コンプレックス

青瓢箪

第1話 リョウ

『大日本帝国軍人は制服に身体を合わせろって言われたんだって。本当にそんな風に身体が調節出来れば世話ないよね』


 ヒロコは自嘲気味に笑ってそう言った。


 ヒロコは可愛いよ。


 僕の言葉に、ヒロコは嬉しそうに微笑んで身を屈めてすり寄せてきた。


『ありがとう。そう言ってくれるのはいつもリョウちゃんだけ』


 僕はそう甘えてくるヒロコの頭をポンポン叩いて、撫でてやった。

 お約束の行為。これは、遠い昔からの習慣。ヒロコは僕にこうされるのが大好きだった。


 身長173センチメートル。靴のサイズは25センチ。

 骨格はしっかりしているけど、体重は少ない。スリーサイズは理想値に近く、顔立ちは博多人形のような可愛らしい美人系。

 これがヒロコだ。


 ヒロコはずっと僕の彼女だった。

 僕は最初からヒロコの魅力に気づき、彼女を愛した。

 ヒロコも僕を愛していた。


 確かに僕たちは愛し合っていた。


 この……八年間。



 *****



 ヒロコと会ったのは小学生のとき。

 六年に上がったとき、ヒロコと初めて同じクラスになった。

 ヒロコはすでに身長が170センチメートルだった。周りのみんなより、頭ひとつ分大きかった。


『巨神兵』と小柄なアキラがヒロコのことを呼んで、それがヒロコのあだなになった。

 ヒロコはみんなからそう呼ばれても笑っていた。

 いつも微笑むように笑っていた。

 みんなの後ろにひっそりと、少し離れて。

 決して、他の女子のように大きな声でわめいたり、けたたましく笑うことなく。


 僕は一度もヒロコのことを巨神兵とは呼ばなかった。

 林さん、と名字で呼ぶ唯一の男子の僕に、ヒロコは嬉しそうな顔をした。

 僕の身長は164だった。クラスの男子では一番高かった。

 ヒロコは男子とあまり話さなかった。

 小柄だが気の強いアキラに『俺の近くに来るな、話しかけるな』と言われたせいかもしれない。

 男子の中で一番ヒロコと話したのは、僕だった。

 僕が話しかけると、ヒロコは嬉しさが隠しきれないような、なんとも言えない表情をした。ヒロコはその顔を僕にしか見せないことに僕は気付いた。僕はそんなヒロコのことを可愛いと思った。女の子を可愛いと思ったのは、ヒロコが初めてだった。


 その時、自分と同じ歳の少年たちは、クラスで一番目が大きい小柄な女子のことが気になるらしく、その子のことをコソコソと仲間うちでよく話していた。

 僕はその子には全く興味はなかった。


 修学旅行のときだった。

  僕たちと同じように高校生の一団が宿泊先のホテルに泊まっていた。

 女子の中でヒロコだけが、男子高校生のグループに捕まって、ずっと話しかけられたり、ちょっかいをうけていた。

 その様子を見て僕は確信した。


 僕は間違っていないのだと。

 クラスの男子の中で、僕だけがそのことに気がついているのだと。


 *****


 中学に上がり、僕とヒロコは付き合いはじめた。

 ヒロコは最初の一年間で、身長が3センチ伸びた。僕は1センチ伸びた。

 相変わらず、クラスの男子はヒロコをそういう対象とは見ずに、今度は胸の大きい女子についての話題で盛り上がっていた。

 友人の間で好きな女子の話をすると、決まって話題に上がってくる女子は可愛くて胸が大きい子か、表情豊かなキャピキャピ話す元気で小柄な子だった。

 僕は安心しきっていた。


 二年になると、急激に身長が伸びる奴らが増えた。男子では身長が一番だった僕を、あっさりと抜かしていく奴らも出てきた。

 僕は焦りを覚えた。まだ、自分の身体は成長すると思っていた。

 いつか、ヒロコを超えるのだと。

 牛乳を飲み、毎晩ストレッチして、見たいテレビも我慢して夜十時には寝た。

 それでも、中学三年間で僕は2センチしか伸びなかった。


 高校生になった。

 僕とヒロコは同じ高校に入学した。

 僕とヒロコは順調だった。

 一緒に登下校をし、休日はデートして、キスもした。

 でも、ヒロコと僕の身長差は縮まらなかった。

 僕はひたすら牛乳を飲み、ストレッチし、十時には寝て、朝四時に早起きしては宿題や予習、復習をしていた。

 それでも身長は伸びなかった。


 僕は気付いた。

 僕はすでに父と母の身長を超えていた。親戚連中と比べても、僕の身長が一番高かった。

 これが、僕の限界だったのだ。

 それでも諦めきれず、僕は通販でサプリやら機械やらに手を出してみた。でも効果は全くなかった。



 とうとう、クラスの中で僕は身長が低めの男子になってしまった。ヒロコは相変わらずクラスで一番身長が高かった。

 その時、クラスでヒロコより身長が高い男子は、皆申し合わせたように小柄な女子と付き合っていた。

 だから僕は安心した。


 高校を卒業した春休み、僕たちは初めて身体の関係を持った。

 恥じらいながら僕に初めて見せたヒロコの身体は、モデルのように美しかった。

 脚は長く、腰は引き締まっていて、そのへんにいる女子とは明らかにレベルの違う素晴らしい身体をしていた。

 綺麗だよ、と僕が言うと、そう言ってくれるのはリョウちゃんだけ、とヒロコは恥ずかしそうに僕の胸に顔を埋めた。

 ヒロコは自分の価値に気がついていなかった。




 大学に進んだその瞬間に、ようやくヒロコの魅力に周囲が追いついた。

 制服から解放されて、化粧したヒロコは周りの女子とは群を抜いて美しく、しっとりとした色気があった。

 洋服というのは小柄な女子がどうやっても背丈のあるヒロコの方が見栄えがし、私服やスーツの世界ではヒロコが勝ち組だった。

 ヒロコは小学生のころから、落ち着いた雰囲気を持ち、話し方は上品でゆっくりめだった。昔から、いつも人の背後で控えめだったためか、よくいろんなことに気がついて、気も効いた。

 他の女子があわててヒロコに倣おうとも、追いつけるわけがなかった。



 僕たちのことを知らない男は、初めてヒロコを見たときに「もうあんなコ、歳上の彼氏がいるよな、絶対」と僕にため息をついて話しかけた。

 僕は有頂天だった。



 身体のラインがはっきりと出る服を着たヒロコは誰よりも際立っていて、男たちは皆ヒロコの姿を目で追った。男たちの羨望の眼差しを浴びながら、僕は構内をヒロコを連れて颯爽と歩いた。

 僕は有頂天だった。





 ――そんな時に、あいつと再会した。


『久しぶりだなリョウ。まだ、お前たち付き合ってたんだな』




 僕の頭上約20センチから見下ろして言ったそいつは。




 中学の卒業時に僕たちと別れたあと、身長185センチに成長した、アキラだった。



 *****



 それからのち、僕はヒロコの変化に気付いた。

 昔から少し猫背気味だったヒロコは、明らかに姿勢が良くなった。

 自信を持って歩くその姿は、ますます周囲を魅了した。

 服の趣味も変わった。

 肌を出す大胆なデザインの服や、ミニスカートにも挑戦しだした。

 その変化を僕は素直に喜んだ。自信のなかったヒロコがようやく自分に自信が持てたのだと。


 しかし徐々に僕は得体の知れない不安を抱くようになった。

 ヒロコと会う時間が減った。

 ヒロコに休日の確認をとると、予定が埋まっていることが多かった。

 仕方がないと思った。

 大学に入ってから、サークル等でお互いに交流関係が一気に広がった。そういうものだろう、と僕は言い聞かせていた。


 僕は気がついていなかった。

 ようやくヒロコの魅力に気がついた男たち……かつて僕より身長が低く、今はヒロコより身長が高くなった彼らが。

 決して、ヒロコのことをほうっておくわけがないことを。


 一度、ヒロコに合コンに行ってもいいかと聞かれたことがあった。人数合わせのために参加してくれと頼まれたから、と。

 僕はいやだと断った。

 ヒロコは素直に従った。

 それからは二度と、ヒロコはそういうことは言い出さなかった。




 しばらくして、ヒロコはセックスの時にぼんやりとするようになった。

 何を考えてるの? とある日、僕が聞くと、私がもっと小柄だったらリョウちゃんはもっと楽しめたのにね、とヒロコは答えた。

 そんなの関係ない、大好きな相手とすることが一番なんだから。大好きなヒロコとできて、僕は幸せだ。

 僕が答えると、ヒロコは少し悲しそうに微笑んだ。

 お姫さま抱っこしてあげようか?

 僕は冗談ぽく聞いた。

 昔から、ヒロコはお姫さま抱っこをすると、とても喜んで僕に抱きついてきた。

 ううん、とヒロコは微笑んで僕にキスした。



 このとき僕は気がついていなかった。


 ヒロコが言いたいのは別のことだったのだ。

 ヒロコはすでに以前のヒロコではなかった。



 *****



 ヒロコの友人が僕に告白した。

 ヒロコが僕に隠れてアキラと会っていると。

 僕はヒロコに問いつめた。

 ヒロコは困った顔で白状した。


『アキラくんに告白されたの。昔から……小学生の時から私のことが好きだったって。ちょっとでいいから、僕と会ってくれないかって』


 僕は逆上した。


 そんなわけない、あいつはヒロコのことを嫌ってひどいことを言ってたじゃないか。


 あいつ。今更ヒロコに優しくしやがって。

 中学時代、あいつは『自分よりデカイ女とよく付き合えるよな』と僕のことをよくからかった。


『男の子って、好きな子をいじめたくなるんだって。だから、私に嫌なことを言ったんだって』


 おずおずと返すヒロコの表情の端に、若干恥ずかしそうな笑みが見え隠れしたのを僕は見逃さなかった。


 そんなわけない。あいつは、お前がいない時に僕たちの前で、お前のことを死ねばいいのに、て言ってたんだぞ。


 本当のことだった。確かに、小学六年生のアキラはひどい男だった。


『嘘』


 ヒロコは認めようとしなかった。


『嘘。リョウちゃん、どうしてそんなにひどいこというの?』


 ヒロコの目に涙が盛り上がり、たちまちあふれ出した。


 ああ、と僕は思った。


 僕の態度と言葉にヒロコは傷ついたのではないとわかった。

 ヒロコはすでにアキラに惹かれており、アキラに裏切られたことにひどく傷ついたのだ。


 僕はヒロコの前から去り、アキラの住むアパートへと走った。


 *****


 ドアを開けて僕の姿を見るなり、アキラはあっさりと認めた。


『悪かったよ。お前の女なのに。でもあんなにいい女なんだ。男なら手を出さずにいられないだろ?』


 アキラは頭上から僕を見下ろして苦笑した。


『でも、あいつもすぐ俺の誘いにのったんだぜ。あいつ、全然男慣れしてなくて、見かけと違ってまるで子供みたいだった。無理ないかもな。今まで男の眼中にない女だったから。ちやほやされたこともないだろうから、駆け引きしなくてもあっさりと落ちた』


 僕は腸が煮えくりかえりそうなほどの怒りを抑えながら言った。


 今まで散々ヒロコのこと傷つけたくせに。よくも今更、手のひら返すようなことできるよな。ふざけるな。ヒロコのこと好きだったなんて嘘つきやがって。


 アキラは悪びれずに笑った。


『嘘ついたのは悪かったよ。でも、大目にみてくれよ。昔の自分は反省してる。あの時の俺はコンプレックスの塊でどうしようもなかったんだ。あんなにデカイ女は敵にしか見えなかったんだよ。でも、今じゃ、俺はあのヒロコを見下ろせてすんげえ嬉しいし、ヒロコにもあの時のことを謝ることができて良かったと思っている』


 ヒロコに謝罪したアキラの姿を思い浮かべて、僕はほんの少しだけ溜飲が下がった。


 じゃあ、気がこれで済んだんだろ。遊びだったんだろ。終わりだ。これから二度とヒロコに近づくな。


 アキラはへんな顔をした。


『それとこれとは別だ。あんなにワガママじゃない優しい女今までいなかった。あいつ、自分がイケてること分かってないから、他の女より謙虚で』


 僕は、ふとアキラの足元に倒れている靴に気付いた。

 シャンパンピンクのゴージャスなピンヒール。ヒールの高さは8センチぐらいだった。


『あいつが好きになった。あいつも、俺が好きだって言った。俺のそばにいると、自分が小さい女の子になったみたいですごく安心するって。俺もあいつなら視線が合わせやすいし、キスもしやすいし』


 僕はピンヒールから目を離さずに言った。


 ヒロコは……ここに来たのか?


 僕の様子にアキラも足元に転がるピンヒールに目を落とした。


『……ああ。この靴、置いていった。お前の前だと履けないからって……。なあ、お前、気付かなかったのか? 俺の部屋にヒロコが何回も泊まっていったこと』


 アキラの言葉を聞きながら、僕はしゃがみこんでピンヒールを手に取った。

 海外ブランドでサイズは25センチ。


 ヒロコとショッピングデートに行ったとき、サイズが25の靴探しには苦労した。

 そのとき、絶対にヒロコはヒールのある靴の棚には行かなかった。


 何度も僕はヒロコに言ったのに。


 ヒールの靴、履いていいよ。ヒロコが更にスタイル良く見える。素敵だ。買おうよ。


『あいつ、俺の前ではしゃいでいた。やっと、ヒールのある靴が履けるって』


 僕は気にしていなかった。ヒールがあろうがなかろうが、ヒロコは僕よりも高いのだから。僕は気にしなかったのに。

 だけどヒロコは……。


 僕はしゃがんだまま、目の前のアキラを見上げた。


 小学生のときには列の一番前にいたアキラ。

 不機嫌な顔をして、前にならえ、のときにはみんなの中で1人だけ腰に手を置いていたアキラ。


 アキラは今じゃ僕の理想の男だった。

 中高時代に、こうなりたいと努力しながら思い描き続けた、高身長の男。

 ヒロコと並んでも、お似合いだと誰からも言われるような男。


 どうして誰よりもチビだったお前が、今そんな男になってるんだよ。



『世の中分からないよな。昔、お前は男子の中で一番大きかったのに。俺はお前がヒロコよりも嫌いだったよ。それが……今じゃ俺はお前よりもヒロコよりも高いなんてな』



 アキラの顔が醜さを帯び始めた。


 優越感。


 何故だかその顔は正反対の感情で埋め尽くされていた過去のアキラと同じだった。

 僕とヒロコを見上げていた劣等感だらけの小学生のアキラ。



『おまえ、長いこと付き合っていたのに、あいつとアノ時、二つの体位しかしなかったんだって?』


 アキラの目が暗くいやらしく輝いた。


『あいつ、俺としたときびっくりしてすげえ喜んでた……』


 アキラの言葉が終わらないうちに、僕は立ち上がってピンヒールをアキラの目に突き刺していた。

 何かが弾けた。

 床に転がるアキラに馬乗りになって、僕はアキラにヒールを振り下ろし続けた。






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