四章 接触
「付いてきなさい」
と、白い影は言った。
抗うことはできたかもしれない。
しかしヴァニには、行くあてもなければ、帰る場所もなかった。
人という生き物は脆い。
絶望に打ちひしがれれば尚。はけ口を求め他者を攻撃し、心の安定をはかろうと努める。そうして理性を失い、道理が歪むとき、善悪にかかわらず原因と関与した者ほど相応しい的はない。
ヴァニはそんな人間の本性を前にして、耐えられる自信がなかった。信じてきたものを、自ずから嫌うことが怖かった。
己を曲げるくらいなら、死んだほうがマシだと。
白い影たちに付いて行くことを選んだのだった。
「……」
ヴァニは周囲を並び歩く影たちを見る。
彼らが何者なのかはわからない。質問をしても「来ればわかる」としか答えず、まるで相手にされなかった。
彼らが導こうとしている場所だけは見当がつく。
空さえ穿たんばかりの巨影――あの大樹だろう。
あれの出現とともに、白い影たちも姿を現した。エブンジュナの森を横断し、ヘンベの谷を通って、今、昏き森の闇に抱かれているのが、その何よりの証左だった。
不思議な奴らだな。
闇の中を行進する影たちの背を見つめながら、ヴァニは思う。
亡霊じみた白い影というだけで奇異だが、おかしなところはそれだけではなかった。
昏き森の樹冠は、複雑に枝葉が重なり合い、天からの光を通さない。しかし樹下はまったき暗闇ではない。森の切れ目から射しこむ明かりがあるからだ。
とすれば影たちの白は、本来ならより際立って見えるはずだ。ところが、彼らの輝きは、むしろ衰えていくように見えた。
いや、衰えているというよりは、同化していると言ったほうが正しいかもしれない。色は白だと判るものの、背景と輪郭の境界が判然としないのだ。夜に揺曳する霧を、白いものだと思いこんで見ているような。錯覚めいた感覚があった。
錯覚と言えば。
おかしなことがもう一つある。
白い影でなく、自身に関することだ。
スルヴァルト級ヨトゥミリスとの闘いでは、多大な魔力を消耗する。〝逆鱗〟との死闘も例外ではなかった。ほとんど満身創痍と言っていい状態だったろう。こうして森の中を歩くどころか、立ちあがることさえ難儀したのだから。
にもかかわらず、今、こうして歩き続けている。
最初は何度も膝が折れた。エブンジュナの森へ辿り着く間に、息を切らし、足許を見下ろした回数は知れない。
ところが、大樹に近づくにつれ、不思議と身体が軽くなっていくのを感じる。疲れが癒えていくというよりは、空っぽの器に潤いが満たされていくようだ。肉体だけでなく、精神の憂いまで軽くなっていくような気がする。
おそらく枯渇した魔力が、急速に回復している――。
そんな事あり得るのか……?
ひょいと木の根を跳びこえ、その身軽さに驚く。魔力だけではない。変異した肉体も、ただ姿形が変わっただけではないらしい。踏みだした歩幅以上に、距離を進んでいるように思える。まるで大地が自ら意思をもって歩みよってくるかのようだ。
それは脅威だった。世界が自分に縋りついてくるようで。
俺には受けとめられない……。
オルディバルは滅びた。今の自分は、ただの人族の少年だ。縋りついてくるものを励まし得るものなど、何も待ち合わせていない。
それどころか、この人ならざる姿は、救いを求める者たちに恐れを植え付けはしないだろうか。与えるどころか、侵してしまうのでは? 毒の息を吐く怪物のように。
「見えるか?」
白い影たちの異様さは、いっそ慰めのように感じられた。人ならざる無貌に、おなじ色彩を見たような気がした。
「貴様には、知る権利がある」
しかし何かが違う。
白一色に染まった相貌に、鋭い光が閃くのを感じる。
刃の切っ先? 炎の華?
どちらでもないようで、どちらでもあるようにも感じられる。
化け物とは異なる、馴染みある波長――。
「ヴァニ」
名を呼ばれ、ヴァニは思考を断った。
そして彼らの示すものを見た。
森の終わり。昏き森の淵。横一文字の光の切れ目。森と荒野の境界。
「……まさか」
そこに続くは、遺物発掘の荒野ではなかったか。魔法使いとなれなかったクルゲの里人たちが行きつく荒漠。ヴァニ自身も二年間通い詰めた採掘場。
しかし、そこにあるのは――。
ヴァニは、白い影たちの間隙を縫い駆けだす。
景色が近づく。
急速に。思いがけぬ速さで。
あれは荒野に違いない。一文字の光が口をひらいてゆけば、広がっているのは見慣れた景色だ。
が、決定的に違う。
あの縦横無限に立ちはだかる、透きとおった壁のようなものは何だ? 時を止めた滝のようなものは何だ? 決してたなびくことのない紗幕めいたあれは、一体なんなのだ?
ふとした瞬間、ヴァニは悟った。愕然として足をとめた。
「辿り着いたのだ。
いつの間にか影の一人が、隣に立っていた。
ヴァニは確信した。あそこにある壁が何なのか。
「あれが全部、大樹の幹か……?」
「そうだ。そして貴様は、我らを知ることになる。奴らを知ることになる。始まりを知ることになる……」
影は意味深長に言ってみせる。直接、答えを寄越しはない。諭すように大樹を見るだけだ。
ヴァニも訊ねない。視線の先を追う。大樹を見る。
すると、幹の表面が揺らいだように錯覚する。おいでおいでと手招きするように。
ヴァニは恐れる。あそこにあるものの大きさに。自分を取り込もうとする力の強さに足がすくむ。
けれど星の眩い夜空のように、意識を吸いこまれそうになる。黄昏の隅に残された青のように惹かれていく。
ハッと我に返ったときには、すでに踏みだしていた。
身体が紐を解いたように軽くなった。
大樹が呼んでいる。声はない。ただ感じる。言葉が浮かびあがる。この変貌した皮下に。流れこんでくる。
我とともに在れ、と。
畏れる事勿れ、と。
ヴァニは、不可思議な懐かしさを覚える。
「でも俺には、なんの力もない」
そして一歩踏みだす。
――それでも貴様は、我を選んだ。
「俺は何も選んじゃいない」
また一歩。
――否、貴様はここにいる。
「俺はもう、俺じゃないかもしれない」
さらに一歩。
急速に距離が縮まる。大地が迫り、大樹が迫る。その白が。白銀が。眼前に迫り、闇に慣れた目を焼く。
大樹は囁きかける。
貴様が貴様でないのなら、我らは再び出逢わなかったと。
ヴァニは苦しげに目を伏せた。
「教えてくれ。お前は、誰だ……?」
我は、我が名は――。
白銀の幹が揺らぐ。万の手を伸ばし、少年の身を抱くように。
あるいは少年が自ら、幹を抱いたのか。
その不安から。恐怖から。温もりを求めるように。
いずれにせよ、幹と肌は触れあった。
「あっぐ……ッ!」
突として閃光が弾けた。
指先から。爪の隙間から。手のシワから。
光の針に縫われ、意識が揺らいだ。
薄皮を剥がされ、むき出しの自分が露出するのを感じた。
知ってるぞ、これ……!
意識が、かろうじて吼えた。
肉体と精神の乖離だ。
オルディバルと同調するのに似た――!
『たまには好いものだな』
『すまなかった』
『外道がッ!』
同時に、奔流のごとく流れこんでくるものがあった。
意識。思惟。記憶――。
人のそれと同じもの。
しかし明確に自分自身のそれではない何か。
『――』
やがて流動する意識は語りかけてくる。
あるいは独白かもしれない。水の膜の向こう側で、誰かがぼそぼそと呟いているのがわかる。
『……』
声は徐々に近くなる。明瞭になっていく。
剥がれた皮に、新たな皮をかぶせるように。
ヴァニの意識と何者かの意識が浸潤し、
「ぐあああぁッ!」
突如、稲妻に打たれたかのような衝撃に襲われた。
朦朧とした意識が霧散する。
空白が自我の欠片を吸い取っていく。
落ちる!
ヴァニは確信した。だが、どうすることもできなかった。押し寄せるものに耐えるしかなかった。またこの世に目覚めることを信じて。
はっきりと声を聞いたのは、意識の途切れる寸前だった。
しわがれた声が『スリトーラ』と呟いた。
『……あ、ぁ』
ヴァニが目を見開いたとき、そこはもう昏き森ではなかった。遺物発掘の荒野も、大樹の幻影もなかった。
あるのはただ、息を呑むほどに美しく荘厳な広間だ。
透き通った宝石の柱。稲妻のごとく浮きだした金の天井。螺鈿細工に彩られた玉座――。
富と尊崇の象徴めいた空間が、ヴァニの目に映るすべてだった。
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