六章 煉獄を見る

 ヴァニの身に自由はなかった。とはいえ、手足を縛られているわけでも、口や鼻を塞がれているわけでもない。双眼ははっきりと絢爛な広間を見通している。

 肉体的な桎梏など一切ない。


 にもかかわらず。

 その意思を以て視線を転ずる事かなわず、手足を振るうことも、声を発することさえできない。

 彼にできるのは、精々思索に耽ることだけだった。


『なんだ、これは?』


 ヴァニは当惑をあらわにする。慌てふためく挙動すらとれないのがもどかしい。

 加えて、奇妙なことが他にもある。


『……うぅむ。どうするべきか』


 低く、唸る声。思慮のなかで、己の心と同じく波紋を打つ声があった。

 それは明らかに、ヴァニ意識から、かけ離れたところにある。

 つまり、そう。


 のだ。

 人格がある。一つの身体に、二つの魂が同居している。


『あんた、誰だ?』


 ヴァニは自分自身に狂気の片鱗を見ながら、恐るおそる誰何した。


『……』


 ところが、相手のほうは思案に耽っている所為か、こちらに気付かない。なんど呼びかけてみても、沼に杭を打つようなものだ。

 ヴァニは呼びかけを諦め、忍ぶように意識の手を伸ばした。

 相手の考えていることを覗きこめはしないかと。

 試みは成功した。


『……より魔力を高めるためには、儀式を行うより他ない。そうとなれば代価が必要だ。問題はどう確保するか。おそらく仮初の命では不相応だろう。だが、まさか人の御霊を用いるわけにはいくまい。いや、待て。先入観を捨てよ。然るべき手順さえとったなら、儀式は成功する。己自身を捧げればよいのでは?』


 が、内容については、さっぱりだった。本人はいたって真剣になにかを追究しているようだが、てんで意味が解らない。

 いよいよ焦燥が熱を増す。


 この状況はなんだ。何が起きてる?


 同居人は何者で、ここはどこなのか。そもそも、なぜ同居人がいるのか。

 手がかりすら探れない。できる事が何もない。籠の中に入れられ、買い手がつくのを待っている鳥にでもなった気分だ。


 途方に暮れたヴァニの許に変化が訪れたのは、しかしそう先の事ではなく。

 ふいに視野が回り、とんと落ちた。

 玉座に腰を下ろしたようだった。

 ドンと喧しい音をたて、広間の扉が開かれたのもその時だ。

 思慮に耽っていた同居人は、その音でようやく我に返った。思考が霧散し、つと顔をあげ、扉の奥から雪崩れ込んでくる四人の子どもたちを認めた。


『この感覚、まさか……』


 そこでヴァニは過ちに気付いた。

 そもそもの前提が間違っていたのだと。

 もう一つの人格が宿ったのではない。

 ヴァニのほうが、のだ。


『おいおい、こいつはどうなってやがるんだ……』


 尋常ならざる事態を前にしても、ヴァニには冷やす肝もない。助けを求めようにも、声なき声では届くまい。

 焦るヴァニをよそに肉体の持ち主は、駆けまわる子どもたちを悠然と見渡した。

 すると、子どもは次々と彼の足許に抱きついた。落ちた視界に子どもたちと彼の足が映った。朱色に染められた生地に黄金の糸をジグザグと刺繍された着物が見えた。


『……偉い人みたいだな』


 ここにきてヴァニは意外な冷静さを発揮した。

 恐怖や焦燥を押し殺し、観察と整理に努めた。


 この人物の人柄が、ヴァニに平常心をもたらしていた。

 子どもたちを見た瞬間の情動。泥沼めいた思考が洗われ、泉のように湧きだした愛情が、それを向けられた子どもたちだけでなくヴァニをも安堵させたのだった。


 いま大きく白い手が、子どもたちを一人ずつ丁寧に撫でる。子どもたちは、それぞれ猫のように目を細め、優しさを甘受した。

 和やかな光景がヴァニを温かな気持ちにさせた。

 稲穂色の眼をした子どもが、彼の名を呼ぶまでは。


「おはようございます、様!」


 他の子どもたちも彼を呼んだ。「オルディバル様!」と。


「ああ、おはよう。好い朝だな」


 そして、肉体の持ち主は答えた。

 思惟の沼に溺れていた時と同じ声音で。


『……あり得ない』


 ヴァニは耳を疑った。

 彼の知るオルディバルは遺物の名以外に、超兵器の名以外になかった。

 子どもを撫でる手はなく、声ももたない。前搭乗者だったという老爺にも実体はなかったし、今は彼すらも――もういないのだ。

 なのに、この人物は「オルディバル」と呼ばれた。ただの同名の人物だろうか。そんな稀有な名が――?

 何一つ判然としないまま、時はヴァニを置いていく。


「オルディバル様ぁ!」


 顔面全部を汗に濡らした男が、転がるようにして現れた。

 オルディバルを見るなり深く頭を垂れた。


「申し訳ございません! 子どもたちがまたも無礼を!」


 オルディバルはそれを一瞥すると、年少の男の子の肩に手を置いた。


「いちいち謝るな、リック。子どもは元気なのが好い。我も折々気晴らしせねば頭が固くなるのでちょうど良い」

「寛大な御心感謝いたします」

「感謝もいいが、そろそろ面を上げてはどうだ? 床ばかり見つめていては、また子どもたちに逃げられるぞ」


 ハッとリックが顔をあげたとき、すでに子どもたちは姿を消している。彼はきょろきょろ辺りを見渡すと「ああっ、失礼いたしましたぁ!」と叫ぶように言って、広間の外へ駆けだして行った。


 ややあってオルディバルが「行ったぞ」と囁きかけた。

 すると玉座の裏から、子どもたちがひょっこりと顔を出した。

 オルディバルの微笑を受けるなり、弾かれたようにとび出し、足許へ縋りつく。


「あはは! お父さんまた騙されてたよ!」

「うん!」

「だね!」

「オルディバル様のおかけだよ!」


 子どもたちはきゃっきゃと跳びまわる。広間を駆けだしたり、オルディバルの膝に這いあがったりと自由なものだ。

 それを眺めるうち、ヴァニは憧れを募らせていった。

 もしもヨトゥミリスが存在しなければ、ミズィガオロスが豊かであったなら、このような日常があったのではないかと。


「……」


 しかし隣り合って存在するオルディバルの魂は、断じて穏やかではなかった。

 子どもたちへの愛情は依然としてある。

 一方で、深い憂いと悲しみが、心の芯を凍てつかせていた。

 ヴァニは訝しみ、改めて彼の思考を覗こうとした。

 その瞬間、


『……かぁッ!』


 脳天に稲妻を叩きつけられた。

 そうとしか思えぬ衝撃に襲われた。

 視界が真っ白に灼け、存在しないはずの肉体が痙攣した。

 そこへ雷鳴のごとき声が降りそそいだ。


『何者だァ!』


 ヴァニはたまらず肉なき頭を抱えた。

 声にはヴァニ・アントスという存在を揺るがす破壊的な力があった。同時に向けられた視線は、ビリビリと生命の根幹を炙るようだった。


『あ、ァ……!』


 ヴァニは痛みに喘いだ。痛みのあまりどんな言葉も紡ぎだせなかった。

 その様から敵意なしと感じとられたか、取るに足らないと判断されたのか。

 次第に怒りの眼差しは、風に散る雷雲のごとく鎮まっていった。


『貴様は何者だ』


 今度は些か柔らかな声が響いた。なおも頭の中で銅鑼を鳴らされるような痛みを伴ったが、かろうじて声はしぼり出せた。


『お、おれはヴァニ……』


 恐れとともに、疑念を覚えていた。

 あんなにも子どもたちに優しく接していた人物が、これほど烈しい情動をあらわにするのかと。

 その思いが伝わったのか、オルディバルが訝しむ気配を見せた。


『……ヴァニ。聞かぬ名だ。東の刺客ではあるまいな?』


 言葉を紡ぐ最中にも、オルディバルの心情は変化した。怪訝が敵意へと切り替わってゆくのを感じた。


『ま、待ってくれ! 俺はたぶんあんたの敵じゃない。味方だって保証もないけど……なんて言えばいいのか、俺もこの状況が理解できないんだ』


 オルディバルの猜疑心が伝わってくる。詳細な思考までは読み取れない。感情は幾度も切り替わる。いずれも不信に類するものであることだけが変わりない。

 やがてオルディバルのほうから、こう問うてきた。


『今までどこに潜んでいた? 我が存ぜぬとあれば、惑乱の魔法に秀でた神であろうな』

『へ……?』


 あまりに突飛な発言に、ヴァニは茫然とした。

 オルディバルは冗談でも口にしたのだろうか?

 いや、そんなはずはない。彼から感じられる覇気は、減じるどころかいや増していた。雷鳴の怒号を轟かせた際の心情に戻ろうとしている。


 殺される。


 何もかも不可解だが、それだけは確信できた。

 恐慌状態で訴える声音は、ほとんど悲鳴のようになる。

『ちょ、ちょっと落ち着いてくれってば! 何を言われてるのか解らねぇよ! 神ってなんだ? 俺はちょっと前まで遺物堀をしてただけの、十八のガキだよ!』

『イブツホリ? なんだ、それは。この期に及んで、まだ戯言を吐くか。我に憑依できる者など、神をおいて他にいるはずがない』


 声がバリバリと痛みを孕んだ。

 ヴァニは呻き、恐れに震えた。

 もはや死を受け入れるしかないか。

 そう思われた時だった。


『……しかし』


 ふいに張りつめた糸が弛緩した。

 痛みが突として消え失せた。


『その畏れ、どうやら偽りではないらしいな』


 不審の眼は、依然として見開かれたままだ。しかし敵意は薄らぎ、声色からは棘がぬけ落ちてゆく。


『貴様、誠に神ではないのか?』


 信じられぬというようにオルディバルは問うた。

 ヴァニは、その意味を解しかねた。彼にとっての神とは、人々の心から抵抗の意思を奪うログボザであったし、その神ですらも偶像であったからだ。

 違う、という以外に答えられることは何もなかった。


『解せぬ……』


 オルディバルは唸った。何もかも解せぬと、繰り返し唸った。


『神でないのなら、何故貴様はここにいる?』

『それは俺だって知りたい……』

『まさか貴様、神すらも知らぬとは言うまいな?』


 何を今更と、ヴァニは泣けるものなら泣きたい気持ちになる。


『知ってるさ。だけど……なんかおかしいよ。あんたの口ぶりじゃ、まるで神様が実在するみたいじゃないか』


 疲れとともに吐きだせば、相手から絶句する気配が伝わってきた。


『ますます解しかねる……。どうやら我々の間には大きな齟齬が横たわっておるようだな。いや、まさかと思うが……よもや貴様、この知恵と魔法の神オルディバルまで知らぬなどと嘯くまいな?』

『……』


 ヴァニは、オルディバルを胡乱に感じた。

 彼の怒りは、不審は、正当な精神から発露したものだろうか。彼は狂っているのではないか、と。

 しかし嘆息したのは、オルディバルのほうだった。


『まあ、知らぬなら構わぬ。幸い、貴様からは彼奴に連なる邪気は感じられぬしな』


 そう言うとオルディバルは、ヴァニから目を逸らしたようだった。

 灼けた視界が次第に色をとり戻しはじめた。

 こちらを覗きこむ大きな眼が見えた。くりくりと丸い稲穂色の双眸。四人組の子どもの一人だ。


「大丈夫、オルディバル様?」

「案ずることはない、シグム。少し考えた事をしていただけだ」

「忙しいの?」


 山頂と同じ碧色の目の子どもが言葉を継いだ。


「退屈でないだけだ、アッカ。マーファもイルガも、仲良く四人で遊んでいるといい。我は少し外へ出る」


 子どもたちがそれぞれに目配せをする。なにか言いたげな様子だった。

 けれど彼らは、ついにそれを口にしなかった。「やった!」と跳びはねれば、ふたたび広間の中を駆けまわり始めた。


 オルディバルは微笑み玉座を降りた。

 その長い脚が大股に歩きはじめると、ヴァニは改めて実感した。

 これは自分と異なる肉体の感覚だと。

 オルディバルはあっという間に広間の外へでたが、矮小な身であったなら、こうはいかなかったに違いない。


 それらの驚愕や哀切を感じとったのか、オルディバルの注意が、ふたたびヴァニの許へ向いた。敵意の再燃はなかった。読み取れるのは、詳細不明の得心だけだった。


『……スクラーダの予言ならあったのだ』


 向けられた言葉も不明なものだった。

 ヴァニは沈黙によって先を促した。


『来訪者があると。どうやらそれがヴァニ、貴様らしいと解ってきた』

『よく解らないけど、もう痛いことはしないんだよな?』

『ああ、これ以上傷つけるつもりはない。すまぬ』


 突然の謝罪に、ヴァニは面食らった。

 だが思い返してみれば、彼は元々温厚な人柄ではあった。子どもたちに対する態度に嘘偽りがあるようには見えなかったし、流れこんでくる感情にも刺々しさは感じられなかった。

 ヴァニは幾分おだやかな気持ちで謝罪を受け入れた。


『いや……こっちこそ驚かせて悪かったよ。俺の意志でこうなったわけじゃないけど……』

『誠に謎めいておるな。意志に反し魔法が発動することなどあり得ぬ。まして神に接触もせず干渉するなど……』


 オルディバルはまだ自身を神と言い張っている。どうやら彼に根付いた狂気は底が深いようだ。『そもそも魔法は――』などと思考の沼に沈んでゆくものだから、疑惑はほとんど確信へと変わっていった。

 ヴァニはオルディバルから目を逸らし、彼の歩む現実へと目を向けた。


『……これは』


 そして息を呑んだ。

 広間の豪奢な装いからは想像もつかない、異様な光景が広がっていたからだ。


 装飾の類は一切なく、窓もなく。天井にはめ込まれた宝石の輝きだけが明かりだった。その光も病んだように暗かった。うねうねと細い通路が延び、行く先々に無数の門や横穴が設けられていた。

 左手には格子状の手摺。その先は世果ての大瀑布にも似た広大な穴が口をあけていた。通路は歪な弧をえがきながら、穴の淵にそって続いているようだった。


 おそらく円柱状の建物だが、途轍もなく巨大だった。これほどまでに圧倒的な人工物を、ヴァニは見たことがなかった。


 だが、何よりヴァニを驚かせたのは、その色だ。

 この空間のほとんどは、漆黒に占められている。

 金属光沢にぬらりと光る、しかし光を削る闇でできたやすりのような黒。

 それは、


『遺物』


 の特徴に相違ない。

 矩形のガラクタとは、あまりにもスケールが違う。


 どうやったら、こんな――。


 その疑問を、遠雷の声が遮った。


『ヴァニ、我は貴様を歓迎する』


 オルディバルの視線を感じた。

 彼は、とある門前で立ちどまると、こう続けた。


『とはいえ、できる事はそう多くない。この状況の解決には、暫しの時を必要とするだろう』


 易々と解決できない事象なのは、ヴァニも覚悟していた。

 だから残念には思わなかった。むしろ、問題に真摯に取り組もうとする姿勢に、好感をもった。

 同時に希望も。

 オルディバルの心からは、強い自信と責任感が伝わってきた。


『ありがとう。俺にも協力できること……はなさそうだけど』

『貴様はゆっくり休んでいるといい。斯様な事態に巻き込まれたのだ。疲弊しているのだろう?』

『それは……』


 事実だった。

 とんだ挨拶だったが、こうしてオルディバルとコミュニケーションをとれていなければ、どうなっていたか。しばらくは適当な暗示で繕えても、いずれ気が触れていたに違いない。


 だが希望が垣間見えた今、怠惰に時を待つのは憚られる。

 ヴァニは大樹に触れて、ここへ来た。白い影たちに導かれ、やって来た。

 彼らは、こうなる事を知っていたのではないだろうか?


 だとすれば。

 こうなる事に意味があるのだとしたら。

 じっとしているだけではダメだ。


『まあ、疲れてる。でも、よかったらさ、ここの事について教えてくれないか?』


 口にしてから、些か出過ぎた要求だったかもしれないと思った。

 現にオルディバルは、口を閉ざしてしまった。

 しかしオルディバルから伝わってくるのは、苛立ちでも辟易でもなかった。


『……』


 憂い。悲哀。あるいは後悔。

 それも底なしに心を引きずりこむ淀みだった。


 追究する気にはなれなかった。

 オルディバルの心情は、あまりに重かった。流れこんでくるものを感じとるだけで、罪悪感を覚えるほどだった。

 ところがヴァニが繕いの言を述べる前に、オルディバルは口を開いていた。


『……いいとも。端からそのつもりでいた。故に、ここへ来たのだからな』

『そうなのか……?』


 意外な答えだったが、嘘でない事はすぐに判った。


『知ることが、この状態に何らかの影響を及ぼすとも考えられる』


 オルディバルが門を押した。彼の背丈の倍はあろうかという遺物の門は、その重厚な見た目とは裏腹に難なく開いた。

 歓迎の手を拡げたのは、やはり黒一色の空間だった。そしてその広大さも、やはり圧巻だった。

 天井は、まるで空を塞ぐ雷雲にも劣らんばかりの高さ。門から最奥の壁までは、八分の一マイルばかりの距離があった。

 だが、何よりもヴァニの注意を引いたのは、両側面の壁にずらりと並んだ物体だった。


 あれは……。


 人型の遺物だった。大きさは十フィートばかりだが、遺物のオルディバルとよく似ていた。

 どうやら先の通路と同じく吹き抜け構造となったこの空間には、各階層に人型遺物が置かれているようだ。それを三人ないし五人で何やらいじくり回している。中には子どものような人影も多く、極めて奇怪な眺めだった。


 オルディバルはすたすたと最奥の壁へと進んでいく。

 そこに何があるのかは分からない。ヴァニの目には、行き止まり以外の何ものにも見えない。

 そこに、明らかに有象無象と異なる趣の四人が立っている。いずれも黒ずくめの衣服に身を包み、硬質なベルトを肩や胸にまで巻きつけていた。

 彼らはオルディバルを認めるなり、愕然と目を剥いた。


「オルディバル様、なにゆえ斯様な所に……?」

「外へ出たい。門を開けてくれ」

「しかし、外にはっ……」


 食い下がろうとした衛兵だったが、中途で言葉を呑みこまざるをえなかった。

 ヴァニも実体なきまま震えあがった。

 一瞬、オルディバルの覇気が暗鬱とした空間を稲妻で貫いたかに見えた。


「案ずるな。少しばかり外の空気を吸うだけだ。地上にまで下りはせん」

「……御身がそう仰るのであれば」

「すぐに戻る」


 四人は神妙に頷き、それきり言葉を発しなかった。遺物の板切れを取りだし、何やら弄び、また頷いた。すると壁の前から退き、今度はそれぞれにベルトから遺物の筐をぬき出した。

 オルディバルは壁の前に立ち、おもむろに手をかざした。

 周囲に光が迸った。

 黒鉄の壁が黄金に燃えあがった。


「リイキットゥル」


 刹那、黄金の炎が爆ぜた。壁全体に火の粉が飛散し、衛兵の握った筐にまで波及した。

 筐は次々と爆散し、壁が重い唸りをあげ始めた。

 散り散りとなった筐の破片は空中で静止。

 壁には切れ込みが生じた。白刃を閃かせたような光が目を射抜き、ゆっくりと傷口を拡げてゆく。その間に破片は、時が巻き戻ったかのように蝟集され、元の形状とまったく異なる形で復元された。

 L字型の筒と化したのだ。

 衛兵たちは筒の絡繰りを壁へむけ構えた。

 その頃、壁は上下に分かたれ、巨大な顎をひらこうとしていた。


 口腔は世界だった。

 天頂に煌めく陽光が眩しく射しこんでくる。それを抱く蒼穹は果てなく美麗で、たゆたう雲の涼やかな濃淡が感嘆を誘った。

 風が吹きこめば、室内に満ちた空気が、いかに淀んでいるか知れた。肺を濡れた絹で丁寧に洗われる心地がした。


 オルディバルが踏みだすと、衛兵二人が付き従った。

 建造物の壁面からは、巨大な筒が無数にせりだしていた。上に向いている物もあれば、下に向いている物もあった。その無数の丸みが、鋼の大蛇のようで不気味だった。

 人足の踏みだせる空間は、その間隙にあった。

 オルディバルは端の手摺まで歩を進め、物憂げに地上を見下ろした。


『ヴァニ、見えるか?』


 問うた声は沈痛に震えていた。


『……ッ』


 答えは、絶句だけで事足りた。

 返す言葉など、あるはずがなかった。

 何故なら、オルディバルの眼差しを借り、見つめた先には。


 からだ。


 人々の住まう屋根の連なりも。

 命の眠る森の天蓋も。

 大地を流れる河川の血潮も。

 何もかも無い。

 あるのは、どこまでも黒い大地――。


『これが世界だ』


 膿んだように。腐ったように。枯れたように。

 遠く窺える山々までもが禿げ上がっている。

 にもかかわらず、命はなおも蝕まれ続けている。

 そこここから燻ぶり、血のように赤い炎が蠢き、細長くどす黒い煙が絶えず生みだされていた。


『我々は今、戦いの最中にある』


 メキメキと拳を握りしめる音があった。それが衛兵とオルディバル、どちらの拳から発せられたのかは判らなかった。


『忌まわしき神によって、彼奴に与した東の民によって、この世は地獄と化したのだ』


 この時、ヴァニは思い知った。

 オルディバルの言葉は、狂人の戯言ではなかったのだと。


 忌まわしき神。

 そう呼ぶに相応しき者なくば、こんなにも無残に大地が荒れ果てるはずはないと。

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