二十四章 英雄の代償
人がふみ出す一歩は重く。
引き返す足は軽い。
他者のために伸ばす腕には責任という名の蛇が絡みつき。
己を抱く腕には虚しい感傷が焼きついて離れない。
すべてが己のためであれば、逃れることもできただろう。
しかしヴァニの握る拳のなかには、勇気を奮い起こし踏みだす足には、ミズィガオロスに住まう人々の命が宿るのだ。
「クソ……ッ! 押し返せ、オルディバルッ!」
オルディバルと感覚同調したヴァニは、全身全霊をもって〝逆鱗〟の突進を踏みとどめる。噛みしめた奥歯が欠け、スフィアを握りしめた手は白く染まる。
それでも関節の駆動部を鱗によってジャミングされた状態では、押し返すことができない。魔法によるブーストが切れたことで、そもそも膠着を保つことさえ難しかった。
「ぐぅ……ッ!」
オルディバルの足許で、地に湧いた雲のごとく土煙が舞う!
その衝撃で地上は、瞬く間に荒漠と化す!
もはや巨神同士の闘いに近づける者はない。
ヴァニは己の使命に燃え、焦り、そして途方もない孤独を感じた。
アルバーンが言ったように、戦場には自分一人しかない〝
「おおおおおおおおぉぉぉッ!」
ヴァニは巨神とともに咆哮する。己の深奥に眠る力を、搾りだすように強く。
しかしオルディバルは耳障りに軋んだ。その意志を受けとめかねたかのように。
「オオォガアアアアアアアッ!」
そこへ〝逆鱗〟の怒号が轟いた!
たちまちオルディバルの指がメキメキと音をたてはじめる! いびつに成長した木々のごとく、その鋼の拳が敗北へと近づいてゆくではないか!
ヴァニは胃の腑に爆ぜた恐怖を、焦燥に握りつぶした!
「くれてやる、相棒……魂の底まで喰い尽くしやがれェ!」
絶叫とともに暗い炎がはじけた。いつか聞いた心の雷鳴が、暗雲の果てへと遠ざかっていった。
しかし魔力を紡がれた。
「スプリーンガァァァッ!」
次の瞬間!
巨神たちを支えた地盤に亀裂が生じた!
土煙が舞い、岩の弾がとび、天地が裏返るように震撼した!
それぞれ僅かに地へ沈む!
〝逆鱗〟は土漠のごとき筋肉を浮かび上がらせる。
オルディバルは背から血のような炎を噴きあげる。
拮抗は一瞬だった。
オルディバルの指が奇形の花のごとくめくれ上がった刹那、蛇の毒に蝕まれたかのように〝逆鱗〟の片腕にヒビが伝ったのだ!
さらにオルディバルの膝を貫いた鱗が、衝撃に砕け散った。装甲がゆがみ、黒い噴煙をふき始めるが、ふたたび黒鎧は一歩の力をとり戻した。
排煙管から噴きだす炎の勢いのままに、オルディバルは〝逆鱗〟を押し返す!
「オガアアアアッ!」
〝逆鱗〟が悲鳴をあげた。あるいは敗北を悟った屈辱の文句か。
炎の翼で飛翔するオルディバルは、しかし無慈悲に〝逆鱗〟のヒビ割れた片腕を土砂へと変え、奈落へと
砂の暴風が吹き荒れていた。それに呑まれたものは、土塊の打擲にゆがみ、砂の刃に切り刻まれ、風の拳にひねり潰されバラバラになった。
そしてそれは、空へと至らんばかりの巨躯さえ、奈落へとさらっていく。
「オオオオオオオオオオオオオオッ!」
絶叫が渦をまくと同時、オルディバルの肘から螺旋の炎が噴きあがった。竜が鳴いたように空がどよめき、〝逆鱗〟の胸に拳の痕が刻まれた。
そこは大瀑布の縁だった。
激流が爆風とともに宙へ弾けた。
〝逆鱗〟の身体は虚空に舞った。瀑布に満ちる闇の手に抱かれるように落下していった。
オルディバルはたたらを踏んで、瀑布から離れた。歪んだ拳がメリメリと音をたて、ついに地上へと落下した。
さらに黒鎧は、脳震盪でも起こしたようにふらつき、徐々に後ろへうしろへと下がってゆく。街道が陥没し、森は踏みくだかれてゆく。
それでもマクベルの外壁を踏み潰す寸前で、ようやく止まった。
「あ……かっ……」
しかしそれはヴァニの確固たる意志によるものではなかった。少年の心は、絶望めいた蛆に食い荒らされ空虚だった。意識など魔法を唱えた瞬間からおぼろに霞み、今しがた自分が何を為したのかさえ理解できていなかった。
「あ、あがが……!」
そしてその曖昧模糊とした感覚をとり戻させたのは、全身を焼くような痛みだった。
「ああッ……あがあぁァッ!」
いや、焼かれながらなお皮膚を剥がされるような痛みだった。ヴァニの目からは赤い涙が流れ、口のなかには血の泡が湧いた。喉がひきつれ、臓物が痙攣して、絶え間ない苦しみが彼を襲った。
その叫びが喉を破ろうとしたときだった。
紅に染まった視界に、信じがたい異変が生じた。
ヴァニは血に濡れた双眸を見開き、恐怖に喘いだ。
「あ、ああぁ……なん、だァ!」
手を掲げる。己の眼前へと。
そして今まさに、異常な速度で伸びはじめた爪を見た。獣が舌を垂らすように、皮膚が脈動し、伸長していくのだ。
しかし運命の神は、孤独な少年に戦慄の猶予さえ与えてはくれなかった。
今、
「……オガガガガガ――」
ミズィガオロスは再び震撼し、
「ガアアアアアアアアアアアアアアァッ!」
破滅の巨神を地上へと招き入れたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます