二章 敗者の目に映るもの

 いつからこの身は鋼となったのか。

 瞼が錆びついたように感じられた。開けば軋み、上手く閉じることもままならなかった。

 その僅かな視野は黒かった。光を呑み、なお濃さを増す巨大な黒が朽ち果てていた。ある一つの死を物語るように。どす黒い煙がどろどろと、空へ吸い込まれていくのが見えた。

 彼の心も、もはや黒い煙と変わりなかった。胸の内に鎖すことはできず、掬い手繰り寄せようとしても溢れ、あるいはこぼれ落ちてしまう。

 あの朽ち果てた黒こそが、彼の希望だったから。


 スルヴァルト級ヨトゥミリス。

 それに唯一対抗し得る超兵器――オルディバル。


〝逆鱗〟との闘いで、彼――ヴァニ・アントスは、死の淵からかろうじて生き残った。

 しかしオルディバルは。

 彼の傍らにあるとおりだ。無残に破壊されている。

 下半身は二本の沈黙の塔と化し、上半身は救いを乞うように片腕をつき出したまま地に沈んでいた。

 それ即ち人族の滅亡を意味していた。

 ミズィガオロス島は、いずれ人族が姿を消した孤島となるだろう。


「守れなかった……」


 祖父の、自分自身の愛した世界を。

 人々が見続けてきた明日を。

 胸から消えていった希望の分だけ、空白を虚無が満たした。虚無の中からは絶望が滲みだしてくる。

 まなじりから滴がこぼれた。

 心を蝕む痛苦に地を掴んだ。

 その異様な爪の長さ。頬にはり付く感触は、いつの間にか伸びた髪。掬い上げてみれば、その色は見慣れぬ金色、皮肉なほどに美しかく光に透ける。


「あっ……」


 突如、肉体に生じた異変。

 おそらくオルディバルに搭乗したことによる副作用だ。これが何を意味するのかは分からないが、分からないからこそ怖かった。

 自分はどうなってしまうのか。人間ではないものになるのだろうか。あるいは、もう既になっているのかもしれない。


 いや、それよりもミズィガオロスは。

 この地に続いてきた無数の命はどうなる?

 意識を失っていた間、世界はどうなった?


「うっ、ぁ……!」


 全身をひきちぎれられるような痛みに耐え、ヴァニは身を起こす。

 今しがた産まれたばかりの動物の赤子のように立ち上がる。そこに励ましも労わりもない。孤独に恐怖は膨れあがる。

 ヴァニはきゅっと目をつむり、拳を握る。

 現実の不条理から目を逸らしたかった。逸らし続けていたかった。

 そんな事をおもう自分が嫌になる。

 明日を願う人々のために、戦うと決めたはずなのに。逃げようとしている。

 ダメだ。戦わなければ。戦い続けなければ――。

 だが、オルディバルを失ったいま、何を手に戦えばいいというのか?


「くそぉ……!」


 煙の臭いが鼻を突く。熱を孕んだ風が喉を嗄らす。手のひらに食いこむ爪が痛い。

 それらが生きていることを実感させる。

 望むと望まぬとにかかわらず、世界は依然ここにある。

 そして世界があり続ける以上は、絶え間ない決断を続けていかなければならない。

 恐るおそる瞼をあければ。

 世界はなんどでも歓迎の手を拡げた。


「……」


 たまらずヴァニは息を呑んだ。

 改めて目にした、天衝く威容に気圧された。

 虚しくそそり立つオルディバルの半身と、胸に風穴を穿たれた〝逆鱗〟のかばね

 人の視点から見た二柱の巨神の亡骸は、たとえ命潰えようとも、矮小なる身を圧する力の威厳に満ちていた。


「俺は、あんなのと戦ってたんだな……」


 それもあっさりと終わった。輿望を担う役目は終わったのだ。

 敗北に喫した以上、帰る場所すらあるかどうか。

 哀れな敗北者に向けられるのは、きっと労わりでも慰めでもなく。

 糾弾だろうから。

 オルディバルは間違いなく英雄だったが、しょせん道具に過ぎない。甘んじて称賛を受けるのも、唇を噛んで非難に耐えるのも、それを扱う人のほうだ。


 どうせ責められるなら……。


 ヴァニは巨神たちから踵を返した。

 そして彼の故郷を孕む、エブンジュナの森へ目を向けた。


「え……?」


 それがヴァニ・アントスに待ち受ける、次なる運命の兆しだった。

 西方の大地には、闘いの余波など及んでいない。エブンジュナの森は一部の木々が禿げ上がったばかりで概ね無事だ。ガオラト山の威容にも変わりはなかった。

 それでも間違いなく言える。


 世界は一変してしまった、と。


 エブンジュナの森。ガオラト山。

 その遥か向こう側。

 いや、より遠大に捉えるべきだ。

 西の大地が支える蒼穹。

 それらを貫き、紡ぐようにして。

 大樹があった。

 雪の白銀をまとったように白く、方々の雲を茂らすようにして枝を伸ばした、途方もなく巨大な樹が。


「なんだ、あれ……。いつの間に、あんなもの……」


 西の方角には、何もないはずだった。

 ヘンベの谷を抜けた先は、深い翳を落とす昏き森。そこを抜けた先は遺物発掘の荒野だ。

 それは荒野の名のとおり、命の一つも芽吹かぬ不毛なる大地。荒野の先は、環状に広がった昏き森のもう一端が見えてくるばかり。森の外に出れば、海抜以外に待つものはない。

 大樹など、どこにもあるはずがないのだ。

 それも空を隠すほど、射抜くほど巨大な樹木など。

 しかし目をこすり、何度瞬こうとも、白銀の大樹は依然として彼方にそびえ立っていた。


「何が起きてんだよ……」


 茫然とするより他なかった。疼く頭が、さらにひどく痛むような気がした。

 たまらず額を押さえれば、目端に、ふと白いものが過ぎって見えた。


「……?」


 とっさに辺りを見回すが、白いものなど見当たらない。

 噴きあがる黒煙、巨神の骸。あるのは対照的に、黒ばかり。そこここに散った花でさえも、煤に黒く汚れている。

 気のせいだったのか。

 そう思う一方で、感じてもいた。

 徐々に濃さを増す夜霧のように、肌にまとわりつく、気配。


「ニ……トス」

「なんだっ?」


 突として声は放たれた。ひどくくぐもって聞きとりづらい声音だった。

 順々に四望するも、映るのは風に舞う草花ばかり。人影らしきものは見出せない。

 その間にも気配は濃くなっていく。

 背筋を這う、恐怖。

 冥府の女神の吐息の如く。冷たく、鋭い。

 叫びの堰は、いよいよ限界だ。

 ところがその時。


「まだ、だ……。オルディ、バル」


 またしても鼓膜を撫ぜた声が、叫びに蓋をした。

 次いで背後に気配が凝固する。


 今こそはと振り返れば。


 そこに白を見た。

 彼方にそびえる大樹と同じ、雪氷のような白を捉えた。

 幽かに揺曳する、それは人型の輪郭だった。

 しなやかで華奢な四肢。長い首の上には卵型の頭部。くびれた腰目がけ流れる毛髪は絹のよう。

 しかしその相貌は、霞にも似て判然とせぬ無貌。

 ヴァニは後ずさる。腹の底から溢れだす恐怖に声も出せず、冷たい血液に戦慄を促されるまま。


「ゴッ……」


 瞋恚の炎で冥府の氷を解かし、死してなお現世に彷徨い続ける亡霊。それは遺物堀の間で、しばしば無貌の影として語られてきたものだ。


「ゴースト……!」


 さらに一歩後ずされば。


「まだ……」


 今度は耳もとから声が聞こえた。


「終わりでは、ない」


 胃の腑が凍え、冥府と化したかに思われた。腰が砕け、視界がとんと落ちる。

 無貌の視線から逃れるように正面を見据えれば、


「ひぃあっ!」


 同じ目線の高さにも、顔のない人影があった。

 そればかりではない。


「聞こえ」


 オルディバルの陰から、一つ、ふたつ――ぞろぞろと。


「ない」

「のか……?」


 霞の影が現れた。


「ヴァニ」

「えっ」


 そしてその時初めて、ヴァニは呼びかけられていることに気付く。

 怨嗟ではなく。妬み嫉みの嘆きでもなく。

 名を知った上で、何かを伝えようとしている。

 恐怖の中から、むくりと疑念が身を起こす。


「な、なんだ……。お前ら、何なんだ?」


 依然として恐怖はあった。すぐにでも逃げ出したかった。この場を離れ、一人になりたかった。

 けれど白き人々は、じっとヴァニの傍に佇んでいた。離れようとも、触れようともせず、ましてや襲いかかろうともせず。ただそこにあった。

 ヴァニに逃亡の意思がないと見てとるや。


「はあぁ……」


 一斉に、安堵の吐息をついた。

 正面の人影が揺れた。一歩、距離を詰めてきた。見下ろすように顎を引くと、胸に手をあてて言った。


「我々、は、敵ではない。ずっと、この時の、ために……。茫漠たる時間を、過ごし、てきた」


 無貌の人影は語り、ふいに胸に当てた手を握った。メキメキと骨が軋みそうなほど強く握ったように見えた。

 それからおもむろに指さした。

 ヴァニの背後。

 オルディバルの亡骸へと。


「我らが父母と共に」

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