第2話 はるかなる東より(2)
ハルカには兄が二人、姉が三人いて、最近はその誰とも交流はない。
一番上の姉はいずれ三門のあとを継ぐだろう。三門の力を引き継ぐ譲渡の儀は予告なく執り行われると聞いたことがある。よそへ嫁ぐハルカには関係のないことだ。
二番目と三番目の姉は、ハルカが風の三門の住まう
兄二人は
ハルカに与えられた
結界が乱れた様子はない。結界、とはいってもそうたいそうなものではないのだが。
自ら整えた庭木の様子や掃き清めた縁側の三度に一度は鳴る軋み、乱雑にみえても勝手のいい調度の位置。それらがハルカにとっての結界だ。
海に残る航跡や山野に獣道が知れるように、人の気配はそこに残る。人為的に掻き混ぜられた空気の匂いや感触、ハルカはそういったものに過敏であった。
三角錐の枕が山をなすいっかくに俯せに倒れ込む。ホルイから贈られた布地に気分がすっきりする薬草と綿がぎっちり詰まっていて柔らかい。ねじれた角の獣や嘴の鋭い鳥の刺繍の色彩がまぶしくてハルカはまばたきを繰り返す。
転がって
あけっぴろげに素肌を晒して、慌てて壁の衣紋掛けに飛びつく。椿の意匠が艶やかな
いつもはこの恰好で清々するのだが、物足りなさに紅をさしてみた。鏡をのぞいて、ばかばかしくなってすぐに拭う。香を焚こうかと香炉を探したが見つからなかった。せめて髪を梳ろうと飴色の櫛を探し当て、逡巡して、胸元にしまう。
すっと背筋を伸ばして立ったまま、ハルカは何度か咳払いして呼んだ。
「
彼は片膝をついた姿でハルカの前に現れた。そこにあったのに、たったいま気がついたという唐突さだ。天井裏に潜んでいるものと思っていたから、驚きが悲鳴になりそうなところを息を止め、留める。
「おまえが、六ノ卯か」
「はい」
声変わりが済んで間もない、それでいて透きとおった返事があった。
「わたしはおまえをカナタと呼んでいた。それを知っているか」
「はい」
「わたしはこれからもおまえをカナタと呼ぶ。よいか」
「はい」
ほっとして頬が緩む。すぐに顎をあげて
「立ちなさい」
所作に無駄がないせいか音がしない。衣擦れひとつ立てない。そういう訓練を受けてきたのだろう。
立ち上がったカナタと目の高さが一緒だった。背丈がないのは忍の特徴だ。
ばちりと視線があってハルカはようやく合点がいく。
この眼差しだと思った。
これが初めての
流行り病で半月も床についた頃に近くにあった眼差しだ。死んだ乳母が見守ってくれているのかと思っていた。
町人の恰好で城下に繰り出したとき背後にあった眼差しだ。振り返ると消えたそれは自分の後ろめたさがみせる幻覚だと思っていた。
「……もっとよく顔をみせて」
ぐっと引き寄せて舐めるように眺めているというのに、カナタの顔は能面のように変化がない。
青白いほどの肌は暗がりばかりに潜んでいるせいだろうか。他の忍をみたことがないので比べようがない。眉は短く、目は筆ですっと引いただけのようなもので、えらが張ってるとか頬骨が出てるとか顎がいかついとか目立つほくろがあるとか――、わかりやすい特徴はなく、とにかくまったく印象に残らない顔なのだ。外の国に行けば日の輪の国の出だとわかるだろうが、ここいらの群衆にまぎれてしまえばハルカはきっと見つけられない。
掌で顔の凹凸をまさぐるように撫でてみる。おでこのまるみをさすったところで、カナタの視線にわずかな緊張がまじるのを感じて手を引っ込める。
「いくら主になったとはいえ無遠慮だったわ。許してちょうだい」
「香が移るのは好ましくありません」
「あら」
香炉を探していたときに握りしめていた
「これじゃ忍べないわね。わたしたちが懇ろになったとは誰も思わないでしょうけど」
一番上の姉と彼女のお気に入りの忍のことを引き合いに茶化してみたが、カナタは能面のまま微動だにしない。静かなままだ。波紋のたたない池のようだ。
「お話してて平気? 忍っていうのは、こうして現れて認知されると、姿を隠したり晦ませたりが難しくなるんじゃない?」
「否」
「そう。日の輪の国の外じゃ忍術とやらはどうかしら」
「水があえば」
「水ねぇ……」
くるりと背を向けて外の手水鉢のほうを見やる。カナタのいう水はそういう意味ではないだろうが。
「忍の身体はお仕えする家に、土地に、間借りしているようなもの。気配を消すことはそこに溶け混じること」
「そうして片時もそばを離れないのね」
「はい」
「わたしがだらだら床で転がって
「はい」
「小銭もって街に行くときも?」
「はい」
「着替えしてるときも?」
カナタがたじろいだ気配があって振り返る。しかしハルカの目に映るのは変わらず超然と立つカナタの姿だ。取り繕っているわけではなさそうだ。
「……目を瞑っておりますよ」
「あら、そう」
長年カナタの気配や視線と共にあっただけはある。抑揚のない喋り方や変化のない上っ面の、その奥からにじむ微妙な心の揺らぎをハルカは感じ取れるようだ。
「ね。わたしたち、どこの国に行くかわかる?」
「騎士の国」
「そう! 物語の国よ!」
小気味よく撥を鳴らすように指を弾いて鳴らして、ハルカは袿を翻して壁へ向かう。
壁――というのはハルカが寝起きする
ハルカは迷わずそこから一冊を引き抜いた。寄る辺をなくした本たちが隙間を埋めるべく動き出す。壁全体が収縮したように見えた。一個の生き物のような有様だ。
倒壊しないことを知ってかハルカはすでに壁に背を向け、忙しくページを繰っていた。
本の表面は硬く、布が張られている。表題部分が凹んでいて何か記しているがカナタには読めない。文字なのか模様なのかも定かではない。
「明るいとこに出ましょ」
紙面に目を落としたままハルカが縁側に出る。
壺庭には樹齢百年は優に超える
「隣に座んなさい」
ひとりぶんの距離を開けて座られたのでハルカが尻を擦って詰め寄った。
「馬鹿ね。隣つったじゃないの。一緒に読めないでしょうが」
「文字が読めませんよ」
「わたしが読んであげるわ心配しないで。ほら、左から右に読むのよ」
百日紅を透かした陽光が二人を照らして、縁側から室内へ長い影ができる。ふうわり吹いた風が天井から吊るした水晶粒の連なりを揺らし、違い棚の起き上がり
ハルカは異国の文字を指でたどりながら、こちらの言葉でカナタに物語を読んだ。
星降り白夜の話。魔女と修道騎士の話。歌う木が根を張る王国の話。
「ここのとこが好きでね、読むわよ、〈それは口にいれるとひんやりとした薄い石のようでした。舌のうえでまるで冬の朝の薄氷のようにパリパリとくだけて、あっという間にとけてしまうのです。〉それとね、こっちのね、〈あちちのちの肉はやわかく、おかまいなしにはふはふすれば、右手は骨をつかみつつ、左手おおきな麦酒ゆれる〉」
「食べるところばっかですね」
にぎりこぶしをカナタの腿に振り下ろす。
痛くもかゆくもなかろうに、ぼそりと一言「いた……」と返してくるのが憎くてハルカはもう一度こぶしで小突いてみせた。
「このお話も好き。ええとね、公子様はとても我儘で、御付きの騎士は規律に準じた以外のことはできなくってふたりはいつも衝突したり窮地に陥ったりするの。最後にはふたりでね、互いの足りないとこを補って、つらいことを分け合って、こんなふうにね」
ハルカはカナタをまっすぐ見た。
「これからは姿をくらませたり隠したり、天井裏からわたしのこと窺うんじゃなくて」
カナタはそれをしっかと受け止めてハルカを見た。
「わたしの隣を歩くのよ」
「はい」
「カナタ」
「はい」
「最初の命令してもいい?」
「ご随意に」
本をとじて後ろに滑らせた。胸元から櫛を取り出してにんまりと笑う。
「髪を梳いてちょうだい。ひっかけて痛くしたら覚悟なさい。罰としてわたしと一緒に水飴湯を飲むんだからね」
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