十四章 黄昏
神の眼を借りるヴァニは、暗澹たる思いで神書を見下ろした。
一見すれば普通の書物にしか見えない。
しかし、これは神の手で創造された神器だ。
『この神書は、スリトーラを封じたものじゃない……?』
『うむ』
そして、神の血肉を素材に生みだされた禁忌の書物だ。
ヴァニはログボザを恐れ、それ以上に憎んだ。
死の風が鎮まり、ようやく平和が訪れたとき、人々はどれほどの喜びを噛みしめただろう。きっと清々しい安堵に、笑みをこぼしたに違いない。焔神への憎しみから解放され、心から死者を悼むこともできたはずだ。
しかしログボザは、それらの思いごと平穏を打ち砕いた。
『これに封じられし神はスクラーダ。未来を司りし女神だ。運命の三姉妹ノリムの一柱であり、戦の業にも長けていたが、ログボザの前に敗れ封じられた』
『ログボザは強力な神だったのか?』
『否。彼奴は力に優れた神ではない。神である以上、人に後れを取る事はないが、神の中で突出した力を持つわけではなかった』
『じゃあ、どうして……?』
訊ねると、オルディバルは苦々しく唸った。
泥のような悔恨の念が、ヴァニの胸にまとわりついてきた。
『……それもまた神器だ』
ふたたび記憶の蓋は開かれた。
ヴァニは神の記憶へと飛翔した。
◆◆◆◆◆
スラウグニルも興奮している。オルディバルは、幾度も振り落とされそうになりながら世界樹へと急いでいた。
南の空が燃えている。スリトーラが西から南へと拠点を移したかのように。幾本もの火柱がそそり立ち、南方からの風は死の熱を孕んで吹き荒んだ。
神の乗騎でさえ、息の続かぬ熱波だ。鼻息は次第に喘ぎへ変わり、黄金の鬣も尽き果てるように、煤と黒く変じていった。
オルディバルはスラウグニルを帰し、
しかし、いたわり首を叩けば、八本の脚は挑むように速度を上げるのだった。
やがて噴きだす汗も蒸発する頃、オルディバルは世界樹の根元に辿り着いた。
天涯の枝葉ばかりでなく、地上も火の海と化していた。
世界樹の根は苦悶するように身を捩り、炎のなかで灰となっていく。世界樹全体がメギメギと軋み、炎は爆ぜ嗤う。魔力の源を絶たれ、共に焼け死んでいくエルフ族の悲鳴が耳を聾する。
……地獄だ。
苛烈極まる紅蓮の中、虚勢をはった愛馬の歩みも限界が近づいていた。
「もうよい、スラウグニル」
オルディバルは無理やり愛馬の背から降り、やや強硬に踵を返させた。
自らは、一抹の逡巡もなく幹へむけ駆けだした。
地獄は、どこまで行っても地獄だった。
外界の光をさえぎる樹冠は焼け落ち、空はひたすらに赤かった。森の泉は涸れ果て、我が物顔で炎が踊っていた。
その縁で絶叫すらも燃やされながら悶える人影があった。
もはや原形をとどめぬほど焼かれているが、その魔力の波長に覚えがあった。
オルディバルのまなじりに涙が膨れあがった。
それもすぐに蒸発して消えた。
「すまん、エルリム……!」
汚濁のような後悔だけは、熱に消えてくれなかった。
エルリムの言葉を、もっと真摯に聴いていればよかった。
そして、いち早く行動すべきだった。如何なる神よりも早く動き、諦めず、ログボザを見出していれば。誅に付していれば。
底知れぬ悪意に、その美麗なる肉体も、エルフの母も焼かれることはなかったというのに。
「貴様が正しかった、我が誤った……ッ!」
この魂が盲目であったばかりに、邪神の肩などもってしまった。
どれだけ恨まれ、詰られようと、文句は言えない。
いや、詰ってくれるならまだいい。
その声さえも、燃え尽きてゆく。
神などと大それた枠組みの中にありながら、オルディバルは、目の前の一人すら救えなかった。
世界樹の炎を消さぬ限り、エルフ族もまた燃え続ける。仮に今すぐ消すことができたとして、彼らが助かる見込みはないだろう。
魯鈍なる神にできるのは、いつ終わるとも知れぬ苦しみから解放してやることだけだった。
オルディバルは足を止めず、胸に手をあて詠唱した。
そして、拳を握り、それを引き抜いた。
虚空に雷弧が迸った。
稲妻が編まれ、黄金の輝きは収斂し槍と化した。
神器ガンズイール。
邪龍の戦で猛威を振るった、二度と握ることはなかろうと思われた戦槍。
オルディバルは、それをエルリムに投じた。
隻眼を振り向かせることなく、しかし心では憐れな友の最期を嘆きながら。
「うっ……」
ガンズイールは狙い過たず、燃えるエルフの頭を貫いた。
神器の槍は意思もつように、万に乱れ狂う稲妻と化して空を翔け、手中でふたたび黄金の槍に姿を変えた。
それとほぼ同時だった。
「ンガガガガガ! ンガガガガガッ!」
炎の雨降りしきる中、悍ましい哄笑を聞いたのは。
「ッ!」
聞き違えるはずがなかった。
あの特徴的で耳障りな笑い声。
邪なる神ログボザ!
「どこだ、どこにいる! ログボザァァァ!」
オルディバルは吼えた。怒りに、憎しみに吼えた。
奴が何をしたのか。何をしようとしているのか。
まだ確かではない。
だが、この惨状を目にすれば、あの酷薄な笑いを耳にすれば充分だ。
彼奴が悍ましい敵であることは疑いようもない!
「……来たな。ここさァ、オルディバル」
声は頭上から降ってきた。
眼前に燃える枝が落ち、視野を遮った。
ログボザはそこにいた。
神器の力で宙に座し、悠々と足を組んでいた。獄炎の中でさえ凍てついた白銀の羽衣をまとい、粘つく黒い炎に覆われた二振り一対の大剣を弄びながら。
「貴様ァ! ログボザッ!」
「随分と熱くなってるなァ。周りの熱で頭が煮えちまったかァ?」
ログボザはさも愉快げにグルグルと喉を鳴らした。
「貴様、自分が何をしたのか解っているのか!」
「お前こそ解ってないだろうに。遊びは始まったばかりなンだゼ?」
「遊び、だと……?」
オルディバルは憤然と目を剥いた。
「そう、遊び。ゲームさァ。神々も、人も、すべてが参加する、命懸けのゲームだ」
手の中でガンズイールが軋んだ。主とともに激昂したように。
「つまり、これはゲームの開始宣言ってわけ――」
言い終えるより前に、ガンズイールは雷光と化していた。
空間がぐにゃりと歪み、降り注ぐ木っ端を瞬時に炭化し消滅させた。
しかしその刃が、ログボザの胸を貫くことはなかった。
突如、地中から噴出した火柱が、雷神の槍をはじき返したのだ!
「……ンググ、危ない。逸るなよォ」
オルディバルは雷の息を吐きながら、翻るガンズイールを掴んだ。
ログボザの手に握られた二振りの大剣を睨みつける。
それぞれ黒い炎にどろどろと燃え盛る剣。ただの剣ではない。
こうして目にするのは初めてだが、その力を前にすれば、見当もつこうというものだ。
「スリトーラまでもが獲物だったか」
二振り一対にして、無二の神器。
ラーヴァルティーム。
森羅万象を焔に喰らわす、焔滅の剣だ。
「ご名答。オレの力だけじゃ、とても神々を相手にできないンでなァ。ちょいと拝借させてもらったのさァ」
「その力で世界樹の結界を破ったのか」
「さすが焔の神器だ。神秘の大樹も、この通り。よく燃える薪ってわけだ」
「外道め……!」
「まァ、聞けよ。大事なことを教えてやるからさァ」
「これ以上、貴様の言葉など要らぬ!」
オルディバルは槍に魔力を練りこみ、今度こそログボザを貫こうとする。
ところが力を解き放つ寸前、ある物が投げて寄越された。
オルディバルは、それをとっさに掴み取った。
「こ、これは……」
そして、凝然と固まった。
「知ってるはずだゼ。お前が生みの親だものなァ」
「なぜだ、なぜ燃えぬ……」
書物だった。燃え盛る森の中でも、炎の舌に絡めとられることのない――神書だった。
「解ってるだろうが」
慄然と呟く義兄弟を見下ろし、ログボザはガラガラと笑った。
「神が宿ってるからさァ!」
「誰だ、誰を、封じた……?」
「スクラーダだよ。すっかり平和ボケしちまってたなァ。ジジイの神器を使うまでもなかった。そうそう、あの女の悲鳴、なかなかソソられたゼ?」
湧きあがる怒りは際限がない。
ログボザの一言一句に燃えあがり、心を黒く染めあげていく。
これまでは抱いたことのない、スリトーラにさえ向けられることのなかった悍ましい感情が泡立ち膨れあがった。
瞋恚。
心の臓を貫くだけでは足りぬ。
脳天を割るだけでは足りぬ。
この胸に渦を巻くたび闇を深める激情は、その程度で下すことはできぬ。
四肢を裂き、眼を抉り、はらわたを引き摺りだし、悲鳴も嗄らす痛みを与えてもなお。
嘲笑い踏みにじってきたものの罰には軽いのだから。
灼ける大気にカッと稲妻の怒気が爆ぜ、ガンズイールが雷に燃えた。
――ぬちゃり。
「……?」
その時、血も沸き立つ怒りの中で、奇妙な感触がオルディバルを我に返らせた。
「まァ中に神がいなくても、その神書は燃えやしないがなァ」
投げ渡された神書。
そこに粘ついた脂の感触があった。
それと別に書物と思えぬ柔らかな感触もあった。
「これ、は……」
解っていた。解っているつもりだった。
スクラーダが封じられたという事は、ブラーゴの犠牲を意味するのだと。
だが――。
「まさか……」
「オレからの細やかな心遣いだ」
オルディバルは吐き気を堪えながら、神の書物を裏返した。
「片眼のないお前のために、用意してやったんだゼ?」
目が合った。
蹂躙された魂と。
樹木に生じた瘤のごとく、書物に癒合した眼球と。
「……なにが目的だ、ログボザ」
オルディバルの怒りは幾度もの爆発を繰り返し、ついに限界を超えた。しかし、神の魂を焼き尽くす業火とはならなかった。その逆だ。雪中に没した鋼のごとく凍えた。
二柱の神の間を、炎の雨が降りそそいだ。
「言ったろ。これはゲームだ。オレはゲームがしたいのさァ」
「何のためだ?」
「そりゃア、暇つぶしさァ。神の命は永劫だ。この世は退屈の牢獄だ。お前らは人を玩具に、退屈を紛らわせてきた。だが、オレはお前らの遊びには興味がなかった。じャあ、どんな遊びなら楽しいだろうと考えたわけさァ。そして思い付いたンだ。どうせ使うなら、神も使って、ハデな遊びをやろうってなァ」
「それだけの理由か? それだけの理由でブラーゴを神書とし、スクラーダを封じ、世界樹を、エルフを殺したのか?」
ログボザは歪んだ笑みを佩いたまま、首を傾げた。「何がいけない?」とでも言いたげに。
「ンググ。一緒に酒を飲んだよな? あの時、オレは言ったゼ。好きにしたらいいと。生き方なんて自分が決めるンだと。オレはその心情に従って生きてきた。これからもそうする。倫理や道理なんざ嘯かずになァ」
まるで他の神々のほうが醜悪だとでも言いたげな口調だった。
確かに神々は、傲慢だったかもしれない。酷薄だったかもしれない。
だがこの悪逆を、非道を、正当化する理由になどなるものか。
させるものか。
隻眼が炯と光った。
オルディバルの手中から槍が消えた。
閃く軌跡は雷のそれだった。
周囲の炎が渦と歪み、地から噴きあがった火柱さえも、
「ンンッ……!」
穿った!
火柱が散る!
火の粉の中、ログボザは顔をしかめた。その胸を押さえながら。
「痛いなァ……」
しかし生きている。
ガンズイールは邪神の胸の前に留まり、羽衣に咲いた氷の華に絡めとられていた。
ログボザは周囲を見渡し、舌打ちした。虚空に腰かけた身体を起こし、片や自身の腕で、片や凍てついた仮初の腕で、黒焔の剣を閃かせた。
「グラァウッ!」
そこに漆黒の牙が喰らいついた。
どこからか生じた二匹の影の狼だった。その瞳は雷火のごとく明滅を繰り返していた。オルディバルの眷属は怒りに唸った。
凍てついて時を止めたかに見えたガンズイールも、未だ力を維持し続けていた。静止して見えるのは、羽衣の力が拮抗しているからに過ぎない。
ログボザは、剣から爆炎を噴きだし狼を退けた。口許にはりついた笑みが苦々しく歪んだ。
「ングッ、恐ろしいジジイだ。まだ双子鴉もいるよなァ? 氷炎の神器を以てしても力及ばずか」
「貴様も世界樹とともに燃えてゆけッ!」
オルディバル自身がとび出すと、ログボザは神器の力で風を蹴り上昇した。氷炎の力を以て破滅の渦をなし、ガンズイールを叩き落とす!
「コトワル! まだゲームは始まったばかりだからなァ!」
邪神はさらに虚空を蹴った。
火焔の樹冠をうがち、黄昏へ吸いこまれていく。
「待て、ログボザッ!」
「待てと言われて待つ奴がいるかネ。オレが憎ければ、追ってくるといい!」
ログボザの輪郭は、急速に縮小していった。
すぐに、目に映るのは炎と黄昏の対比のみとなった。
「安心しろ、切り札は用意したゼ。ミオスガルに
声ばかりが遠く残響した。
それも間もなく、駆けつけた神々の怒号とエルフ族の悲鳴によって塗りつぶされた。
「……空の神書だと。ゲーム、本当に、そんな事で……!」
パキパキ、メキメキと、命の散っていく音が聞こえた。
壮麗なる母とともに祝福を謳うはずだった生が、この世に怨嗟だけを残して死んでいく。
オルディバルには、その魂を、冥府へ送りだすことしかできなかった。
かくして世界樹は失われた。エルフ族は死に絶えた。
それでも変わらず、幾度もの夜が明け、昼が終わっていった。
ただし神にも人にも、もう二度と光は萌さなかった。
束の間の笑みと平和の時代は、舞台ごと焼け落ち。
あとに残ったのは、死と叫喚の時代。
そのとば口のみであった。
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