桜絵

相葉 綴

桜絵

「桜」

 早朝の美術室。窓際でキャンバスと向き合っていた先輩はそう答えた。

 真冬の冷えた空気を、朝日がきらきらと照らす。その背中は真剣で、凛と澄んでいた。

「桜、ですか」

「そう、桜」

 たくさんの色が乗せられたパレットに筆を置いて、先輩が振り返る。

「邪魔、しちゃいましたか」

「ううん、そんなことはないわ。おはよう」

「おはようございます」

 制服を汚さないようにと着用していたエプロンは、様々な絵の具でカラフルに彩られていた。先輩が着ていると、そのエプロンさえもひとつの美術作品のように思えてくるから不思議だ。

「どうしたの、こんな朝早くから」

「なんとなく、です」

 僕は手近な椅子を引き寄せて腰を下ろす。

「どうぞ、続けて下さい」

「あら、いいの」

 先輩が首を傾げる。

「えぇ、構いませんよ」

 僕は笑顔で促す。

「僕は本でも読むことにします」

「教室で読めばいいのに」

 先輩は口元に手を当てて微笑んだ。

「今決めたことですから」

 そう言って、鞄から一冊の文庫本を取り出す。

「どうぞ、続きを」

「じゃあ、遠慮なく」

 軽く会釈をすると、先輩は絵筆を握り直してキャンバスに向き直った。

 それを見届けて、僕は取り出した本を開く。しおりが挟んであるページを開いて、なるべく物音を立てないようにゆっくりと読み始めた。

 僕は本を読むペースが遅い。よく友達からもばかにされる。でも構わなかった。なるべくじっくりと、その物語に付き合っていることが好きなのだ。早く多く読む必要なんてない。僕は僕のペースで物語を楽しむのだから。

 でも、理由はそれだけではなかった。

 文字を追う合間に、僕は目線だけを上げて先輩の後姿を眺めてしまうのだ。すっと伸ばされた背筋の凛々しさに、自然と見蕩れてしまう。絵筆に合わせて規則的に揺れる髪もとても綺麗だ。

 こうして朝早く美術室に来るのは今日が初めてだけれど、美術室で本を読むことはよくある。一応は僕も美術部員だから、放課後に美術室に顔を出す権利くらいはあると思う。

 だから、ちらりと目線を上げる。

 先輩の肩越しに見えるキャンバスは、鮮やかな桃色が幾重にも重ねられていた。桜。その色合いからは四月に吹雪いていた桜の花弁と、爽やかな香りが思い出される。

 僕が美術部に入部して、もうすぐ一年が経つ。あと三ヶ月もすれば僕は二年生で、先輩は三年生になる。

 入部して一年だというのに、僕は絵らしき絵を一枚も描き上げていない。描こうとしたことさえない。実は、僕には絵の心得がなにひとつないのだ。中学校の美術の成績はいつでも二だった。

 そんな僕が、どうして美術部に入部したのか。視線を本に戻しながら、僕は思い起こす。

 桜はすでに満開で、まるで僕らを歓迎するかのようにその身を散らせていた頃。どの部も新入部員の勧誘に必死だった。部費の獲得やチームメンバーの強化、部の存続、人手の確保などなど。部員獲得のメリットはどの部にも平等だ。

 だから、昇降口から校門までの長い下り坂は、部員を求める在校生と勧誘されている新入生で溢れ返っていた。

 けれど、特にこれといって希望する部がなかった僕は、体育会系の熱い勧誘も文化系のおいしい勧誘も、そのすべてをやんわりと断りながら坂を下った。校門まで来るとさすがに勧誘の数も減ってきて、校舎を仰ぎ見る余裕がようやく生まれる。

 古いせいか、灰色にくすんだ四階建ての校舎がそびえ立っていた。多少どころではないくらいに汚れてはいるけれど、僕の新しい学舎だ。いろいろな経験をしたり、いろいろな人と出会ったりするだろう。不安もあるけれど、同じだけの期待もある。そんなちょっとした高揚感を抱きながら見上げていた。

 そのとき。

 東西に二棟並ぶ校舎の東側。三階の窓の向こうに一人の女生徒の姿が見えた。ここからではなにをしているかまでは見えないけれど、時折窓の外をじっと眺めては、黙々と手を動かしている。

「なにをしてるんだろう」

 気付いたときには、僕の足は再び坂を上っていた。今も彼女は窓辺に立ちながら、作業に没頭している。

 在校生と新入生の間を潜り抜け、昇降口で上履きに履き替えて、東側の校舎へと向かった。俗に文化棟と呼ばれる校舎だ。音楽室や家庭科室、理科室と言った、通常の座学ではない授業や文化部の活動に使われている。

「ここ、なのかな」

 三階の一番端の教室。そこは美術室だった。開け放たれた引き戸から教室の中を覗き込む。

 瞬間、桜の香りが僕をふわっと包み込んだ。窓から舞い込んだ桜の花弁が僕の鼻先をくすぐる。相も変わらず、彼女は黙々と作業を続けていた。時折窓の外に顔を向け、再び手元に視線を落とす。その先には、イーゼルに立てかけられたキャンバスがあった。白く、ほっそりとした指で握られた鉛筆がキャンバスの上を駆ける。

「あの」

 気付けば、僕は声をかけていた。

「はい」

 突然のことなのに、彼女は凛とした佇まいをそのままに振り返る。

「こんにちは」

 微笑んで、頭を下げられる。

「なにを、描いてるんですか」

 その物怖じしない態度に、僕のほうがしどろもどろになる。

「桜」

「桜、ですか」

「そう、桜」

 だから、窓の外を覗いていたのか。ここからなら、昇降口から校門までの桜並木を一望できる。

「一人ですか」

「他の部員はみんな三年生で、今は受験勉強に励んでいますから」

 少しだけ、寂しそうな表情。

「美術部ですか」

「そうです」

「じゃあ入部します」

「はい」

 彼女が目を見開いた。微笑みが少しだけ崩れて、親しみがわく。

「どうしてですか。中学校で美術を」

「全然、美術はからっきしです」

 絵も彫刻も、どんなものを作ろうとも褒められたことなど一度だってない。

「じゃあ、どうして」

「先輩は、絵を描くのが好きですか」

「好き、ですが」

「それなら、僕が入部する理由は十分です」

「どういうことでしょう」

「このままだと、美術部は廃部になってしまうんですよね」

「はい」

「好きなことがあるなら、続ける場所はあったほうがいいと思うんです。それに、このままだと帰宅部になるところでしたから」

 最後は冗談めかして、ぽりぽりと後ろ髪をかく。

 すると彼女は口元に手をやって、くすっと微笑んだ。吹き込んできた風に髪をなびかせながら、すっと背を伸ばす。桜が舞っていた。

「そういうことなら。よろしくお願いします」

 そうして僕は、その日のうちに入部届けを出した。しかし、部の存続には最低でも五人の部員が必要だということで、中学の知り合い三人に声をかけて名前だけを借りることになった。これで、ひとまずは彼女が絵を描き続けることができる。それだけで、今は十分だ。

 開いたページにしおりを挟んで、本を閉じる。

「先輩」

「なに」

 先輩は再び僕に振り返った。声をかけると、先輩は律儀に筆を置いてくれる。それでいて、邪険な扱いは絶対にしない。

 そんな先輩の優しさを見て、思い付きを実行に移そうと心に決める。それは、今まで僕が一度もやろうとしてこなかったことだ。できるかどうかはわからない。けれど、やる価値はあると思う。なにより、僕自身がやりたいと思った。だから。

「僕に、絵を教えてくれませんか」

「どうしたの、急に」

「今決めたんです」

「変わってるね、君」

「よく言われます」

「どんな絵を描きたいの」

「これから考えます」

「本当に、変わってるのね」

 先輩が口元に手をやる。その上品な笑い方は、入部したときからなにも変わっていない。僕が好きな仕草のひとつだ。

「わかった。教えてあげる」

 仕方ないなと言いたげな表情で、先輩が頷く。

「ありがとうございます」

 それを見て、僕は微笑む。

 なにを描こうか。まずは、その題材から決めなければならない。

 僕が絵を描く理由はなんだろう。この一年、特になにがあったわけではないけれど、先輩との思い出は少なくない。入部してすぐに文化祭の準備を手伝ったり、コンクール用の絵を描く先輩をサポートしたり。活動場所の取り合いや部費の折衝なんてのもあったっけ。先輩が絵を描くところを眺めながら本を読んでいたことが大半だけれど、美術部があったおかげで、先輩がいてくれたおかげで、僕の一年間はとても有意義なものになった。

 そんな僕が絵を描く理由。

「決めました」

「あら、早いのね」

 僕は、先輩に思い出を送りたい。ただそれだけだ。僕が貰った思い出を、先輩と一緒に持っていたい。

 だから。

「えぇ。僕が描きたいのは、――」

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