九章 元枢会

 そこは螺旋の段が無限のごとく続き、ほぼすべてを黒き鋼によって構成されている。窓はなく、ゆえに陽の光は届かず、壁面で脈打つように明滅する、紅、蒼、碧の輝きのみが光源であった。


「ユル、サンッ……!」


 それらの光を裂くように疾走する者もまた黒く彩られていた。

 背から生ずるは一対の翼。臀部に蠢き地を這うは三フィートばかりの尾。手足から伸びた爪は鏃のごとく研ぎ澄まされ、前方へつき出た口器を破るように伸びた牙もまた鋭い。全身を覆った鱗までもが無数の刃物じみて、地を蹴るたびに擦過し火花を散らした。


 唯一、異形そのものに色を成すのは、左右で異なる輝きを放つ瞳だった。

 片や空を灼く黄昏の黄金。

 片や焔をも翳らさんばかりの蒼。

 激憤を練り固め、憎悪の焔で鍛え上げられた暗澹たる双玉に、もはや理性の光は宿っていない。


 異形はかつて一人の女だった。

 素養を認められ、魔法使いとなったが、平和な未来を望むばかりの凡庸な女だった。人であった頃の名をデボラ・ファントゥスという。


「コロシテ、ヤルァ!」


 デボラは己を見失っていた。

 人としての命には価値などなかった。

 残された肉体は、散っていった同胞たちの無念を晴らす刃だ。それ以外の何ものでもない。平凡な女は、あの日、仲間たちと共に散ったのだ。


 望みに縋ったのが、そもそもの間違いだった……。


 どす黒い炎のなか、呟いたのは魂の残滓だった。

 異形の身を衝き動かす薪にもならぬ、ひたすらに空虚なそれは、目の前で失われていったものを反芻し続けていた。


 私はみんなと出会った。互いに悪態をつくこともあったけど、共に理不尽を嘆き、協力し、明日を見てきた。憂えようとも、絶望はしなかった。みんながいたから。みんながいれば。私は明日も生きられるような心地がした。なのに。


 仲間たちは死んだ。


「アアアァアァァアァァァアアァアアアアッ!」


 異形は鋼の段を蹴る。ひと際眩く火花が散った。空を翔けるように、その漆黒は速度を増した。


 みんなとともに過ごした時間に、私は勇気をもてた。きっと大丈夫だって。過酷な旅だったけど、温もりもあった。みんなと出会わなかったら、それもなかった。でも、みんなと出会ったから、私はすべてを失った。


 この手に残ったものは何もない。あの頃の温もりさえも、激情の中で灰になっていく。

 人は生まれたからには、いつか死ぬ。

 人は失うために生まれてくる。

 すべてが無駄事なのだ。

 なのに、どうして命は生まれるのか。

 死ぬことなど、ずっと前から解っていたはずなのに、どうして明日などという不確かなものを信じ生きてこられたのか。

 こんな胡乱な世界を信じてしまったのか。


「ドウ、シテ……」


 空から異形の声が降ってきた。

 デボラは、自分がいつの間にか荒野の真ん中で立ち尽くしているのに気付いた。あんなにも烈しく心を燃やした炎は、灰や煙となって、疲れ果てたように風に吹かれていた。


 乾いた唇を舐めると砂の味がした。

 それが思い出させるのは、砂色の装束。

 ダウナス。

 共に旅をすることになった元〝旅団〟の男。

 口が悪く横暴で、仲間を人と思うなとまで言ったくせに、自分を庇って死んだ男。

 もしも彼が今も隣に立っていたなら、どんな悪態をつくだろう。


『ボサっとしてんな、バカが。獣の餌になりてぇのか?』


 とでも言うだろうか。

 言ってくれたなら、再び歩きだす事ができるだろうか。

 わからない。

 彼はもういないのだから。

 思い出のなかで居座るものに温もりはない。思い出の鏡に手を押しあてても、虚しさや悲しみの冷たさが沁みるだけだ。


「カエ、シテ、よ……」


 声が胸の底から響く。風もまた胸のなかに吹くばかり。荒野は見えない。

 肌に水の膜を張ったような感覚があって、踏みだす足が鉛のように重く感じられた。


 壁に手をつき、鈍重な身を押しだせば、肌に張った水が蒸発したように感覚を失う。三色の明滅のなかに漆黒の灰が過ぎる。鱗がこぼれ、段を転げ落ちていった。

 歪な口器も、次第に人のそれへと戻っていく。尾は萎むように縮み、やがて翼と一体になった。

 もう一度壁に手を当てると、爪は錆のようにグズグズと崩壊した。


 自分もこのまま消えていくような気がした。

〝陰〟の山であの黒き竜を見たときから、幻を見させられているのではないだろうか。冥府の女神ヘロウが、生きることの何たるかを見せつけ嗤っているのでは。


 デボラは段を見上げる。

 延々と弧をえがき、終わりなどないように感じられる、吹き抜けの塔。

 挑むことなど諦めてしまいたくなる、遥かな高み。

 いっそ挫けて諦めてしまえれば楽だろう。

 怒りも憎しみも虚しさも、すべてを捨てて闇に溺れられるなら。

 けれど、たとえ無情なる神が、このちっぽけな生を嗤うのだとしても。

 共に旅した彼らの人生まで嗤わせるわけにはいかない。

 命など無駄だと誰が嘲ろうと。


 せめて私だけは――。


 そのために、そのためだけに。


 奴らを、この手で……!


 抜け落ちていく力をひろい集め、熱ばかりとなった炭に火を灯し、デボラは踏みだし続ける。

 白皙に戻った頬を汗が伝い、口の端に血の泡が湧き。

 こぼれ落ちる鱗の黒が、次第に赫の点へ変わろうとも。


「元、枢会ィ……!」


 復讐の血潮には際限がなかった。

 幾度も膝をつき、あるいは膝を擦りながら、デボラは着実に進んでいった。


 ――そして。


 彼女の漆黒の髪を、一際つよい三色の光が濡らすとき、ようやくそれは現れた。

 壁面を流れる輝きと同じく分かたれた三柱の女神。

 それらを遺物とは異なる玉によって浮かび上がらせた、威容誇りし洪大なる門が。


『待っていたぞ、デボラ』


 元枢会の声をうけ、デボラの力はふたたび漲った。

 負の感情が苛烈なる異形の魂を呼び起こし、胸のうちでのたうち回る。ピシピシと肌が吼えれば、片腕から鋼の鱗が湧きだした。


 女神の門は、その声なき叫喚に応えた。

 中央に切れこみが生じ、ひとりでに軋み、内側へと開いたのだ。

 たちまち三色の輝きが壁を、床を這い、門の内部へと進入した。螺旋をえがき、長いながい残像を引けば、それぞれ球の形をとった。

 光の球体は、やがて三点で静止する。

 それらが門の内部を照らしだす光源となった。

 なおも薄暗く、果ては見えない。途轍もなく広い空間であることだけが判った。


 広間へと踏みだしたデボラは、注意深く周囲を窺った。

 罠かもしれない。

 むしろ罠である可能性のほうが高いだろう。

 口では何と言おうとも、己らの命を、むざむざ差しだすはずがない。

 ところが一向に、攻撃の飛んでくる気配は感じられない。殺気どころか、人の息遣い一つ聞こえない。

 広間には、宙に浮いた三色の光球の他に、その真下でそれぞれ鎮座する棺型の鋼しか存在しなかった。


「……元枢会、どこにいるの?」


 デボラは黒い蒸気を吐きだしながら、警戒を続けた。

 今や猜疑は確信に変わっていた。

 これは罠だ。どこからか攻撃が来ると。

 しかし、それはまったくの杞憂だった。

 何故なら復讐の相手は、


『ここにいるとも』


 すでに眼前にあるのだから。


「なんですって……?」


 アッカの声は、紅の光球の下から響いた。

 無機質な棺の一つから。


『我らは、すでに人に非ず。朽ちゆく肉を捨てた者』


 そう続けたマーファの声は、蒼の光球に照らされた棺から発せられた。


『そして遺物となったのだ』


 最後に、碧の棺からイルガの声音で告げられた。


「なにを……」


 デボラの思考が白く爆ぜた。

 よろめく足で踏みだし、無機質な棺を睥睨した。


「なにを、言ってるのよ」


 信じられなかった。信じたくなかった。

 この枢都を、枢区を統治してきたものが。

 あの死を待つばかりの旅へ、自分たちを送りだしたものの正体が。


「そんな、嘘よ……」

『……』


 人ですらない、金属の塊だったなどと。

 信じられるはずがなかった。


「嘘でしょ……?」


 デボラは紅い光球に照らされた棺に触れた。

 その冷たさに。血も涙もない鋼に。

 デボラの膝は砕けた。


『真実だとも。我らこそが、君の復讐の相手。元枢会と呼ばれるものだ』


 無機質なその声は、次いでデボラの心の芯を砕いた。

 恨みも憎しみも湧かなかった。

 悔しかった。

 ただただ悔しかった。

 こんなガラクタどもに支配され、翻弄されてきた事が。

 悔しくて堪らなかった。


「こんな、こんなの……。くそ、くそぉッ……!」


 デボラは己の膝に拳を打ちつけた。

 他に気持ちのやり場がなかった。

 何度も。何度も何度も。骨肉が軋んで悲鳴をあげても、痛みに涙が滲んでも。

 そうして気持ちが鎮まるのを待つしかなかった。


 まだだ、まだ、終わって、ない……。


 元枢会への復讐。

 それだけが生きる意味だ。

 この身に宿った力があれば、それを遂げることなど容易い。

 しかし復讐の目的とは、憎むべき敵を滅ぼすことにあるのではない。

 散っていった者の無念を晴らすためにあるのだ。

 奴らの真意を明らかにしなければ、いつかヘロウの懐で再会を果たすとき、皆に語るべき言葉がない。

 だからこそ、奴らに拳を振るうのは、そのあとでなければならない。

 血と涙を噛みしめ、拳に瞋恚を握りこみ、デボラは立ちあがった。


「……あんたたちには、少しでも後悔の念があるの?」


 沈黙していた棺の中から、それぞれキュィィと奇怪な音が響きわたった。


『今更、言い訳をするつもりはない。だが、後悔はあると言っておこう。君が我々を滅ぼそうというのなら、それを受け入れよう』

「当然ね……。でも、まだ壊すつもりはないわ。後悔してるっていうなら、あんたたちの言葉で説明してちょうだい。どうして私たちを、あんな無茶な旅に送りだしたのか」


 口にするだけで胸が痛んだ。砕けたガラスをすり合わせ火を熾そうとでもするようだった。

 三つの棺は、それぞれに答えた。


『ああ、すべて話そうとも』

『我らの目的を。その罪を』

『今なお続く永き戦いの歴史を』


 デボラは眉をひそめ、唸り声をあげた。


「戦いの歴史ですって?」

『そうだ。我々は戦い続けてきた。ヨトゥミリスではない、意思もつ邪悪と』


 それだけで敵が何者なのかは容易に知れた。

 眼前のガラクタどもにも劣らぬ憎らしい仇。

 実際に、仲間たちを屠ってみせた忌むべき狂人たち。


『――滅ぼせ。――滅ぼせ』


 古竜の怨嗟が告げる、その実在。


「……ログボザ」

『如何にも』


 無機質な声音が、その時だけは截然と憎悪に震えた。

 そして三つの棺は言葉を重ねた。憎悪とも愉悦ともとれる、昂った声色で。


『『『かつて邪神の気まぐれにより、一つの時代が幕を下ろした。現世人が〝古の時代〟と称する、遥かなる過去が。我々は、彼の時代に生きた。そして迫りくる終焉を前にして誓ったのだ。必ずや忌むべき神に裁きを下してみせようと』』』

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