十二章 誰が為の慈悲
『――こうして神書は生みだされた。我らの生まれるより以前の出来事だ』
元枢会は滔々と語った。
現代では〝古の時代〟と呼ばれる、その歴史の一頁を。
デボラは頭を抱えた。
異形の身へと変じたときから、本当は知っていたような気がする。
古竜。
あの異形も〝古の時代〟を知っているのではないか。今も絶えず『ログボザを滅ぼせ』と訴えかけてくる声は、きっと教団でなく神を弑せと言っている。
だが長らくデボラは――否、人族は神と無縁に生きてきた。
こうして神の実在を告げられれば、混乱するなというのは無理だった。
さらに彼らの言葉の中には、さも当然のようにエルフやドワーフといった単語が頻出した。
「……神のことは、とりあえず呑みこんでみる。でも、ちょっと待ちなさい。小人族まで実在するというの? あんたたちは本当に、小人族を捜してたってこと?」
バランの宣告――あれは防区への左遷を突きつけられるより絶望的だった。
実際、小人族どころか鉱床すら見出せず、捜索隊はデボラを除き全滅したのだ。
しかし。
かつてエルフやドワーフは実在し、人とともに文明を築いていたという。
では、あの馬鹿げた任務には成功の望みがあったのか?
『ドワーフ族を求めているのは事実だ。彼らの拠点が〝陰〟にあることも、大方予想がついていた。ドワーフ族を連れ帰ってきたなら、僥倖と言えただろう』
デボラの胸に、もう何度目かわからぬ怒りの炎が再燃した。
「……僥倖ですって? それじゃやっぱり任務に成功の望みはなかったってこと?」
『任務には別の目的があった』
無感情な声に、悪びれた様子は微塵もなかった。
この薄汚い機械どもを苦しめる術はないのか?
デボラはギリギリと奥歯を噛みしめ、滲みだす血の味に酔う。
昔話が終わるまでに、必ず裁きの術を見つけ出してやる。彼の神がスリトーラを裁こうとしたように。
デボラは怒気とともに吐き捨てた。
「……続けなさい」
『彼の神は、神書の創造を第一の罪として悔やんだ。その後、すぐに第二の罪を犯したと述べている。神書が完成したことで、神々はスリトーラ封印へむけ、
◆◆◆◆◆
オルディバルの館から西北三マイルばかり離れた地点には、四点の柱が斜めに交錯した四角錐の建造物がそびえたつ。
その内部、半径十五ヤードばかりの円卓を囲み、様々な神が着席していた。彫像のような美男美女がいれば、醜悪な怪物じみた者もいる。小人族のようなずんぐりとした矮躯もあれば、ヨトゥミリスじみた巨躯もあった。
白樺のような白と灰の斑模様の扉が、颯爽と開け放たれたのは、空席も少なくなり、さて会議を始めようという段になったときだ。
神々は戸口へ鋭い視線を投げ、そこに現れた神の姿を認めるやいっそう険しく目を眇めた。
星の渦巻く双眸が、一同の顔ぶれを見渡した。
「ンググ。ゴキゲンヨウ!」
そして、上座へ進んでいった。
下座にも空席はあるというのに、わざわざオルディバルの隣席にどっかと腰を下ろしたのだった。
何柱かの神が、これ見よがしに嘆息した。
無論、それを意に介するログボザではなかった。
「……スリトーラの件だったな」
不満を隠そうともせず、胴間声を響かせたのは、神々の中でもっとも大きな体躯の持ち主トーラスだ。彼の筋骨隆々の肉体は鋼の鎧と同化し、頭は角の付いた戦兜で覆われていた。議論の場だというのに、膝のうえに柄の短い槌をのせていた。
「如何にも」
オルディバルが答えると、トーラスは固く拳を握りこんだ。
「たしかに奴のバカ騒ぎは目に余る。いよいよ制裁を加えようというなら、この俺が叩き潰してみせよう。何度蘇ろうと、その都度、燃ゆる頭を埋めてやればよいだけの事!」
そう言うとトーラスは、早速、腰を浮かせた。
オルディバルはそれを手で制し、ゆっくりとかぶりを振った。
「トーラス。貴様の腕や神器の力を侮るつもりはない。真っ向から勝負を挑めば、貴様に勝てる者などおらぬ。ここにいる誰もが承知している事だ」
「ならば尚のこと、このような話し合いなど無意味。俺が鉄槌を下せば業火も黙す。単純明快だ!」
「あるいは貴様が言うように、痛みを以て解らせる事はできるやもしれんが」
「うむ。結論は出たなッ!」
「否ァ!」
オルディバルがぴしゃり雷鳴の声を轟かせると、議場はしんと静まり返った。
トーラスはバツ悪く押し黙り、浮いた腰を下ろした。
やがて、その静寂を破ったのは、意外な神だった。
「……ンググ。まァ落ち着けよ、トーラス」
ログボザだった。彼は臆することなく薄ら笑い、卓上に左肘をついてみせた。その態度が、神々からの反感を買ったのは言うまでもない。
「貴様は黙っていろ、ログボザ! 珍しく議場に姿を見せたからといって図に乗るなッ!」
「べつに図に乗っちゃいないさァ。落ち着けと言っただけだゼ、トーラス。お前のやり方は、単純かつ効果的かもしれん。だがよォ、そもそもオレたちは、どうしてスリトーラを制裁するンだネ?」
トーラスが「ハッ!」と侮蔑の笑いを吐いた。
「奴が罪を犯したからだ! 咎を負った者は裁かれる。それが世の道理よ!」
「ふゥむ。正当ではあるが、正解ではないなァ」
「なんだと?」
トーラスが怒りに顔をしかめ、目を血走らせた。
「よく考えてみろよォ。奴が〝紅夜〟を引き起こすのが、なぜ罪なンだ? オレたち神に実害があるか? ないゼ。喧しいし、蒸し暑いし、鬱陶しいが、いちいち制裁を加えるほどじゃない」
「貴様はなにを言っている? これは神々の問題ではない。〝紅夜〟が起これば、人が命を落とすのだ。だからこそ、こう、して……」
ふいに、トーラスが黙った。眉根をよせると、低く唸った。
ログボザは星の
「ンググ。だから落ち着けと言ったろう。これは人の問題さァ。お前とスリトーラが争ってみろ、その余波で大勢の人が死ぬゾ。ミオスガルの街ごと跡形もなく消えるかもなァ。それじゃ本末転倒だ」
「ぐっ……」
トーラスは押し黙り、荒々しく鼻息を吐きだした。
「人は非力で矮小だァ。神を裁くなんて大層なことできやしない。だからオレたち神々が、人に代わってスリトーラを裁かなくちゃならないンだろう? まァ今回は、その方法を議論するために、集められたわけじゃないみたいだが。なァ、オルディバル?」
「うむ。ログボザの言う通りだ。スリトーラを裁く術は、すでにここにある」
オルディバルがそう言って、おもむろに取り出したのは、一冊の書物だった。
表面に無数の呪文が蠢く奇怪な。
何柱かの神は、それを見て感嘆の声をあげた。
一方、その他の神々は「禍々しい」、「なんと胡乱な……」などと、書物の存在を不吉に感じたようだった。
「これは神書。スリトーラを封じるべく創り上げた、新たなる神器だ」
一瞬の沈黙があった。
それから間もなく、
「なんとッ!」
場内は騒然とした。
当然だ。
これは神々の不死性を根底から覆し得る、致命の刃なのだから。
かつて邪龍と戦った神々の耳には、今も変わらずあの頃の悲鳴が谺していた。死にたくないと零した涙の痕が、
「何故だ、オルディバル! 何故、それを創りだす前に、会議の場を設けなかった! これが如何に恐るべき所業か、承知しておるのだろうな!」
長い顎鬚を撫で怒りに震えたのは、雄弁と詩歌の神ブラーゴだ。
彼の言い分は尤もだった。
神の理さえも揺るがしかねない神器。
そんなものを生みだすとなれば、神々との合議をもって然るべきである。それをしなかったという事は、神々に対する敵対や叛逆と見做されても文句は言えない。
「糾弾されて然るべき行いである事は承知しているつもりだ。しかし合議の場を設けたなら、神々は神書の創造をよしとしなかっただろう」
「当然です。そのような悍ましい神器の完成を望む神など、あなたをおいて他にはいないでしょう」
平時は温厚な女神エイズムも厳しい口調で責め立てた。
「そいつはどうだろうなァ」
ところが、そこに、またしてもログボザが
「どういう意味です?」
エイズムが柳眉をひそめた。
「オルディバルと志を同じくした神なら、他にもいたってことさァ」
新たなどよめきが走り、神々はそれぞれに顔を見合わせた。
幾柱かの神が視線を逸らし俯くのを見て、ブラーゴをはじめとする反対派の神々は怒りのあまり目を剥いた。
「……莫迦な。貴公ら、恐ろしくはないのか? 刃を生みだすという事は、それが己に向けられる危険を孕んでいるのだぞ」
偉大なる軍神ツィーヴが頭を抱えながら言った。
これまでの議場において大変な影響を与えてきた彼の言葉は、オルディバルの協力者たちに深い後悔の念を植えつけた。
「今からでも遅くはない。その神書とやら、燃やしてしまうべきだ」
「ツィーヴの言う通りです。如何にスリトーラが罪深い魔神であろうとも、そのような危険な代物に頼るべきではありません」
反対派が「そうだ、そうだ!」と追従した。一柱声が上がれば、三柱、五柱と声は大きなっていった。
こうなるのは解りきっていた。
オルディバルは慎重に説得の言を探った。
「ンッ、ガガ! ンガガガガガガガガガガッ!」
その時、反駁の谺する議場を、不快きわまる哄笑が塗りつぶした。
ガラス同士を擦り合わせたような笑声に、神々はたまらず耳を塞いだ。次いで、無礼な神に苛立った視線を向けた。
「なにが可笑しいのだ、ログボザ! 今は重要な話をしているのだぞッ!」
ブラーゴが黄金の髪を逆立て怒鳴った。
野次馬たちは、そこに追従しようとしたが。
「……っ」
先程までの威勢のよさは、一瞬にして削ぎ落とされていた。
気圧されたのだ。
突如、向けられたログボザの眼差しに。
口許にはり付いた笑みとは対照的な、千切れ雲から覗いた星のごとき侮蔑に。
「失礼。あまりに滑稽だったモンで、堪えきれなくなっちまったァ」
不遜な態度に、ブラーゴは怯まない。純粋な怒りをぶつけた。
「滑稽だと? また下らぬ悪戯でも思いついたか。場を弁えろ、ログボザ。ここは貴様の悪知恵を披露する場ではないぞ」
「まァ、カッカするなよォ、ブラーゴ。トーラスは大人しくしてるゼ。少しはあいつを見習いなァ」
ふいに名を出されたトーラスは、憤然と眉根を寄せたが、何も言わなかった。ログボザに黙らされた手前、これ以上の恥はかけない。神は誇りと自尊心を重んじる。
「ふん」
トーラスを尻目に、ブラーゴは尊大に腕を組んだ。
「まさか貴様、このブラーゴにまで抗弁を垂れようというのではあるまいな?」
「ンググ。お前にというより、喧しい連中全員にだ」
ログボザとブラーゴの視線が、烈しく火花を散らした。
「オルディバルのやり方は、確かに褒められたモンじゃない。責められるのは無理からぬことさァ。だがなァ、この事態は、そもそも誰が招いたと思うネ?」
思いがけぬ問いに、ブラーゴたちは呆気にとられた。答えなど考えるまでもない。
「どこまで我々を愚弄するつもりだ……。この事態を招いた者など、オルディバルをおいて他にないだろうが」
ログボザが呆れたように肩をすくめた。
「オレは、わざわざ考える機会を与えてやったんだゼ? なのにお前らは、まだ頭の中身を落っことしたままかネ。あるいは、端から空っぽか?」
「いちいち腹立たしい奴だ。我々の反感を買って、結局、貴様は何がしたいのだ?」
「ンググ。お前らは、イイ子ちゃんぶったクズだって言いたいのさァ」
「なッ……」
歯に衣着せぬ物言いに、さしものブラーゴも唖然とした。怒りも苛立ちも忘れ、星廻る瞳を見返すしかなかった。
ログボザの視線が、ふいにツィーヴへと向けられた。
「お前、恐ろしくないのかって言ったなァ?」
「なに?」
「神書みたいな危ないモン創って、恐ろしくないのかって言ったよなァ?」
「あ、ああ」
神々はログボザの異様な雰囲気に呑まれ始める。ヘラヘラと笑う神には、却って有無を言わせぬ気迫が充ち満ちていた。
「改めて言うが、これは人の問題だ。困窮する人間たちへの神々からの慈悲だ。奴らがどんな思いで夜を迎えるのか、お前ら一度でも考えた事があるかネ?」
反対派は互いの顔を見合わせ、相手の瞳にうつる自身の姿を覗きこんだ。
「……」
その茫然とした表情こそが答えだった。
彼らは恥じ入るように俯いた。
「神々は、人間を導いてきた。より正しく清廉に。人間は、その通りに正しく生き続けてきた。なのに道を示し続けてきた当の神々が、正しい在り方から外れようとしてないかネ? 模範的に振る舞うべき神々が、傲岸と奢侈に耽ってはいないか? オレたちは危険を恐れるがあまり、人々の脅威から目を逸らし、命を見捨ててるンだ。人間だって常に恐怖とともにあるっていうのに。神書を恐れるオレたちより、よほど差し迫った恐怖をよォ」
ツィーヴは、なおもログボザの視線と真っ向から対峙した。
真っ当な反論を探しながら。
しかし笑みの隙間から放たれる言葉は、崇高な神の胸を自責の刃でえぐり、正常な思考を削ぎ落とした。
ログボザは、問いかけるように目を細める。
悠然と神々を見渡し、なにが可笑しいのか「ンググ」と笑った。
直後、ようやく神々から視線を逸らした。
神書に目をやり、コンコンと卓上を叩いたのだ。
「まァ、神書の他にスリトーラを裁く方法があれば、話は別だがなァ。今のところ代替案はないンだろう? なら神書を使って、人間たちを楽にさせてやるべきじゃないかネ? オレたちは神だ。神書が危険なモンなら、人間の模範となるように正しく使えばいい」
そう締めくくると、議場は水を打ったように静まり返った。
「それでも」、「どの口が」と主張したい者は多々あったが、実際に口にする者はいなかった。誰もが蔑み見下していたログボザに、彼らは自らの卑しさを突きつけられたのだ。誇り高き神々にとって、これ以上の恥の上塗りは、忌々しい神の言を受け入れるより、なお屈辱的なことであった。
「勝手をしたのは、誠に恥ずべき行いだ。すまなかった。だが、どうか解ってはくれまいか。人々は苦しみ、その果てに息絶えた者も数知れぬ。救えるのは、我ら神をおいて他におらぬのだ。頼む」
そこにオルディバルが頭を下げた。
神々は愕然とした。
あり得ない。神がここまで恥をさらすなど。
己の自尊心を省み、神々は目を瞠った。
そしてこの誠実さこそが、反意をそぎ落とす決定打となった。
オルディバルを非難し神書を葬るのは、そう難しい事ではない。
しかし神書を疑うのは、彼の神の清廉さを疑うのと同義だ。保身のために神の誇りを疵付ける事ほど惨めなものはない。
ログボザの言ったとおりだ。
如何に神書が危険であろうとも、正しく使いさえすれば何も問題は生じない。
やがて口を開いたのは、真っ先にオルディバルを非難したブラーゴだった。
「……汝の独断は、誹りを受けて然るべきだ。だが、人々の嘆願を無下にするのは忍びない。この件に関しては、後ほど改めて議論の場を設けるとして。今はスリトーラの審判を進めよう。皆もそれでよいか?」
神々は躊躇いながらも首肯した。
「感謝する」
オルディバルは改めて頭を下げた。
「神書を用意したとあれば、此度の議題は他にあるのであろう、オルディバル?」
オルディバルは面をあげるなり神妙に頷いた。
「如何にも。神書とて道具。扱う者がなければならぬ。スリトーラの許へおもむき神書を使用する、その使いを決めたい」
ブラーゴはひとたび得心したように頷き、しかしすぐに怪訝に眉を寄せた。
「わざわざ神書を創りまでしたというのに、その後の対処は他に任せると?」
「我が赴くのは容易い。しかし此度は、スリトーラと話し合うわけではないのだ。彼奴の死の風を受ければ、我は無事でも、神書は燃え尽きてしまうだろう」
「ふむ。神封じの書といえども万能ではないか」
「神を封じたあとならば、その魔力を帯び損じる事もなかろうが。それまでは、しょせん書物だ。神の力には耐えられぬ」
「ふむ……」
神々は腕を組みうなり始める。
スリトーラの炎は強烈だ。それを防ぐとなれば、必ずや神の力が不可欠となる。
「神書を守るのも重要ですが、スリトーラの許へ辿り着くのも難儀ではありませんか? ムステオヘダへ行くには、干上がった川を越えねばなりません。普通の馬では、とても渡れませんよ」
母性と肥沃の神ヲルザは、地形に詳しい。以前スリトーラの許へ赴く際にもそれを指摘し、天翔ける馬車の持ち主として聖光と祝福の神ソルテアが使者に選ばれた。
「それも考慮するとなると、誰が適任でしょう? そもそも両方の条件を満たす神などあったでしょうか……」
少なくともこの場にはいないようだ。名乗り出る者は現れなかった。
ならば欠席している神の中に、該当者はいただろうか。
神々が首を捻ると、一柱の神が口を開いた。
「……それぞれの条件を満たし得る者が、一柱だけ」
唸るように言ったのは、生成と耳目の神ホウルダス。平時はモントゥル山脈の砦からヨトゥミリスの動向を窺い、ほとんど議場に姿を見せない神だった。
俄然、神々の注意は、彼に集まった。
「妙な言い方をするな?」
オルディバルが指摘すれば、ホウルダスは「うむ」と頷いた。
「その者自身では力及ばぬ。川越えの神器はあれど、神書を守る力まではない」
それでは条件に合致しないと、神々は呆れた目を向けた。
「どういう事だ? それは誰なのだ?」
が、ブラーゴは、それが戯言でないと解っていたようだ。
ホウルダスは「うむ」と喉を鳴らした。
答えてやろうという意思表示ではなさそうだった。
葛藤や逡巡の唸りのように聞こえた。
だが言いだしてしまった以上は、退くにひけぬものだ。
ややあって観念したホウルダスは、鈍い仕種で一柱の神を指さした。
「ファ、アァーオ……。ア?」
件の神が大欠伸をし「オレ?」と自身を指差した。
議場にどよめきが走った。
真っ先に「しかし!」と声を上げたのは、性と豊穣の女神フィーリアだった。首にかけた秀麗な首飾りをしきりに弄び、ホウルダスを睨みつけた。
「ログボザは〝
詰め寄られたホウルダスは、次いで足許を指差した。
神々は当惑した。
ホウルダスめ、日夜醜悪な巨人を前にして狂ったのではないか?
何柱かの神が口々にそう囁いた。
しかし世界樹で知恵を身につけたオルディバルは、彼の言わんとすることをすぐさま察した。
指し示されたのは、雪峰宮の地下でなければ、地上でもない。
大地の裏側。
現世と異なる、もう一つの世界だと。
「なるほど。ヘロウか」
「うむ……」
その名がでた途端、議場は慄然とした。
神書の誕生が告げられた時以上の、純然たる恐怖が駆けめぐった。
神々は瞑目し、頭を抱えた。
邪龍に殺された神々が、今なおヘロウの凍てついた胸の中で眠っているのを想像しながら。
「貴様はヘロウの父。父の望みとあらば、〝
ホウルダスはログボザに訊ねた。
混沌の神は、いかにも興味がなさそうだった。左の小指で耳をほじり「まァ、できるかもな」と、耳垢を吹いて飛ばした。
そして再度欠伸をすると、こう続けた。
「でも、面倒だァ。オレ、あのお祭りジジイ嫌いなンだよ」
「そう言うな、ログボザ」
オルディバルが宥めようとすると、
「いや!」
何柱かの神が腰を浮かせた。ログボザに穏やかな笑みを向けながら。
「行きたくないと言う者を無理やり行かせる必要はなかろう。ログボザが氷獄の女神から神器を借りうける事ができるのだとして、何も彼自身が赴かねばならぬ理由はない。神器を借りうければ済む話だ」
ほとんどの神がこの意見に賛同を示した。
ろくに議場へ顔を出さず、日夜悪戯を繰り返してきたログボザに、信用などあるはずがない。まして神書は、神を封じる危険な代物である。悪戯などと言って力を使われてはたまらない。
「そういうわけだ、ログボザ。氷獄の女神から神器を借りうける。あとは、靴や乗騎のある者がスリトーラの許へ赴こうさ」
「うゥむ……」
微妙な緊張感が張りつめた。
天邪鬼なログボザのことだ。行くなと言われれば行くと駄々をこねかねない。穏やかに説得したつもりだが、意外にも聡明な神は、本意を見抜いてしまうのではないか。
神々は一様に気を揉んだ。
果たしてログボザの答えは。
「ヘロウは頑固だからなァ。又借りなんてさせたのに気付いたら、地上までやって来て、一面氷漬けにしちまうかもしれねェ……」
緊張が動揺へと変わった。
ヘロウの力で氷漬けにされれば、もはや何を感じる事もできなくなる。それは死と同義である。魂を愛でるばかりの無害な神は、しかし唯一神を弑することのできる神であった。
怒りを買えば、殺されると。
ログボザは暗にそう脅しているようなものだった。
「だが」
と、すでに件の女神に抱かれたような面持ちの神々を眺め、ログボザは続ける。
「あいつは
「では……!」
「あァ、〝凍塵の羽衣〟を借りてくればいいンだろ? それくらい協力してやるさァ」
意外な結果に、神々は目を丸くした。
緊張の糸が切れ、たちまち頬を綻ばせた。
「……まとまったな」
ログボザの気が変わらぬうちに、ブラーゴが結んだ。
そして、スリトーラの許へ向かうと申し出た。
神書の危険性を真っ先に指摘した彼だ。また正しき神でもある。反論の声は上がらなかった。
乗騎は恋と平和の神フィライから。天翔ける黄金の猪ガリムバルサディが貸し与えられた。
神々はこれに安堵した。
いざログボザが〝凍塵の羽衣〟を借りうけ、ブラーゴの旅立ちを見送るとき、神々の胸は早くも達成感に満ちあふれていた。
これで西の大地は救われる。人々を脅かす神はいなくなる。我々は正しい事を成し、これからも世は正しくあり続けるだろうと。
ブラーゴが旅立ったその夜には、幾月ぶりに夜も眠った。風は踊るように爽やかで、唇を薄く濡らすほどの湿り気を含んでいた。
人々は快哉をあげ、神々に感謝の祈りを捧げた。
ブラーゴの凱旋には、どのような褒美や祝福が相応しいだろう。人々も招き、大きな酒宴を催すのも悪くない。
神々は想像をめぐらせた。
ところが。
「……まだか?」
柔く温かな朝陽が昇ろうとも、ブラーゴは戻らなかった。
次の朝が来ても。次のつぎの朝が来ても。
不穏に感じた神々は、急遽ムステオヘダへ向かった。
しかしブラーゴも、神書も見出すことはできなかった。
見つかったのは、黄金の毛を血の紅に彩られ朽ち果てたガリムバルサディだけだった。
神々は戦慄した。
重い沈黙の中で、ふいに誰かが声をあげた。
「近頃、ログボザの姿を見た者はいるか……?」
と。
答える声は一つもなかった。
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