三章 残り香

 そのあばら家は、家々から押し潰されるようにしてある。屋根は表面がめくれ上がり、入口のドアはひどく歪んで隙間をさらしている。そこから妙な臭いが洩れていた。嗅覚を痺れさせ胸を炙るような――死臭だ。


 なんでこんな臭いがしやがる……?


 アゾルフは訝しみ、追従した二人の従者へ目配せした。

闇執矛アンセム〟とガゼルが衝突するまで、ここは〝影の子どもたち〟の住処だった。

 ガゼルは忽然と姿を消し、他の子どもたちは皆死んだ。〝闇執矛〟に寝返った子どもは道端で斃れ、後にあばら家からも二体の遺体が発見された。


 弔いというにはあまりに拙すぎたが、アゾルフは仲間たちとともに遺体を運んでやった。

 スラムの端もはし。ゴミ捨て場と称された狭く荒れ果てた土地だった。ガラクタに溢れ、動く体力も残っていない命の残りカスのような連中や、実際に尽き果ててしまった者などが、そこに打ち捨てられていた。

 虫も喰わない雑草をむしり、木の板で土を掘り返し、子どもたちを埋葬した。


 だから、あばら家の中は、もぬけの殻。子どもたちの異様な死に方を恐れ、新しく住みだした猛者もいないはずだ。


 死に体の浮浪者が、ここで尽き果てでもしたか?


 アゾルフは恐るおそるドアを開け、中を覗いた。

 窓のない家中は暗い。

 立ち込めた死臭は、いっそう鋭く鼻をつく。埃と黴のにおいが混じっている。意識が飛びそうなひどい臭いだ。

 口と鼻をふさぎ、目を凝らした。


「……?」


 奥で何かが動いたような気がした。

 光の加減か。埃の流動か。

 真相を確かめるべく、軋むドアをさらに押す。招き入れられた光が、埃と手をとり踊りだす。

 闇の幕が、あがる。


「……おい、あれ」


 アゾルフは従者たちに呼びかけ、部屋の奥を指差した。

 いつか二つの小さな遺体が発見された場所。

 額に風穴の空いた遺体と、頭の千切れた遺体とが座っていたソファ。

 今はなにも残されているはずがない、そこに。


「誰か」


 深く腰かけてはいないか。

 二つ、小さなシルエットが。

 足許は手前のテーブルの陰になって見えないが。


 まさか子どもの生首が転がってはいるなどということは――。


 ひどい悪臭と不気味さに後ずさると、人影がひきつれたようにびくんと動いた。老爺の影がともに退けば、そこを光が埋め、人影に色彩を与えた。


「こりゃあ……!」


 アゾルフが顔をしかめたのと同時だった。

 床に蛆がぶちまけられ、二つの影が宙を舞った!

 側近の二人がすかさず老爺の前に立ちはだかった。

 一方が喉笛に、一方が手首に、くすんだナイフを一閃させる! 


「なッ……!」


 ところが、片や喉笛と呼べる部位はなかった。首は根元から断たれ、頭部がなかった。ナイフは虚空に閃き、矮小な子どもの体躯が、真正面から長躯の男を突き飛ばした。


 ズチャ。


 片や手首を斬られたほうは、頭部こそ残されているものの、痛みに喘いだりはしなかった。額にあいた大きな穴、抉れた眼窩から湧きだす蛆の蠢動が嘆きだ。怯むことなく、無事な腕を振りかぶる。

 対峙する矮躯の男は、急速に膨れあがる狂気を、使命感でかろうじてねじ伏せた。アゾルフを守ることが己の使命。今は雑念に囚われるときではない。男は屍の腹を蹴りつけた。

 ばたばたと四肢を投げだし転がる屍。容赦など無用。馬乗りになって喉笛を突き、たちどころに胸を突き刺す。

 しかし屍は、なおも遮二無二腕を振るう。もう一方の手首を斬りはらおうとも、やはり狂ったように暴れ続ける!


「……ぁ!」


 矮躯の男は短く叫んだ。

 胸にこみ上げるのは恐れか? それとも狂気か?

 感情が胸を突き破ろうとした、その時。


「どきなさい」


 と、陰鬱な女の声が降ってきた。

 肩越しに一瞥すれば、異形の女に表情なく見下ろされていた。


「ど、どうするつもりだ……!」

「いいからどきなさい。死にたくなければね」


 暗澹とした眼差し。こちらから動きださなければ、躊躇なく命を刈り取ろうとする気配。

 矮躯の男は腐った腕に殴られる寸前、真横へ飛び退いた。


 次の瞬間、屍のうえに黒い扇が叩きつけられた。

 無論、それは扇ではなく、デボラの硬化した翼だった。腐敗した肉体が正中線から二つに割れた。濁った血と蛆が飛散してなお屍は暴れた。


 しかし、それも束の間。


 腐肉に湧いた蛆ごと、突如、傷口から黒い靄が噴きだした。靄はすぐに硬質に編まれ、急成長する蔓の如く辺りを這った。屍の関節を縫い、いましめ、別な黒い腐敗として蝕んだ。

 やがて矮躯の従者が、せり上がるものを呑み下したときには、屍と呼べるものはどこにもなかった。腐肉の塊は、黒い彫像と化していた。長躯の従者が相手どった屍も、彼女の背後で物言わぬ黒となり果てていた。


「あんた、何なんだ……?」


 たまらず、異形の女へ訊ねた。

 しかし女は答えなかった。答えを寄越したのは、意外にも彼の主のほうだ。


「この嬢ちゃんは魔法使いさ。元々、この枢都にいた」


 デボラはアゾルフを一瞥した。が、すぐに興味を失くしたように目を伏せた。ソファの前に歩いて行くと「臭うわ……」とさも忌々しげに呟いた。

 矮躯の男は、強いて化け物から目を逸らし、主へと訊ねた。


「どういうことです? 魔法使いがあんな魔法を使うところなんざ見たことありませんよ」


 アゾルフはデボラについて知っている風だったが、さすがに今の彼女については何も知らないようだった。小さく肩をすくめ「ワシも見たことねぇ」と苦笑した。

 それよりも、とアゾルフは続けた。


「この動く死体はなんだ。しかもこいつら、ここでくたばってたガキどもじゃねぇか」


 スラムで最も多くを知るのはアゾルフだ。彼の知らぬことを従者たちが知るはずもない。問いを向けられた相手はデボラだったが、彼女は、黒い翼で裸身をおおい「臭うわ」と繰り返すだけだった。


「嬢ちゃんも知らねぇのか?」


 アゾルフが強いて訊ねると、金の眼が燃えるように光を弾いた。


「残念ながら、私はあまり物知りじゃないの。だけど、おそらく奴らの使う魔法だということはわかる」


 デボラが身体ごとこちらへ向きなおり、ソファに腰を下ろした。裸体はすでに翼が抱いたあとだ。闇の充満した室内では、それぞれに色の異なる瞳だけが浮かび上がって見えた。

 金の眼が燃える怒りなら。

 蒼の眼は凍えた憎しみのようだ。

 アゾルフは胸に絡みつく畏怖の念をふり払い、声をしぼり出した


「……奴ら?」

「ログボザ」

「ログボザ?」


 オウム返しにするしかなかった。

 たしかにログボザは胡乱な教団だ。何を考えているのか解らない。

 生きる気力を失くした廃人。あるいは、この雑音ばかりの世で、静かに終わりを迎えようと嘯くばかりの狂人。

 それが一般的な印象だ。

 アゾルフは、さらに多くのことを知っているが、せいぜいが人心を懐柔し私腹を肥やそうとする輩がいる、といった程度のものでしかなかった。


 しかしデボラの氷炎の瞳には、どうやら別の姿が見えているらしい。


「奴らは私たちの知らない魔法を使う。あるいは異なる式を用いる。屍が動きだしたのは、その魔法か式によるものだわ」

「式っていうと……。攻撃式や付与式のことか?」


 ろくに魔法は扱えないアゾルフだが、知識としては知っていた。枢都において、魔法使いでない者がそれを知るのは本来重罪だが、目の前の女は、すでに人の戒めのなかで生きる者ではなかった。実際、咎める素振りも見せなかった。


「そう。私の目には、魔法に意識を移し替えているように見えた。あるいは、〝物〟に意識を移し替える魔法なのかもしれない」

「つまり……ログボザの連中が屍に意識を移し替えて襲ってきたって言いたいのか?」

「すべて推測よ。真実は知らない。帰ってくるまでに何人か拷問したけど、誰も吐かなかった。でも、死体がひとりでに動いたりはしない。何者かの思惑が絡んでいるのは間違いないでしょうね」


 思惑。

 その言葉から、アゾルフが演説に尽力するログボザ信徒たちを思い浮かべることはなかった。

 脳裏に過ぎったのは、より身近で数奇な存在だった。

 いつか、このあばら家に住んでいた少年――ガゼルだった。


『あんたが築きあげてきたものを、すべて壊してやるよ』


 ガゼルが枢都から姿を消したあの日、最後に言い残した、あの言葉が忘れられなかった。

 あれは追い詰められた者の、苦しまぎれの捨て台詞だった。自尊心や威厳を保つための負け惜しみでしかなかった。


 それなのに。

 何故か、この状況とガゼルに因果を感じてしまう。

 陰に潜む襲撃者。顔の見えぬ暗がりの奥に、あの柔和な狂いきった笑みがはり付いているように思えてならないのだ。


「ああ、臭う……!」


 アゾルフは、その声で我に返った。

 そして怪訝に眉根を寄せた。

 強烈な違和感が感覚を鈍らせたのか、単に慣れてしまったのか。あるいは鼻も老いた所為なのか。

 死臭を嗅ぎとる事ができなかったからだ。

 しかし怪訝に首を捻ったのは従者も同様だった。


「なにが臭うんだ?」


 とアゾルフが訊ねれば、異形はカッと目を見開いた。

 殺気立った双眸で老爺を見返した。


「ログボザ……。ログボザ……ァッ!」


 そして獣じみた唸り声をあげた。

 突如、翼の表面に雷弧が波打った。


「こいつ!」

「待て」


 進み出ようとする従者を、アゾルフは制した。

 稲妻が鞭打ち、卓上のランプを割った。辺りを手当たり次第に叩き、割り、裂いた。


「……ッ」


 アゾルフの鼻先にも稲妻はかすめた。


「き、危険です!」

「静かにしろ」


 それでも彼は、決して従者を前に立たせなかった。パリパリ、ピシピシと鳴る稲妻は、怒号のようであり慟哭のようでもあったから。怒りや悲しみに、同じものをぶつけても反発し合うだけだと解っていた。


「クソ、クソ……!」


 やがて、氷炎の瞳に宿った凄絶な瞋恚は薄らいでいった。

 雷弧もまた霞のごとく霧散していった。

 室内はふたたび闇に包まれ、デボラの双眼を浮かび上がらせた。


「……落ち着いたかね、嬢ちゃん?」

「……」


 恐るおそる訊ねた声に、もはや彼女は、如何なる反応も返さなかった。疲れ果てたように虚空を見据え茫然としていた。


「わかってる、わかってるわよ……」


 そして譫言のように何か呟いた。

 彼女の心はすでに壊れているのかもしれない、とアゾルフは思った。


「ログボザ」


 しかし一貫して彼女は、忌まわしき名を口にし続け、


「……も必ず滅ぼしてやるから」


 と吐き捨てた。

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