二十一章 逃亡者

 ミラは背後の何者かによって猿轡を噛まされ、腕も拘束されてしまった。相手の言語はまったく理解不能だったが、背中からゴリゴリと硬いものを押しつけられるので、かろうじて「進め」と言われていることは解る。


 そうしてミラは、滝の縁のわずかに盛り上がった岩場を歩かされた。あの喋る鎧は、ゆっくりと滝壺を移動しながら、頭部と思われる扁平な部位をこちらへ向けていた。


 何なんだろう、あれ……。


 ミラは拘束されたことよりも、あの鎧の正体が気になっていた。背後の人物は乱暴だが、鎧からは何故か敵意を感じられなかったからだ。


 あれから向けられているのは、おそらくミラが向けているものと同じだ。

 興味。あるいは好奇心である。


「イザ」


 しかし茫然と観察してはいられない。

 ミラは常に促され、ついに鎧の現れた滝の裏側にたどり着いても「イザ」と背中を押された。


 その時すぐ隣を、滝をやぶって鎧が這いだした。

 改めて間近で見ると大きい。八フィートほどの漆黒の巨躯は、そこにあるだけである種の威厳を漂わせる。


 そこへまたも「イザ」の声。

 ミラは呻きながら、ただ前へ進むしかなかった。


 そう、滝の裏側は進むことができたのだ。

 そこには暗い洞穴のような道が続いていた。鎧の巨躯でも難なく通り抜けられるような天井の高い道。横幅も狭くなく、ゆったりと七ヤードばかりある。


 鎧は全身から甲高い軋みをあげる。背中から突出した管から黒煙をはくと、ミラの隣を通りすぎ正面を歩きはじめた。たちまち頭部から閃光がほとばしり、薄闇に閉ざされた洞穴の道を照らし出す。


 その光と背中をたよりに、ミラは歩いていく。足音が反響し、すぐに鎧の軋みがすべてを圧する。


 今頃になって、自分はどうなるのだろうと考えた。


 しかし猿轡のせいで、それを尋ねることもできない。無論、逃げだせるはずもなく「イザ」と苛立たしげな声に叩かれると、恐怖よりも怒りが湧いてきた。

 ミラは抗議がてら背後を睨み、そしてすぐに脱力した。


 え、小さい?


 これまで高圧的に意味不明の言葉を発してきた背後の何者かは、五フィートにも満たないミラより、さらに一フィートばかりも小さかったのだ。


 ところが、その相貌は明らかに子どものそれではなかった。顔の下半分が羊毛めいた髭に覆われ、額には逆さについた唇のようなシワが寄っているのだ。おまけに、それを構成する頭部がでかい。同じ頭でもミラの倍はありそうだ。


 そのせいか腕や肩幅などは異常に発達していた。細い鋼の棒のようなものを得物にしているのが、ひどくミスマッチだった。


 まじまじと見つめられたずんぐりむっくりの男は、これまでで一番苛立ちを含んだ声音で「イザ!」と吐きだした。


 すると正面の鎧が腰をねじって振り返り、また周囲の空気がザリザリとひずみはじめた。


『そうカッカするな、デイバ。外に聞かれるとマズい』

「……ダア」


 鎧が宥めると、デイバと呼ばれた男は渋々といった様子でうなずいた。

 ところが、それでミラの待遇がよくなるわけではない。二人のやり取りを見つめていると、声こそ小さくなったが、背を押す力はむしろ強くなっていた。


「ンン……」


 ミラは反駁するように身をよじらせ、デイバを睥睨した。彼はそれがよほど気に入らなかったと見えて舌打ちしたが、声は出さなかった。顎をしゃくって鎧の背中を示すのだった。


 そんな時間がどれほど続いただろうか。


 ミラは疲れ果て、今にも倒れそうなほどになっていた。濡れた毛布を五枚も六枚も被っているような疲れが、今にも少女を押し潰そうとしていた、その時だった。


 ずっと足音や軋みの反響音しか聞くことのできなかった洞穴から、ゴウンゴウンと重低音の響きが迫ってきたのだ。


 ふらつく足で鎧の背中を追い、ついにすり切れた足が疲労に耐えかねくずおれた時だった。鎧の放つ光の輪のなかに、赤いきらめきが重なり、シュコシュコと風を踏むような音が吹き抜けた。


 鎧が半身をこちらへ向け、デイバが「キラ」と呟いた。

 すると鎧はまた正面へ向きなおり、例のザリザリという音で闇をはらった。


『みんな来てくれ。怪しい者を見つけたので運びたい』


 それが鎧の最後の言葉だった。


 背中についた管からプシュと白煙を噴いたかに見えた次の瞬間、鎧の身体は後ろへ直角に倒れ、腹が割れたのだ。さらに白煙は、血のように腹からも噴きあがり、やがて小さな影を産み落したのだった。


 ミラはその全容を知るより前に、頭から地面へ倒れこんだ。強くにぶい痛みがあったが、それもすぐに微睡と融けていった。空腹も今や遠く、すべてを闇が押し潰さんとする。


                 ◆◆◆◆◆


 水の音が聞こえる。チャプチャプと水をかき回す音が聞こえる。

 ほんの少し前にも、同じことがあったような気がする。いつかこんな目覚め方をした覚えがある。


 けれど、いざ目を開けてみると、状況はまったく異なっていた。


「……えッ!」


 それを認めた瞬間、心臓が止まるほどの恐怖が胸を圧した。

 何故ならミラの周囲には、無数の嫌忌の眼差しと、謎の筒状の得物が突きつけられていたからだ。


 ミラは咄嗟に身動ぎするが、手も足も地面から離れなかった。

 そもそもそこは地面ではなく、柔らかいベッドの上だったが、手足は黒々とした枷をはめられ、とても抜け出せるような状態ではなかったのだ。


「な、なにこれ……ッ!」


 声をあげると、ずんぐりとした頭と得物が、一斉に警戒を増した。

 ミラは悲鳴を呑みこんで、けれど一層はげしく震えあがった。


『あまり大きな声は出さないほうがいい。死にたくなければな』


 ザリザリと空気が軋み、誰かがそう言った。


 いざ見渡してみると、最も近い場所にある顔だけが、嫌忌にも警戒にも強張っておらず、ただ冷たくそこにあるのに気付く。


 しかしその顔が再び声を編むとき、そこには雑音めいた理解不能の言語が混じり、ミラの理解可能な言語は、やや遅れて聞こえてきた。


『見てのとおり、我々には、即座に君を殺す準備がある。しかし君を拘束した目的は、徒に死肉を拝むことではない。君が大人しくしてくれさえすれば危害は加えないと約束しよう』


 ミラはパニックに陥りながらも、強いてうなずいてみせた。

 すると冷たい双眸の男は、雑音のあとに『どうやら通じているようだな』と呟いた。


 恐怖からミラの視線はさだまらず、それをどう受け取ったのか、男が手に小さな箱を持ちだした。漆黒の金属で作られた正六面体の謎めいた物体だ。


『これは翻訳機だ。君と我々では用いる言語が異なる。これはそれを自動的に翻訳する。要するに、意思疎通ができる。解るかね?』


 男は短く言葉を区切り、こちらの反応を待っているようだ。頭のなかの情報は混沌として整理がつきそうにないが、とりあえず頷いておく。男がこちらに話しかけている、反応を求めている。それだけは理解できたからだ。


『よろしい。では、君は何者だ?』

「ミ、ミラ……」


 答えると、六面体の機械からザリザリ謎の言葉が漏れて。一斉に得物を突きつけられた。ミラにはその武器の扱い方などてんで理解できないが、敵意や殺意を向けられていることだけは判り、恐怖が溢れた。


 男はそれを手で制すると、『落ち着きたまえ』と宥めて、一拍置いてから続けた。


『ミラ。初めて聞く名だ。それはどんな所属を意味するのかね?』

「え?」

『所属だ。組織と言い換えてもいい』


 ミラはわけが分からずかぶりを振った。


「所属なんて、ありません……。ミラは、あたしの名前」


 答えると、男は訝しげに目を眇めた。


『所属がない? そんな莫迦な。兵士でも技師でも、果物屋でも、なにか肩書きはないのかね?』


「ありません……。服を売ったりはしてたけど、仕事じゃないし……」


『なるほど。職のない市民というわけか』


「はい。あたしなんて、なんの能もないただの子どもで……」


『子どもだとッ?』


 不意に男が素っ頓狂な声をあげ、周りの人々も互いに顔を見合わせた。よほど大きな驚きがあったようだったが、ミラにはその意味が理解できなかった。


 やがて男は『失礼』と、小さく咳ばらいをする。


『子どもでもこんなに大きいとは思わなかった。五フィートはありそうだが』

「べ、べつに大きくはないです」

『そうか。我々とは随分異なる種族のようだ。ずばり、君は人族だな?』


 なにをそんな当然のことを、とミラは思う。


 しかし徐々に恐怖が和らいでくると、気を失う以前のことが思い出されてきた。たしかに、洞穴へ誘導したあのデイバという男は、四フィートほどしかなかった。ここにいる面々も、上から覗きこまれる形になってはいるが、皆、椅子に座っているわけでなく立ったままなのに、視線の位置がさほど高くなかった。頭も大きい。


「……そうです。あたしは人族。あなたたちは人族じゃないんですか?」


 男はたっぷりと口許を覆った髭をしごき『ふん』と鼻を鳴らす。


『どうやら知らぬようだな。我々ドワーフを』

「ドワーフ?」


 どこかで聞いた覚えがあるような気もするが、馴染みのある言葉でないのは確かだった。


『まあいい。とにかく我々は、君たち人族とは異なる種族だ。それより、まだ訊きたいことがある。君に仲間はいるか?』


 ミラは人族以外に、このような言葉を発する種族がいることに驚いたが、すぐに『仲間』という言葉を聞いて苦しみに胸をつぶされた。


 カナンとフギはどうなっただろう。今も無事でいるだろうか。


 鬱屈としたものを抱えたまま、ミラは答えた。


「……いました。でも、はぐれちゃって。食料を探しながら、東……かどうか判らないけど、旅をしていたんです。それで、滝で水浴びをしようとしたら、たぶん、あなたたちの仲間に捕まって」


『なるほど。君とその仲間の目的について教えてくれ』


 いつの間にかミラは、男と話すことに躊躇しなくなっていた。周りの存在も忘れはじめ、ただ自分の心を整理するように、ぽつぽつと吐きだしていく。


「あたしは、目的なんて特にありませんでした。とにかく逃げられればよかったの。だけど色々あって、ある人に拾われた。その人は……」


 ミラは一度口をつぐんだ。ここから先は、彼女が守ってきたものを打ち明けることになるからだ。


 カナンは信用できる者には打ち明けてもいいと言っていた。このドワーフと呼ばれる種族が、信用に値するかは甚だ疑問だ。


 だが、今は信用とか言っている場合でないのも事実だ。ミラは心中でカナンへ詫びながら先を紡いだ。


「その人は東へ向かって旅をしていた。ある人に、伝えなくちゃいけない事があるって」


『それはなんだね』


 男は一瞬険しい表情をした。

 ミラは肩を強張らせて答えた。


「じきに奴が蘇るって言ってました」

『なんだと?』


 男はその目に、怪訝とある種の確信を宿して腰を浮かした。


 ミラは予想以上の大きな反応に戸惑った。


 やがて男は目頭をもみほぐすと『単刀直入に訊こう』と前置きしてからこう言った。


『君はログボザではないのかね?』


 唐突に聞き覚えのある単語が耳になじんで、ミラはいっそう戸惑った。それが自分の知っているものと同じかどうか確信がもてなかった。だから訊ねかえした。


「ログボザって、あれ? 混沌と調和の神のことですか?」

『その通りだ。あるいはそれを信奉する狂信者』

「どうしてそれを……?」


 あの鬱蒼とした森の中、その滝の奥深くにミラは連れてこられた。おそらくこのドワーフという種族は、ああして地下に潜み暮らしているのだろう。


 だとすれば、どうしてそんな閉鎖的な種族がログボザを知っているのか。


 その疑問の答えは、意外なほど早く寄越された。


 男の目に怒りと雪辱の灯火が揺れると、それがたちまち全員に伝播した。ドワーフたちは、人族の少女が知る由もない激情から、わなわなと震えあがるのだった。


『どうしても何もないのさ。我々は朽ちたあの時代からずっと……この悠久の時の中を、奴ら……忌々しい狂信者どもから逃れてきたのだから』

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