十七章 東へ

 オルディバル、エルフたちは自らに強化魔法を施し、階段を駆け上がる。

 呼び止める声には振り向かず。

 胸から雷の槍を抜き。

 肩から二羽の影色の鴉を飛びたたせた。


 吹き抜けの螺旋回廊へ躍り出ると、門のひとつを叩き開けた。

 不自然に緑の平野広がる室内だ。

 鋼の壁に見守れた色彩様々な獣たちは、ふいに食事をやめ、垂れた首を持ちあげた。神を見るなり発達した筋肉を震わし、勇壮に嘶いた。


「オルディバル様……!」


 驚愕に目を剥いたのは、厩番たちだった。

 鋼の壁を通しての異音、振動。

 先程の激しい震撼。

 東西の膠着が破られたのは明らかだったが。

 なぜ神が御自ら? それも三人のダークエルフを伴って。

 何が起きているのかなどわかるまい。

 しかし神に仕える影鴉の臣下、遠雷と朝焼け色の戦槍。何より隻眼に燃ゆる気高き覚悟を前にすれば、為すべきは、無駄話に興じることでなければ制止でないのもまた明らかだった。


「乗騎を用意してくれ。この三人にも」

「ただ今!」


 厩番たちはせかせかと動きだした。

 神の愛馬スラウグニルに、三頭の翼もつ牡馬に鞍を装備していった。

 一柱と三人は、それぞれの乗騎に跨った。

 ログボザを滅ぼす。その一つの使命と復讐のために。

 厩番の一人は端末を取りだし、馬上のオルディバルを見上げた。


「外はすでに彼我の戦力が衝突しているとのこと。開門と同時に、接敵するやもしれません」

「構わん。ここには一矢たりとも通さぬ」

「どうかご無事で」

「うむ。留守は任せたぞ」


 オルディバルは槍を構えた。

 魔法が唱えられ、壁に切れこみが生じた。

 たちまち戦闘の余波が、風籟ふうらいとともに押し寄せる。

 耀光が目を射れば、宙に爆炎が咲いた。塔が衝撃に揺れ、爆風が吹き乱れた。


 あんぐりと口を開いた門の向こう側、姿を現したのは黒き巨影だった。

 二等辺三角形の翼で天と結ばれ、さらにその真下から噴きだした炎の翼で宙に留まる工学の巨人。

 東から押しよせる暗雲の一粒。

 黒鉄の戦乙女ヴァルキュリア


 焔色に濡れた一つモノアイが、オルディバルたちを睥睨した。

 そこに慈悲も躊躇も過ぎりはしない。

 殺意に鈍く煌めけば、穴の開いた五指から火箭が射出された!


「征け、スラウグニルッ!」


 神の乗騎が地を蹴った。

 黄金の鬣が吹きつける風を裂き、ガンズイールは風を食んだ。

 神の槍は自らの輪郭すら喰い荒らす。

 無数の雷弧と化し狂乱する。


「てえッ!」


 鉛の火箭は灰へと変わる!

 直後、神馬は巨人の眼前にあった。

 神の掌が一つ眼を覆うように頭を鷲掴み、愛馬の神速、自らの膂力をもって引きちぎる!

 風とともに吐きだされる神馬。

 巨影は眼下に吸いこまれ、火花を散らすやいなや爆発炎上した。


「続けェ!」


 呆気にとられたエルフたちは、怒号で我に返った。

 乗騎に拍車をかけ、一足先に駆けだした神を追って宙を舞う。


 外界はすでに混沌だ。


 蝗の大群よろしく黒鉄の戦乙女が宙を舞い、横殴りの火の雨を降らせていた。塔からも同様の機械巨人が吐きだされ応戦し、弾雨を浴びたものから次々と爆散していった。

 無論、神とともに飛翔したエルフたちも火箭の的となる。天翔ける獣の脚がいかに敏捷でも、面で圧倒する殺戮の嵐から逃れられるはずもない。


 しかし、それを恐れるエルフではない。

 美を捨て、醜を塗りたくった復讐鬼たちは、向けられる敵意、殺意に、今更慄くはずもなかった。

 魔法を知らぬ小人たちが絡繰りで命を射るのなら。

 絡繰りを知らぬ妖精たちが命射る術は魔法をおいて他にない。


「スプリ・ガ・ヘリオーラ」


 風が魔法の名をさらうと同時、騎獣たちの翼が一対増した。

 否、翼ではない。

 渦巻く炎の盾だ。

 風を切り疾走する騎獣の横面に展開されたそれは、景色とともに捨て置かれることなく並走し、叩きつけられる火箭を喰らい灰燼と化す!


「……チ、チチッ」


 さらにエルフたちが囀るように舌を鳴らせば、渦から火球が吐きだされた。

 真横に放たれたそれは黒鉄の戦乙女と接触した瞬間、青い雷弧を伴い苛烈なる炎の赫に咲き誇る!

 球状の衝撃波が散る。

 骸を追い抜けば、爆風が騎獣をおおきく押し進めた。


 ところが、すぐに急制動、旋回を余儀なくされる。

 正面から降り注ぐ鉛玉までは止められない。

 神すらも徐々に勢いが衰えていく。


 稲妻の戦槍が黒鉄に風穴をあけ、火球が鋼の肉を散らしても、東から押しよせる軍勢には、まるで際限がなかった。

 黒鉄の雲は裂けた個所から次々と後衛に埋め合わされ、四騎を押し潰すように迫る。とても少数で凌ぎ切れる数ではない。

 塔からの援護射撃が、かろうじて道を切り拓いてはくれる。海岸の防衛線は半壊状態にもかかわらず、間断なく対空砲塔の爆轟に吼えたける。

 神の御許を離れた眷属の鴉たちも応戦し、暗雲に次々と紅蓮を咲かせたが、東へ至る活路には、なお足りなかった。


「……なんと忌々しい」


 一振りで十の戦乙女を屠り、全身から迸る雷弧で火箭を塵と変えながらオルディバルは毒づいた。

 エルフたちが嘆くわけだった。

 これだけの戦乙女がいるということは、相応の樹液が消費されたことを意味していた。


 ログボザ、貴様は本当に遊びたいだけなのだな……。


 自らの国を欲したダークエルフやダークドワーフと違い、奴には守るべきものがない。

 国庫たる世界樹さえ、奴にとっては、ゲームを楽しむための一枚のカードに過ぎないのだ。


「チィ……ッ!」


 黄金の槍を閃かせ、馬身をねじ込もうとしたオルディバルだったが、その時、遠方から飛来した鱗に後退を余儀なくされた。

 巌の威容を一瞥すると、その足許に蠢く紺青の波が見てとれた。結界が破られた今、あれらを留める術はなかった。


 焦燥が胸中を炙った。

 こうして足止めを食っている間にも死者は増えていく。

 あの山じみた巨躯はもちろん、通常のヨトゥミリスも野放しにすれば、西の陥落など目に見えている。


 時間がない。早急に世界樹へと辿り着かなければ――。


 しかしオルディバルには勝算があった。

 だからこそ、制止を振りきり、飛び出してきたのだ。

 世界樹へ辿り着くことさえできれば、


「……ガンズイール」


 オルディバルは愛槍を固く握りこむ。

 かつて邪龍を封じるべく、生みだされた神器を。

 その力は本来、見渡す限りの空を裂き、大海を割るほどだった。

 しかし己が身さえ滅ぼしかねぬ力を、オルディバルは自ら封じたのだった。

 ログボザが現れるまでは、およそ無用の長物と化していたが。

 今、黒く染まる天空に道を切り拓かねばならぬなら。

 この身を千々に裂かれようとも、立ち止まるわけにはいくまい。


「今こそ、戒め解き放つとき……!」


 降りかかる弾雨を槍の回転ではじき、間合いに入った雑魚を一挙に薙ぎ払ったあと、雷神は隻眼をカッと見開かせた。

 半身に黄金の雷弧が波打った。

 槍が一閃するたび、雷は明滅し色を変えた。


 黄金、藍青、紅緋。


 やがて鋭角な紅緋の雷がガンズイールに無数に突きささり、柄を流れ穂先で煌めいた。今まさに暗雲から解き放たれようと悶える稲妻にも似て、螺旋を描いてめぐり、バリバリと大気を喰らう!


「解放の時は来たれり。天を統べ、地を裂き、世に唄え。汝、重にして敏。剛にして迅。星芒射抜き、森羅を穿つ、神躯しんくの霹也!」


 戦乙女が眼前に迫り、拳を振りかぶった。

 スラウグニルは、進路を変えず、そのまま驀進した!


 ギイィィィイイィィイィイイィ!


 次の瞬間、耳を聾する擦過音とともに、爆ぜたのは戦乙女だった。

 オルディバルの半身を茨のごとく黒い稲妻が覆っていた。

 それと直結したのはガンズイール。

 禍々しい神器の穂先は、拳ごと黒鉄の鎧を粉砕していた。

 さらにオルディバルが槍を真横にふり抜けば、穂先に無数の青白い文字が流れた。

 放たれる扇状の光の刃!

 刃と触れあうやいなや、黒鉄の雲は柘榴のごとく弾けた!

 スラウグニルは、すかさず間隙を縫って駆けぬける!


「……ヌッ」


 黒鉄の群れに刃を飛ばしながら、オルディバルは顔をしかめた。

 高高度の凍てついた風が、黒い稲妻のもたらす傷口に吹きつけ、針で抉られるような痛みを呼び起こした。胸の底に鉛のかたまりを敷き詰めたような倦怠がつきまとった。耳もとで唸る風の音は、死人の嘆きのごとく谺した。


 だが、ガンズイールのはたらきは、一行を大きく前進させた。


 眼下では黒煙を吹きあげる海岸防衛線が炎の咆哮に轟き、破壊された鉄くずが海原の蒼に白波をたてていた。

 海抜の向こう、東の大地には、すでに世界樹の威容も窺えた。

 エルフたちの嘆いたとおり、その枝は幾つかが切り取られて短く、時折、涙をながすように黒い樹液をこぼした。


 あそこだ。あそこにまで辿り着けたなら。


 オルディバルは気力で痛みをねじ伏せ、倦怠も嘆きの声すらも使命の糧に燃やした。

 禍々しい稲妻が脈打ち、主を喰らいながら成長する。

 ガンズイールの一閃で空は紅く燃え、呼応するように日が傾き天涯てんがいを茜色に染めてゆく。

 四囲に迫る攻撃を躱し、はじき、灰燼とせしめ、幾度も前進と後退をくり返す。

 一馬身。二馬身。三馬身。

 遅々として、しかし着実に進んでいく。


「ぐああああぁぁぁッ!」


 それでも四面楚歌には変わりなく。

 ワクサの騎獣が翼を射抜かれ、あるじ共々斜めに傾いだ。

 追い打ちとばかりに、戦乙女たちが無慈悲な掃射を浴びせた。宙に血の霧が立ち込めた。骸はむなしく海原へ吸いこまれていった。


「……」


 誰も助けなかった。振り返りもしなかった。

 唇を噛み、ただ前を見据える。見据え続ける。

 その先でしか、ワクサの無念を晴らすことはできぬのだから――!


「神よ、巌の杭が来ます!」


 後方からカザクの声。

 刺突で直線状の鎧を一貫したオルディバルは、天高く弧をえがき燃えながら落下する鱗を一瞥した。

 スラウグニルは、主の意思を汲みとり前進した。

 もはや鱗の矢は、死の軌道ではなかった。

 肌に食いこんだ稲妻に魔力を注ぎ、半身をひねって鱗と向かい合った。槍を腰に溜め、吐く息とともに、


「コオォォォ……!」


 突く!

 手中で加えた僅かなひねり。

 戒めを解かれた魔の文字と爆ぜる稲妻に、神槍が皓と燃ゆ!

 尖と尖が荒々しい口づけを交わした!

 互いを鎧う炎が環状に拡がり霧と散る!


「征け、スラウグニル!」


 応の嘶きと共に、神馬は天を蹴った。

 なびく鬣が黒鉄の暗雲に雷の残像を刻み、尖と尖は分かたれた。

 刹那、鱗が先端からメキメキとひび割れる。

 疵口から夥しい雷火が散る。

 一際つよく、カッと天に燃えれば。


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオ!


 間もなく爆発四散した!

 散らばった砕片が、エルフに襲いかかろうとした鎧を背中から突き破った!

 鱗の砕片は、なおも東の軍勢に猛威を振るった。


 戦槍をかわした機体の腹部に風穴を穿ち、奇襲をねらい下方に飛翔した鎧の半身をねじ切り火と煙に覆った。翼を断たれ錐揉み回転する機体もあれば、砕片を受けとめ静止した拍子に対空砲火の餌食となる機体もあった。


 一方、騎獣たちはしなやかな動きで砕片を躱し、より深く東へと侵攻した。

 先陣を切るスラウグニルの目下には、縦横に伸びる東の海岸防衛線が見てとれた。砲門が炎の息吹を吐きだし、足許をかすめた。背後に爆炎が咲き、吹きつける熱波に尾の毛先がジリと焦げた。


「ヌッ!」


 さらに下方から凄まじい勢いで迫る新手!

 玉砕を顧みない捨て鉢な体当たりに、神馬の蹄がわずかに欠けた!

 制動間に合わず――否、制動すらかけず飛翔した鎧たちは頭上で点となった。


 あんなものまで用意しているのか。


 オルディバルは地上を見下ろし、舌打ちした。

 世界樹の周囲に広がる、本来は隙間ない枝葉の傘。

 それを無理矢理に切り拓き、半端に伸びた鋼の橋が中空に架けられていた。

 鋼の橋は、絶え間なく紫電と火花を散らしていた。羽虫のようにしか飛びたてぬ鎧を、猛烈な勢いで吐きだし、光に変えていた。

 ドワーフ族の叡智が生みだした、電磁射出機見えざる軌条であった。


「……ッ」


 一瞬にして最高速に達した拳が、神の頬をかすめた。横一文字の紅が引かれ、傷口から黒い雷弧が迸った。

 すれ違いざまに一閃した槍が紙切れのごとく胴を分断するも、すぐさま次の刺客が現れる。

 スラウグニルの敏捷性、集中力は凄まじい。射出機に吐きだされた鎧を紙一重でかわし前進する。

 エルフたちもそれぞれに苦戦を強いられているが、神馬の威光をうけた騎獣たちの士気は高かった。傷つきながらも、なんとか食らいついている。


 いよいよ目的地は、目と鼻の先。

 しかし黒鉄の鎧ばかりでなく、鋼竜の息吹対空砲撃にまで晒される今、道はいっそう険しい。


 騎獣たちの集中がいつまで保つか。

 空の行軍もいよいよ限界か。

 とはいえ、ここはすでに敵地であり、地上の戦力も看過できない。

 神書所持者やログボザへの警戒を怠れば、此度の進軍は水泡に帰す。


 オルディバルは、相棒にも劣らぬ極度の集中下で歯噛みした。

 ログボザという悪に、人々の明日を守ろうなどという大義は無意味なのかと。

 空に抱かれた大樹を目前にしながら、その僅かな距離があまりに遠かった。


 あと、あと一歩を踏みだす地力があれば……!


 己のなかに希望の光をさがし、オルディバルは今一度、魂と邂逅した。

 自分自身の中央を穿つ芯。

 その周囲に蠢く自尊心。

 数々の後悔と、大海のごとく心を占める無力感。

 そこにドンドンと響きわたる音が聞こえる。

 何度もなんども、決して力尽きることなく、この魂を呼ぶ声が聞こえる。


『おい、応えろ! 応えてくれよッ!』


 少年の声だ。


 ……ヴァニ。


 オルディバルは扉を開かなかった。

 声を聞くに留めた。

 それだけで充分だったからだ。

 彼にとって、ヴァニという存在は、ただ在るだけで希望だったからだ。

 たった一人の少年の存在は、すなわち未来だった。

 今ここにあるものではないが、今が続き築かれた印だった。

 神だなんだと崇められ、しかし無力であり続けたこの身が生まれてきた意味、そのものだった。


「……ぬあああぁッ!」


 オルディバルはふたたび外界に目を向け、迫りくる鎧に一閃した。

 殺戮の化身を鉄くずに変え、愛馬の鬣を撫でる代わりに拍車をかけた。

 スラウグニルは応えた。

 視線も嘶きもない。そんな余裕も必要もない。

 針を縫うような敵影の間隙に滑りこみ、進む。進みつづける。

 それが彼らの絆なれば!


「ッ!」


 ところが、頭上から飛来した鎧をかわした直後、進路上に新手が射出された。

 スラウグニルは虚空を踏み加速するが、間に合わなかった。

 愛馬の体躯の死角となっては、槍の狙いを定めることもできなかった。

 オルディバルは相棒の死を予感した。


 ドンドン!


 そこにまた扉を叩く音が聞こえた。

 神は心の痛みに顔をしかめ、腰を浮かした。


「オルディバルッ!」


 しかし悲愴な世界に、己を呼ぶ声を聞いた。

 魂の部屋の中でなく、今まさに雷火散る戦場に、


「進めえええぇぇぇェ!」


 怒号が轟いた。

 次の瞬間、無数の白き腕が剣とともに宙を舞い、射出された鎧を次々斬り捨てた。


 振り返れば、エルフたちのさらに後方。

 騎獣にまたがり剣を掲げる人影が見えた。


 血の刻印をきざんだ雄々しき剣の持ち主は、軍神ツィーヴに相違なかった。

 いつかの議会で、オルディバルを糾弾した神の一柱だった。

 しかし彼は剣を煌めかせると、まっすぐにオルディバルを見つめた。


「我は戦場に勝利をもたらす者! 邪なる者には、血と敗北を!」


 この戦場に駆りだしたお前は、邪なる者ではない。

 ツィーヴは暗にそう告げていた。

 そして絶対に勝て、と。

 眼差しにこれ以上ない力を秘めていた。

 オルディバルはただ頷いた。

 スラウグニルは風を鳴らし加速した。

 世界樹が眼前にせまった。


『――!』


 そして感じられてくるのは。

 聞こえてくるのは。

 世界樹からの声だった。


 エルフたちの憎しみ。

 嘆き。

 救済を乞う叫び。


 オルディバルはエルフの痛苦を知り、カザクたちの言葉以上の悲嘆に寄り添った。

 その上で槍を掲げた。

 己を喰らう槍の雷鳴すらも声に。

 神は宣言する!


「すべてのエルフたちよ、聞け。我が名はオルディバル。彼の忌まわしき者に神罰を下すいかずち! 汝らに問う。叛逆の旗に己が身を縫う覚悟はあるか!」


 返る声は聞こえなかった。

 耳に届くのは、地上からの号砲だった。鎧とツィーヴの腕が打ち合う音だった。あるいは、破砕音、爆発音。怒りにも似た騎獣の嘶きだった。


 だがオルディバルには解る。

 世界樹を前にした神は、すべてのエルフの声なき声を聞いていた。


 天上の神を目の当たりにした感銘を。

 戦意の昂揚を。

 自らの明日さえ投げうつ、悲壮な覚悟を。

 かつては神々を弑そうとまで画策した種族の荒々しい分だけ、かたく迷いない団結を。


 オルディバルが為さんとするは、彼らを一人残らず死へ追いやる非道だというのに。

 神を仰ぎ、豁然かつぜんと悟った彼らは、なお熱い視線や賛同の叫びに猛った。己らの尊厳を守るためならば、死など厭わぬと言うように。


 彼らの覚悟は、目に見える変化をもたらした。

 ひとつ、またひとつと、電磁射出機が眠り始めたのだ。

 多大な電力を必要とする装置だ。動力源をどこから賄っていたかは、想像に難くなかった。

 オルディバルと神馬は、電磁射出機の穿った穴から〝昏き森〟へ進入した。

 と同時に、方々で火の手があがった。

 怒号と悲鳴が轟きわたった。


「「「おおぉおおおぉぉぉおおおおおおぉおぉぉおッ!」」」


 叛逆の狼煙だった。

〝昏き森〟の闇に、次々とエルフの人影が踊った。それはたちまち黒い波と化した。

 森の血潮のごとく、世界樹を目指しながら、神馬にまたがる光輝に目を輝かせ声を張りあげた。


「我らが父よッ! 雷よッ!」


 オルディバルは、その波の中に加わった。

 世界樹の根元に達すると、神は地上に降りたった。

 エルフたちは平伏した。

 遅れてカザクとナームも到着した。

 騎獣を降りた二人は、神の傍らに膝をついた。その様は、百の年を共にした眷属のようだった。


 オルディバルの胸に哀しみが滲んだ。

 神などと言っても、この身は無力だ。彼らの命を奪おうとも、守ることはできない。

 これから彼らの命は、未来の糧として捧げられるのだ。


 一方で、この態度が彼らの望みの印であることも理解していた。

 もはや彼らにとって、命の価値は頂点にない。

 人の尊厳とは、時に命より重い。あるいは、それをこそ命と呼ぶのかもしれない。

 だから面をあげろとは言わなかった。


「……感謝する」


 それだけを言って、オルディバルは世界樹と向き合った。


「ンググ。いまさら世界樹になんの用だネ」


 そこに耳障りな声が垂れこめた。決して晴れぬ暗雲のごとく粘ついた――。

 エルフたちが一斉に立ち上がり、オルディバルもまた頭上を見上げた。

 遠方で火柱があがり、それを負うようにして、ログボザが立っていた。宙にその足の踏みしめる大地があるとでも言いたげな尊大な態度で。


「ログボザ」


 オルディバルは冷静に槍を構えた。

 あるいは、ほとんど正気を失っていたのかもしれない。

 怒りに、憎しみに、不安に。

 ここまで来て、この身を封じられるわけにはいかぬ。あの日のように世界樹を焼かれるわけにはいかぬ、と。


「まさかオレを直接狙いに来たのカ? エルフどもを焚きつけ、隙を窺おうとデモ?」

「焚きつけてなどいない。貴様の非道が、貴様を追い詰めたのだ。エルフたちは、己の意志でここに来た」

「ンググ。非道かァ。たしかに、ろくな扱いはしてこなかった」


 ログボザは焔神の神器をガチャリと鳴らし、裏切者どもを睥睨した。エ

 ルフたちは恐怖に身をすくめたが、引き下がることはなかった。瞋恚しんいをもって睨みかえした。


「ンン……」


 するとログボザは、眼差しを緩めた。

 微笑んだのだ。

 慈愛を感じるほどに柔らかく。


「オモシロイ。意思があれば、裏切りも必然というわけだァ。お前らの殊勝な態度には感服したゾ」


 エルフたちの当惑する気配が伝わってきた。

 その傍らでオルディバルは、ヘロウの腕に抱かれる錯覚を覚えた。

 恐怖だ。ログボザという悪への。


 否、であることを認めねばならない恐怖だった。


 ログボザは己の行いが、正しくないことを理解しているのだ。

 しかし奴には、正しくあろうとする意志などなく、悪気すらもない。個人的な悪意のために他者を貶めるのではない。

 そうしたいから、そうする。

 それだけなのだ。

 たったそれだけの、空恐ろしいまでの純粋さが、ログボザを衝き動かしているのだ。


 オルディバルはここに来て、ログボザの言った「遊び」の意味を理解した。あれは激怒した神への嘲りではなかった。紛れもない本心だった。

 星々渦巻く双眼が、純真な光を宿したまま、オルディバルを見た。


「そしてオルディバル。お前は、どうやってオレを楽しませてくれるンだァ?」


 ログボザを覆う、凍てついた衣から霜が散った。焔神の剣から、どろどろと黒き焔が湧き立った。


「ぐわああああぁあぁああぁあッ!」


 それと呼応するように、周囲から断末魔が押しよせた。

 血と煤に汚れた黒鉄の鎧が、ぞろぞろと姿を現した。


 ゴオオオォォオオォオオォン!


 海岸防衛線の崩壊が、開戦の合図だった。

 笑える神が虚空を蹴った。

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