十八章 未来との約束

「散れぇ!」


 カザクの号令一下、ダークエルフたちは散開した。

 直後、オルディバルとログボザがはっしと打ち合い、円状の衝撃波が吹き荒んだ。

 黒き稲妻と炎が、喰らい合う龍のごとく弧をえがき、のたうち、咆哮した!


 エルフたちはかろうじて余波を避け、鎧たちと向き合った。

 母なる大樹の麓から広がる〝昏き森〟の闇のなか、鎧たちの黒はなお黒かった。


 世界樹の樹液から錬成されたグルヴェイグ合金。

 それを用いることで生みだされた兵器〝黒鉄の化身マナ・マキナ〟。

 邪神の麾下にくだり堕落した、絡繰りの戦乙女ヴァルキュリア


 美麗なる人々は、闇色の地平線と束の間にらみ合い、


「――」


 詠唱を始めた。

 無論、鎧たちの返答は、無機質で容赦がなかった。

 鋭角的な一対の翼をひらき、その真下から炎を噴きだした。

 火の粉の羽根が〝昏き森〟の闇を、一面紅く染め上げたかと思う間に、二対の翼は羽搏いていた。


 肉薄は刹那。

 鎧たちは腕を振りかぶった。その先端に拳はなく、代わりに直剣が伸びていた。ほぼ視認できぬ速度で振動するそれが、炎の明かりに残忍な円弧を刻んだ!


 ズグ、ズグズグ!


 惨たらしい音が、森の闇に吸いこまれた。

 一閃に疾風が吹き荒び、真紅のを散らした。


「……」


 カザクへと襲いかかった鎧の眼前に、人影はなかった。

 火花は、鎧の腰部から飛び散っていた。

 それもやがて途切れると、鎧の半身はすべり落ちた。

 その巨体の陰から、砂色の鎧をまといカザクが歩みでた。

 否、鎧ではない。

 土砂や塵芥を巻きこんで形成された風魔法だ。


「かかれぇ!」


 風の刃を掲げ、カザクが命じた。


「おおおおおぉぉぉおぉおぉぉおおおおぉ!」


 吶喊が応えた。

 そこここで擦過音、破砕音、爆発音が轟いた。

 付与式や強化魔法で鎧った者たちが天地を馳せ、後方からの正確無比な魔法射撃が黒鉄を射抜いていった。ヨトゥミリスじみた巨躯が傾ぎ、歪み、爆ぜて、次々と崩れ落ちていく。


「あ、っば……」


 しかし斃れたのは黒鉄ばかりではない。

 詠唱の遅れた者、魔法の出力が足りなかった者――などが、痛みに喘ぐ間もなく絶命した。

 正中線から真っ二つに割れたエルフの臓物が飛び散り、それを踏み荒らし、裂きながら、戦乙女が殺到する。


「うおぉおおぉぉぉおおぉおおぉおおぉ!」


 エルフたちは怒った。激情は魔法の糧となる。

 振動剣の猛攻をかいくぐり、頑強な装甲を一閃の許に絶った。残像消えやらぬ間に、次の一刀が黒を斬った。射撃は果実のごとく鋼を割り、後続もろとも爆散させた。

 一人ひとりが獅子奮迅の活躍をみせた。

 心血を魔法に注いだ彼らは、脆弱な人ではなかった。

 人の形をとった災禍だ。風が大地を抉り、雨が山肌を押し流し、雷が巌さえ炭化せしめるのと同じ。

 エルフの魔法は、科学の力を凌駕していた。

 個々人の能力ならば、確実にエルフが勝っていた。


「ぐああああぁあああぁッ!」


 にもかかわらず、優勢にあるのは〝黒鉄の化身〟のほうだ。

 鋼の甲高い破砕音の裏では、断末魔や骨肉の砕ける音が多く敷かれていた。

 集ったエルフの数と、迎撃に駆り出された戦乙女たちの数とでは、雲泥の差があった。

 加えて、肉体は脆弱だ。

 神々の闘いから注意を逸らすわけにもいかない。

 余波を回避できなければ、たちどころに凍るか炭化する。ログボザから意図的な横槍を入れられることもあった。


 何よりエルフたちには、ドワーフの鎧より明確に劣る部分がある。

 その弱点は、すぐに晒された。


「げあ、アァッ!」


 後方支援に徹していたエルフが、突如、爆発の華に呑まれたのだ。

 それを皮切りに、次々と爆炎が咲き誇った!


「……くッ!」


 ヒュと風が切れ、視界に何かが過ぎったと見る間に、爆炎と黒煙が渦巻き哄笑する!

 さらに爆発の瞬間、飛散した鉄片までもがエルフたちを襲った!


「くそ、どこから……!」


 紙一重で榴弾を躱したエルフたちは、四囲に目を配り、敵影を探るが無駄だった。

 戦場に疾駆するは、戦乙女の機影のみ。

 爆炎の蕾は、ふいに森の暗がりから生じ、瞠目の間もなく次々と炎に咲き誇る。


 摂理を凌駕せし、科学の魔技。


 それが戦の趨勢を決定づける、明確な差だった。

 いくらエルフの魔法が強力だとはいえ、名匠の鍛えた剣や槍も、弩を前にすれば無用の長物でしかないように、魔法は、榴弾砲撃機絡繰りの柘榴に対してあまりに無力だった。

 攻撃式で射程を伸ばそうと、強化魔法で視野を拡大しようと、爆炎の種は埒外の距離から飛来する!


「ぎええええぇぇぇえぇえええぇぇえぇ!」


 エルフたちの吶喊が、次第に悲鳴へと塗り替えられていく!

 炎が命を呑みこみ、砕片が肉体を苛む。

 全身をズタズタに裂かれ、なお死ねず、絶叫する者があった。

 声も出せず、命の灯火が消えゆく様をまざまざ見せつけられる者があった。

 多少運のよい者は振動剣で介錯されたが、そうでない者は土とこねくり回されながら轢殺された。


 それでもエルフたちは戦い続けた。

 神々の桎梏を脱し奔放に生きることが、いつかの夢だった。

 しかし今は、他でもない滅びを願った神の許で抗うことが誇りだった。

 彼の神が邪神を討ち、世界が平和をとり戻すことを、切に願っていた。



                ◆◆◆◆◆



『クソッ!』


 ヴァニは毒づいた。

 無力な自分に対してだ。

 心を閉めだされようと、世界樹から流れこむエルフの声は、ヴァニの許にまで届いた。

 ログボザとの戦いもオルディバルの五感から伝わってくる。

 なのに自分は何もできない。何も。


『俺は、何のために来たんだよ……』


 ヴァニは多くを知った。

〝古の時代〟に関する知識を。

 畢竟、それがここへ来た理由なのかもしれない。


 だが、熾烈な戦いを目の前にして自己嫌悪に駆られることが、自分の役目なのか。

 本当にできることは何もないのか。

 心はひどく痛むのに。

 胸は熱く滾るのに。

 自分がここにいる意味は、ただ知ることでしかないのだろうか。


『そんなはず、ねぇ……!』


 ヴァニは強いて言い聞かせた。

 そして、存在しない手を伸ばした。

 それが自分にできる、唯一のことだと思ったから。


 あの黒き鋼の、孤独な空間でもそうだったように。

 世界と自分を繋げられるのは、秀でた魔法の技でなければ、賛美に値する知恵でもない。


 たった一本、あるいは二本。

 短く頼りないこの腕を、愚直に伸ばし、伸ばし続けること。

 ただ、それだけのはずだった。



                ◆◆◆◆◆




「どうしたァ、オルディバル? 動きが鈍っているゾ!」


 どろりと黒き焔が残像をえがき、ログボザの口端で散った。

 一閃を穂先で打ち返したオルディバルは、たて続けに襲い来るもう一振りの剣戟を、槍をまわし石突きで受けた。砂埃が舞い、草地が裂け、スラウグニルは一歩後退した。


「……ぬッ!」


 ガンズイールの稲妻を集約すれば、焔の剣をいなすことなど容易いはずだった。

 しかしログボザは、〝凍塵の羽衣〟から執拗に冷気の茨を伸ばし、稲妻の力を制限した。道中での消耗が、ここに来て響いている。


「せめてエルフどもが隙を作ってくれたらよかったのになァ? だが、隷属に甘んじた虫ケラどもは、あの通りの体たらくッ!」

「隷属ではない! 貴様が甘言で惑わし、懐柔したのだろうがッ!」

「ンガガッ! 正鵠を射た答えだなァ!」


 大上段の一振りを、オルディバルは受け流す。柄に火花を散らし、胸目がけ刺突を繰りだした!

 しかしログボザの身のこなしは軽やかだ。蝶のごとく舞い距離をとれば、漆黒の火球を発射した!

 咄嗟に黒き稲妻で相殺を試みるも、


「ッ!」


 火球が速い!

 稲妻は火球をかすめ、わずかに軌道を逸らしたが、足許に着弾した。

 刹那、火球が爆ぜる!


「ヒイイィィィイイィンッ!」


 神馬の両前肢が消し飛んだ!

 オルディバルは、馬上から投げ出された。

 愛馬の窮地を嘆く間もなかった。

 受け身をとり身構えた。


「ンガガ!」


 ところが、ログボザからの追撃はなかった。

 くるりと向きを変え、世界樹に狙いを定めたのだ!


「ログボザ、貴様ァ!」


 スラウグニルの健脚なくして、〝そら渡りの靴〟には追いつけぬ。

 オルディバルはどす黒い瞋恚に魂を捧げ、遠ざかる背中へガンズイールを投擲した!


「あの日の再現といこう!」


 ニタリと笑んだログボザは、剣を交差させ黒き焔を集約させた。粘つき凝った焔が、千の黒き稲妻と化した戦槍と交錯した!


 漆黒の火花が散る!


 その時、黒と黒の描きだす影の中から二頭の狼が浮上した。

 さらにオルディバルを蝕んだ稲妻から無数の羽が滲みだし、二羽の鴉となって飛翔した!

 邪神を襲う、四つの影!


「ンググ。周りはよく見たほうがいいゼ!」


 しかしログボザは動じなかった。

 槍がはじき返されると、邪神へ殺到するはずだった四つの影は、咄嗟に散開した。

 直後、大地に弾頭が突き刺さり爆散。飛び散る破砕片を避け、眷属たちはさらに後退を余儀なくされた!

 神々は、それぞれの黒き力を用いて破砕片を消滅させた。


 なおも降りしきる弾雨の中、オルディバルは地を蹴った。

 手中に戻ったガンズイールを掲げもせず、間断なく襲い来る砕片を受け、その身に血の色を刻みながら!


「おっと……ッ?」


 穂先に稲妻が渦巻いた。それが今、焔の剣から吹き荒れる熱波すら喰らいながら魔の文字と化す。


 紅緋。漆黒。

 脈動とともに色を変え、神の手中で咆哮する。


 ギイイイィィィィイイイィィイィィイィイイィイッ!


 ログボザは莞爾と笑んだ。


「無茶をするなァ、オモシロイ!」


 双刃から一際烈しい焔が湧き立った。それは胸の前で絡み合い、二股の蛇と化した。羽衣から散った霜はパキパキと叫喚し、燃え盛る鱗に歪な翼を編んだ。氷炎が融け合い黒白こくびゃくの斑を描いた。


 ジジギッ、カカカ……。


 氷炎の撹拌に、空間が喘鳴した。


「貫けェ、ガンズイール!」


 そこへ轟雷は放たれた!

 螺旋に吼え、風を撥ね、地を抉り、四囲を雷火に焼きながら!

 怒り狂う龍の如く!


「簡単にはやられてやらんゾ!」


 ログボザの狂喜とともに、斑の蛇もまた飛びたった!

 氷炎の毒をまき散らし、静かな破滅をもたらしながら、

 今、雷の龍と喰らい合う!


 牙と牙が交錯する、その刹那。


 異形と異形を中心に爆風が吹き荒んだ!

 地響きと共に雷弧が鳴く!

 舞いあがった腐植土が、炭化と同時に凍りつき、ガラスのごとく次々と砕け散る!


「穿てェ……!」


 オルディバルは魔力を注ぎこむ。肌が裂け、傷口から血の代わりに黒い稲妻が散った。

 龍が蛇の鱗に喰らいつく!


「化け物じみた力だなァ!」


 しかし蛇もまた龍を食む!

 互いの輪郭が波打ち乱れる!

 虚空に焔、霜、雷弧が生じ、瞬時に消える。

 そこへ榴弾が飛来するも、中空で爆発。炎の華は瞬く間にしぼんだ。砕片など跡形もない。神々の争乱には、一矢の掣肘とて許されなかった。


「ぬあァ……!」


 だが、熾烈な攻防もいよいよ限界だ。

 オルディバルは血の塊を吐き、ログボザは笑いながら血涙を流した。


 その時、戦いの余波で樹冠に穿たれた穴――遥か高みの空で〝黒鉄の化身〟が爆発炎上した。

 それと呼応するように、雷の龍と氷炎の蛇が輪郭を崩した。膨張し、閃光を迸らせた。森の闇色を、様々な色彩が塗りつぶした。


 衝撃波。


 森の木々が泣き、枝葉が吹き荒れた。

 最後には、パリパリと大気が鳴いた。


「くッ……」


 オルディバルは膝をついた。

 ログボザもまた。


「……ググ」


 しかし邪神は、小刻みに肩を震わせた。


「なにが可笑しい」

「お前が、どんな顔をするかと思ってなァ……」


 剣を支えに、ログボザは立ちあがる。轍のごとく刻まれた衝撃波の後退跡に足をとられながら。


「あの時みたいに頼むゼ。またゾクゾクさせてくれよォ」

「なにを……」


 その答えは、焔神の剣によってもたらされた。

 剣身が、酷薄な光に燃えた。破滅に狂喜した、邪神の化身のごとく。


「貴様、まさか……」

「再現と言っただろうが」


 ログボザの背後に、巨影が聳立していた。

 万の樹木を束ね、縒り合わせたような無二の大樹――世界樹が。


「……やめろ」


 手許に戻った槍を支えに、オルディバルは立ちあがった。全身が震えていた。鉛のように重かった。踏みだせなかった。まして刃を交えることなど――。


「やめろ、ログボザ……!」


 胸の底が燃えた。恐怖に凍えながら。

 萎えた肉体を叱咤し、かろうじて一歩。

 手を伸ばす。

 しかし届かない。

 遠い。あまりにも遠い。

 世界樹に、黒き焔の醜悪な舌が伸びてゆく。


「やめろぉおおぉぉおおぉおぉおおおおぉッ!」


 オルディバルの五感に――明滅した。

 世界樹の燃え落ちる様が。

 肉の焼ける臭いが。

 憎しみに噛みしめた血の味が。

 エルフたちの断末魔が。

 エルリムを貫いた感触が。


 また、喪うのか……?


 ふたたび魔力を注ぎこむが、ガンズイールは応えない。眷属も呼び戻せない。この手足では届かない。

 オルディバルの魂の柱が傾き、メキメキと音をたてた。

 穢れた感情の数々がごぼごぼと泡立った。

 黒き焔が世界樹と口づけを交わす――その刹那。


『させるか……』


 ガンズイールが、主の手中を離れた。

 負の感情を共に引き連れ、ひとりでに飛翔した。

 風を裂き、光を超え、黄金に煌めけば、


『させるかあああぁああぁああぁああああッ!』


 少年の咆哮と燃え盛った!


「バカなッ!」


 ログボザが目を剥いた。その手から剣が一振り弾き飛ばされ、宙を舞った。凍てついた仮初の腕を稲妻が焼き切り、焔の舌をも喰いちぎった。


 バリバリ。


 世界樹との接触の直前、ガンズイールは稲妻と散った。


「……」


 手中へ舞い戻る愛槍を、オルディバルは見下ろした。

 たちまち黄金の輝きが漆黒へと戻った。

 オルディバルは胸に手を当てた。


「……驚いたゾ。まだこれほどの魔力を秘めていたとは」


 ログボザは〝凍塵の羽衣〟を波打たせ、仮初の腕を再生しながら笑った。小細工は通用しないと踏んだか、神器の焔を湧き立たせることはない。よろめきながら弾かれた剣へと歩み寄っていく。


「なにィ……!」


 すると、その真上から剣戟が降った!

 咄嗟に跳び離れた邪神の傍ら、すでに第二の剣戟が閃いている!

 それを残った剣で受けると、ログボザは笑みを苦く噛みしめ、空を見上げた。

 果たして、そこに邪魔者がいた。

 天を埋めつくす隻腕と剣の群れ。

 雄々しき騎獣の背に跨り、剣を掲げる勝利の軍神が。


「……相変わらず気色の悪い力だなァ、ツィーヴ」


 神々の戦いのみならず、ツィーヴの腕と剣は、エルフたちの戦にも加勢した。飛来する弾頭を宙で鉄くずと変え、戦乙女の頭を刎ね飛ばした。


「オルディバル、ログボザはこのツィーヴが食い止める!」


 オルディバルは感謝とともに頷いた。

 そして残る力を振り絞った。

 ふらつく足で駆けだした。

 邪神は腕と剣の群れをいなしながら、しかし悠然と笑んだ。


「よくここまでオレを追いつめたなァ。だが、まだだ。オレをそう簡単に封じられると思うなヨ?」


 羽衣から散る霜が、瞬く間に氷の回転刃と化した!

 それがツィーヴの刃を弾いた。

 焔神の剣が闇色に煌めいた。


「なに……?」


 ところがオルディバルは、ログボザの傍らを通りすぎていった。


「誰が貴様を封じると? ここには端から神書などありはせん」

「ハァ?」


 追躡ついじょうにログボザは地を蹴った。

 そこへまたもツィーヴの腕が掣肘した。


「恩に着るぞ、ツィーヴ」


 オルディバルは鉛のごとく重い身体を引きずった。傷口から血が湧き、全身を汗が濡らしていた。

 一たび立ちどまれば、もう二度と駆けだすことはできまい。

 それを解っていたからこそ、決して立ち止まらず、倒れこむように世界樹の樹皮と触れ合った。


 たちまち、温い感触が沁みた。

 手のひらから、ゆっくりと深いふかい水底へ沈んでいくようだった。

 それが全身に及ぶと、オルディバルを中心に、黄金の波導がほとばしった。

 景色が吹き飛び、一面、白に剥落し、無数の気配も洗われた。


 その空白の中。

 オルディバルの背後で。

 たった一人の気配だけが濃厚だった。


「……やっと、やっと顔見せやがったな」


 そう言った少年の声は震えていた。

 今この時、なにが起ころうとしているのか。彼はすでに悟っているようだった。

 オルディバルは振り返り、少年と向き合った。


 エルフ族と同じ金色の髪に、長い爪。しかし背丈は低く、顔立ちも美麗というより幼い印象を受けた。

 それも今は、しわくちゃに歪んで、ますます子どもじみて。

 ただただ愛おしく思えた。


「ああ。に会えた事を嬉しく思うぞ、ヴァニ。そして遅くなってしまったが、ようやく元の世界へ帰してやれる」

「俺のことなんかいいんだよ! 勝手に最後とか言いやがって! こんなの、こんなのって……許さねぇぞ……!」


 拳を握った、ヴァニの指が白む。双眸が怒りと敬慕に濡れる。身体が小刻みに震えている。

 その姿を前にしたら、オルディバルもいよいよ震えを堪えきれなくなった。


「許せとは言わん」


 オルディバルは泣いた。

 惜しいと思った。

 この世界と別れることが。

 人々の前から去ることが。

 少年との未来を共に歩めぬ事実が。


「……だが、他に方法はない。この窮状を覆すには、膨大な力が必要なのだ。世界樹と我が魂を代価とせねばならぬほどの」

「くそッ! 俺はまた何もできないのかよ……」

「そんなことはない」


 西の世界樹が焼け落ちたあの日から。

 ずっと力を望んできた。

 どうすれば、ログボザを封じられるか。そのための力が手に入るかを考えてきた。

 しかし戦局は悪くなる一方で。

 次第に、そんなものは幻想のように思えた。

 神書を生みだしてしまったように、また間違えるのが怖かった。


 ところが、脆弱な魂の傍らに、オルディバルは邂逅したのだ。

 彼が守りたかったものと。


「お前がいなければ、我は踏みだせなかった。お前のおかげで、我は踏みだせたのだ」

「そんなの嘘だ……」

「嘘なものか。お前は世界樹まで守ってくれたではないか」


 オルディバルは涙を拭い、まっすぐにヴァニを見つめた。


「それは……」

「お前がいなければ、世界樹は燃えていた。エルフたちは無念のままに死んでいた。それを防いだのはお前だ、ヴァニ。お前が人々の明日を守った」

「……」


 ヴァニは肩を震わせ俯いた。その頬を涙が伝った。

 オルディバルは、自分の生きてきた場所を、これからも人々の生きてゆく世界を誇りに思った。


「誇れ。己が為してきたことを。ただ在ることを。生まれてきたことを。出逢えたことを。もし、自ら胸を張れぬというなら、この気持ちだけでも聞いてくれ」


 オルディバルは歩み寄った。

 そして、涙を噛みしめ俯いた少年の背中に、そっと腕を回した。


「友よ、生まれてきてくれた事に感謝する」


 その温かな感触に、こちらのほうが救われた心地がした。

 いや、ずっと前から救われていた。

 怒りや憎しみ、過去に囚われていたこの心を、友の存在が融かしてくれていた。


「やめて、くれよ……。俺はあんたに、生きていて欲しいんだよッ!」


 震える友の身体を、オルディバルはいっそう強く抱きしめた。


「生きるさ、永遠に。我は神なのだからな」


 友の赤く腫れた目が見上げた。

 オルディバルはそこに明日を見ていた。

 自分自身が生きることのない時間。

 決して迎えることのない朝。

 けれど、確かに感じられる未来を。


「いつかまた逢おう」


 オルディバルは身を離す。


「おい」


 そこへ縋りつくようにした友の手をやわく振り解いた。これ以上ない穏やかな気持ちで微笑みながら。


「待っ――」


 次の瞬間、冷たい液体が全身をめぐった。

 友の姿が吹き飛んだ。

 温かな魂が、大いなる力に押し流されていくのを感じた。

 少しずつ、あまりにも緩慢に、現実の感覚が戻り始めた。


 否、失われ始めたのだ。


 それはオルディバルという神の消滅を意味していた。

 記憶の膜が一枚、また一枚と剥がれ落ち、涙のような熱い泡とともに散っていった。

 不思議と恐怖はなかった。

 ただ自分の生きてきた時間が愛おしく、それに別れを告げねばならぬことが淋しかった。






 かくして知恵と魔法の神は消滅した。

 世界樹もまた。

 そして〝昏き森〟の中心で、は生まれた。

 神ならざる神。

 黒き鋼を鎧う巨神の名は、〝昏き森のオルディバル〟といった。

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