八章 交わらざる者たち
『これは……ミズィガオロスなのか?』
変わり果てた大地の惨状に、ヴァニはそう問うことしかできなかった。
あまりにも違っていた。
自分の生きてきた世界と。
少なくとも、ここは防区ではない。
これだけ大規模な焦土が広がっていながら、風のうわさ一つ耳に入ってこないのは不自然だ。目視することだってできただろう。
じゃあ、これがモントゥル山脈の向こう側――。
『もしかして枢区……?』
ヴァニは恐るおそる訊ねた。
これまでは、ろくに考えたこともなかった。
枢区は平和な土地なのだとばかり思っていた。
ヨトゥミリスとの戦いもない、理想郷だと。
だが、平和をもとめ枢区を目指した者たちが見たのは、こんな景色だったのだろうか?
だとしたら。
理想郷。
なんという皮肉だろうか。
しかしその可能性は、オルディバルの返答によって否定された。
『……スウク。またも聞きなれぬ言葉だ』
ヴァニは訝しんだ。
話が通じない。
これが初めてではなかった。
オルディバルは、遺物堀のことも知らなかったのだ。
とすれば、ここは防区でも枢区でもない、そもそもミズィガオロス島ではない別の場所なのだろうか?
ところがその可能性も、すぐに否定された。
『だが、貴様はミズィガオロスと言った。ここはミズィガオロス島に違いない。言語にも大きな違いはないようだ』
『やっぱり、ここはミズィガオロス……』
確かに言語にも違いはない。
『にも拘らず、我々の間には齟齬がある。それを謎のまま捨ておくことはできん。貴様を疑うわけではないぞ。こうして在るだけで、貴様が邪の者でないのはよく解る。ただ西の民を守るため、想定外の事態は避けたいのだ。整理させてはくれんか』
『もちろん、賛成だ。俺も知りたい。どうしてこんな事になってるのか。ここがどこなのか。どうやったら元に戻れるのか』
『うむ。では、一旦中へ戻ろうか。外は危険だ』
オルディバルの意識が、ふたたび外界に向けられた。
ヴァニも改めて、その終末的な様相を胸に焼きつけた。
緑の点ひとつ見当たらぬ焦土。
ふたたび爆ぜるときを待つかのように燻ぶる炎。
人々の無念を象徴するかのごとく立ちのぼる黒煙。
外がこの状態では、人々は村や街を築くこともできないのだろうか。
あるいは、この建造物こそが、人々の拠点か。
どれだけの高さがあるのか知れないが、超兵器オルディバルから見た景色とさして変わりがないように感じられる。大勢の人々が戦火を避けて籠城しているのかもしれない。
それを強いられる苦痛とは、一体どれほどのものだろう。食事はどうしているのか。各々の領地は。広間にとびこんできた、あの子どもたちは、まさか外を知らずに生活してきたのでは?
ヴァニは暗鬱とした想像をめぐらせた。
それがどうやらオルディバルに伝わってしまったようだ、嘆息が返ってきた。
『……ここの護りは堅い。すぐに陥落するような心配はない。しかし現状、安易に外界へ踏みだすことはまかりならん』
オルディバルの声音は、鋼のように重かった。
憎しみ、怒り、憂い。その他にも憐憫や後悔といった様々な感情が綯い交ぜとなって渦を巻いていた。
ヴァニは、そこから、あえて意識を逸らした。
「戻ろうか」
オルディバルが黒ずくめの衛兵に呼びかけると、一行は警戒を続けながら建物の中へもどった。蒼穹が閉めだされると、そこはもはや壁以外の何物にも見えなかった。
門衛に謝辞をおくり、オルディバルは歩きだした。
通路へ出た途端、何人もの人々とすれ違った。
中に、異様に小ぢんまりとした体躯の者たちがいた。背丈のわりに四肢が逞しく、顔も扁平で大きい印象を受けた。
子ども、ではなさそうだ。
口許にはたっぷりと髭が蓄えられ、毛に埋もれた双眸は怜悧に光っていた。
珍妙に感じていると、オルディバルのほうからこう訊ねてきた。
『まさかドワーフ族も知らんのか?』
『ドワーフ……?』
聞きなれない言葉に、ヴァニは一瞬言葉に詰まった。
が、すぐにその意味を察した。
『えっ、ドワーフって、小人族! 本物?』
『なにを。本物に決まっておるだろうが』
オルディバルは呆れた様子で答えた。いるのが当然といった口調だった。
頭があるものなら、頭を抱えたいとヴァニは思った。
小人族は実在すら定かでない、伝説上の存在のはずだ。
それが当然のように、すれ違っていく。
謎は、ますます深まっていく。
オルディバルが壁に触れながら言った。
『この塔を設計したのはドワーフ族だ。兵たちの装備を作ったのもな。彼らは物作りの才に秀でている』
物作りに秀でる。
その事実が、ヴァニをわずかに安堵させた。
『じゃあ、ここにはエルフ族もいる?』
小人族がいるなら、エルフ族が実在していても不思議ではなかった。
『……うむ』
オルディバルは微妙な返事を寄越した。否定こそしなかったものの、肯定と取るには、釈然としない響きがあった。
暫しの沈黙があった。
足音と、喧騒とが、いやに大きく感じられた。
正確に言えば、と前置きしてから、オルディバルは続けた。
『……エルフ族はいた。もういない。この塔が、彼らの亡骸だ』
『え……?』
ヴァニの魂を衝撃が揺さぶった。
小人族の実在を認知するより、何倍もつよく痛々しい衝撃が。
「オルディバル様!」
名を呼ばれ、オルディバルの意識はふたたび外界へ向けられた。
ヴァニは衝撃を呑みこみ、オルディバルと眼差しを重ねた。
いつの間にか、周囲に人だかりができていた。
「おお、オルディバル様、なんと神々しい!」
「御身の威光こそ、我々の希望です」
「いよいよ、東に攻する準備が整ったのですか?」
人々は恭しくも親しげな様子で話しかけてきた。
オルディバルは曖昧な相槌を打ちながら、人の波をかき分けて歩いた。本人は慣れた様子だが、ヴァニにとっては初めての体験だ。
ヴァニを気圧された。
むしろ恐れた。
自分のものでない背中に、寒気を覚えた。
ギラギラと底光りした、虚ろな双眸。
口々に向けられる「お願いします」、「どうか」といった懇願の言葉。
オルディバルへの愛情や信頼以上に、強迫的な期待を孕んだ、それらを。
『……』
そしてヴァニは、〝逆鱗〟に半身を砕かれた感覚を反芻する。
あの時、砕けたのは機械の体躯だけではなかった。
同調した心までもが砕けてしまったのだ。
人々の期待を、ミズィガオロスの未来を守らなければならないという重圧によって。
もしかしたら、この人も……
おし潰されようとしているのかもしれない。
だとすれば、自分と同じ轍を踏んで欲しくはなかった。
ヴァニは、オルディバルの心にそっと意識の手を伸ばした。
だが、形ないものには熱もない。
オルディバルの意識は、依然、外に向けられていた。
◆◆◆◆◆
扉を開けると、あの荘厳な広間だ。
子どもたちの姿はもうない。好奇心旺盛で飽きっぽいのが、子どもという生き物だ。他の遊び場を探しに出かけたのだろう。
『このような状況下でも、子どもたちは無邪気なものだ』
『うん。そうみたいだ』
オルディバルは玉座に座し、広間を見渡した。
『ヴァニ、貴様はこの場所をどう思う?』
『え、綺麗な広間だと思うけど』
『うむ。我もそう思う。乏しい資源の中、人々はこの荘厳な広間を用意してくれた』
『うん……』
ヴァニはあらためてオルディバルの心を案じた。
やはり彼は重圧に圧し潰されようとしている。
『……』
だが、実際に圧し潰されてしまったヴァニには、かける言葉がなかった。
『さて、そろそろ本題に移ろうか』
『ああ、互いに持っている情報を整理しよう』
だから今、目の前にある問題と真摯に向き合うことだけが、オルディバルへの激励だと信じた。
『では、まず聞かせてくれ。貴様は如何にして、我の許へ迷いこんだ?』
それは己と向き合うことであり、未来へ臨むことでもあった。
怖い。
恐れる自分がいた。逃げだしたいと思う自分がいた。
だが、それは本当にヴァニ・アントスという人間だったろうか?
……オルディバル。
黒き鋼の巨神を呼び起こしたとき、ヴァニは逃げなかった。
一縷の望みに、駆けだしたのだ。
俺はもう一度、あの場所に帰らなくちゃいけない。
まだ確かめていないのだ。
希望が潰えたのかどうか。
できることはもうないのか。
ヴァニは、オルディバルの魂と対峙した。
『……少し長い話になるかもしれないけど、いいかな?』
『構わん。話してくれ』
『ありがとう。俺は遺物堀だった。要するに平民だった。魔法もろくに使えなくて、戦いとは無縁の場所にいた。でもある時、大きな力を手に入れた。それが、あんたと同じ名前をした太古の兵器だった』
『我と同じ名?』
『ああ、オルディバル。ものすごく大きい、絡繰りの巨人さ。たぶん四分の一マイルばかりある』
『なんと……!』
オルディバルは驚きこそすれ、疑いはしなかった。
『敵は同じくらい大きなヨトゥミリスだった。俺はオルディバル、その兵器の中に入って……頭とか手足みたいになって戦った』
『ふむ、そのようなヨトゥミリスと貴様が……』
どうやらヨトゥミリスについては知っているようだ。
ヴァニは、絶望の瞬間を思い起こしながら言葉を紡いだ。
『だけど二度目の戦いで……オルディバルを壊しちまった。俺自身も死ぬ寸前で、目を覚ますと相棒の残骸があって。どうすればいいか分らなかった。オルディバルはみんなの希望だった。俺がみんなの希望を奪っちまった。俺の所為で、って自分を責めた……。そんなとき、ゴーストみたいな連中が現れたんだ』
彼らの正体は今以てしても解らない。
だが、彼らに導かれここにいる。きっとそこに意味がある。
ヴァニは大樹に触れた直後、オルディバルの中で目覚めたことを告げた。
すると、それまで冷静に聴き入っていた彼が、ふいに顔つきを変えたのがわかった。
『大樹……まさか世界樹のことか?』
『ん、世界樹?』
『あるいはユングデュラシュム』
『ああ、確かそんな風に呼んでた……』
その時ヴァニは、オルディバルの心が奮い立つのを感じた。
それはヴァニが英雄となったあの日、駆けだした際の心情にも似ていた。
しかし感じ取れたのは、ほんの一瞬間に過ぎなかった。
『おそらく貴様が出会ったのは、ゴーストではない』
『知ってるのか?』
『我の推測が正しければ、その者たちはエルフ族だ』
『エルフ族……!』
思いがけぬ名に、ヴァニは仰天した。
あんなにも近くに、エルフ族がいた……?
そう感じると同時に、オルディバルの言葉が思い出された。
エルフ族はいた。だが、もういない。
この塔を亡骸とまで言った。
にもかかわらず、ヴァニの前に現れた者たちは――。
ますます訳が分からなくなる。
オルディバルは少年の疑問を汲みとったように、こう続けた。
『エルフとは、世界樹とともに生きる種族だ。人族やドワーフ族は自らの肉体のみをもつが、エルフは自身と世界樹とが肉体の役割をもつ』
ヴァニは白銀に色づいた大樹を想起しながら、なんとか情報を咀嚼しようとした。
『つまり、世界樹が傷つけば、エルフも傷つき、世界樹が朽ちれば、エルフもまた朽ちる。この塔が亡骸だと言ったのは、そのためだ』
ヴァニはない首を捻る。エルフの性質と、この塔に何の因果があるのか解らなかった。
それを口にすると、オルディバルは『なるほど』と頷き、こう訊ねてきた。
『貴様は、黒き鋼が如何にして生みだされたのかも知らぬのだな?』
『黒き鋼……。この塔の壁とか天井のことか?』
あるいはヴァニにとって遺物と呼ばれるものだ。
『如何にも。正式には、グルヴェイグ合金と呼ばれるものだ。あれは世界樹の樹液を原料に錬成されている』
『世界樹の、樹液……』
ヴァニはこの塔の身が竦むような高さを思い出した。
ありとあらゆる所が、黒き鋼に彩られていたことも。
世界樹が如何に巨大な樹木だとしても、あれだけの鋼を用意するのに、どれだけの樹液を必要としたか。詳細は不明だが、それが意味するところは想像に難くなかった。
オルディバルが顔をしかめた。
『……今からもう五年ばかり前になる。世界樹は滅び、エルフは死に絶えた。この塔は、朽ちた世界樹を用いて作られた、いわばエルフの墓標だ』
墓標。
その言葉がいやに鋭く胸をえぐった。
ヴァニにとっては失われた慣習であり、馴染みないものだ。
が、死を悼む気持ちまで失ったわけではない。
『……強いな』
思わず、そうもらしていた。
オルディバルたちはエルフの死とともに生きている。
きっと大勢の命があった、その破滅を知っている。
ヴァニは相棒の終わりを認めたとき、ミズィガオロスの人々の死を想った。実際に目の前で、ヨトゥミリスに蹂躙される様を見たわけではない。それでも、胸に万の釘を打たれるような恐怖を感じずにはおれなかった。
ここにはその想像ではない、現実がある。
子どもたちが駆け回る原っぱも失われた焦土が広がっている。
その上で、抗い続ける人たちがいる。
俺も、抗い続けろ。
ヴァニはそう己を鼓舞し、ふと浮上した疑問と対峙した。
『なんかおかしくないか?』
オルディバルは、大樹へと導いた影をエルフだと推察した。
しかし世界樹が滅び、エルフが死に絶えたのなら。
『俺の前に現れたのは、やっぱりエルフじゃないんじゃ……』
『うむ』
もっともだと言うようにオルディバルは頷いた。
『エルフ族は絶滅した。しかしその近縁に、ダークエルフという種族がいる』
『ダークエルフ……』
人族。小人族。エルフ族。
胡乱な神話で語られるのは、この三種族だ。あるいは神が加わることもあるが、ダークエルフというのは初耳だった。
『東に住むエルフ族だ。負の感情に溺れやすく、好戦的。今は我々の敵と言っても過言ではない』
『敵……? でも俺が会った連中は、そんなに悪そうな奴らじゃなかった。好い奴らかどうかもわからなかったけど……』
『ふむ。やはり貴様は東から来たのだな?』
『断じて敵なんかじゃないけどな! でも、ミズィガオロスの東部で過ごしてきたのは間違いない。俺たちは防区って呼んでるけど』
『貴様の世界に戦争はないのか?』
『魔法使いは、日夜ヨトゥミリスと戦ってるよ。だけど、他に敵なんかいない』
『ログボザも存在せぬと?』
『ログボザ……教団の?』
ヴァニは訝しみつつ返した。
と同時に、正体不明の恐怖が鎌首をもたげた。
『……』
オルディバルが思案するように押し黙った。
その沈黙が、次第に恐怖の正体を浮かび上がらせていくような気がした。
同じ世界であることは確かなのに互いの情報には幾らか齟齬がある。
では、その原因は――。
……まさか。
突として、ヴァニは一つの仮説を見出した。
そして、魂の波長からオルディバルの確信を感じとった。
やがて返ってきた『否』の一言は、ログボザが教団でないことを意味した。
慄然としたものがこみ上げてきた。
ログボザ。
教団と異なる、ログボザ。
『貴様は神を知らぬと言ったな?』
『……ああ、知らない』
知るはずがない。
神とは信仰の対象なのだから。
神とは実在しないのだから。
『この世界には神が存在する』
しかしオルディバルは断言した。
そして、
『我々は、おそらく同じ時代に生きるものではない』
と、結んだ。
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