七章 突撃

 デボラはとある建物の屋上に着地する。

 月を隠す曇天が、異形の肉体までも隠したか。

 地上で騒ぎが起きている様子はない。飲んだくれどもの哄笑や胴間声なら聞こえてはくるものの、久方ぶりの枢都の夜は静かなものだった。


 ……さて。


 デボラは翼を折りたたみ、ベニモグラの燻製肉を噛みちぎった。もう随分と古くなっており、硬い上に黴臭かったが構わなかった。味のほうは案外悪くなかった。


「……うまかったよ、ロガン」


 腹ごしらえを済ませると、地上の何点かを見回した。亢進がぴくぴくと翼に伝播した。

 今の自分には何もない。

 が、おあつらえ向きの翼と夜目ならある。

 目的を達するためには、闇に乗じて攻めるが吉だ。


「問題は魔力だけど」


 スラムにいた間に多少の回復は見込めたものの、まだ十全とは言い難かった。肉という肉の端々、血中にまで疲労や倦怠が滲んで感じられる。

 当然、霹黄宮の警備は厳重だ。防区の魔法使いのように、日夜ヨトゥミリスとの死闘を余儀なくされるわけでないにせよ、寄せ集めの雑兵ばかりではないだろう。真正面からの突貫は自殺行為にも等しい。


 まずは炙りだす必要がある。


 デボラは南方の警邏者に標的を定めた。

 男女のツーマンセルだ。

 まずは建物から建物へとび移り、あとを追った。

 充分に接近してから地上へ降りる。

 暗がりから暗がりへ。

 獲物が北方から遠ざかってゆくのを待った。

 やがて南東の路地で、二人の足は止まった。これより南は、別ブロック。管轄が異なる。


 ここだ。

 デボラは闇の中からとびだした!


「……!」


 殺気を感じとったか、男魔法使いが振り返った。

 ランプの明かりが闇を払い、漆黒の異形を光のもとにさらけ出す。

 影が、輪郭が伸びる。残像が尾をひく。

 両者の眼差しが衝突したとき、デボラはすでに敵の眼前だ。

 片翼が拡がり、手刀が頸部を狙い打つ!


「ヌッ……!」


 男魔法使いはとっさに杖を構え、これを受けた。杖が軋み、半歩後退した。


 ……ま、こんなものよね。


 デボラとて元枢都魔法使いだ。警邏者が事前に強化魔法を施しているのは承知の上である。

 肝心なのはここからだ。

 男の背後。

 女魔法使いが角笛を手にとった。増援を呼ぶつもりだ。


 ……冷静ね。


 しかしデボラは、男へ踏みこみ手刀を振り下ろした。

 男は攻めず、杖で防御の構えをとった。


「しまっ……!」


 その時、男が見たのは自分の頭上を跳びこえる異形の姿だった。

 デボラは空中で縦回転した。

 大鎌じみた踵落としが、女へ振り落とされる!


「ッ!」


 女はカッと目を見開いた。覚悟を決めた者の眼差しだった。

 彼女は杖を構えず、唇に笛を押し当てた!


「んん……!」


 ところが、笛は鳴らなかった。

 女の目端を黒い霧のようなものが過ぎった。

 それが何かを確かめる前に、


「あぐぁ……ッ!」


 彼女は地面へ叩きつけられた。肩口を踵落としが抉っていた。

 デボラが着地すると、男が振り返った。

 腰にさげたランプの炎がぞわりと揺れた。

 魔法の兆しが夜気を炙った。


「エルド――」


 と、同時に二色の眼が煌めいた。

 拡がった片翼の一部が、黒い霧と化し散った。それはたちまち男の口許に蝟集した!


「ンン……ッ!」


 霧は凝固し、ふたたび形を成した。ランプの明かりすら呑みこむ、黒き鋼の轡へと!


「ん、ング……!」


 男はそれを取り外そうと手をかけた。しかし轡は骨格にぴったりと合わさっていた。留め具もなければ継ぎ目もなかった。

 デボラは踏みこんだ。

 地面が蜘蛛の巣状に割れた。

 拳が螺旋をえがき。


「ンブ、ゥ……ッ!」


 男の身体を、宙へ浮きあがらせた。

 その目からどっと涙が溢れた。轡からも体液が噴きだした。

 男は痛みに喘ぐこともできず、死にかけたカエルのようにビクビクと痙攣した。


「ぐはっ!」


 デボラは女の鳩尾を蹴って転がすと、角笛を奪いとった。

 そして翼の一部を切り離し、短刀に変えると自らの肌を裂いた。

 血液がにじみ出し、ぽつぽつと赤い点を落とした。彼女は数ヤードに渡って血痕の道を作り、奪い取った角笛を高らかに吹き鳴らした。


「……あなたには、もう少し役立ってもらおうかしら」


 復讐の異形は、女魔法使いを担ぎあげると、闇の中へまぎれて消えた。



                 ◆◆◆◆◆



「血だ! 敵が近辺に潜んでいるのは間違いない!」


 早速作戦の効果が出始めた。

 見えざる敵を捜し出すべく、警邏者たちは南方に引き寄せられていく。門衛までその中に加わることはないが、警備は確実に手薄となる。とはいえ、新たに人員が投入されると却って動きづらい。今が好機だ。


 デボラは闇にまぎれ、北西側の壁へ回りこんだ。

 門衛を務めていた頃は遠目に見るばかりだった壁だ。近くで眺めてみると、改めてとんでもなく巨大だと判る。百フィートはあるだろうか。霹黄宮を頂く塔は、さらに何倍も高いのだから得体が知れない。


 だが、どんなに高い壁も、空を統べる者に対しては無意味だ。

 デボラは、魔法使いを右から左の肩へ担ぎなおすと地を蹴った。

 黒き翼が羽搏き、その身は宙を舞う。

 宵闇が歪な身体を受け入れて優しくたゆたい、風が鼓膜に笑いかけ、浮遊感がそっと胃の腑を撫ぜた。


 異形の力は祝福のようだ。

 しかし、この心地好さも、仲間を喪った証だ。優しく穏やかな世界など、まやかしに過ぎない。


 ついに角笛を鳴らされることなくデボラは壁を越えた。

 ここからは未知の領域だ。

 まずデボラを迎えたのは、兵舎のような建物だった。正門に見張りの姿はないものの、窓からは明かりがもれていた。

 デボラは弧を描き、死角に入ろうとすぐさま降下を始めた。

 その時、窓際を過ぎる人影が見えた。


 気付かれたか。

 焦燥がジリと燃えた。全身に圧し掛かる倦怠感が、いっそう焦りを烈しくさせた。


「……ふぅ」


 が、気付かれてしまったのならば仕方がない。こうなれば強行突破にでるだけだ。異形の力は、きっとこのために齎された。

 デボラは中庭に降りたつ。

 壁の中は広くない。

 塔は目前だ。

 兵舎と兵舎に挟まれ、尊大にそそり立っている。

 頂は夜の曇天を貫かんばかりだ。あまりの巨大さに、身がすくむ。

 と同時に、このような高みで、下々の尊厳を踏みにじる鴟梟の輩には怒りを覚えた。


 あの最上階に霹黄宮ひゃくおうきゅうがある。元枢会がいる。


 殺す。殺す。必ず殺す。痛みと恐怖を以て、私から奪ったものの価値を解らせてやる……!


 双翼に雷弧が波打ち、デボラは地を蹴った。


「……殺すッ!」


 復讐の風が、闇に吹き荒ぶ!


「敵襲ッ! 敵襲ぅ!」


 怒号が轟いたのは、その時だ!

 次いで、聞きなれぬ笛の音色が夜を圧した。

 背後から迫る轟音が辺りに反響した。

 風を裂き、次々と人影が姿を現し、その杖の先から無数の光が灯った。

 放射状に拡散した光が、闇色の異形を照らしだした――!


「「「リョース!」」」


 四方八方から閃光の矢が襲い来る!

 デボラは翼を折り、速度を上げた。背後、地面が爆ぜる。

 矢は間断なく飛来する。

 跳躍。ステップ。踏みこみ。

 デボラは的確に躱していく。


「リョース」


 しかし敵は地上からも現れ、光の包囲網を狭めていく。

 魔法が肌をかすめる。一つ、二つ――赤い線が刻まれていく。


「うッ……!」


 担いだ魔法使いにも、魔法は被弾した。

 闇夜を穿つ明かりの中、大樹のマントが見えていないはずはない。人質にも容赦なしというわけだ。


「クソ!」


 デボラは人質を解放し、軽くなった足でさらに踏み込んだ。

 兵舎の陰にはいり、射線を遮った。


「ヌアッ!」


 すると、潜んでいた魔法使いがとび出してきた!

 振り下ろされる杖!

 デボラはとっさに腕で受けた。


「ぐぅ……!」


 衝撃は骨に沁みた。

 だが、その腕はびっしりと黒い鱗に覆われていた。

 杖をはじき返すと、デボラは相手の懐に踏みこんだ。脇腹に肘を叩きこみ吹っ飛ばした。


「リョース!」


 兵舎の陰から出ると、ふたたび魔法の雨が襲いかかった。

 しかしデボラは、ついにそれを見て取った。

 塔の内部へ通ずる、巨大な鋼鉄の門を。


「あああああぁぁああぁあぁぁぁあああぁ!」


 獣じみた咆哮をあげ、デボラは加速した。

 魔法が深く肩を抉った。高々と血がしぶいた。

 致命傷だけを避けた、捨て鉢な突進だった。


「破邪の一光よ、常闇を照らせ。ようを編み、ぎょうを研ぎ、一矢となりて顕現せよッ!」


 それを門衛の朗々とした詠唱が迎え撃った。

 杖が、凄烈に輝いた。

 白き閃光が迸り、闇を裂き、分解し、融かした!

 その眩さの中に、幻影が揺れた。砂色の装束をまとった背中が見えた。

 デボラの心が血を噴いた。血は復讐の焔と化し、魔力を練りあげた。


「うああぁあああぁあああぁあぁぁぁあッ!」


 異形の両翼が倍に膨れ上がった。

 それがデボラの体躯を包み、閃光を遮った。

 デボラは一際烈しく地を蹴った。

 整地された草地が土色をさらけ出し砕けた。

 黒き風が、門衛二人の間に滑りこんだ。


「邪魔だ、散れぇッ!」

「「ぐわああああッ!」」


 双翼がひらいた!

 鋼の翼の打擲をうけ、門衛たちは吹き飛んだ!

 残像が収斂し、冷たい美女を描きだした。

 デボラのこめかみを汗が伝った。

 視界が赤く染まり揺らいだ。

 著しく消耗していた。


「まだ、まだァ……!」


 だが、ようやく門前に辿り着いた。

 門を壊し、元枢会を殺す!

 デボラは翼を軋ませる!


「ッ……?」


 ところが、翼が叩きこまれるより早く門は開いた。来訪者を受け入れるように。独りでに。


「逃がすなぁ!」


 それを訝しむ間はなかった。

 デボラは頭から塔のなかへ突っこんだ。


「……なっ」


 そして、今度こそ凝然と動きをとめた。

 眼前に広がった光景に気圧され、呼吸さえ忘れた。


 そこは、土塊をかき出された山の胎のようだった。

 そう思わせるほどに広大な空間だった。

 紅、蒼、碧の明かりが、壁や床、天井にまで蛇のように這っていた。天井には無数の宝石が埋めこまれ、炎のように揺らめくことない不変の明かりを落としていた。

 だが、何よりデボラを愕然とさせたのは、その壁、床、天井を構成する闇色だった。

 デボラの髪や翼と同じ。光を呑む黒。魔の力さえ弾き返す剛。

 それは紛れもなく〝遺物〟によって構成された広間だった。


「「「捕らえろぉ!」」」


 笛の音が、魔法使いの怒号が、デボラを我に返らせた。

 彼女は踏みだしつつ、辺りを見渡した。

 奥へ続く通路は?

 遮蔽物は?


「くそッ!」


 いずれも存在しなかった。


「逃がすなあああぁッ!」


 指揮官と思しき号令が轟く。

 怒涛のごとき跫音とともに渦をなし、デボラの背を打ち据える。

 万事休すか。

 ここまで来て?

 そう思われた、次の瞬間だった。


「ああああぁあああぁぁ、――」


 ふいに吶喊が途切れた。

 広間の壁に残響が散り、吸いこまれ消えたのだ。

 振り返ると、門が消えていた。

 見返してくるのは壁だった。蝶番どころか切れ込み一つない、鋼の壁だった。外から門を叩く音だけが鈍く伝ってきた。


「なにが……」


 起きた、と続く言葉は、しかし遮られた。


『よくぞ、ここまで辿り着いた。デボラ・ファントゥス』


 陰鬱で野太い男の声によって。


「誰だッ!」


 デボラは警戒をあらわにした。

 とっさに辺りを見渡し、声の主を探した。

 だが、人影など見出せるはずもなかった。

 広間にはデボラ以外の何者も存在しないのだから。


『我が名はアッカ』


 慄然とするデボラに、声は名乗った。

 しかしそれは一人ではなかった。


『我が名はマーファ』


 今度は老いた女の声が名乗った。


『我が名はイルガ』


 さらにもう一人。

 ひび割れた声が、ザリザリと残響をのこした。

 そして再びアッカの野太い声が告げた。


『君の帰りを待っていた』


 と。


「……貴様ら」


 その時、デボラの腹の底で業火がいた。

 直感したのだ。

 これら三つの声が何者なのか。自分にとって、どのような相手なのかを。

 彼らはそれを隠そうともしなかった。


『我ら元枢会は、君を歓迎する。そして、その憎しみに応えよう。我々は、君の刃を拒みはしない』


 世界がゴゴゴと唸りを上げた。

 それは広間の最奥の壁から発せられた。

 つるりとした壁面が、上部から陥没していった。

 それは下へ行くほど手前にせりだし歪みひとつない階段を形成した。

 デボラの胸で業火の龍が暴れ狂った。


「どういう、つもりだァ……!」


 腑に落ちなかった。

 なぜ、こんなにもあっさりと復讐鬼を受け入れるのか。

 今更になって、罪を悔いるつもりか? 失われた命は、もう戻らないというのに。後悔というその場限りの態度を見せつければ、この業火を懐柔できるとでも?

 みるみるうちに美女の相貌は憤怒に歪んだ。

 蒼と金の瞳がどろどろと粘ついた輝きを放ち、剥きだした牙がメキメキと成長を遂げた。

 歯列の隙間から黒ずんだ蒸気が吐きだされた。それは雷雲の如く稲妻をまとい闇に融けた。


『上がってきたまえ。我々は逃げも隠れもしない』


 その様を見ているのかいないのか。

 元枢会はなおも誘った。

 それが尚更、デボラの神経を逆撫でた。


「元枢、会ィ……ッ!」


 グルグルと獣じみた唸りがもれた。

 一歩、二歩と踏みだせば、いっそう濃い蒸気が吐きだされた。

 破壊衝動が渦をまき、全身から雷弧となって放たれた。


 鋼の牙で、雷の爪で、この塔ごと破壊できるなら、間違いなくそうしていた。

 しかし黒き鋼に彩られた広間は、稲妻を撥ね退け、激情を返すだけだった。

 やがて段に足をかけたとき、その意識はほとんど殺意に塗りつぶされていた。

 いつか彼女に力を授けた古竜が、憤怒とともに吼える。


『――滅ぼぜ、――滅ぼせ』と。


 幽かな理性を黒く染めてゆく。

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