第259話 蟷螂の斧

 尋常ではない熱に炙られ、未だ輻射熱による陽炎が立ち上る瓦礫を踏み越え、傷ついた老騎士が廃墟と化した領都から抜け出してきた。

 元が何色であったかすら判らない程に黒く煤けた鎧姿は、覚束ない足取りも相まって亡者の歩みを彷彿とさせた。

 老騎士は、その背に廃材でこしらえたと思しき手製の背負子しょいこを括り付け、穂先を失った槍を杖代わりにして歩み続ける。

 老騎士の目算では、それほど時を置かずに後発の輜重部隊と合流できるはずであった。大量の物資を運搬する輜重部隊の移動速度は遅い。

 故に、先発の部隊が必要最低限の物資のみに絞った輜重隊を伴って領都内に拠点を構築し、安全を確保できた段階で後発の部隊が合流する予定であった。

 安全を確保するどころか、まんまと敵の罠に落ち、全滅の憂き目を見る事となってしまったわけだが……


 しかし、それがために先遣隊が全滅した今でも、後続の輜重隊本体と護衛の部隊が残存し、そちらに合流さえ出来れば主人の安全を確保できると踏んでいた。

 果たして老騎士の目論見に違わず、視界の端にゆっくりと進む荷駄の列が見え始めた。向こうもこちらを発見したのか、列から騎乗した兵士が離れてこちらへ向かってきた。

 鎧の意匠を見る限り、アルベルトゥス大公麾下きかと思われる騎士2名が駆け寄り、片方が下馬して歩み寄りながら呼びかける。


「戦時ゆえ無礼を許されよ、そちらは先遣部隊に参陣されたアンテ伯爵家の騎士とお見受けするが、その有様はさきの閃光と何か関係が?」


 老騎士ステファヌスは、兜を被ったまま名乗りもせずに問い掛けてくる騎士へと声を返そうとしたが、喉がひりついて喘鳴が漏れただけであった。

 苦労して唾液を嚥下し、再び声をかけてきた騎士に向き直って、違和感を覚えた。具体的に何がおかしいかは判らなかったが、歩みを止めず近寄ってくる騎士から飛び退すさって距離を取った。

 その急激な行動に相手の騎士の歩みも止まり、奇妙な緊張感を伴って睨み合った。そして最初に沈黙を破ったのはステファヌスの方だった。


「なるほど……味方だと思って油断していれば、ここで我らの命運は尽きていたのか。その様子では後詰めの部隊も平らげられた後か?」


 ステファヌスに詰問された騎士は、笑い声を噛み殺すかのように体を揺すりながら兜を脱いだ。

 脱いだという表現は正しくない。正確には騎士がおもむろに兜へ手を掛けると、何の抵抗もなくころりと後方へ転がり、頭部が無いまま喋りかけてきた。


「よくぞ見破ったと褒めておこう。貴様の予想通り、後続の部隊はまんまと騙されて私を招き入れたので、一人残らず食ってやった。この変装には自信があったのだが、何時いつ気が付いた?」


 首無し騎士はそう問い返しながら、本来なら首が収まる穴から黒い粘液を吹き上げ、それらが寄り集まって頭部を形成した。

 黒い粘液状でありながら、その顔の造形は老騎士にも見覚えのあるものだった。アンテ伯領へと派遣された楽園教の元司教であるフレデリクスその人であった。


「ふん、そうやって思い上がっているから何度も足を掬われるのだ。なるほど鎧を纏っていれば詰めの甘さも気付かれぬと思ったか? 馬鹿は死んでも治らぬと見える、貴様の馬を見れば一目瞭然だ。生き物というものは、絶えず身じろぎをし続けるものだ。貴様の馬もどきのように、耳も尻尾も動かさず、足踏みさえもせぬ、おまけに呼吸もせぬような存在は馬とは呼ばぬ!」


「くくっ……呼吸の要らぬ身体となったのが仇になったか。いずれにせよ、貴様と貴様が背負うの息の根を止めれば良いだけの話。先に逝く貴様が寂しくないよう、アンテ伯領の領民も一人残らず貴様と同じ場所へ送ってやろう」


「老骨と侮るなよ! 獲物を前に舌なめずりをするような貴様に、むざむざとくれてやるほど安い命ではないわ! この為に貴様の長話に付き合ったんじゃ、そろそろ効いてきたんじゃないか?」


 そう言いながらステファヌスは、マントの内側に括りつけられていた革袋を揺らしてみせた。いつの間にか口紐が解かれ、砂よりも遥かに細かい微粒子が風に乗って漂っている。

 それはアンテ伯領の農民や、彼らを監督する立場にあった人間ならば見慣れた物体。来訪者のもたらした不思議で危険な粉末だった。

 来訪者はこの物質をSuperAbsorbentMagicalPolymerと呼び、取り扱いには十分注意するよう繰り返し教えられた。

 そしてステファヌスは敢えてその禁を破り、相手の正体に気付いた瞬間から風上を取って少しずつ撒き続けていたのだった。

 その粉末はほんの僅かな量で、驚くほどの水分を取り込んでゲル化する。実に体積の3000倍もの水分を接触した物体から奪う事になる。


 立ち止まって会話をしていたフレデリクスは、己の体に生じた異変に気付くのが遅れた。老騎士の台詞を耳にし、初めて体を動かそうとしても殆ど身動きが出来ないことに気が付いた。

 呼吸をする生物が相手であったなら、この程度では済んでおらず、呼吸器官内で膨れ上がったゲル状の物体が気道を塞いで窒息していただろう。

 しかし、それが幸いだとは限らない。老騎士は重度の熱傷によってケロイド状に癒着した腕に粉末が付着するのも構わず、革袋を無理やり握り込んでフレデリクスの頭部に突き込んだ。

 その効果は劇的であった。体内に無理矢理取り込まされた大量のSAMPは、フレデリクスの内部から水分を恐ろしい勢いで取り込んで抱え込む。

 粉末付近に水分を吸い上げられ、見る見るうちに表面が乾涸ひからびると、黒い剥片となって剥がれていく。


 当然、そんな劇物の付近に皮膚の無い腕を突っ込んだステファヌスも無事では無かった。

 溶けたようになりつつも辛うじて表面を覆っていた皮下組織が完全に剥がれ、剥き出しの筋肉が覗く、目を覆いたくなるような状態となっていた。

 それでも相手の鎧を蹴って無理矢理腕を引き抜いたステファヌスは、地平線の彼方に見えるセプテントリオナリス要塞を目指して必死に駆け始めた。

 今は混乱しているため追跡してこないようだが、事前の情報に拠れば己の体を切り離せるような化け物だ、ほどなく馬に擬態させた部分と合流して追ってくるに違いない。

 それまでに少しでも距離を取り、何とかして追跡を躱す必要があった。最悪の場合は、コンラドゥスだけでも何処かに隠し、敵の追跡を引き受けるのが己の役目だ。


 懸命の逃亡は功を奏し、フレデリクスの追撃を受けることなく視界を遮る森の中へと逃げ込むことが出来た。

 川自体は未だ見えないが、水の流れるせせらぎが聞こえる傾斜した岩場を見つけ、岩肌の陰に身を隠して背負子を外した。

 コンラドゥスの様子を窺うが、未だに意識を取り戻しておらず眠り続けていた。ステファヌスは荷物の殆どをコンラドゥスの傍に置くと、落ちていた石を集めて砦の方向を示す矢印を作った。

 これはアンテ騎士達が遭難した際に用いられるサインであり、救助に来た者が遭難者と入れ違いとなっても情報を伝えられるよう、目的地を示す合図であった。


 ステファヌスは孫ほどにも年の離れた己の主を、眩しいものでも見るかのように目を細めて見やり、騎士の礼をすると背を向けた。

 己の主を、アンテ伯領の未来を担う希望を目に焼き付け、老騎士は敵の耳目を引き付けるべく走り出そうとした。

 そして、その光景を目にして足が萎えてしまった。


 己の視界どこを見渡しても黒い壁が樹冠を越えてそそり立っている。余りにもスケールが大きすぎるため、ステファヌスには知覚できないが、恐ろしい速度でその包囲網を閉じようとしていた。

 老騎士は萎えた足を叱りつけて、己の主の許まで駆け戻り、無駄な抵抗と知りつつも石をどけて穴を作り、そこに主を横たえると上に覆い被さった。

 迫ってくる黒い壁が、近づいて来るほどに絶えず流れ落ちている黒い滝だと理解出来た時、老騎士の脳裏にフレデリクスの台詞が蘇った。


『貴様の予想通り、後続の部隊はまんまと騙されて私を招き入れたので、一人残らず食ってやった』、奴はそう言っていた。

 先遣隊及び拠点維持をするための人員が、少なくとも一月ひとつき以上は食い繋げるだけの物資を積載した荷駄の列を護衛ごと丸ごと飲み込んだとして。

 人間と牛馬に積荷を、あの粘液状の肉体に変換したらどれほどの質量になるのか。

 更には無人になっていたアエスタース公爵領の領民及び家畜全ても、奴が取り込んでいたと仮定すると、まさに眼前に迫りつつあるようなバカげた規模になるのではないだろうか?

 老騎士が武人を志す前の幼き日に、空に輝く『ソラス』を縫い留めようと天に向かって弓を射た己を思い返し、苦笑しながら轟音を立てつつ迫りくる災害を前に目を瞑った。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 黒の大瀑布が樹木諸共森を丸ごと押し流し、周囲の地形は一変してしまっていた。地表は綺麗に舐めつくされたかのように、一様に地肌を覗かせている。

 整地されたかのような滑らかな地面は、動くものが一切ない為荒涼とした風景にも見えた。

 土色かもしくは、岩肌剥き出しの風景に、一ヶ所だけ異彩を放つ一画があった。

 それはやすりにかけられたような平面に、エスキモーが作る氷の住居であるイグルーを置いたかのような光景だった。

 薄紙一枚すら差し込めない程、完璧に隙間なく組まれた青光りする煉瓦で造ったお椀を伏せたような形状。

 そのドーム状の出っ張りは、観測するものが居なくなったのを見計らうかのように、突如として地に吸い込まれるようにしてその場から消えた。

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Banisher 雷電 @raiden4864

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