十三章 たぶらかし

 スリトーラ封印から一年が経とうとしていた。

 ブラーゴ、ログボザの消息は、ようとして知れぬまま。

 神書の行方も知れず、神々の間では不安ばかりが募っていた。


 一方で、人々の暮らしには平穏と活気が戻り始めていた。

 死の風が止んだことで、住処を追われた者たちも次第に帰郷を果たしつつある。

 ドワーフたちの建てる幾何学模様の塔は、踏まれてもなお立ちあがる草花のようにミオスガルを彩り、街の中心には、〝紅夜〟によって命を落とした者たちの慰霊碑が築かれた。


「今日は好い日和ですね、オルディバル様」


 客間に通されるなり、エルリムは笑った。

 オルディバルは反射的に「ああ」と微苦笑を返したが、大窓が設けられているのは彼の背後で、分厚いカーテンがかけられていた。

 エルリムは神を諫めはしなかった。

 象嵌の施された卓の上に質素なバケットを置き、オルディバルの前に腰かけた。


「焼き菓子など如何です?」


 バケットの中には、蜂蜜色の焼き菓子が花のように並べられていた。糸をひき固まった水飴が、光をはじき食欲を誘った。甘やかな香りは、倦んだ心をほぐしていくようだ。


「……頂こう」


 オルディバルは中から一枚手にとり齧った。

 サクと小気味好い音が鳴った。

 口中に拡がる、酩酊に似た心地好い甘さ。同時に、森の香りが鼻腔を漂う。樹皮から伝う、生命の息吹のような。


「……美味い」


 そう漏らすと、エルリムは破顔した。


「それはよかった。実はこれ、私が作ったんです。普段は菓子作りなどしないのですが」

「ほう。では何故だ?」


 問えば、エルリムは照れた子どものようにはにかんだ。


「オルディバル様に、少しでも元気をだして頂きたくて……」

「そう、か」


 オルディバルは驚きとともに、召使いの運んできた紅茶を含んだ。


「ええ。妻にも相談しましてね。畢竟、食以上に心を癒すものはないと。食は翳る心に灯される一条の炎だと、あれは申しておりました」


 オルディバルは残った焼き菓子を一瞥し、そっと胸に手をあてた。

 甘い温もりは、確かにじんと沁みて残り続けていた。


「違いないな」

「私もそう思います」


 エルリムは、また子どものように笑った。

 一方で、オルディバルも純粋な喜びに浸っていた。


 我は、好い友をもったな……。



                ◆◆◆◆◆



 菓子を食べ終えると、二人の間から和やかな空気は消えていた。

 召使いが空になったカップに紅茶を注ぎ直せば、エルリムはそれまでの沈黙が嘘のように、淡々と話し始めた。


「ホウルダス様によれば、東に異状はないそうです。ダークエルフやダークドワーフにも怪しい動きはないと」

「……そうか。まるで嵐の前の静けさだな」

「ええ。ログボザと神書。それらの符号が、偶然であるはずはないと思うのですが……」

「……」


 ログボザが姿を消してからというもの、オルディバルの許には、糾弾の雨が降りそそぐようになった。


「貴様が神書を創らなければ」

「お前がログボザを見張っていれば」

「血の契りを交わした貴様も同罪だ」


 口々に責められ、ついには雪峰宮への出入りも禁じられてしまった。

 今は、こうしてエルリムから会議内容や噂などを収集する日々だ。

 実際に情報を得てくるのは息子のトーラスだが、蟄居するオルディバルと直接面会するわけにはいかず、エルリムが使いとして寄越されていた。

 だが、それだけが理由ではなかろうとオルディバルは思う。


 トーラスもまた呆れているのだ。

 神々の了解なしに神書創造を強行した神を。

 ログボザを、未だに信用し続けようとする父を。


「議場に姿を現した時点で、疑うべきだったのかもしれませんね。あるいは、より以前から。神書の悪用を企てていたに違いありません」


 ログボザを信用する者は、オルディバルをおいて他に存在しなかった。


「……」


 オルディバルは答えず、おもむろに紅茶を見下ろした。そこに映る自分の姿には、神の威厳など微塵も窺えなかった。

 それもそのはずだ、と自嘲する。


 所詮、神というものは、神という枠にはめ込まれた存在に過ぎない。不死性や膨大な魔力は、神の特徴でこそあっても、巍然ぎぜんたる者の根拠ではないのだ。


 スリトーラへの対処を怠り。

 共に人々を導いてきた神を信じなかった。

 こんな矮小な魂には、威光など宿るはずもない。


「……何故」


 そう自らを虐め続けてもなお。

 悪戯好きで嫌われ者の神。

 血の契りを交わした義兄弟。

 ログボザと館で語らった夜を思い出し、此度の軋轢に、運命の瞞着をうたがう自分がいる。


 あの夜、神書は誕生どころか、構想の中にすらなかった。言葉巧みに義兄弟を懐柔する甲斐はなかったはずなのだ。

 ログボザの言葉には正しさが、真摯さが、そう感じさせる二人だけの絆があった。

 他の神々には見せぬ一面。

 あれが彼奴の本性ではなかったのか。


「ログボザは神書を盗んだのだろうか」


 ようやく形をなした言葉は、さしものエルリムにも炎を灯らせたようだった。


「何を仰っているのです。自明ではありませんか。神書を悪用する、それが彼の神の目的だったのです!」

「しかし、あれを手にしたところで意味はないはずだ。神書は間違いなくスリトーラ封印のために使われた。神を封じた書に、他の神を封じることはできぬ」

「母なる大樹から知恵を授かった貴方様になら、すでに解っているはずですよ。確かに、神書を創造できたのは、オルディバル様をおいて他にいなかったかもしれません。ですが、手許にあればそれを調べ、解析し、改良や複製の手立てとするのは充分に可能ではないですか!」


 その可能性については、すでに考えた。しかし神書は神の御業を以て生みだされた神器だ。そう単純な代物ではない。


「……不可能だ。我は魔法の神でもあるのだぞ。同じ神であろうとも、その魔力には雲泥の差がある。我が魔技を再現することなど到底できるはずがないのだ」


 怒りに震えるエルリムだったが、ついにそれも呆れへと変わったようだった。おもむろに立ちあがると、不敬も顧みず、これ見よがしに大きな嘆息をついた。


「トーラス様から伺いました。会議に呼ばれていた頃も、同じような事を口にしていたそうですね。ですが、本当にそうでしょうか? 何か見落としているのでは? よく考えてみてください。そうでなければ、あのログボザとて、これだけ大胆な事を仕出かすはずはないでしょう」



                 ◆◆◆◆◆



 エルリムが去り、独りとなったオルディバルはバルコニーにでた。

 空の色は夕焼けに濃かった。磨いた紅玉や琥珀を散りばめ刷いたかのような。遥か南方に屹立する世界樹が紅葉して見えるほどだった。

 眼下には見慣れた街並みが縹渺と広がっている。

 近頃は、科学の発展によって随分と様変わりした。家々の体裁には比較的おおきな変化は見られぬものの、ビルディングや電波塔は見る間に大きくなり、このまま発展を遂げれば、いずれ世界樹の背丈にまで届きそうだった。


 世界は変わっていく。不変の世はあり得ない。

 だからこそ、それが負の方向へと変化していかないかと気を揉まずにはいられない。


 ログボザ。


 彼奴は何を企んでいるのだろう。

 麻に沁みる汚水のように、不安と恐れは心を蝕む。エルリムとの軋轢は、さらにちくりと痛かった。


「あっ、オルディバル様!」


 そこへやけに明るい声で呼びかけられた。

 見下ろすと、中庭に一人の青年の姿が見てとれた。庭師の青年ヴァーブだった。


「夕焼けが綺麗ですねぇ! バルコニーからの眺望は最高でしょう?」


 快活に笑うヴァーブを見ていると、こちらも笑わずにはいられなかった。一時曇った頭は晴れわたり、気付けば「風も気持ち好い」と穏やかに返していた。


「ええ、暑くもなければ寒くもない、穏やかな一日でした。あ、そうだ! ちょっと待っててくださいね!」


 ハッと手を打ち鳴らし、玄関のほうへ駆けていくヴァーブ。なんだろうと思い待っていると、やがて大きな箱をかかえ戻ってきた。


「これ、いかがです? こんなに赤いリンゴ! 美味しそうでしょう?」


 ヴァーブが箱の中から果実をとり出し掲げてみせた。

 宝石のような赤色だった。

 魔法科学を用いたリンゴでないのは一目瞭然だ。魔法科学は、大量早期栽培を可能とする画期的な近代技術である一方、どうしても色や味が落ちる。


「美味そうだ。一つ貰えるか? 投げてくれて構わんから」

「ええ、どうぞ!」


 ヴァーブが投げたリンゴを、オルディバルは掬うように受け取った。実際に手にしてみると、新たな発見がある。


「色だけでなく、大きさも好いな。一つで充分に腹が膨れそうだ」

「生産者に訊ねたら、接ぎ木がどうのと長話されましたよ。普通はこれだけ大きくなるまでに、病気になってしまうんですって。でも、接ぎ木をすることで病気になりにくくするんだとか」

「なるほど、接ぎ木か」

「古くからある技術ですが、面白い事を考えますよね」

「ああ、誠に感心する」


 植物とはなんと不思議な生き物だろう。

 世界樹のような特別な力がなくとも、その神秘性には、神も目を瞠らずにおれない。

 オルディバルは異なる種類の枝と枝とが癒合する様を想像しながら、ふと沈みゆく夕日を一瞥した。

 西の大地に、輻射光の橋が窺えた。いつか人々の恐れた、紅い空ではなかった。


「……」


 一時は断ち切られた思考が、ふたたび神書へと直結した。

 今ここにある事物と絡み合いながら。


 ……また虚しく時間が消えていくな。


 冷静な部分がそう呟いた。

 接ぎ木、リンゴ。

 ブラーゴ、神書。

 繋がりなど、どこにもあるはずがない。

 そう端から諦観していたオルディバルだったが。


 ――ゾゾゾ。


 突として肌が粟立った。

 決して交わるはずのない、それらが。

 癒合する枝のように、結ばれ合うのを感じたのだ。


「……まさか、そんな」


 手中からリンゴがこぼれ落ちた。バルコニーに、大きな赤い果実が転がった。

 表面に目のような二つの傷が刻まれていた。

 血に濡れた生首と向かい合ったような心地がした。


「そういう、ことなのか……」


 その感覚が答えだった。


 謎だった。ずっと謎だったのだ。

 スリトーラを封印させた事より、神書を盗み出した事より。

 ブラーゴを誘拐した事が。

 最初は事件の発覚を遅らせるためだと思っていた。あるいは口封じのためだと。


 だが、そんな危険を冒す必要がどこにあるだろう?


 神には実質、死という概念はないが、転生までには長い時を要するものだ。ほんの数時間で復活する神などいない。数十年でも足りない。数百年経って、ようやく目覚めるのだ。

 つまり、ブラーゴに動かれるのが面倒なら、誘拐などせずとも殺してしまえばいい。

 にもかかわらず、ブラーゴは消えた。

 彼を攫わなければならない理由があったからだ。

 ふいにエルリムの言葉が思い出された。


『――手許にあればそれを調べ、解析し、改良や複製の手立てとするのは充分に可能ではないですか!』


 あの時オルディバルは、不可能だと答えた。ログボザには、神書に手を加える魔力が足りないからと。

 魔力を補う方法など考えもしなかった。そんなものはないと決めつけていた。


 だが、もし、あるとしたら?


 神書の力を引きだし維持する、画期的な素材があるとしたら。

 例えば、永劫の命さえ宿した瑞々しい魔力の塊があったなら。

 人が羊の皮から紙を作ったように。

 から神書を生みだすことは、可能でなかろうか。


「いや、待て……逸るな」


 オルディバルは悍ましい想像をふり払う。

 結論とするには早計だ。理論的には可能でも。


 こちらには長年蓄積してきた魔法の知恵がある……。


 素人が解体した時計を元に戻すことができないように、神書の構造を解析し複製する知識などログボザにあるはずがない。

 しかしその時、またも記憶の中のエルリムが口を開いた。


『――本当にそうでしょうか? 何か見落としているのでは? よく考えてみてください』


 見落としていること。

 そんなものはないはずだ。

 オルディバルは強いて己に言い聞かせた。

 それでも鎌首をもたげた不安の蛇は、心にじくじくと毒を注ぎこむ。


「……オルディバル様?」


 呼びかけられて、ようやくヴァーブと話していたことを思い出した。

 庭師の青年から向けられる、案じるような眼差し。

 オルディバルは強いて微笑み返した。


「あとでゆっくり頂かせてもらう。残りは召使いたちに配ってやってくれ」

「はい、そうさせていただきます。今度、感想を聞かせてくださいね。それでは失礼します!」


 ヴァーブは深く腰を折り、箱を抱えて去っていった。

 その背中を見送ったオルディバルは、額から顎をゆっくりと撫で下ろした。

 そうして一瞬、視界が遮られた直後、眼前にログボザが現れた。

 走馬灯のごとく逆流した記憶が見せる幻だった。


 やけに袖の長い衣服に身を包んだ姿。

 久方ぶりに酒を飲み交わした、あの夜の装い。


 今にして思えば、珍妙な恰好だ。人に慕われるような神でないとはいえ、何故あんな襤褸で館を訪れたのか。


「……そういえば」


 雪峰宮に現れた際も、同様の恰好ではなかったか。

 オルディバルは、そこに不気味な符号のようなものを感じとる。

 より詳細に記憶を掘り起こし、あの夜と議場でのログボザの一挙手一投足を観察しようと試みる。


 何かおかしなところはなかったか?

 あの恰好で現れた意味、その必然性は?


 その時、声が聞こえたような気がした。


『ゴキゲンヨウ』


 そうだ、挨拶だ。

 オルディバルは、もう一つの共通項を見出した。

 館を訪れた際も、雪峰宮に現れた際も、ログボザは同様の挨拶をした。

 左腕をあげ、右の袖はヒラヒラと揺らして。


「会議の折は……」


 卓に肘をついていた。

 右腕でなく、左腕で。


 偶然だろうか。そうかもしれない。いや、きっとそうだ。考え過ぎだ。

 だが、もしも、万が一。

 偶然でなかったとしたら。

 必然だったとしたら。


 こうは考えられないだろうか。

 ログボザは右腕を隠すために、あの恰好で現れたのだと。


 そして、そんな事をしなければならなかった理由は。

 奴にからではないか。


「そんな、莫迦な……!」


 その考えに至った瞬間、胸中を黒き稲妻が駆けめぐった。それは心に触れるやいなや樹木のように根を張った。額に脂汗がにじみ、足許から戦慄がこみ上げた。

 オルディバルは片目に手のひらを押し当てた。

 そこにはもう眼球がない。当然だ。知恵を得るための代価として世界樹に差しだしたのだから。


「なんと悍ましい……!」


 あの夜、館で語らったことを、オルディバルはふたたび思い出していた。

 そして確信した。


『――邪龍がいた頃は昼も暗くて不気味だったゼ』


 あの時、すでにログボザが動きだしていた事を。

 片や魔法の業に秀でた神は、神器を創造し。

 片や権謀術数に長けた神は、


 おそらくログボザは、世界樹から知恵を授かろうとも、自ずから神書を生みだす事まではできなかったのだ。だからこそ、義兄弟を利用した。

 神書創造の礎に、オルディバルは利用されたのだ。

 すべてはログボザの掌の上だった。

 とすれば。

 準備が整い、神書複製に成功してしまったら――。


「ヌゥッ!」


 オルディバルは最悪の事態に慄然とするより、動き出していた。

 バルコニーから中庭へ飛び降り、厩に駆けだした。

 奴の潜伏先など見当も付かないが、じっとしていられるはずがなかった。


 今回の策謀は、もはや悪戯などと呼べる範疇を遥かに超えていた。れっきとした悪意だった。


 ログボザは。


 邪なる神だ。


「スラウグニルッ!」


 厩へたどり着くなり、オルディバルは愛馬の名を呼んだ。

 厩番の男が驚きに振り返り、八本脚の愛馬がけたたましい嘶きをあげた。棹立ちになり、唇をめくれ上がらせて何度も吼えた。

 主人の焦燥を嗅ぎ当てたように。


 しかしスラウグニルの嘶きも、間もなく別の音にかき消された。

 突如、風と風が抱き合い戦慄するかの如き音色が、ミズィガオロス全域に響きわたったのだ。


「これは……ッ!」


 命短し人々にとっては、ただ聞きなれぬ不気味な音色であったろう。

 一方で神々にとっては、記憶の奥底に眠った恐怖を呼び起こす災厄の笛の音であった。


 ガラグホウネン。

 かつて邪龍誕生の日にのみ鳴らされたホウルダスの角笛。

 それが鳴らされた意味を、オルディバルはすぐに知ることとなる。


「ば、莫迦な……」


 振り返った視線の先。

 魔法の神の手であろうとも届かぬ彼方。

 遥か南方に、絶望はあった。


 夕日が西の縁に沈み、方々から夜が忍びよるその頃。

 昼夜のあわい、黄昏に。


「世界樹が」


 燃えていた。

 夕日の照り返しなどではなく。

 決して咲かないはずの炎の華が、燦然と咲き誇っていた。

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