二十六章 いつか夢見た東雲の空
『銃を下げろ、デイバ』
ガルバは低く言い放った。
小刻みに震えるミラの前に立ち、その太い双腕を拡げながら。
それにデイバは謎めいた言語で答えた。ガルバの懐に収められた翻訳機は、その音声を自動的に変換した。
『退け、ガルバ! なぜ人族を庇う?』
『この子は少女に過ぎん。幼い命に手をかけるのは、ただの非道だ』
デイバは少女を睨み、その髭に覆われた唇の隙間から蒸気を吐きだした。
『それの言葉を信じるのか。それが本当に少女だと信じられるのか』
『信じるさ。この子は我々が捕らえた者どもよりよほど小さい。実際に会話をしてみて、その精神性の幼さもよく解った』
『バカな。人族は欺瞞の種族だ。我々の祖先を散々働きづめにさせた挙句、ログボザなどという胡乱な神の贄とするような輩だぞ』
ガルバは仲間の言に心底辟易とした。ドワーフは本来穏やかな種族だが、自ら学ぶことを放棄し、偏見に塗り固められている。実際に史実へ目を通したなら、人族がドワーフを飼い殺しにした事実などないと理解できるだろう。
だがログボザという胡乱な集団によって、ドワーフたちは人族を恐れ恨むようになってしまった。
今、後ろで震える
『……たしかに私の判断は早計かもしれん』
言えば、デイバは獰猛な笑いを吐き捨て一歩踏みだした。
しかしガルバは、それを留めるように言葉を紡いだ。
『だからこそ行かねばならん』
『なんだと……?』
ガルバを怪訝に見たのは、デイバだけではなかった。小さく身動ぎしたミラもまた、彼がなにを言ったのか理解できていない様子だ。
『ドワーフは長くこの地下世界に閉じ込められてきた。ログボザの手から逃れるためには、こうして隠れひそむより他になかったからだ』
『なにを今更分かりきったことを言っている!』
苛立つデイバに、ガルバはいちいち構ったりはしない。
『それは我々の本懐ではないのだ。私はずっと空を見たかった。いつかお前とも話しただろう。
デイバは僅かに苦い顔をした。彼も青春のときを忘れてはいないのだ。
二人がまだ幼かった頃、ともに東雲の空を見上げた日の事を。
『それを実現する時が来たのだ。我々は自由を手に入れねばならん。ログボザに怯える世界を是としてはならん』
『何が言いたい?』
デイバは半ば怯えたように言った。
『世界を変えるのだ。そのために私は旅立つ』
ガルバは少女の手をとり、意外に見上げた少女へ微笑んだ。
『この少女とともに海抜を渡る』
『な、なにをバカげた事を……』
狼狽するデイバへ、ガルバはさらに畳みかけた。
『じきに奴が蘇る。この子はそう託されたらしい』
デイバが稲妻に打たれたように目を剥いた。
『蘇る? 蘇るだと』
『そうだ。お前も〝古の時代〟に関する書くらいならば目を通したことがあるだろう』
『……』
デイバは何も答えなかった。それこそが答えだった。
偏見とは、物事の一部だけを拡大視したゆえに起こる現象だ。まったくの無知であれば、それはただの周囲との同調でしかない。
デイバは同調して人族を蔑視するのではない。歴史の一部を知ったうえで、人族を厭うのだ。その程度の良識はもっている。
『……我々が隠れひそむ時代は終わりだ。これからは我々自身が動きださなければならん。私は、そのための引き金に過ぎない』
これまで沸々と怒りに煮えていたデイバは、憮然として虚空を睨んでいた。
『通してくれるな、デイバ』
『それすらも、その女の虚言かもしれん。そうでないという証拠はどこにある?』
その問いにガルバは目を伏せた。
『この世の多くは、証左など求められるものではないさ。合理的な判断は、物とともに生きる我々にとって不可欠のものだった。しかしそればかりで務まるほど、生きるということは無機質でもないのだ』
今度はガルバのほうから歩みよった。デイバは銃を構えたが、その指は引き金にかかっていなかった。
『私はあの子の目を信じることにした。真に我々に怯え、知に飢え、約束に燃える目を。我々となにも変わらぬその目を信じてみたいと思った。なんの合理的根拠もない。ただ、それだけだ』
『外に出るのは危険だ。お前だけではない。我々ドワーフ全体を危険にさらすこととなる。理解しているか?』
『無論だ。だが、ここに引きこもっていれば、ログボザの目を永遠に欺けるという保証もない。奴が蘇るというのなら尚更、隠れることに意味はないだろう。我々は書物にも記されていない、現代の真実を見る必要がある。そして手をとり合える者と団結し、脅威に立ち向かって行かねばならんのだ』
さらにガルバはツカツカと歩き、ついにデイバの肩を叩いた。デイバはそれを振り払わず、疲弊したように銃口をおろした。
『心配するな。たとえ私が捕まろうと、同胞を売るような真似はせんさ。指をすべて引きちぎられようと、全身の皮を剥がされようと、我々ドワーフの繁栄を願い続けると約束しよう』
デイバはガルバを一瞥し、次いで人族の少女を見た。
『お前はバカだ。ここまで来れば、あの女を守るものはなくなる』
『お前もバカだ。すぐに激情に駆られる。だがデイバ、お前は決して酷薄な男ではない。外道坊主に手をかける時でさえ、お前の顔には苦渋が滲んでいた。それを見逃す私ではないぞ』
デイバは不服そうに荒い鼻息を吐く。
その上で、人族の少女に剣呑な眼差しを向けた。
『……俺はお前を信じていいのか?』
ミラはびくりと震え、返答に窮した。彼女は、デイバを信用させるだけのものなど何も持っていなかったからだ。
しかし答えなど決まっている。自分の命が惜しいからではない。
自分は無力で、けれどたしかに自分にできるだけの力で歩みを進めてきた。そんな自分を信じていたから、ミラは「信じて欲しい」と頷いた。
『……』
デイバはしばしそのまま少女を見つめた。彼女の目から何か小さなものを掬い上げるように。ただじっと見つめていた。
ミラも目を逸らさなかった。
怖かったけれど、逃げるつもりは毛頭なかった。
やがて遠く細い光の方角から、緩やかに風が吹いてきた。
デイバは髭をしごくと踵をかえした。
『……なら、俺も行く』
ガルバとミラの二人は、虚を衝かれたようにその背中を見た。
『勘違いするなよ。その女を信じたわけじゃない。ガルバの妄言に納得したわけでもない。俺は俺の目で真実をたしかめる。人族の中にも味方に値する者がいるかどうか。それを判断するために付いていくだけだ』
『そうか。偏見に踊らされるよりいいさ』
そう言ってガルバはミラを見る。小さく手招きして微笑んだ。
ミラは緊張を抱えたまま、しかし安堵もたしかに抱いてガルバの許へ駆け寄った。
そうして三人歩きだせば、徐々に光は大きくなってゆく。針のようなそれが色をもち、はっきりと外に繋がっているのが見えるまでに、世界は茜色へ染まろうとしていた。
三人ともすっかり疲れ切って、眠ってしまいたくなるほどの距離だった。
しかし誰もが、そこに穿たれた巨大な穴から見える景色に、息を呑まずにいられなかった。
「わあ……。これって」
荒々しく吹きつける風にさらされながら、ミラが感嘆の声をあげた。それに答えたのは意外にもデイバのほうだった。
『海だ。東西を分かつ海抜。これを渡った先に、俺たちの故郷エブンジュナがある』
はるか目下。
どこまでも広がる、空と融けた紅い海。万の彼岸花が揺れるような幻想めいた光景。地下の薄暗がりに満ちた、無機質の岩肌からは感じられない柔い神の抱擁がそこにはあった。
ガルバとデイバがかつて願った空の色は、それとは異なる。より暗く、けれど真珠を散らしたような海があった。白みつつある空との、蠱惑なほどの撹拌があった。
そのいつかの空を掴むために、今はただこの紅の空に融けよう。
ガルバたちは水平線に僅かに盛りあがった、遠方の大地を見据えた。
「あの、ここからどうするんですか?」
遠慮がちにミラが尋ねた。
するとドワーフの二人は、悪戯好きな少年のように、にやりと笑ってみせた。
『こうするのさ』
ガルバが一方の腕を掲げた。その手首に巻かれたバングルめいたものが、鈍く輝きはじめた。
するとたちまち、洞穴のほうから風の音を割る軋み音が近づいてきた。いや、大地すらも割らんばかりの凄まじい音へと膨れ上がっていく。
「あ、あれ……!」
そして薄闇のなかに巨大な輪郭が刻まれた。
闇よりもなお色濃い黒。鋭角な人型のシルエット。
ドワーフが与えた名は、
『〝
さらにその背部には、排煙管の他に二等辺三角形の部位が対称に設けられていた。
通常と異なる〝黒鉄の化身〟は、ガルバの正面で膝をつくと、その腹部から白い蒸気を噴霧した。たちまち腹部が割れ、背部に反りかえって、機械のはらわたを明らかにする。
ミラは仰天してそれを見ていた。
ガルバは機械巨人のなかに乗りこむと、少女へ追い打ちの一言を言い放った。
『ミラ、高いのは得意かな?』
「……」
返答を待たず、機械巨人はガルバを呑みこむ。そして再びすっくと立ちあがり、一方の手中にデイバを掴んだ。
「ウソでしょ……?」
不格好に巨人へ捕らえられたデイバが『残念ながら嘘じゃないな』と苦笑する。
そしてこう結んだ。
『さあ、海抜の向こうまでひとっ飛びだ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます