十五章 深淵より

『ゲーム、遊び……?』


 ヴァニは怖気を振るい呟いた。初めて肉体がない事を幸運に思った。もしも元の身体でこの話を聞いていたら、中のものをすべてぶちまけていただろう。


『彼奴にとっては、その程度のものらしい』


 オルディバルは平静を装っているが、魂に同居したヴァニには判った。

 邪悪に対する嫌忌。どろりと渦巻く憎悪が。

 今、この胸に萌し、急成長を遂げるものと同じだ。

 ヴァニは恐るおそる訊ねた。


『……その後、どうなったんだ?』


 世界樹は焼け落ちた。一帯は消し炭となっただろう。

 だが、見渡す限りの大地が炭化するほど――だろうか?

 おそらく、そうではないはずだ。

 とすれば、縹渺たる大地は、如何様にして山の稜線すら禿げあがった煉獄へと姿を変えたのか?


 オルディバルはすぐには答えず、スクラーダの神書に踵を返した。

 するとアーモンド型の穴は閉じ、三色の宝玉を埋め込んだ壁に戻った。

 玉座にふたたび腰かけると、知恵と魔法の神は答えた。


『あの後、ミズィガオロスは一変した。ホウルダスが鳴らした角笛は、ログボザに対するものではなかった。東から迫りくる軍勢に対して鳴らされたのだ』

『東の軍勢?』

『ログボザは姿を消していた間に、ダークエルフやダークドワーフを懐柔した。そればかりでなく知己を喪い、心に傷を負った者たちを手駒とした。例えば死の風によって、ミオスガルを追われた者たちなどを』


 心に傷を負った者たち。

 ヴァニは、そこに現代の教団ログボザとの接点を見る。

 教団の信徒たちは、ヨトゥミリスによって傷つき絶望した者たちが多いのだ。

 まさか、これが教団の起源ルーツなのだろうか。

 あるはずのない心臓を鷲掴まれるような心地がした。


『……でも、どうやって?』


 ログボザは悪戯好きな神だった。人を困らせる事ならあっても、助けるような性格ではなかったはずだ。とても慕われていたとは思えない。


『彼奴は口が回る。加えてヘロウの父でもある。死後に永劫の安寧を与える、ヘロウの父である自分なら、彼女と交渉し、人を理想郷へ導くことなど容易い。そう嘯き口説いたのだ』

『そんな――』


 バカなと言いかけて、ヴァニは口を噤んだ。

 身を以て知っていたからだ。

 絶望の力が、それほどまでに人を盲目にさせることを。

 超兵器オルディバルが滅び、あの無残な姿を目の当たりにしたとき、ヴァニの思い描いてきた希望の道は潰えた。眼前に広がる景色は、光を失くし灰色に見えた。

 あの白い影と出会ったのは、そんな時だった。

 きっと正常な精神状態だったなら、逃げだしていた。

 信じたい、信じようとは思わなかった。


 しかし絶望すれば、道理は歪む。

 道を示されれば先を渇求かつきゅうし、手摺があれば縋りたくなる。

 それがさらなる絶望へ転げ落ちる坂であろうと、偽りに錆びついていようとも。

 断崖絶壁に囲われた者の目には、綾の道さえ頑丈な橋と映るのだ。


『兎にも角にも、然してログボザの麾下についた者たちがいた』


 ヴァニは言葉の秘めたる恐ろしさを思い知りながら、熱心に耳を傾けた。


『ところで、神とは何より誇りを重んじるものだ。加えてログボザがきょうあくに堕した事で、正しく清廉であろうとする意識は肥大化していった。神々は勇んで戦に臨み……どうなったと思う?』


 考えるまでもないように思われた。

 現に、オルディバルは、人々は、この暗い塔の中での生活を強いられている。

 だが、その一方で――。


『信じられんだろう』


 オルディバルが見抜いた通り、信じられないと思う自分もいた。


『正直言えば……そうだな。神様たちは、敵に情けをかけて、それで封印されたってことだろう?』

『うむ。愚かだと思うだろうが、神は概ねそのような性をもつ。一つを矜持と掲げれば、どこまでもそれを信じられてしまうのだ』


 不敬にも、ヴァニはそれを人のようだと感じた。

 いや、人そのものだと。

 傷つき絶望した人々がログボザを信じたのと大差ないことだ。


 ヴァニの心中は複雑だった。

 解らなくなってきたからだ。

 正しく清廉にあろうとした神々の行動が、裏目に出てしまった事が。

 人に情けをかけるのは、間違いではないと思いたい。

 ログボザの軍門に下ったからと言って、助けを乞う者を無慈悲に殺すのは酷薄だ。

 が、徒に手を差し伸べれば、危機を招くのも事実で。

 実際、神々は封じられ、それによって西は害を被っただろう。目の前の一人を救おうとしたことで、結果として大勢の人々が命を落とした。

 では、「敵は敵」と無慈悲に殺すのが正しい事になる。


『許せねぇ……』


 当惑の中で、ヴァニはふたたびログボザへの憎しみを募らせた。

 ログボザは、おそらく神々の心理すら利用したのだ。

 神々の慈悲が、たとえ卑しい自尊心から出発したものであったとしても、それが彼らにとって大きな支えであることを知っていたから。

 知己の心をいたぶり、人の命を消費する事にも躊躇しない。

 正しくログボザは、邪神と呼ぶに相応しい存在だった。


『それで、外はあんなにひどく荒らされたのよ……』

『無論、こちら側から齎された炎が焼いた緑も多くある』


 沈痛に言ったオルディバルを、ヴァニは『仕方ない』と慰めた。

 しかしその言葉は、ひどく空々しいものに感じられた。


 緑とて命だ。自然とは居場所だ。

 千と万と言葉を尽くそうと、戦火が自然を焼失させたことに変わりはない。

 ログボザの遊びは、その罪すら否応なく突きつける。

 オルディバルは、それらの事実をどう咀嚼したのだろうか?

 ふたたび語りはじめた声色からは、鎖された心の硬質な感触しか返ってこなかった。


『現在は、陸上戦力の遮断に成功した。モントゥル山脈、東西を隔てるそこに、神々の力を以て結界を施した。だが、それもいつまで保つか定かでない。加えて空にも戦はある。そちらは、攻められれば応ずるしかない状況だ』


 ヴァニは不明な点を確認しながら情報を整理していった。

 おおよその事情は把握できた。

 しかし、まだ腑に落ちない点があった。


『でも待ってくれよ。ログボザについた人たちがいて、ダークエルフやダークドワーフがいた。西のエルフ族は滅んじまったし……。だとしても、ここまで戦局が傾くものなのか?』


 意思もつ者同士の戦争には馴染みがない。経験は無論、聞いたことすらない。彼我の戦力の程度も定かでなく、実感し難い点は多かった。

 だとしても、あの一面の焦土は異状だ。

 神々が人への制裁を嫌ったにせよ、西は劣勢に過ぎる。


『うむ、尤もな疑問だ』


 オルディバルが短い唸りとともに瞑目した。

 その胸に、邪神に対するものとは別な嫌忌が過ぎった。


『東には他に、もう一種の戦力がある。ヴァニ、貴様も知る者どもがな』

『えっ、俺も知ってる……?』


 ヴァニは訝しんだ。

 神もエルフもドワーフも知らなかった自分に、既知の存在などいるはずがないと。


 そう


 轟く水音から這いだす醜い腕の幻影が過ぎっていたにもかかわらず。

 果ても知れぬ深淵に谺する、殺意の咆哮を知っていたにもかかわらず。


 少年の本能的な逃避を、神は斟酌できなかったのか。しなかったのか。

 やがて口にするのも憚られるといった様子で、こう告げた。


『……ヨトゥミリスだ』

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