十章 禁忌の書
「――然して、瀑布が築かれ、神々の時代は守られた」
オルディバルがそう結ぶと、ヴァニはとろとろと覚醒した。不可思議なことに、このような状態にあっても意識は眠るようだった。
「すごい!」
「かっこいい!」
子どもたちの黄色い声で、ヴァニは本格的に目を覚ます。
すると、オルディバルが気付いた。子どもたちの頭を一人ずつ撫でてやりながら『よく眠っていたようだな』と声をかけてきた。
『ああ、そうみたいだ。また遊びに来たんだな、この子たち』
『毎日欠かさず来る。今日は昔話をしてやっていた』
『へぇ、昔話か……』
信じ難いことだが、ヴァニとってはこの世界こそが「昔話」だ。
失われた種族。
神。
そして遺物。
それらが機能するこの世界は、おそらく歴史の時代なのだ。〝古の時代〟と呼ばれるそれを、ヴァニは今まさに体験している。他でもない神の心のうちで。
『……あのさ』
『なんだ?』
『オルディバルは、神様なんだよな?』
『如何にも。我は知恵と魔法の神』
『それなら俺、こんな生意気な態度とってていいのかな……?』
その時、大人しく撫でられるばかりだった子どもたちが、ふいに蜘蛛の子を散らしたように逃げだした。
するとオルディバルも玉座から立ちあがり、子どもたちを追いかけ始めた。
『無邪気なものだろう?』
オルディバルは笑いながら奇妙なことを言った。
ヴァニはその意味を判じかねたが、首肯の波長を返した。
子どもたちは楽しそうだった。実に活き活きとしていた。
手足こそ短いが、小回りが利くぶん速く、手加減をしているとはいえ、なかなか神の腕に抱かれることがなかった。
『この子たちが答えだ。畏まった口調を用いれば、それが即ち敬意や親愛の表明となるわけではない。慇懃無礼という言葉もあろう?』
『ああ、だけど……』
『構うな。どれだけ言葉を繕おうと、慇懃に鎧おうと、そこに真が宿るわけではない。誠意とは、ありのままでなければ生まれぬものだ』
オルディバルの両手が、男の子の腰を捕らえた。
「わっ!」
子どもの矮躯が軽々と持ちあげられる。
「捕まえたぞ、イルガ」
「捕まっちゃったーっ!」
イルガはケラケラ笑い、短い四肢をじたばたとさせた。オルディバルはにんまり笑ってイルガを下ろしてやると、腋や腹をこそばしもみくちゃにした。
「あははっ! こそばいよぉ!」
その様を見て、他の子どもたちが足をとめた。
「あーっ! イルガずるい! わたしもぉ!」
「ホントだ! おれも!」
「ぼくもーっ!」
結局、全員がオルディバルの許へ集まってきた。
子どもたちを一人ひとり抱きあげる度、その心が悦びとともに疼くのが、ヴァニには判った。
『オルディバル……』
『いつかこの子たちに、原っぱを見せてやりたい。灰ひとつない緑の園だ』
その言に、ヴァニも胸を痛ませた。
『きっと叶うさ。俺の時代には、ちゃんと緑が芽吹いてる。俺なんか森の中で育ったんだ』
『真か?』
『ああ、本当さ』
人々の暮らしが貧しいことまでは口にしなかった。
それを感じ取られてしまったかどうか。
オルディバルからの答えはなかった。
「ああ! またここにいたのか、お前たち!」
「うわ、見つかっちゃった!」
間もなくして、父親のリックが子どもたちを連れ帰った。
あとには神だけが残った。
否、神とそのうちに宿る少年だけが残された。
『……知りたいと言ったな、ヴァニ』
『え、えっと……』
突然の問いに、ヴァニは答えを詰まらせた。
まだ眠気が残っているのか。昨日のことを思い出すまでに、やや時間を要した。
『あ!』
やがてヴァニは思い出した。
この世界について教えて欲しいと言ったことを。
『今度はなにを教えてくれるんだ?』
『子どもたちには教えられぬことだ。長くなるが、構わぬか?』
含みのある言い方に、粘ついた怖気がこみあげた。だがヴァニにできるのは、知ること以外にない。覚悟を決めるしかないのだ。
『……教えて欲しい』
『うむ。では――』
オルディバルは神妙に頷くと、玉座の裏側へ回りこんだ。正面からは死角となって窺えなかったその壁面には、淡く色づいた三色の宝石が埋めこまれていた。
神の手がそれらを順に撫でると、宝石に命が芽吹いた。
それぞれ払暁の紅、暮れなずむ蒼、凪いだ海原の碧に煌めきだしたのだ。
そして音もなく開眼した。壁が宝石ごと上下に割れ、アーモンド型の空洞をあらわにしたのである。
『な、なんだ……?』
空洞の中央には台座が置かれていた。装飾ひとつない木製の台座だった。その味気ない様は却って荘厳に感じられた。
だが何より目を引くのは、台座に置かれた一冊の書物だった。何故か開かれたままになっていた。
『本、みたいだけど、何も書かれてない?』
頁は白紙だった。
『これは読み物ではない。書物の形をとった獄だ。名を神書という』
『書物の、獄? 神書……?』
『罪の印とでも言おうか。生みだされるべきでなかった、禁忌の書物……』
オルディバルは沈痛に呟き、神書に触れた。頁をめくるわけでも、抱えあげるわけでもない。表面を撫ぜただけだった。
『神書の誕生こそが、ミズィガオロスに戦火をもたらす火種となった』
『え、この本が……?』
『うむ』
ヴァニの目には、それが特別な書物のようには見えなかった。
まして、これをきっかけに戦いが起きるとは――。
『……』
戦いの歴史を回想し始めたのか、オルディバルの魂に揺らぎが生じるのを感じた。烈しい悔恨の念が、ヴァニの魂をも炙るようだった。
オルディバルは固く目をつむり、おもむろに開くと言った。
『……そして神書を生みだしたのは他でもない、我だ』
『えっ』
思いがけぬ告白に、ヴァニは衝撃を受けた。鉄槌で打たれたようなそれでも、稲妻に貫かれたようなそれでもなかった。懐で温めてきた卵を奪い取られたような衝撃だった。
オルディバルは、同居人から流れこんでくる感情を真摯に受け止めているようだった。彼はまたぞろ目を伏せた。ヴァニの視界も暗く塞がれた。
『あれはまだ、ミズィガオロスに数多の神々があった頃。西の地に住まう人々が、死の風に慄いていた頃だった――』
そのまま神は語りはじめた。
ヴァニの暗闇は、声の筆に彩られていくようだった。
まるで、自分自身が体験してきた事の如く鮮明に。
悲嘆と瞋恚の歴史が紐解かれ、紡がれていくのを感じていた。
『我が犯した過ちは二つあった。決して犯してはならぬ、二つの過ちだった――』
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