二十五章 絆

 雨に煙る景色は夢幻のようだった。

 種々の輪郭は、車軸を流す雨にかき乱され、沁みる冷気とともに朧になってゆく。


 自分たちを囲む胡乱な気配ばかりが感じられる。雨のはじける音に混じって、その僅かな息遣いさえ感じられるような気がした。


 だがどれだけ感覚が鋭敏になったとしても、この状況を覆す術など持ち合わせていない。ダウナスは魔法使いでなく、狩人であり、獣の狩り方に知悉していても、人との戦い方など知らなかった。


 また人を殺したいとも思わない。長く命を絶ってきたからか、罪悪感はそれほどでもなかったが、やはり気持ちの良いものではないのだ。


 だからってよ……。


 狂信者どもに連行されるのは御免こうむりたい。この場でダウナスに決定権などないも同然だが、彼にも意思くらいある。それに何の意味もない事も判ってはいたが。


 それでもいつの間にか狩人の視線は、デボラに注がれていた。この場で力をもつ者の意見を待つ。そのような消極的な眼差しではない。


 ダウナスの双眸に宿るのは期待だった。


 この女は、きっと思いもよらぬ決断を下す。

 そう思えてならなかったのだ。


 根拠があるわけではない。どちらかと言えばデボラは、消極的で慎重な人間だ。拷問の際には気を取り乱し大胆にもなったが、この場で突然暴れだすような事はしないはずだった。

 にもかかわらず狩人の嗅覚は、絶望のにおいを捉えはしない。

 そしてデボラは、狩人の直感どおり、予想外の行動にでた。


「……あなたたちは、どうやって神に祈るの?」


 そう尋ね、おもむろに天を指したのだ。


 旅人たちを囲った気配は警戒をあらわにしたが、すぐにそれをただの問いと解釈したようだった。一瞬の緊張が弛緩し、網に綻びが生じたように思われた。


 旅人たちは、そこにデボラの意図を見た気がした。

 次の瞬間、黒ずんだ杖に雷弧がひらめいた。


「……エルスィーング」


 黒槍の信徒が動いた。周囲の気配も一斉に殺意を剥きだした。


 旅人たちは――切りこまなかった。

 一瞬の決断は跳躍だった。彼らは空中にいたのだ。天を指したデボラの仕種に『上』のハンドサインを見たのである。


 足許を千の稲妻の蛇が這った!


「ぐあああッ!」


 突きだされた黒槍がデボラの鼻先で動きをとめた。信徒の全身を稲妻が駆けぬけ麻痺させたのだ。


 さらに草地を馳せた稲妻は樹木を伝い、枝葉から枝葉へと飛び移って、次々と樹上の気配を撃ち抜いた。雨に濡れた森の中、雷撃は水を得た魚のごとく無限を馳せるのだ!


 デボラの着地とともに、杖は炭化してぐずぐずと崩れた。それを握っていた彼女の腕も赤く腫れあがり煙を吹く。


 しかし誰もそれを気遣う余裕などない。

 魔法使いたちは強化魔法によって己が肉体を昂らせ、ウルはダウナスを、キルフはデボラを抱いて駆けだした。


 羽を切られた小鳥のように喘ぐ信徒たちを踏んで、旅人たちは包囲網を突破する!


 魔法を用いた速度は凄まじい。風を裂き、雨を裂く。苦悶の声は遠く後方。雨音がすべてを呑みこんでゆく。


 そうして道は上り坂に、岩がちになってゆく。ダウナスは記憶した情景を思い起こし「そのまま進め!」と一行を促した。

 それは山の方角だった。雨にぬかるんだ斜面は危険だが、登ってしまえば追手の迎撃に他とない地の利を得ることができる。


 徐々に険しくなる山道を、しかし旅人たちは悪態の一つもなく駆け上がった。今や彼らは信頼と絆によって固く結ばれていたのだ。


 ダウナスはそこに憤りとも憎悪とも言い難い感情を含ませた。

 かつて甘ったるい信頼や絆に夢をみた若い狩人は、それが幻想だと思い知らされたからだ。


 ダウナスには親と言える人がいなかった。彼は森のなかにひっそりと捨て置かれ、それを狩人に拾われたのだった。

 狩人は彼を献身的に育てた。己の息子として、一流の狩人として、生きる術を叩きこんだ。ダウナスに爪を振りかぶるものあれば、その脳天を矢で射抜き、大物を仕留めた際には一番うまい部位をくれてやった。


 それでも狩人は一人の人間であり、また〝旅団〟のカシラでもあった。カシラは〝旅団〟に危機が迫ったとき、その損害を最小に抑えなくてはならない。


 そのために、若いダウナスは囮にされたのだった。疾狗シイクの彷徨する森へ。かつて自分が拾いあげられた自然のなかへ。彼は再び捨て置かれたのだ。


 俺はこいつらを信じていいのか?


 山を駆けあがる魔法使いたちの息遣いを聞きながら、ダウナスは自問した。


 信じていいはずがない。


 心の底でかつての自分が言った。


 もう信じてるだろうが。


 冷静な自分が吐き捨てた。


 ダウナスは苦笑する。

 結局、俺はこの程度の存在だ、と。


「きゃあっ!」


 そこへビョウと強い風が吹いた。

 並走していたメズの肩から、突如血がしぶく!

 風は碧に色づいていた。そればかりか繊維のように編まれたそれは、人型をとり二撃目の爪を振りあげている!


「クソッ! 走れ、ダウナス!」


 その時ウルが名を叫び、ダウナスを投げた!


「なッ!」


 魔法で強化されたウルの力は、大の男を易々と二十ヤードばかりも投げ飛ばした。

 ダウナスは咄嗟にナイフを抜き、樹木へ突き立て落下の勢いを殺しにかかる。

 その背に魔の叫びが轟いた。


「エルドゥルぅ!」


 声に応えるがごとく火柱が噴きあがる!


 風の魔人は爆風に霧散した。

 しかしたちまち次なる刺客が、二と三と姿を現した。その速度はまさに風であり、強化を施した魔法使いでも逃げ切ることはできない。


 ウルはぬかるんだ地面を踏みしめ、追手へ向き直った。燃えさかる腕を掲げると、獰猛に笑った。


 ダウナスは不格好に地へ投げだされるも、すぐさまナイフを引きぬいた。ウルの殊勝な表情を一瞥し、胸を裂かれる思いがした。


「失せろ、エルドゥルッ!」


 螺旋をえがき次々と焔神えんじんの腕が生じた。

 それは樹木を喰い荒らし、雨を霧にかえ、風の魔人を消失せしめた。

 そしてウル自身もまた、炎の腕に握りつぶされた。耳を聾する絶叫が、噴きあげる炎と雨の蒸発する音にかき消された。


 熱波に背を焼かれ、ダウナスは我に返った。外套を脱ぎ捨て駆けだした。

 そこへ火の粉を散らしながらメズが追い付いた。彼女は泣きながら歯を食いしばり、狩人へ手を伸ばした。


「おい、傷は問題ねぇのか!」

「いいから乗ってください! 逃げきれませんよッ!」


 メズの肩の傷は決して浅くなかった。一方の腕はだらんと垂れ下がり、今なお血を流し続けている。

 それでもメズの言うことが正しかった。強化魔法を行使できないダウナスの足では、追手から逃げきるなど不可能だ。


 狩人は魔法使いの手をとった。

 瞬間、宙にはね上げられ、気付くと背中のうえだった。


 隣にキルフが並んだ。

 背後からは更なる追手。新たな風の魔人が次々と押し寄せてくる。


 だが、距離は確実にかせいでいる。ウルの犠牲は無駄ではなかったのだ。

 そして次に魔人を迎え撃ったのはキルフだった。


「崩れろ、ヴァハトンッ!」


 咆哮とともに、世界が一瞬時を止めたかに見えた。

 降りしきる雨が中空にとどまったのだ。

 しかしそれは次の雨に打たれた途端、雨粒同士で結びあった。爪の先ほどの細い水滴も、千も万も紡ぎ合ったなら、そこに生じるのはもはや雨粒ではない! 波だ!


「押し流せえええぇ!」


 キルフはありったけの魔力を注ぎこむ。波はヲームルガドラのあぎとと化し、地盤を支える樹木が流されるにつれ、土砂もまた崩れ落ちてゆく!


 濁流を前に魔人たちはなす術なし。

 圧倒的な質量がすべてを破壊の渦に呑みこんでいった!


 ところが、緩んだ地盤は旅人たちをも苛み始める。


「崩れる……ッ!」

「上よッ!」


 班長の叫びとともに、魔法使いたちは跳躍する。傾きはじめた樹木の幹を蹴り、次の幹を。さらにその次を蹴って加速した。


 背後で土砂が滑落してゆく。樹木の断末魔が雨音を裂き、山の裾野はたちまち裸となった。

 そこへ破滅の奔流を祝福せんばかりに、雷が降りそそぐ。空間を裂く刃のごとく。その鋭さは時とともに増してゆく。


 追手の姿はもはやない。

 しかし土砂の崩落は止まず、空は哄笑し、仲間たちの声を聞くことは適わなかった。


 自然が、魔法が体力を奪ってゆく。徐々に跳躍の高さを減じてゆくメズの顔面は蒼白だった。


「おい、大丈夫か!」


 治癒術師の朦朧とした意識をはって起こすように、ダウナスは叫んだ。粘ついた血の感触が腋に溜まってゆくのを感じながら。


 そしてメズは、ふいに己をとり戻したようにダウナスを見た。肩越しに合った視線に、炎と氷の感情が入り混じっているように見えた。


 ダウナスはその意味を計りかねた。

 弱虫の魔法使いが泣き笑いめいた表情を浮かべる、その時までは。


「……ダウナスさん、ありがとう」

「なに言ってんだ、あんた!」

「私は弱虫だけど、生きている意味もあった。この時のために、私は――」

「黙れッ! 勝手に諦めるんじゃねぇ!」


 ダウナスは、彼女の不穏な言葉を遮った。

 だが彼女の中で、答えはすでに定まっていた。


 次の幹を蹴ったとき、メズは大きく体勢を崩した。身体が傾ぎ、足を挫いて、不格好に宙を舞ったのだ。


 その拍子に彼女は、狩人へ空をくれてやった。


「メズううううッ!」


 ダウナスは再び投げ飛ばされた。遠方の景色へ吸いこまれるように、崩れ去る裾野が、波へ落ちてゆくメズが見てとれた。


「うがあッ!」


 そして次の瞬間、ダウナスは背中から斜面へ激突した。勢いのまま地面を跳ね、したたか腕を打ち、張りだした岩に肋を食まれるとようやく止まった。


「あ、あっか……!」


 全身が燃えるように痛み、息を吸えなかった。赤子のように蹲り、ひたすら地獄の業火を耐え凌ぐしかない。

 それでもダウナスは生きており、皮肉にも斜面の崩落は止んでいた。


「ダウナスさん!」


 そこへキルフの声が近づいてくる。

 雷光も雷鳴も、紫の空からまだ落ちていたが、雨の勢いはほとんど小雨のようになっていた。目を見開いたキルフの相貌がよく見える。


「班長! 追手の姿は確認できません! ダウナスさんがここに!」


 短く報告を終えると、キルフは衣服の裾を破り、太い木の枝を拾ってきた。それを一方の腕におし当て破った布で結びはじめる。


「ぐあ、ああっぐ……ッ!」


 触れられるたびに熱した万の針に貫かれるようだった。それでも腕が折れているのは明らか。キルフの処置が正しいことも解っている。


「ダウナス……」


 デボラがやって来た。彼女は悲痛な表情でこちらを見下ろす。それほど傷が深いのか。それとも仲間の死を悼んでの表情なのか、今のダウナスには解らなかった。

 そして、それはさして重大なことでもなかった。今の自分たちがすべきことは、互いの傷をなめ合うことではない。


「う、うぅ……!」

「ダウナスさん、無茶ですよ!」


 無理やり立ちあがろうとする狩人を、キルフが止めにかかった。しかし彼はそれをふり払い、ふらつく足で立ったのだった。


「悠長にしてる時間はねぇだろうが……。俺たちだけでも生き残らなくちゃ、あいつらの犠牲が無駄になる……」


 キルフとデボラが唇を噛んだ。

 しかしすぐに二人とも、決然とした眼差しで狩人を見る。


「逃げるあてがあるの?」


 ダウナスは小さくかぶりを振った。


「んなもんあるわけねぇ。俺たちは〝陰〟のことなんざ何も知らねぇんだ」

「じゃあ、少しでも休んで考えるべきじゃないの?」


 デボラが鋭く指摘した。正論だと思った。

 ところがダウナスは、これにも否を訴えた。


「確かな事なんざ何もねぇ。だから俺たちは賭けるしかねぇんだ……」

「賭ける?」

「ああ……あれを見ろや」


 ダウナスは憎々しげに笑い、山の頂上を指し示した。

 デボラたちはその先を目で追うが、すぐに首を傾げることとなった。


 空は暗雲。

 山を覆う木々はふかく、辺りには霧がたち込めている。薄ぼんやりとした威容は、もはや黒ずんだ塊にしか見えない。


 その時、ダウナスが「来るぜ」と笑みを深めた。


 一瞬の事だった。

 暗雲に雷弧が絡みついた刹那、稲光が霧さえも穿ち、そのすべてを照らし出したのだ。


 網膜に閃光が焼きつき、魔法使いの二人はたまらず目をしばたたいた。

 しかし彼らは、ダウナスの示したものの正体もまた、しっかりと脳裏に刻みつけていた。

 怪訝と驚愕をもって、キルフが口をひらいた。


「まさかあれは――」

「そのまさかだと信じてぇな」


 山の頂上に広がるのは一面の黒である。

 それは暗雲の許で一層黒く、幹や枝葉を天へ伸ばしながらも、決して風に揺れる事はなかった。まるで時が止まったかのように。あるいは自然を模した贋作であるかのように。


「……俺は小人族の宝を求めて、あんたらに付いてきたんだ」


 めいた樹木が、深く頂上へ根付いていたのだ。


「もし、ここが例の宝山だってぇなら、あのクソどもをどうにかする道具が転がっててもおかしかねぇぜ」

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