第1話 はるかなる東より(1)

 轟々と落ちる滝のしぶきに追い立てられてハルカは禊を終えた。

 全身にまとわりついた装束しょうぞくが恐ろしく重たい。存分に水を吸った黒髪は首を後ろへ引っ張る。なにより寒い。夏の盛りだというのに奥歯がカチカチと鳴る。水から這い出ると、四方を緑に囲まれているのをいいことに帯を解いて着物を脱ぎ捨てた。

 夜明け前にもほのかに内から光るような白皙はくせきの肌。女らしい丸みはまだなく、胸も腰も貧相だが、伸びた背筋から、きりりと上がる眉から、利発さと聡明さが知れよう。

 背まで伸びた髪を絞り、新しい真白の着物に袖を通す。濡れた身体の雫を吸ってじわじわと滲みをつくったが、このあともまた着替えだ。

 もう一枚、乾いた着物を羽織って、ハルカは滝に背を向けた。

 脱ぎ捨てた装束はどこにも見当たらない。片付けてくれたのだろう。いつもなら一言こえをかけるが、今日は特別だ。母にまみえるのだ。それまでは沈黙を守らなくてはならない。

 玉と見間違うほど光を孕んだ乳白色の丸石を踏む。

 丸石は道をなしていてハルカを導く。ちんたら歩いていたら風邪をひきそうで、裾が翻るほど速く脚を動かした。うやうやしく足をりながら歩く女官らに見咎められようものなら物の怪か何かと怖れられるだろう。

 みそぎの滝の音が遠ざかり、玉砂利をサクサクと踏む音だけになる。

 その音も飽きるころに再びどうどうと地鳴りのような音が、胃の腑にまで響いてくる。

 ハルカは池の縁で足を止めた。

 池は鯉を愛でるような可愛い大きさではない。が、ここは常に粥のごとき霧で満ちていて、どの程の大きさであるか正確に目視が叶わないのが正直なところだ。多量の水が流れ落ちる轟音はもやの奥から聞こえてくる。

 その先にこそ、ハルカがおとなう、日の輪の国の三門みかどが住まう水薙守みなかみ神殿がある。



 日の輪の国は島嶼群とうしょぐんがあつらえたように美しい日輪を描く極東の島国。

 三門とは文字通り三つの門のことを指し、門とは、ここでは管理者のことであり守護者のことである。数字のとおり三人いる。

 水を清らかに、土を豊かに、風を穏やかに。ただそこにあるだけでそれを成せる。

 ハルカの母は三門のひとり。天地と契約し、龍の加護を受け、水を管理し守護する現人神あらひとがみ。生まれてこのかた姿をみたこともなければ声を聞いたこともない。

 水薙守神殿までの橋のたもと、普段は祭祀さいしを執り行う社で一人着替えを済ませ、まだ湿り気のある髪を組紐でくくる。

 どうせ咎める者などいないのだ。長袴ながばかまをたくって橋に足をかける。一寸先も真白の視界で、ハルカは堂々歩みを進めた。蹴散らされた霧が刹那に欄干の装飾を披露するが気にも留めない。

 行くわよ、行くわよ。

 夢の金色の姫に自分を重ねて心強い。

 見えない瀑布ばくふの音は全身を揺さぶるほどで、姉様方だったらとっくのとっくに失神しているだろうなと思うと愉快だ。兄様方もよよよと伏してしまうかもしれない。

 けれどさすがのハルカにも限界はある。三門みかどの子らの末席とはいえお姫さまだ。あまりの音に軽い眩暈めまいがして、足がもつれて裾を踏んづけた。前のめりに転んでしまうという予感に全身がこわばり、痛いほど目をつむった。

「…………。…………?」

 ハルカは橋の上に立っていた。粥のごとき霧もそのまま。わきをぎゅっとしめててのひらも握り損ねた奇妙な体勢だったが、転倒していない。身体のどこにも痛みはない。

 はっとして辺りを見渡す。

 白いめの中にいるようだ。

 動悸が収まるまで瞑目して、ハルカは再び歩みを再開した。

 は間違いなく傍にいるのだ。助けてくれたのだ。禊の装束を片付けてくれた分も御礼を言うのを忘れないようにしよう。水飴湯みずあめゆもふたりぶん用意して、今度こそいっしょに飲んでくれたらいいのだけど。



 神殿内は時がとまったかような静けさで満たされている。

 ハルカは自分の呼吸さえうるさい気がして口を閉じた。

 薄氷うすごおりのような床はどこまでも平らで継ぎ目がない。四方の壁は天井に向かって収束していて、卵のなかに閉じ込められた気分だ。おそろしく広く寒かった。

「こちらへおいでなさい」

 透き通った青年の声に顔を上げる。

 天井の頂点から蜘蛛の糸のように降りて、床に届く前に宝珠ほうじゅを模して広がった紗幕しゃまくの中に影がある。

 台座のうえ、脇息きょうそくにしなだれる女人のものと、その横に立つ青年のものだ。

 母と声役こえやくだろう。三門の声には拘束力があるので、言葉は声役を通じて発せられるのだ。十年前に此処ここ相対あいたいしたときとまったく同じだ。声の通りに前へと進んで、その顔を拝もうと藪にらみしてみるが、影絵のような輪郭でしか認識できない。

「ハルカ姫」

 青年の声音は薄く笑みをいてやさしい。母もこのように話すのだろうか。

「おまえの声が聞きたい。なにか話してみよ」

 吸った息を喉に溜めたまま、ハルカは硬直した。

 来て早々不文律ふぶんりつを破れと言う。典範てんぱんに則り、昨晩から米の一粒も口にしていないというのに。よもや発声した途端に「不敬である」だの宣って水刑にせなんだか。

「許すから。ね、なんでもおっしゃい」

 急に軽口になってハルカは軽く仰け反る。この声役は馬鹿正直に母の言葉を唱えているのだろうか。尊い人が庶民のような口ぶりであるとは思えないが。

「……では陛下」

「うむうむ」

「わたし」

 そうよ、行くのよ。

「お嫁にいきます」



 脇息からずりおちた三門を声役が素早く手助けする。

 ハルカは見当違いなことを言ったつもりは毛頭ないが、三門が平静を取り戻すまでは一言も発さずに待った。

衣紋方えもんかたのところに未練があるかい? けど破断は破断だ。兄がダメならその弟とも思うたが、先代と現当主が揃って頭を下げに来たもんだ。拘泥こうでいはせんよ」

「よもや解雇は」

「せん。椿の家には衣紋えもんの仕事を続けてもらうぞ。……嫡男は不運であった。家督はいずれ弟のほうが継ぐだろうよ」

「それを聞いて安心しました。お嫁にいきます」

「…………」

 三門のほうから頬を撫でる風が吹いて、ハルカの前に青年が現れた。

 まばたきをしたつもりはないが、いきなり傍に人が立っていたので心臓が跳ねる。

「声役の二ノ虎にのとらと申します。こちらは今朝方届いた文です。幸運が重なって、これを読める学者や公家の手に渡るまえに陛下のもとに。残念ながら私も陛下も読めませんが――」

 受け取った筒は木彫りで、怖ろしく細密な装飾が施されている。

 ハルカは声役のニノ虎に言葉をかけようとして、その姿がどこにもないことに面食らった。彼の声は紗幕の中から三門の声として届く。

「おまえなら読めるのではないか?」



 ――この知らせがホルイ歴二二四年み月の初週に届くことを願います。

 仰々しい前置きもなく、季節をうたうでもなく、滲んだ紫紺のインクはそう語り始めた。

 ハルカはただでさえ強気に吊った眉の片方を跳ねあげて、日の輪の国の暦とホルイの暦をまな裏で照らし合わせる。

 ホルイは海を渡って大陸の北部、その大部分を統治する草原の国だ。

 食み月は日の輪の国の八月半ばから十月の初旬にあたる。書簡は筆者の目論みより半月ばかし早くハルカの手にあった。よい風が吹いたようだ。

 癖がついて巻き戻ろうとする紙を引っ張って、一番最後の名入れと日付を確認する。

 日付は去年の春。文の主は……

「レンドリア……」

 ひゅっと息を呑んで、ハルカは文面に噛りつく。

 勉強不足で日の輪の暦がわからないとある。

 よい風が吹いて、渡るべき人の手の中にあるとよいと。

 それから……

「……陛下!」

 そちらからは見えないだろうが、見せずにはいられないといったふうにハルカは書簡を広げてみせた。

「ここに!」

 人差し指で決定的な一文を指しつつ、紙をぱりっと伸ばしてハルカは得意げだ。満面の笑みをみせたが、やってきた運命に心臓の鼓動は全身を叩く勢いだった。

「まさに、嫁に来いと?」

「正確には、――嫁にくる気はある? こないとしてもこの先も仲良くしようね――というかんじでしょうか。手紙の主は大陸のもっと向こう側、いわゆる西大陸の心臓部レンドリア。夜を統べる王の国です」

 次の声が掛からないので、ハルカは唇を湿らせて矢継ぎ早に言葉を連ねた。

「ご存知ですか。かの国の王は血の濃さで選ばれるのではありません。黒です。髪の黒が王を表しているのです。黒髪の持ち主は王ただ一人なんですよ。国内では赤毛や金がほとんどなんですって。それからレンドリアで黒色を許されるのは王と王の近時のみで、王の子らであっても黒色を持つことができないんです」

 黒髪しかいない日の輪の国は、みんな王の資質があると思うと面白い。くふっと笑いそうになるのを留めてハルカは頬を紅潮させて続ける。

「五人です」

 ぱっと手を開いて見せる。手紙はくるんと戻ったが、ついでとばかりに丸めて筒に戻した。

「妃は最大で五人。全員が正妃だとか。けれど黒髪の後嗣こうし殿下がお生まれになったあとの実際の権力とか妃の間の確執とか、そのあたりはみてみないと」

「行っても意味がない」

 たっぷりと呆れを含んだ溜息まで、ニノ虎は三門の代弁を正確にこなす。

「そんなしかつめらしい顔をしてみせたってまるで心が動かないよ」

「陛下は将棋をさすのでしょう? れ歩をつかった戦術が得意と聞きました」

「はっ。盤上の戦と異国への降嫁を一緒にするんじゃないよ。と金でちぇっくめいとでもするつもりかい」

「キングをとるんじゃなくってクイーンになるんですよ」

「そしていずれは二国間の架け橋になどと世迷いごとを言うでないよ」

「なぜです?」

「むかし同じことを言った女を知ってるからな」

 少々むきになっていたハルカは一度くちを閉じざるをえなかった。

「わたしの叔母上も彼の国へ向かったよ」

「……初耳です」

「道半ばで命を落としたけどね。だから彼女はいなかったことにされた。あそこは、遠すぎる」

「途中、駆け落ちしたんじゃないですか?」

 三門は首を傾け、指先でこめかみを押さえる仕草をした。

「賢しら顔で言うのはおやめ。すべからく真実と思われることに言及するなら、少しばかしズレた回答をしてみなさい」

「そのほうが?」

「おバカでカワイイって思われてお得。若いうちはね。生き残る確率も上がる」

「なるほど」

「使いどころを間違わないように」

「はい」

「あとは……そうだね……」

 三門が瞑目しているのがわかった。沈黙は長かった。

 あまりに長くて三門が居眠りしてしまったのかと疑った。

「…………そうだね……」

 ざらついた咳払いがあった。

「別れの挨拶を済ませておいで。彼の国への返答はおまえ自身だ」

 あっけなく申し出を許されたことに驚愕しながら、ハルカが問い直すことはない。

「持参金はたんまりとはいかない。輿こしで優雅な花嫁道中はできない」

「はい」

「ホルイの都までは伝手がある。そこからはおまえがなんとかしなさい」

「はい」

「道中、純潔と気高さだけは捨てないように。――六ノ卯むのう

 ハルカは母の影から目を離せない。

 音も風もなく、一歩後ろに気配が現れた。そちらを見ずともその質量が人のものとわかる。頭をたれているとわかる。

 しのびだ。三門の血をひくすべての子らに追随する影。気取られず同じ室にいることもあれば、天井裏や忍の抜け道を縦横無尽に移動して、相性の悪い兄姉や宮仕えとの遭遇を運命的に避けてくれる見えない道しるべ。

 そうか、六ノ卯というのか。わたしの影。わたしの守り手。姿をみせろと言ってもいっかな言うことを聞いてくれない無粋な奴。いくら声をかけても返答がないがために、勝手に〈カナタ〉と名づけて呼んでいた。本来の呼び名を聞いても、ハルカにとってその忍はカナタであった。

 ハルカの声に従わないのは当然で、忍はすべからく三門である母のものであり、三門の命にのみ従うもの。主上の声が掛かったにも関わらず、カナタから返答がないのはその必要がないからだ。三門の命令は絶対で、答えずとも「はい」以外の返事はありえない。忍は影でなくてはならない。影は口を持たない。

「今からおまえの主はハルカだ。ハルカに従い、ハルカのもとで生きよ」

 深い叩頭こうとうのあと、じわりとにじむようにカナタの気配が揺らいで消える。

 知らず詰めいた息をハルカはぷはっと吐いた。勢い振り向くが、鏡のごとく磨かれた床があるだけだ。

みことのりです」

 いきなり現れた声役にもう驚くことはない。

 うやうやしい遣り取りなしに、それはハルカへと手渡された。

 いた紙は雪のように白く、その上を走る墨は烏の風切羽のように闊達かったつとして鋭い。花押かおうは渦を模していて伸びやかに。玉璽ぎょくじは玉虫色に濡れていて、まばたきごとに馴染んで妖しい緑から暗い赤へ転じるさまが美しくて、ハルカは押し黙る。

祐筆ゆうひつがおりませぬもので」

「……陛下が手ずから?」

 うれしい、と呟きそうになり、唇をきゅっと噛む。

「出立までにしち面倒くさい儀式が待ってますが、姫さまどうか健やかに」

 顔を上げると声役はすでに宝珠の紗幕の内、三門の傍に寄り添っている。

「水のうつくしいところだといいね」

 さようならと言われた気持ちになって、ハルカは裾をさばいて両膝をつく。袖を左右均等に翻して指先を揃え、ゆるゆると額づいた。

 春に――、春に、桜の下で歌を詠むのだ。

 夏に山から運んできた氷を削って蜜でいただく。

 秋にだけやってくる櫛屋をせしめて、並べた簪を端から順に試してお気に入りを身につけたら、侍従も忍も振り切って城下を練り歩く。

 冬は雪駄を履いて庭園を駆ける。あかぎれになった足を火鉢で温めたときの、蝋がやわらかくなるような感触が奇妙で好きだって教えたらどんな顔をしてくれるだろう。

 そうしてまたやって来た春に、手をつないで桜をみにいく。

 こうして平伏するのでなく。



 それ以上、三門から声が掛かることはなかった。

 目を伏せたまま立ち上がり背を向ける。出入り口の扉はひとりでに開かれて、外の世界から伸びる光が行く道を白く焼いて示す。

 歩き出してまもなく、ハルカは後ろ髪ひかれる思いで立ち止まり、ためらって、ためらって、おずおずと振り向いた。

 紗幕のなかで、三門の影がはっとしたようにこちらを見て、手を振る。細い手がハルカに手を振る。

 飲み込んだはずの寂しさがお腹から逆流するのがわかって、ハルカはぐっと唇を噛むと急ぎ足で退室した。すぐに後悔がハルカの四肢に満ち満ちて、なぜ手を振り返さなんだと揺さぶった。ふらふらする足を前に出して木目をにじる。

 橋の中腹に辿り着いて、眩暈すら催した滝の轟音がないことを訝しむより憎らしく思う。

 あのうるさい音があれば、声をあげて泣いたのに。





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