その手のぬくもりに。

相葉 綴

その手のぬくもりに。

「ちくしょぅ……」

 不意に、そんな呟きが漏れた。

 耳鳴りがした。いつもはうるさいくらいに喚き散らされているセミの声が、今日は膜の向こうでぼやけたように聞こえる。昼間のうちに熱を溜め込んだアスファルトが、仰向けに寝転んだ僕の背中を容赦なく焼いた。じりじりと焦がされる背中が痛い。けれど、僕の腹は、頬は、腕は、足は、腰は、それ以上の痛みを訴えていて、立ち上がれそうにもなかった。

 殴られた頬が、ジンジンと疼く。唇の端か頬の内側が切れているのか、口のなかに血の味が広がる。腫れているせいで感覚が鈍く、どこが切れているのか僕にはわからなかった。もしかしたら、制服もどこか破れているかもしれない。カッターシャツはいいとして、ズボンはこれしかないんだけどな。学校指定の制服なんて、すぐに用意できるわけじゃないし。

 きっかけは些細なことだった。ちょっと肩が触れただけ。

 けれど、それがとてつもなく彼の気に障ったらしい。暑い夏の日に気が立っていただけかもしれない。とにかく、単なる憂さ晴らしに使われた僕に、運がないことだけは確かだった。

 そいつと、そいつの不良仲間に囲まれて、僕はたこ殴りにされて、おまけに財布まで持っていかれた。生まれて十七年。殴り合いの喧嘩なんて一度もしたことがない。武術の心得だってない。そんな僕が、現役バリバリの不良、しかも多数を相手に勝てるわけがなかった。多勢に無勢以前の問題だ。

 だからこうして、僕は道路の真ん中で倒れ伏している。というより、体中が痛くて動くことができない。人や車の往来が少ない通りでよかった。轢かれることもなければ、この無様な姿を誰かに見られることもない。不良の人目を避ける習性が、こんなところで少しだけ役に立った。

「くそぅ……」

 見上げた空は青かった。どこまでも青かった。夏の空はやけに高くて、今日は雲ひとつない。どこまでも広がるかのような突き抜けた青が、目の前一杯に広がる。だから、僕は痛む腕を無理やり持ち上げて、目を覆った。空の青さが、今は目に染みた。

 悔しさが込み上げてくる。どう足掻いたって、僕がこうして這いつくばる結果が変わったとは思えない。けれど、やられっぱなしはあまりにも情けなかった。

「あぁあ……なんかやられてやんの」

 突然頭上からそんな声が聞こえた。

 僕はほとんど反射的に体を持ち上げて。

「いっ!!」

 すぐさま元の位置に戻った。情けない。

「ありゃりゃ、唇切れてら」

 頭の上からひょっこり顔を出したのは幼馴染みの沙織だった。沙織は僕の口の端を突きながら笑っている。

「笑い事じゃねぇっての」

「それもそうだ」

 けれど、沙織はケタケタと楽しそうに笑い続けた。笑い声に合わせて、肩口で揃えたショートカットが揺れる。

「ほかには? どっか怪我してない?」

 そう言って、僕の脇にしゃがみ込むと無遠慮にカッターシャツをめくる。

「なにやってんだ、お前は!? 平気で異性の服めくるなよ!!」

「うむ、そんだけ元気があれば大丈夫そうだ」

 沙織は満足そうに肩を揺らしながら、僕の隣に腰を下ろした。

「それにしても、酷いやられようだね」

 沙織は空を見上げながら言った。

「まぁなぁ……」

 僕は変わらず寝転んだまま、果てのない空にぼんやりと目を向ける。でも、やっぱり夏の空は眩しくて、そうっと瞼を下ろした。

 様々な音が聞こえてくる。目の前を横切るように流れる鳥の鳴く声。車のタイヤが荒々し路面を削る音。近付いて離れていくバイクの排気音。線路を一定のリズムで叩いて通り過ぎる電車の音。風の唸りが高い空の向こうから聞こえた。

「でも、泣かなかったね」

 しばらくして、沙織が独り言のように呟いた。

「バカにしてんのか? 俺はもう十七だっての」

 僕は半眼で睨みつけながら、口を尖らせる。

「それでも、泣き虫勇輔が泣かないんだもん。たいした進歩だよ」

「うるせぇ」

「でも」

 沙織はそこで言葉を切ると、柔らかい笑みを浮かべながら僕を見下ろした。

「よく頑張ったね」

 そう言うと、立ち上がって僕に手を差し出す。

「さ、帰ろう」

「まだ体中ガッタガタなんですけど」

「大丈夫、立てるよ」

 まるでそう信じているかのように、沙織は深く頷く。

「大丈夫。私がついてるから。ほら、立って?」

 暖かくてやわらかい小さな手が、僕の手をしっかりと握った。不意に、痛みに疼いていたはずの四肢に、血が通うのを感じた。だから僕は、動かない四肢に力を込める。さっきまではピクリとでも動かせば激痛が走っていたのに、今は立てるような気がした。

 沙織の手を支えにして後ろ手をつきながら上半身を起こす。方膝を立てて体を傾け、膝に手をつきながらもう一方の膝に力を込めた。

「よっこい……せっと!!」

 最後は勢いをつけて立ち上がった。

 空に、少しだけ近付く。風が吹き抜けて、アスファルトに焼かれた僕の背中を少しだけ冷ました。

「ね? 立てたでしょ?」

 沙織は満足そうに微笑みながら、僕を見上げている。

「おう」

 その笑みが妙に気恥ずかしくて、僕は少しだけ目線をずらした。

「じゃあ、帰ろう。手当てしてあげる」

 そう言って、肩を貸そうとする。

「一人で歩けるよ」

 そんな沙織を押し返しつつ、僕は先に立って歩き始めた。

 沙織はすぐに僕に追いついてきて、半笑いで僕を見上げる。

「強がりだなぁ」

「うるせぇ」

 制服のポケットに両手を突っ込んで、空を見上げる。

 その青さに、さっきまでの惨めさは微塵も感じなかった。一人じゃない。ただそれだけのことで、こうまで変わるものらしい。そばにいて手を差し伸べてくれた沙織がいたから、僕はこうして立ち上がって歩くことができた。そのそばにいてくれることが、こうして手を差し伸べてくれることが、なぜか少し誇らしくて、胸の奥がちょっぴり痒くて、そしてなにより嬉しかった。

「ありがと、な」

 だから、僕はそっと呟いた。隣でくすくすと笑い続ける幼馴染みに向けて。

「ん? なんか言った?」

「なんでもねぇ」

 次は僕が、手を差し伸べられるようになろうと、密かに誓いながら。

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その手のぬくもりに。 相葉 綴 @tsuduru_a

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