十六章 決断

 三色の光に照らされた円柱の広間。

 三つの棺の前で項垂れたデボラは、つと顔をあげた。一度は虚無に呑まれた炎を、その双色ふたいろの眼に再燃させながら。


「悍ましい過去があったのは理解した。でも、いよいよ限界よ。この話に何の意味があるの? 捜索隊(私たち)を貶めた事とは、なんの関係もないでしょう」


 年寄りの長話を聞かされている気分だ。実際、元枢会は人の生きる時間を遥かに超越した〝年寄り〟には違いないのだろうが。仇の長話など苦行以外の何ものでもない。


「それとも、この期に及んで時間稼ぎ?」

『神話には意味がある。しかし我々に、君を止める術はない』


 すぐに諦めたような事を言う。抵抗の意志すらないというわけだ。

 なんと腹立たしい連中か!

 絡繰りの身になろうとも、おそらく魂は宿っているだろうに。旅人たちの尊厳を踏みにじった元枢会にとっては、己が命さえ無価値というわけだ。


「……クソっ」


 そんな傲岸不遜の輩を前にして、問答無用と誅を付せぬ自分にも腹が立つ。

 こいつらにも心がある。

 そう信じたいと嘆く自分を嬲り殺してやりたい。

 けれど、信じなければ報われない。散っていた彼らが。


 耐えるの、耐えるのよ……!


 デボラは震えながら浮いた腰を下ろすと、血が滲むほど強く拳を握った。


「それで……争いはどうなったの。あんたたちの神が勝ったんでしょう?」


 投げやりに訊いた。

 答えなど解りきっていた。

 件の戦に敗れたのなら、今の世はあり得ない。

 しかし元枢会からの答えは、


『否』


 だった。



                 ◆◆◆◆◆



 ヴァニは色を失う。

 ログボザの甘言により集結した東の戦力。

 そこに、ヨトゥミリスが存在する。

 遥か未来の時代においても、人々を蹂躙しつづける怪物が。


『……』


 あり得ない。

 長い沈黙の中で、幾度もそう繰り返した。


 奴らは狂った怪物だ。

 人を殺す以外に、何かを考え、何かを作り、何かを守ることなどない。

 東西の戦に干渉し、戦局をかき乱すことならあっても、東の戦力に数えることなど到底できるはずがない。


 だがしかし。

 ログボザならば、謀略の邪神ならば。

 巨人族ヨトゥミリスすら懐柔できるというのか。


『どう、やって……』


 ようやくしぼり出せた声は、それだけだった。


『どうか気を取り乱さず聴いてくれ』


 対するオルディバルの声音は、少年を労わるように柔かった。

 ヴァニは慄きつつも、覚悟を決めた。


「オルディバル様ぁ!」


 ところがその時、二者の意識を、外からの声が破った。

 不躾に扉がひらかれ、伝令使らしき黒ずくめの男が姿を現した。

 男は肩で息をしながら、滝のような汗を流していた。

 ただ事でないのは明らかだった。


「何事だ」


 オルディバルは立ちあがった。


「はい、哨戒に当たっていた者が敵を捕らえまして……」

「敵を? 人族か?」


 エルフの魔法、ドワーフの兵器は脅威だ。どちらも生かして捕縛するのは難しい。

 しかし伝令使は、首を縦に振らなかった。


「いえ、ダークエルフです。神書を携行している様子はなく、抵抗の意志も見られません。それどころか、あちらから捕らえてくれと泣きついてきまして……」


 オルディバルは目を眇めた。

 ダークエルフもダークドワーフも、決して友好的な種族ではない。

 かつて神々への弑逆を企て、罰として東へ追放された残忍な種族だ。

 加えて、彼らはログボザの麾下にある。

 封じられていった神々のことを想えば、冷酷な決を下すべきだった。

 しかし、これは戦争だ。

 東の情報源たるダークエルフを、むざむざ手放すわけにはいかない。


「エルフは今どうしている?」

「拘束し、口も封じ、外で待機させています」

「では、ここまで連れてきてはくれぬか」

「えっ、しかし……」

「我を外へおびき出すための罠かもしれん。ただし、道中、決して口を開かせてはならん。エルフの膂力はさほどではない。お前たちならば、ここまで連行することも可能であろう?」


 伝令使の眼差しに、数瞬の逡巡が過ぎった。

 果たして彼は、


「拝命致します。ただちに」


 オルディバルの信頼に応えることを選んだ。深く叩頭すれば、疾風のごとく広間から去っていった。


『……オルディバル』


 広間に静寂が張りつめると、ヴァニはかけるべき言葉を探した。

 が、何も思い浮かばなかった。

 再び広間の扉が開かれるまで、静寂は続いた。


「連れて参りました!」


 衛兵たちに囲まれ、三つの長躯が広間の床を踏んだ。

 その三人がダークエルフだと、ヴァニの目にもすぐ判った。


 この世のものと思えぬほど美しかったからだ。

 卓抜した秀麗さには、醜も老もなく。それどころか、性別すら感じさせなかった。まるで美の化身だった。


 一本たりとも縮れや乱れのない、金糸のような髪。その滑らか線は、微動だにせずとも風になびいて見えるようだ。

 前髪の隙間からのぞく柳眉も、磨きあげた金の色。憂いの色に濃い双眸は、淀んでもなお蒼穹のごとく鮮やかで、空色を支える鼻梁は、なるほど世界樹の子だ、整然と顔面の中央を支えていた。褐色の肌は煤に塗れているものの、瑞々しい艶を覗かせていた。

 遺物の轡に隠された唇、質素なチュニックという装いだけが、かろうじて彼らを捕虜らしく見せるものだった。


「所有物を検めよ」


 早速、衛兵たちが身体検査に取りかかったものの、結果は問うまでもなかった。

 チュニックの他には下着さえ身に付けていないのだ。

 あれでは、物を隠すどころか、冷たい風の抱擁も退けることはできない。

 実に憐れみを誘う風体だ。


 しかし「轡を外してやれ」とオルディバルが命じた途端、衛兵たちの顔つきは緊張に強張った。

 この広間を睨め渡すのが神であるとはいえ、エルフの力を侮るべきではない。神々の中には、エルフから魔法を教示された者もいる。


「……はい」


 恐れや躊躇は、しかし神への忠誠によって破られた。

 孤独な戦場で抱きしめられた者、家族の退路を守ってもらった者、勇壮なる背中に明日を信じようと奮い立った者――。

 ここにいるのは皆、オルディバルに、身以上に心を救われた者たちだから。

 彼の神を疑うことは、己の生を疑い否定することと同義だ。


「……リイキットゥル」


 やがて兵の一人が、解錠の魔法を唱えた。

 轡の中央に蒼白い光がひらめいた。

 幾度もの機械音を響かせ、轡は左右に割れた。それは巻き取られるように、後部へ格納されていく。

 やがて淡紅色の唇があらわになると、轡は美しき来訪者の髪留めのごとく後頭部で沈黙した。


「……ん」


 中央のエルフが、ゆっくりと瞬き、オルディバルを見上げた。

 紅い舌が唇を湿した。

 広間を不可視の電流が駆けぬけた。


「……ご厚情感謝に堪えませぬ、オルディバル様」


 エルフたちが、恭しく床に手をつき緊張を破った。


「……わたくしは、ダークエルフの長を務めております、カザクと申す者でございます。後ろに控える二人は、ナームとワクサ。以後、お見知りおきくださいませ」


 名を呼ばれた順に、エルフは低頭した。

 最後にカザクが床と口づけを交わすように叩頭する。

 慇懃無礼とは感じないが。

 オルディバルは、それを厳しく見下ろした。衛兵たちは黒鉄の武器に指をかけた。


「面を上げよ」


 この場における叩頭は、宣戦布告にも等しい行為だった。

 口が隠れれば、詠唱の判別ができないからだ。


「失礼致しました」


 エルフたちは抵抗の素振りなく面をあげた。

 刹那、隻眼にしてなお険しい眼光が、万の稲妻の如く咎人たちの胸を射た。


「我が名はオルディバル。先ず以て貴様らに申し渡しておく。これは我が厚情ではない。貴様らを捕らえ、謁見を許したのは、ここにいる兵たちと知れ。邪神の教唆に従い、緑を灰に、魂を無に帰した貴様らを殺めず、ここへ連れてきた者たちにこそ敬意を払え」


 神の怒りを前にしたエルフたちは、ふたたび叩頭した。


「まこと軽率な発言にございました。慙愧に堪えませぬ。遅ればせながら、西の民人の皆様に、心よりの謝辞を申し上げます……」


 衛兵たちは武器を向けたまま、微動だにしなかった。侮蔑と憎しみに色をなしながらも、彼らは自分の役割に従事した。

 オルディバルは兵たちを一瞥し、エルフたちに視線を戻した。


「感謝も謝罪も、その行いを以て証明してみせるがいい。それより面を上げよと言ったはずだ」

「……」


 エルフたちは微かに震え、神の威光を見返した。


「それで、貴様らは何ゆえここまで?」


 その時だった。

 エルフたちの美しい相貌が歪んだのは。

 感情の堰を切ったように、三人は顔をしかめた。


「う、うっ……!」


 ナームにいたっては、歔欷と泣きはじめた。

 カザクの目にも悲哀の色が蓄えられていった。


「何を今更と思われるやもしれませぬ。しかし我々は、過ちに気付いたのでございます……」

「過ち。それは神々への叛逆か? 此度の争乱か?」

「両方にございます。巨人族と相対することで、我々は深く後悔致しました。中には神々を恨む者もありますが、もとを糺せば我々の不遜が」


 そこでカザクはふいに言葉を詰まらせた。

 畏怖とともに神を見つめれば、大きくかぶりを振った。


「……いえ、ここにいる我ら三人も、僅かばかり前には、神々を恨む不敬の輩に違いありませんでした」


 衛兵の視線が鋭くなる中、オルディバルだけはただ冷静に耳を傾けていた。


「我々はもとより、自由のために神々への叛逆を企てました。己らの思想を頂とし、礎とする国を求めたのです。しかし理想は打ち砕かれ、西を追われた我々は燻ぶっておりました。そこにログボザが現れ、言ったのです。他の神々を封じるべく手を貸すならば、ヨトゥミリスのない大地に住まわせてやろうと」

「然して彼奴の軍門に下ったわけか」

「左様にございます……」


 咎人を見下ろすオルディバルの心は、意外なほど凪いでいた。

 神々に牙を剥き、果てはログボザの麾下に加わった彼らに、煮えたぎるような怒りや憎しみを感じてはいなかった。


『……』


 ヴァニにはそれが解った。

 いま、オルディバルの胸の多くを占めているのが、謎めいた確信であることも知っていた。

 だが、正確な考えや、明瞭な未来まで覗けるわけではない。

 ヴァニにできるのは、次々とやって来る〝時〟を焼きつけることだけだった。

 外界に意識を戻すと、カザクが苦悶するように瞼を下ろしたところだった。


「しかし、彼の神を信用すべきではありませんでした。我らは、しかとこの目で見たのです。同胞が、瀑布の贄に捧げられるのを」

「なに、瀑布の贄だと……!」


 オルディバルの魂が震撼した。

 声には、はっきりと驚愕があらわれていた。

 そして何故だろうか。


『……?』


 一瞬だけヴァニへ意識を向けたのだ。

 その意味を問いかける間もなく、ワクサが膝をこすり進みでた。


「はい……! 何の目的かは分かりませんが、ログボザは、我らが同胞を突き落としたのです。嗤いながら、悦に震えながら、奴は……!」


 声を大に訴えたエルフを見下ろし、いよいよ衛兵の一人が拳を震わせた。


「それで今頃になって、俺たちを頼ってきたっていうのか……?」

「なんだと?」


 縛めなきエルフに睨み返されても、衛兵は怯まなかった。


「お前らはログボザに騙されたのかもしれねぇ。けど、てめぇの身勝手な理想のために剣をとったんだろうが。そんで大勢の西の民を犠牲にしたんだろうが。そんな奴らが、よくも被害者ヅラでのこのこ出てこられたもんだぜ。虫がイイにもほどがある!」


 他の衛兵たちは口を噤んだままだったが、誰も気持ちは同じだった。彼らにとってダークエルフは、仇以外の何者でもなかった。


「あうっ……!」


 その時、ワクサの頭を床に押さえつけたのは、カザクだった。


「……この者の無礼をお赦しください。糾弾は尤もにございます。命を手にかけ悔いたところで遅い……。今更、のこのことやって来て、おこがましいと思われるのも詮方ないこと。ですが、ですが、どうか……」

「どうか、何だと言うのだ?」


 オルディバルは問うた。

 糾弾も叱責もなく、純粋に問うた。

 エルフたちの要求は未だ謎のままなのだ。

 罪を悔い、ログボザを憎んでいるのは分かった。

 が、今のところ、何を要求するわけでもない。だらだらと独白が続くばかりで、望みが見えない。


「貴様らの目的はなんだ?」


 エルフの視線が、神に集中した。

 涙目のナームまでもが、まっすぐに見上げた。鋭利に研ぎ澄まされ、その身さえ切り裂こうとするような、凄絶な覚悟の眼差しで。


「……我らを、使っていただきたいのです。オルディバル様の、西の民の剣として」

「どういう意味だ?」

「我らが母を、ユングデュラシュムを、捧げると申し上げているのでございます。その魔力を以て、どうか邪神を滅ぼして頂きたい」


 衛兵が一斉に息を呑み、オルディバルは目を眇めた。


「それが何を意味するか、解らぬわけではあるまいな」

「承知しております。母の命は我らが命。されども邪神を弑するためならば、この卑しき命など――」

「戯けえええぇッ!」


 広間に轟雷がとどろいた。雷を描いた天井が落ちてきたようにも、天井へ落ちたようにも感じられる、凄まじい怒声だった。

 怒りの矛先を向けられたエルフたちは、脳裏を白く染め上げられ、稲妻に打たれたように瞠目した。


「それが貴様らの罪障の元凶だ。命を軽んじるな。他者であれ、己であれ、命を記号に見たとき、魂は涸れ果てる。善良な心とは、己を生かす標であることを知れ」

「し、しかし……」


 反駁を試みるエルフに、オルディバルは雷火散る瞳をむけた。


「自決の道を美しいと思うのか? 害された者が死の裁きを望むならばともかく、害した者が死を贖罪とすることほど勝手な振舞いはないぞ。それは贖罪ではない。逃避というのだ」

「……っ」


 神の御言葉は、エルフたちの秘めたる決意を暴いた。

 命を賭してと言えば聞こえはいいが、自決の道とは贖罪の機会からも逃げる非道に他ならない。


「だが、何故そこまでする?」


 一方で、疑問もあった。

 世界樹を捧げる覚悟とは、エルフ一族の総意でなければならない。ここにいる三人だけが、まさかダークエルフのすべてではないはずだ。身勝手な連中といえども、一族全体を巻きこむ決断を強行するとは思えなかった。


「それは……」


 カザクは端正な顔に無数のしわを寄せ、痛苦をしぼり出すように答えた。


「ログボザの悪行が、あまりに惨たらしいものだからです。奴は紛れもなく悪辣非道の神……! その悪行は、同胞を贄とするに留まりませんでした。男には魔力が涸れ果てるまで労働を強い、女には人族や小人族の姦淫の奴隷となる事を強いたのですッ!」


 ナームが今度こそはっきりと嗚咽を漏らした。その白い手が掴んだ胸もとに僅かな膨らみがあった。


「そればかりではありません!」


 ワクサが言葉を継いだ。


「これをご覧ください……ッ!」


 そして、片袖をまくりあげ、その腕に刻まれた無数の黒い傷痕をあらわにした。

 今もゆっくりと滲みだす黒い液体は、世界樹の樹液とおなじ色だった。

 エルフの血に相違なかった。


「母の命は、我らが命。母を疵付けられたなら、我らも傷つくが道理。ログボザはそれを知りながら、母の生き血を搾るに留まらず、をちぎり手足をもぎ、あろうことか、これもまた瀑布に投げ放っているのです。我らとて徒に死を望みはしません。しかし、このまま襤褸のごとく使い潰され、凌辱に果てるくらいなら、せめて最後の誇りを守りたいのです……」

「ふむ……」


 数多の命を手にかけてきた大罪人にしては、ずいぶんと手前勝手な願いだった。

 しかし、どんなに慇懃で、体裁を整えた言葉より、それがオルディバルの胸を打った。


 世界樹の燃え尽きた、あの日が思い出された。

 枝葉の爆ぜる音と絶えることなき絶叫の日を。

 邪神への瞋恚が、胸のなかを黒く穢した。


 と同時に、底知れぬ恐怖を感じた。


 邪神の目的は、ゲームを楽しむこと。

 ミズィガオロス全体を盤とし、そのすべてを駒に操ること。

 すでに東西の戦端は開かれた。

 彼奴は満悦しているだろう。


 だが、この戦況を更なる混沌に陥れることができるとしたら。

 そのための手段が、エルフの贄に違いないと、オルディバルは確信した。

 つまり次の一手は、すでに打たれている。


『申……あげ……す!』


 盤上は動きだしていた。

 耳に、ザリザリと歪んだ声が届いた。


『結界……られ……!』

「……っ?」


 衛兵たちの耳にも、それは届いていた。人族とドワーフ族の叡智の結晶が、遥か遠方で警戒を続ける前線部隊の声を届けたのだ。

 雑音の砂が払われた、その一瞬だった。

 全員の表情が凍りついたのは。


『そんな、来る! 山、山! うご、動いて! バカな――うわああぁああぁあああぁああッ!』


 山?

 衛兵たちが首を捻り「なにを……」と呟く中、オルディバルだけは震えを堪えていた。首筋にヘロウの凍てついた手が絡みついて感じられるようだった。


「おわあああぁああぁあああッ!」


 直後、広間が震撼した!

 大地の神が、怒り狂ったように。

 否。

 世界そのものが、地上に生きとし生ける者の矮小さを嘲笑うように!


「な、なんだこの揺れはっ!」


 衛兵たちは、床に突っ伏し狼狽えた。

 エルフたちも仰天し、頭を抱え震えた。


「〝眼〟だ! 〝鴉の眼〟を表示してくれ!」


 揺れはすぐに治まったが、誰も脅威が退却したとは考えなかった。

 虚空に半透明の映像が浮かびあがった。


『なッ……!』


 オルディバルの中で、悲鳴が上がった。

 ヴァニの悲鳴だった。

 突如、映像が現れたことに、いちいち驚く余裕すらなかった。

 映しだされたものに、慄然とせずにはおれなかったからだ。

 存在しないはらわたを裂かれる心地がした。


 それは、おそらく塔からの視点だった。

 見渡す限りの焦土。

 緑を奪われた戦火の大地に。

 燻ぶるばかりだった火の手が、焔神スリトーラの舌のごとく蠢いていた。


 東の山脈から、海抜から暗雲が押しよせてきた。

 車軸を流すように、火箭の雨が降り注ぎはじめた。

 暗雲を構成するのは、蝟集した水滴ではなかった。

 一つひとつが人の体躯を凌駕する粗粒。漆黒に塗りつぶされた鎧の群れ。天翔ける悍馬に頼らず、己が背の双翼のみで敵地へ斬りこむ、邪神に愛されし戦乙女ヴァルキュリアだ。


 それを横殴りの轟雷が撃ち落としていく。

 視界の裏から。眼下にせり出した筒から。

 断続的に雷弧が波打ち、憤怒の叫びをあげていた。

 無機質な暗雲が引き裂かれ、空に爆炎の花園が拡がる。


 悪夢のようだ。

 初めて目にする戦乱の光景は、想像を遥かに凌駕する悍ましいものだった。


 にもかかわらず、ヴァニは、火焔と稲妻の攻防を一瞥しただけだった。

 何故なら、映像の左端。

 そこに映るものこそが、ミズィガオロスに破滅もたらす真の災禍と確信できたからだ。


 山脈の裏から這いだしたそれは、さながら意思をもって動きだした峰。

 それほどまでに巨大なだった。

 巌の手が岳をつかみ、頭のない上半身が蒼穹を見上げた。


『オオオオォォォォォオオオォォオオオォッ!』


 未だ谺する戦線の悲鳴を、地鳴りにも似た咆哮が押し潰した。

 そして、巌の怪物は全身を粟立たせた。

 逆立つ鱗がメキメキと発生する。

 それは小刻みに震えると、天空に弧をえがき飛びたった。

 中心から編みあげられる蜘蛛の巣のごとく、鱗の軌跡が空を侵した!

 その一つが、〝鴉の眼〟を睥睨した!


「衝撃に備えろぉ!」


 衛兵が叫んだのとほぼ同時、塔がふたたび震撼した!

 ヴァニは、オルディバルの肉体をつうじ衝撃を感じとった。


『なんで、なんであいつがいるんだよ……ッ!』


 見紛うはずもなかった。

 発達した双腕。

 頭のない半身。

 空に飛来する鱗。


〝逆鱗〟だ。

 超兵器オルディバルを屠った、スルヴァルト級ヨトゥミリス。

 ここが古の時代なら、まだ出現していないはずの巨人族。


 その時、すっくと神が立ちあがった。

 そこに視線が集まった。

 神の隻眼は、エルフを見下ろした。まるで未来を見通すような、超然とした眼差しだった。


「西の民への償いとして戦え。我がそう命じたなら、貴様らはそれに従うか?」


 エルフたちは、しばし唖然と瞬きを繰り返した。

 しかし瞼が瞳を閉ざすたび、激情が虹彩を焦がしていった。


 しぼりカスにされた男たち。

 慰み者となった女たち。

 奈落へ降り注ぐ水音に、悲鳴さえ溺れた同胞たち。

 傷つけられた、母の痛み。


「……無論です」


 すべてのエルフたちの怒りが、この場に充ち満ちたように感じられた。

 それぞれの美貌が憤怒に歪み、憎悪に裂けた。もう二度と美しき者には戻らぬと、誓いをたてるように。


「我らは、そのために参じたのです。一族の魂を懸け、貴方様に尽くすと約束致します」

「東のエルフたちに連絡できるか?」

「母の緒に結ばれた我らは、無限にして一つの命。声を届ける事など造作もございません」

「では、こう伝えよ。知恵と魔法の神オルディバルが馳せ参じると。すべてのエルフの父になるとな」


 神の決断的な命に、目を剥いたのは衛兵たちだった。


「オ、オルディバル様っ! 世界樹は敵の支配下ですぞ!」


 オルディバルは、ふたたびヴァニを一瞥した。

 何故か。

 理由など、どうでもよかった。

 魂の少年は、そこに垣間見えた悲壮な覚悟をこそ案じた。


『なにを、するつもりなんだ……?』

「捕らわれなどせん。我はログボザを滅する者。無辜の民に寄り添う神。これが我が運命さだめなれば……座して呆けているわけにはゆかぬのだ」


 ヴァニへの答えはなかった。あるいは、この言葉が双方への返答だったのか。


『おい!』


 確かめる術はなかった。

 オルディバルの意識は、震える衛兵たちへと向けられていた。


「……オルディバル様は俺たちの光です、希望なんです! スリトーラがいなくなって、でもすぐにログボザが現れて……」

「希望は潰えぬ。潰えさせぬ」

「あ……」


 悲愴に顔をしかめた衛兵がくずおれかけた時、主は傍らにあった。

 大きく温かな手が肩を抱いた。

 雷の隻眼は、遠くを見据え開かれていた。


「我は民と共にある。決して心意に背かず、貶めず、桎梏とならず。この歩みを以て、民の希望とす。我は帰ってくる。信じられんか?」


 オルディバルは柔く笑んだ。

 有無を言わせぬ問いが、そのまま彼の覚悟を意味していた。


「……!」


 衛兵は唇を噛みしめた。涙を殺し、かぶりを振った。

 否と答えられる者など、一人たりともいなかった。


『待て、あんた何するつもりなんだ!』


 ゆいいつ、ヴァニだけが抵抗を続けていた。

 オルディバルの決断は、覚悟は、その先には、あとどれほどの道程が続いているのか。それは中途で尽き朽ち果ててはいないか。


『……うむ』


 オルディバルが、ようやくヴァニに目を向けた。

 そして、笑った。

 表情が見えるわけではないが、笑いかけたのだとわかった。


『ヴァニ、貴様はこの時のためにやって来たのだな』

『え?』

『我らは出会うべくして出会ったのだ。敵の差し金でなく、運命の悪戯でもなく』

『なにを……!』


 神は答えない。

 ふいに思惟の門を閉ざし、エルフたちに顎で示すと駆けだした。

 縋るように手を伸ばした衛兵たちを置いて、しかし彼らの未来に勝利を約束するために。


『おい、待て! 何なんだよ!』


 ヴァニは思惟の門を叩いた。この魂が許す限りの力で。神の怒りを受けて裂かれた痛みを、自ら拡げるかのように。


『……』


 しかし声は届かなかった。

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