの頬が熱いのではなく、自分の手が冷たいことを悟ったのだ。扇を取り落して手で手を包んだ。擦り合わせて胸に抱くが、そのうちに膝が震えだして耳鳴りまでする。

「ハルカ様、こちらへ」

 手を引かれ、荒らされた寝所をあとにして壺庭に面した縁側に出る。月は再び雲の中に埋もれ、庭には闇が息をひそめている。

 カナタはハルカを座らせるとまず燈台とうだいに火を灯した。次に石燈籠いしどうろうに、違い棚に飾ってあった三つ又の燭台しょくだいに、さらに軒下に吊るしたモザイク硝子のランプに。灯りがひとつ燈るたび、浮かび上がる百日紅が昼間より妖艶に枝葉をしならせてみせた。

 そして、ハルカが催促しなくても、今度はあやまたず隣に座ってくれた。それだけでハルカの胸は震える。

「とても、あかるいわ」

 握りしめすぎて、白くかたまった掌をカナタの手がゆっくりとほぐしていく。

「…………カナタ」

「はい」

「おまえも、見たでしょう。あれは、」

「姫様」

 カナタが意図的に言葉を遮る。ハルカの唇は戦慄いた。燈台の火が揺らぐ。

「あれは、わたしの」

 舌先にかかった言葉はカナタの指先で止められた。

「髪をお梳きしましょう」

 指先はぐっと唇を押さえたままで、ハルカは良いともいらぬとも答えられない。

 カナタは胸元から櫛を取り出し、ハルカの後ろに回ると毛先から丁寧に梳る。

 ――あれは、わたしの、一番上の兄だ。

 もう長いこと顔もみていないが、脚が悪くて御所内を移動するときは輿を利用していたのを思い出す。高いところからこちらに手を振ってくれるのがうれしくて、わたしもそこに乗りたいのだと駄々をこねて乳母に咎められた。

 では、幼い頃に夜の邸を練り歩いたあの獣頭は誰だったのか。

 あれは、そうだ。あれは叔父だった。まだ母屋で寝起きしていた頃、丹前をかぶって脅えていたすぐそばで、あれが乳母に馬乗りになっているのをみた。おかしい。暗闇で、丹前をかぶって、どうしてそれを覚えているのか。いや。乳母は年老いてあのときにはすでに亡くなっていて、代わりに若い女官がハルカ付だったはず。獣に食われたのは女官であったか。ちがう。一緒に寝起きしていたのは姉たちだ。冬の月夜のことだった。庭先に黒い蝶がとんでいた。では夏だったのか。姉二人と人形遊びをしたかったのに。なにか、ほかの記憶と混同して――

「いだっ」

 思いきり髪の毛が引きつってハルカはいっきに目が覚めた。

「申し訳ありません」

 棒読みでカナタから謝罪がある。ハルカの顔で謝られるのは違和感以外の感慨がない。日中髪をすいてもらったときはハルカがうとうとしてしまうほど丁寧に、そして一度のひっかかりもなく終えた。水飴湯はお預けになった。

 ハルカはそこではたと気がつく。

「……おまえ、わざと」

「湯を沸かしてまいります。少々お待ちを」

 カナタの動きはひとつひとつが静かで敏捷だ。ハルカはとっさに手を伸ばして裾をつかんだ。

「お願い。ここにいて」

 すっと膝を折ったカナタの手をとって、自分の手が熱を取り戻したことを知る。

「怖い気持ちが身体から出てくまで、お願い」

「はい」

「今夜は、それでいいわ」

 陛下が御供ごくうとなり、その統治のあいだ安寧と清らかな水源が約束される一方、脈々と受け継がれる毒がこの御所には存在する。いずれハルカの身体にも毒はめぐるだろう。

 清明なる水の都、そのかなめを担う姫神子の誉れなどもはやここにはない。

 修行もした。民のために日々祈った。

 けれどハルカはここを出ていく。

 そして今度こそ、愛する人を守るのだ。

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祈禱のハルカ おいのみこ @wolf-miko

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