第2話 アキラ
食堂でリョウとヒロコを見たとき、俺は高揚した。
この俺の姿をあいつらに見せつけてやりたかった。
昔、俺を見下ろしていたあいつらを今はこの俺が見下ろしている。
ヒロコはこんなに綺麗な女だったのかと素直に驚いた。
リョウはこんなに小さかったのかと笑えた。
特に俺を見上げたリョウの表情の小気味良さといったらなかった。
俺は変わったのに、昔のまま変わらないあいつら。
こみあげる優越感に浸った。
こいつらは小学生のあの時から世界が止まってやがるんだ。
なんて小さくて狭い世界だろう。
その世界の底辺にいた俺は、一足飛びにそこを飛び出してやったというのに。
いまだに俺も信じられない。
高校時代、俺の成長期が唐突に来た。
三年間で俺の身長は30センチも伸びたのだ。
世界は一変した。
女どもの俺を見る目が違う。
かつて俺の存在を無視した女たちが。
コソコソと影で俺のことをチビだと嘲笑った女たちが。
手のひらを返したように、美人もブスも上目遣いの媚びを含んだ目で俺を見上げてくる。
俺は有頂天だった。
*****
余命一年。
夏バテにしては身体の調子が悪過ぎると思い、夏休み中行った病院で、医師は俺にそう宣告した。
それを俺は他人事のように聞いていた。
『本当は若い女性に多いのですが』
言い訳のように言葉を濁す若い医師に。
そんなこと言って何になるのだろう、と俺は冷静に心の中で突っ込んだ。
次に会った医師は苦痛緩和のことを語り出した。
俺が遮って治療について聞くと
『もうそんな時期ですよ』
医師は事務的に答えた。
俺の人生はこれからが順風満帆なはずだった。
過去のチビのアキラを、俺はやっと消し去ったところだったのだから。それまでの割の合わなさをこれからの人生で存分に埋めるつもりだったのに。
ひどい冗談だと思った。
否定、怒り、取引、悲しみ、受容。
死を宣告された人はそのような経過をたどるというが、果して俺はどうだっただろうか。
よく覚えていない。
俺が我に返ったのは、夏休みも終わりの『受容』の時期だったと思う。
きっかけは学食内で。
目の前の日替わりランチを砂でも噛むような感じで咀嚼していた俺は、背中に突き刺さるような視線を感じた。
俺を正気に戻らせるほどの強烈な憎悪だった。
あまりにも剥き出しの敵意に俺は振り返った。
そのとき後ろに座っていたのはかつてのクラスメイト、リョウとヒロコのカップルだった。
二人はふざけあって仲良く食事していた。
俺には分かった。
今の視線はヒロコのものだと。
ヒロコは隣のリョウと顔を見合わせ笑っていた。
俺のことなど微塵にも気づいていないような様子だった。
この女はあんな視線で俺のことを見るのか。
冷水を浴びせられたように総毛立った。
俺はこんなにも。
人に憎まれて死ぬのか。
*****
過去を思い起こせば俺はひどい男だった。
小学生だったあの頃、俺は自分の目の前からヒロコのことを消し去りたくて仕方なかった。
酷い言葉を吐くたび、ヒロコは怯えた目で俺を見た。
ヒロコのおどおどした表情に俺の心のささくれが閉じていくようだった。
それでもあの時、俺とヒロコは似た者同士だった。真逆の立場でありながら俺たちは同じ世界にいた。
それが修学旅行のとき、ヒロコと俺のちがいを俺ははっきりと見せつけられたのだ。
高校生男子にちょっかいを出されて困っているヒロコの姿を見て、俺は思い知らされた。
ヒロコは将来、あっち側の世界に行くのだ。
だが俺はこっち側の世界から決して抜け出すことが出来ない。
修学旅行のあの夜。
ホテルで夕食を食べているときに、ヒロコがトイレで席を外したタイミングで。
俺はクラス全員の前で『ヒロコが死ねばいいのに』と言った。
リョウは俺のことを静かに見つめるだけだった。
他のクラスメイトは、いつものように俺の哀れな激しさを遠巻きに見守っていた。
あの時の報いが来たのかもしれない。
******
会ってくれるのかさえ疑問だったが、連絡したらヒロコは俺と会ってくれた。
喫茶店に呼び出し昔のことを謝罪した俺に、ヒロコは長い間、俯いて黙ったままだった。
虫のいい話だが、ヒロコの許しを俺は期待した。
子供の時の話だから、とか。
謝ってくれてありがとう、とか。
ヒロコが顔を上げてそんな言葉を言ってくれるのを期待した。
待ち続けた結果、顔を上げたヒロコが俺に言った言葉は期待と似たような言葉だった。
だが俺はそのときのヒロコの表情に硬直した。
ああ、と思った。
ヒロコは俺を許さない。
壮絶な程の美しい笑みをヒロコは顔に浮かべていた。
『これからは気にせずに付き合いましょう。何かあったら私も誘ってほしいな』
可憐にも見える笑顔でそう告げたヒロコ。
そのヒロコが頭の中で書いたシナリオが俺には読めた。
暗いほらあなを覗き込んだときのように底冷えがした。
ヒロコは俺を決して許さない。
ヒロコは俺が傷つく様が見たいのだ。
*****
俺に来たる死をヒロコに告白することも考えた。でもそれは、とても卑怯に思えた。
同情を買って、許しを得るか。
ヒロコのシナリオに付き合ってヒロコの希望どおりの男を演じるか。
後者の方がヒロコの復讐心に満足がいく。
小学生時代、ヒロコをひどく傷つけた俺が彼女に存分に償うことのできる方法。
演じる価値があるように思った。
ヒロコの許しが欲しかった。
後のない俺に残された唯一の救いだと思った。
死ぬ前に自身の犯した罪を贖いたくなる人間がいる。罪の意識から解放されて、心残りなく死に向かいたい。
ヒロコが満足できるなら俺はなんでもするつもりだった。
『俺、昔からヒロコのことが好きだったんだ、て分かった。だからヒロコにあんなにひどいことしたんだ。男って、好きな子のこといじめるんだよ』
我ながら反吐がでるほどの阿保くさい告白メールをヒロコに送った。
ヒロコの気を引こうと必死で努力する。
そんな滑稽な男を俺はそれから演じ始めた。
他の女との関係は全て絶った。
夏休み前まで、近づいてくる女を手当たり次第に摘み食いしては捨てていた自分のことをまるで遠い昔のように感じた。
毎日、ヒロコにメールを送った。
おはよう。
休みの日は何してるの?
今、何してる?
公園で見かけた犬や、道端で寝る猫、姉の子供の写メールを送ったりもした。
ヒロコの反応が欲しくてたまらない馬鹿で純心な男を演じた。
無視されたり、素っ気ない返事がくることを繰り返したのち。
ヒロコの返事が徐々に増え、返信までの時間が短くなってきたことを確かめた。
ある日、有名なパンケーキ店の看板メニューを写メールで送った。
『すごく美味しそう』
ヒロコから返ってきた反応に俺はすぐに返した。
『今度一緒に食べに行かない?』
******
三回の密会デートを重ねたあと、俺は手をつないでみた。
ヒロコは拒否しなかった。
顔を近づけてキスをした。
今度もヒロコは拒否しなかった。
驚いた。
憎くてたまらない男にそこまで我慢できるヒロコに。
そして、そこまでのヒロコの徹底した復讐心に。
時を待たずにそれからすぐ俺はヒロコを抱いた。
自分の快楽よりヒロコの快楽を優先して抱いたのに。
溺れるように夢中になった。
ヒロコが悦んでいるように俺には見えた。
ヒロコは快楽に
リョウ相手ではそんなことはしないのだろう。
俺はそれがヒロコのリョウと俺の区別だと察した。
初めて俺が下になったとき、ヒロコは戸惑っていた。
『したことないの』
驚いた俺に、このときにまでリョウを見下ろしたくなかったのだと、ヒロコは漏らした。
それからヒロコは自分から俺の上に跨るようになった。
リョウとはしたことのない型を試すたび、ヒロコは驚きながら確かに純粋に悦んでいた。
あいつとはしないことをヒロコは俺としている。
ぞくぞくするような優越感を感じた。
俺はそのころ、もはや分からなくなっていた。
自分自身に。
これが演技なのか、自分の本心なのか。
ヒロコに奉仕して懸命に抱く自分はどちらなのか。
ヒロコの熱に埋もれながら、毎回せがまずにはいられなかった。
『ヒロコ、俺を見て』
目を閉じて切なげに吐息を漏らすヒロコに、祈りをこめて俺は何回もささやいた。
ヒロコは目を開けてくれなかった。
『ねえ、俺を見て』
俺をもう許して。――
俺を傷つけるのはいつなのか。
シナリオのラストはまだ来ないのか。
俺はその時が来るのを怖れるようになった。
*****
ヒロコと外で会ったとき、ショッピングモールで靴屋に入った。
ヒールが陳列した棚の前からヒロコは張り付いたように動こうとしなかった。
嬉々としてずらりと並んだ目の前の商品をながめわたしたあと。
足のサイズの商品がなかなか無いヒロコはその中から海外ブランドの8センチピンヒールを見つけ出し手に取り上げた。
ピンヒールを試着して俺を見上げたヒロコが。
嬉しそうに笑った。
その笑顔はリョウだけに向ける笑顔と同じだった。
クラスの男子で唯一ヒロコのことを林さん、と呼んだ優等生のリョウに。
ヒロコが浮かべたなんともいえない笑顔だ。
ああ。
俺はヒロコを抱き寄せて胸に抱いていた。
泣きたいような気持ちだった。
俺のこと、許してくれた……?
そして、ひとつの可能性も期待した。
俺のこともリョウと同じくらい、好きになってくれた……?
******
リョウにばれた。
インターホンが鳴って、ドアの覗き穴から外を確認した俺は、リョウの姿を認めて全てを理解した。
終わりだ。
ヒロコが失敗したのだ。
俺を傷つけるタイミングが遅すぎたのか。
または俺への復讐心が消えたのか。
どちらなのかは分からない。
でも俺が取るべき行動は分かっていた。
ヒロコに甘い言葉で近づいて、弄んだ最低な男。
それを演じればいい。
リョウは俺に憎しみをぶつけてヒロコを許すだろうし、ヒロコは悲劇のヒロインになれる。
今までの俺とヒロコの時間は取るに足らないものになり、リョウとヒロコはまた元のように戻るだろう。
まるで何もなかったかのように。リセットできる。
扉を開けた瞬間から、俺はそんな男を演じ始めたつもりだった。
ヒロコとは遊びだった、悪かった……俺はヘラヘラとそう言うつもりだったのだ。
だが、俺の口から出た言葉は反対だった。
俺は嫉妬していたのだ。
目の前の小柄な男に。
小男のままでもヒロコに愛されている、目の前のリョウに。
『あいつが好きになった。あいつも、俺が好きだって言った。俺のそばにいると、自分が小さい女の子になったみたいですごく安心するって。俺もあいつなら視線が合わせやすいし、キスもしやすいし』
ヒロコの立場が苦しくなることは分かっていた。でも言葉を止めることはできなかった。
焼けつくような嫉妬で、リョウを傷つけたくて俺はたまらなかったのだ。
『……ああ。この靴、置いていった。お前の前だと履けないからって……。なあ、お前、気付かなかったのか? 俺の部屋にヒロコが何回も泊まっていったこと』
足下に転がっているピンヒール。
リョウがしゃがみ込んだ。
『あいつ、俺の前ではしゃいでいた。やっと、ヒールのある靴が履けるって』
好きな女に好きな靴も履かせてやれないような男なんだぜ、お前は。
それなのに。
『世の中分からないよな。昔、お前は男子の中で一番大きかったのに。俺はお前がヒロコよりも嫌いだったよ。それが……今じゃ俺はお前よりもヒロコよりも高いなんてな』
リョウがピンヒールを持って、俺の顔を見上げた。
あのときの顔だ。
修学旅行の夜のときも。
中学で縮まらないお前とヒロコの身長差を笑ったときも。
お前は俺を哀れむように見つめた。
いつもお前はそうだよな。
昔から、優等生で優しくてみんなから頼りにされて。
お前はチビになったのに。
性格が良いというだけで、好きな女にも周りの奴らからも好かれている。
昔のまま、今も皆に好かれてる。
ただ性格が良いというだけで。
『おまえ、長いこと付き合っていたのに、あいつとアノ時、二つの体位しかしなかったんだって?』
何度も俺の上で腰を振って喘いだ、ヒロコの姿を俺は思い出した。
最後の最後まで結局、俺を見ようとしなかったヒロコ。
『あいつ、俺としたときびっくりしてすげえ喜んでた……』
******
リョウがいきなり近づいてきたと思った。
次の瞬間、左目の焼けつくような痛みを感じ、俺は後ろに倒れこんだ。
リョウが俺の上に跨り、俺の顔に何かを振り下ろし続けた。
初めて怒りを露わにしたリョウに俺は少し驚いていた。
身体は苦痛でのたうち回ったが、心は奇妙に静かだった。
ヒロコから大事なリョウを奪ってしまった。
その後悔は即座に感じた。
それに加えて俺の心はあるひそやかな期待にふくらんだ。
俺の死は、これで意味のあるものになるかもしれない。
本来、死とともに忘れ去られるはずだった俺の存在。
俺の死に、ヒロコは後悔するだろうか。
苦しめるだけのつもりが殺してしまった男。
ヒロコの心に俺という男は一生取り付いて離れないだろうか。毎日、俺のことを自責の念にとらわれて思い出してくれるだろうか。
それは、ヒロコの許しを得る以上の素晴らしい結末に俺には思えた。
――俺のことを覚えていて。
血走った目で狂ったように俺を打ち付けるリョウを片目で見上げたあと。
俺の世界は電気が切れたように真っ暗になった。
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