二十二章 その名はログボザ

 シュル、シュルシュル……。


 雨のノイズを伴いながら、森の間隙に浮かび上がった異形の数は、実に五体あった。それらは実体をもたぬかのように、朧な輪郭を蒸発させ瞬時に編み直す。


「何なんだ、こいつらは……」


 デボラ一行はそれぞれ背中を合わせながら、死角を殺した。とはいえ、たった一体の影に苦戦を強いられたのだ。五体を相手どるなど到底不可能である。


 シュルシュル……。


 影はその奇妙な音を発しながら、じりじりと距離を詰めてくる。正面から対峙したとなれば、ダウナスやメズを戦力として数えるのは適当でない。勝てる望みはないと言っていいだろう。だが、逃げ場もない。どこにもない。


 それなら――!

 パリッ――!


 空に雷弧が描かれた刹那、デボラはカッと目を見開いた。恐れも困惑も殺し、思考すらも断ち切り、その脳裏には明確なイメージが稲妻で描いた絵画のごとく刻まれていた。


 それを彩るのが、魔法使いの「言葉」だ。

 デボラは正面の影へむけ、杖を突きつけた。


「エルスィーング!」


 それが避雷針のごとく、虚無から生じた稲妻を収斂し放出する!

 影が咄嗟に腕を組み合わせる。そこに雨を煙に変える雷の茨が絡みついた!


 シュ、シュシュ――。


 影から放たれる異音に変化あり!

 防御に用いた腕が蒸発し爆ぜる!


 しかしそれは宣戦布告の合図でもある。

 残る四体の影が惹かれ合うように地を蹴ったのだ!


「続けェ!」


 そして傷ついた影へ向け、デボラが走り出したのもまた同時だった。一行はすぐさま班長の背へ向きなおり駆けだす。それぞれに強化魔法は行使されておらず、人肌など紙切れにも等しいが、幸い影の動きはさほど速くない。魔法を扱えぬダウナスでも、全力疾走すれば振り切れるはずだった。


 だが真の敵は、影そのものではない。

 デボラが木立の合間に踏み入ったその時、天籟てんらいが降りそそいだのだ!


 デボラは杖を構えイメージを編んだ。しかしその手は先の魔法の反動で烈しい痺れを引きおこし集中を妨げた。じょうですらないただの杖は、すでに先端が焼け焦げている。


「ヴァハトン!」


 すると、そこへ巨大な水の傘が膨れあがったではないか。

 魔力によって鍛えられた風の刃は、傘に阻まれ空しく霧散した。


 隣を一瞥すれば、キルフの姿。はじけた水の弾をうけ、その表情は苦痛に歪んでいるが、口端に殊勝な笑みがのっていた。


「立ち止まるには、まだ早いですよ」


 デボラは頼もしい仲間の姿に頷き、再び駆けだした。

 無論、敵の猛攻にも終わりがない。背後からは影の追手があり、樹上からはさらなる魔法の雨が降る。突如、一帯の空気が肌を切るように凍えた。


「落ちてくるぞ!」


 ダウナスの叫びとともに、魔法使いたちは頭上を見上げる。そこには風の刃を防いだ水の傘。超常の冷気を受けて氷の塊と化していく!


 キルフとの繋がりを絶たれた傘は、空中で留まる力を失う。

〝九つスルヴァルト〟の歩みのごとく旅人たちを襲うのだった。


「任せろ、エルドゥルッ!」


 しかし雨水をはじき、周囲の湿気を凍てつかせた環境は、かえってウルの放つ炎を育てあげるのに好都合だった。炎の魔神が大地から指を突きだしたかのごとく火柱が氷をつらぬき融かす!


「っつ!」


 詠唱なしの魔法は、代償としてウルの杖を灰へと変える。だが敵の攻撃をしのぎ、前進を続ける一行は、確実に影との距離をひき離しつつあった。


 あの追手をふり払うことができれば、樹上の敵を相手どる余裕もできるはず。


 デボラはすでに次の算段を構築し始めている。体勢を整え、改めて迎え撃つ方法もあるが、敵は依然として正体不明だ。仕かけられるときに仕かけ、脅威を排除しなければ、今度こそ闇討ちにふされる恐れがある。


 雨に睫毛を叩かれ、枝葉の手をふり払い、ぬかるむ土を跳ねながら一行は走り続けた。やがて背後の影は、雨の煙のなかに沈む。


 今だ。


 デボラは欠けた杖を掲げようとした。


 ところがその時、


「ガハッ……!」


 殿しんがりについたロガンの腹から、夥しい血とともにはらわたが溢れだした。消化途中の燻製肉や胃液までもが、緑を絶望にいろどった。


「ロガンッ!」


 メズの悲痛の叫びと同時、その腹を貫いた漆黒の槍が抜かれる。それは樹木の裏から貫通していた。槍の輪郭は常に蒸発をつづけ、しかし槍の形状を保ち続けている。


 仲間の亡骸へ駆け寄ろうとするメズを、ダウナスが引き留めた。

 すると穿たれた樹木の陰から、濃緑のローブが姿を現す。


「……何者だ」


 あくまで冷静にキルフが訊ねると、ローブの下から乾いた視線が返った。


「あなた方こそ何者です? なにゆえ小人族を捜すのですか?」


 恐ろしく空虚な声だった。その場にいる誰もが、怒りを表すより恐れに蝕まれそうなほどだった。

 直情的なウルは、それを怒りでねじ伏せたが、声を荒げようとする彼を制して声を上げたのはデボラだった。


「なぜそれを知っているの?」

「やはりお仲間でしたか」

「ビチャスから聞いたってことね」


 デボラは瞬間的に理解した。

 おそらくビチャスはすぐには殺されなかったのだ。残った血痕は致死量に見えたが、すぐさま治癒魔法を行使すれば生かして拷問することもできただろう。デボラ自身が試みたように。


「ビチャス……。名前までは伺いませんでしたが、正直なお方でした。小人族を捜している。六人の仲間がいる。魔法使いである。色々と話してくれましたよ。なぜ小人族を捜しに来たのか、それだけは教えていただけませんでしたが」


 慇懃な男が話す間にも、幾らかの気配が闇に凝っていた。あの魔物のものではなく、おそらくこの男と同じ生身の人間だ。逃避行には意味がなかったか。周囲はすでに十以上の気配に囲まれている。


「私たちに、それを話せということ?」

「もちろん、理由をお伺いしたいと思っていますよ」

「話したあとはどうするの?」


 デボラは拳に汗を握りこんだ。

 一方、男は空虚な声音のまま返す。


「あなたたちの態度次第です。我々に歯向かうのなら、そこの青年のように、あるいはビチャス様でしたか? あのお仲間のように死んでいただくまで」


「態度次第ね……。だけど、私はあなたたちの正体も知らない。仲間を二人も殺されて、笑顔で握手なんかできないわ」


 その時、男が初めてニチャリと笑みを浮かべた。


「面白いお方だ。この状況にあって、なお白旗を揚げぬとは。さぞ我らが主もお喜びになるでしょうな」


「どういうこと……?」


 デボラはあくまで強気に訊ねた。

 すると男は狂気の眼差しで旅人たちを見渡す。


「我々はみな平等です。誰しも楽園へ至ることができる」


 男は不意に意味不明な演説をはじめた。

 デボラは思わず顔をしかめたが、ウルでさえ自我で困惑を抑えることはできなかったらしい。誰も声を発しなかった。

 男はさも愉快げに続ける。


「それが、我らが主の慈悲なのです。人族へ向けた、生きとし生ける者へ向けた、世界への慈悲。死とはほんの刹那の瞬きに過ぎません」


 恍惚として言うと、男は槍を霧散させ無防備に一歩あゆみよった。


「ですから握手など容易なことです。そこの彼も、我らと再び楽園のなかで笑うのです。天災も飢饉もヨトゥミリスもない、安寧の世で、永遠を謳歌するのです」


「意味がわかんねぇぞ」


 ついにウルが苛立ちの声をあげるが、男は聞く耳をもたなかった。


「しかしその為には、あのお方を妨げる者すべてを排除せねばなりません。あのお方の悲願を邪魔立てする西の思想には、何としても消えてもらわなくてはならないのです」


「西の民……?」


「フフ……」


 男は不可解な言葉を残し、ますます狂った調子で笑いはじめる。闇の中にも、それが伝播するように拡がっていくのが判った。


 やがて男は、初めてデボラたちの存在に気付いたように目を見開いた。


「あなた方の態度次第です。我らが主の前にかしずき、抵抗をおやめなさい。そしてあのお方の復活を、心から望むのです」


 デボラにはほとんど解りかけていた。この影なる者たちの正体が。彼らの崇める「あのお方」の正体が。


 それでもデボラは意を決し訊ねた。


「あのお方っていうのは誰なの……?」


 男は唇を舐めると、空を見上げ笑った。そこに崇める神の姿をはっきりと見てとったように。


「……ログボザ様ですよ。もうじき我らが主は、混沌の海より蘇るのです。さあ、あなた方も謳おうではありませんか。我らとともに。新世界の幕開けを」

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