十六章 雨天に翳る

 ダウナスとデボラの二人は、闇の中で茫然とし、互いに口を利くこともしなかった。そうして、ひとりでに燻ぶり続ける焚火を遠目に、魔物の残滓をさがしていた。


 しかし、彼らの視線の先にうごくものはない。炎の投げかける明かりが、辺りの影を躍らせるばかりだ。


 魔物は彼らの視線の先で、忽然と姿を消したのだった。あたかも炎のなかで身もだえする灰のように。蒸発する輪郭を闇に融かし、じわじわと消滅したのである。


「……戻ろう」


 先にそう切り出したのは、ダウナスだった。目頭をもみほぐし、細く長い息をはく様は、悪夢から目覚めた浮浪者めいていた。


 デボラは異論を唱えず、かと言って頷き返すこともなく、ただダウナスの判断に身を任せた。


 やがて二人は、明かりに踵をかえし、闇のなかへと戻っていく。


 月明かりは依然として眩しいほどだった。枝葉の隙間から紺のすだれのように垂れ下がっていた。それが首筋を撫でるたび、胃の腑の跳ねあがるような思いがする。あの黒い化け物に、見られているような気がしてならなかった。


 二人はすぐにでも走りだしたい衝動に駆られていた。だが、恐れるからこそ冷静にもなれた。来たときの倍以上の時間をかけて、彼らは休憩地点へと戻った。


 そこにウルとロガンが立っていた。見張番の二人は、闇のなかから現れた影が見知った二人であるのを見てとって、瞠った瞼を穏やかに細めた。


「結構かかったじゃねぇか。もう帰ってこないかと思いましたぜ」


 そう言って深く吐息をついたのはウルだ。


「悪運はつよいほうだから」

「へッ、初耳だな。班長はただ不運な方でしょうに」


 ウルの悪態に微笑みかえすと、彼は意外そうに片眉をもちあげた。

 デボラは疲れ切っていたが、今は変わりない仲間の様子に安堵してもいた。夜半、叩き起こされるとビチャスが消えていたように、彼らもまたいなくなっていたらどうしようと気を揉んでいたのだ。


「メズの様子はどうだ?」


 ダウナスが訊ねた。

 するとロガンが足許を見下ろし、これ見よがしに眠気眼をこすった。


「羨ましい限りで。ぐっすり眠ってます。今のところ悪そうな様子はないですよ」


 見張り二人の影がたまり、メズの姿はよく見えない。それでも荒い息をついている様子はなく、ロガンの言葉が真実らしいと判る。キルフも穏やかに寝息をたてていた。


「そうか。ありがとな」

「「「え?」」」


 思いもよらぬ言葉が飛んで、三人は一斉にすっ頓狂な声をあげた。

 ダウナスが呆れたように嘆息した。


「狩人でも礼くらいは言う」


 なんとなく和やかな空気が流れた。心なしか夜気が涼しく気持ちが良い。

 デボラは微笑んで、闇を一瞥するとすぐに笑みをひっこめた。


「……報告があるの」


 その一言が、弛緩した空気をきつく縫いあげた。


 そしてデボラは、魔物と思われる異形について簡潔に報告した。

 ウルとロガンは顔を見合わせ、首をかしげた。


「……それは生き物なんですか?」

「解らん」


 ロガンの問いに答えたのはダウナスだった。デボラは補足しなかった。彼女もまた、あれが生き物かどうか、確証がもてなかったからだ。


 ただダウナスはこう続けた。


「明日の朝、また焚火のところへ戻ろうと思う」


「あ? なんでわざわざ?」


「今後のためだ。あれについて、もう少し知っておきたい。ビチャスが消えた際は、なんの痕跡も見つけられなかった。だが今回は、奴の姿を見た。そこに、なにか痕跡があるかもしれん」


「ふぅん」


 ウルはなにか言いたげだったが、腕を組んだだけでなにも発言しなかった。おそらく「なんでさっき見てこなかったんだ?」とでも言おうとしたのだろうが、多少は相手の立場になって考えられるようになったようだ。デボラは感心した。


「ところで、次の見張りはどうします? メズにやらせるのは負担が大きいでしょうし、かと言ってキルフ一人にやらせるわけにはいきませんよね」


「なら、私がやるわ」


「できるのか?」


 とダウナス。


「大丈夫」

「本当ですかい? 顔色悪いですぜ」


 意外にもウルまでもがこちらを案じるような様子を見せた。デボラは頬に手をあて、濁った液体が溜まったような足を見下ろした。たしかに立っているだけでも辛い。先の調査ではかなりの緊張を強いられ、精神的にも疲弊していた。


「じゃあ、それぞれ短く休憩をとるのはどう?」

「そうしたほうがいいだろうな。一人が倒れれば、結果的に全員の足が遅れる」

「ゆっくり休みたいところですが、ワガママは言っていられませんね……」

「仕方ねぇ」


 役割分担は早々に決着をみた。キルフを起こし、簡単な報告を済ませると、デボラ、ダウナス、ロガンの三人は短い仮眠をとった。


 その後、最低限の休息をくり返すことで旅人たちは朝を迎えた。


 ある者は眠気眼をこすり、ある者は欠伸をし、六人で円座を組んで向かい合う。


 まずは昨夜のことについて、改めて報告した。メズはすっかり回復したようだったが、胡乱な話を聞きおえると、陰鬱に溜息をもらした。


 デボラはその肩を軽くはたき、頷きかけた。


 メズの精神は狩人のように強くない。ウルのように図太くもない。支えてやる人間が必要だった。彼女は戦力的に見れば脆弱きわまりないが、貴重な治癒術師だ。そしてそれ以前に、ともに旅をしてきた仲間でもある。


 デボラはやはり、ダウナスのように冷酷にはなれなかった。

 メズの潤んだ眼差しが見返してくると、ますます放っておけなかった。


「さて、他にも話しておきたいことがある。まず食料や水についてだ」


 狩人がそう切りだすと、デボラは居住まいを正した。


「おそらくだが、今日は雨がくる。昼には降りだすだろう。それまでに魔物の調査を終えたい。問題は食料だ。雨がくるとなると、獣どももひきこもりがちになる。罠を仕かけても芳しい結果は得られんだろう」


 そこでロガンが挙手した。


「なんだ?」


「食料は自前の分がまだあります。問題ないんじゃないですか?」


「今はな。だが、食料はいつでも確保できるわけじゃない。雨がいつまで続くかも判らん。だからお前らには、巣を探ってもらいたい」


 そこでダウナスは、一斉に不安げな視線をうけた。


「まあ、難しく考えなくていい。木の根元に注意を払え。小さな穴が開いていることがある。小動物のねぐらだな。だが、不注意に手をつっこんだりするな。それらしいのを見つけたら俺に報告してくれ。毒蛇の巣だったら、すぐさまヘロウの使いが来ることになる」


 デボラは手を見下ろし、そこに蛇の巻きつく様を錯覚した。背筋をつーっと汗が伝った。


「雨の話題に戻るが」


 ダウナスは一拍おいて、暗い眼差しでそれぞれを見渡した。


「お前ら、全員腹に力いれとけ」


 誰もその意味が理解できず、怪訝に眉をひそめるしかなかった。

 ダウナスは荒く息を吐いて、続ける。


「……雨の夜は危険だ。暗くて周りが見えんし、おそらく、お前らが想像しているよりも体力を消耗する。おまけに魔物だ。奴が近づいてきても、咄嗟に対処することはできんだろう。そこで、まずは接触を避けたいが、雨でぬかるんだ地面には足音が残りやすくなる」


 仲間たちの唾をのむ音が、いやに大きく響いた。


「変化に敏感になれ。雨が降りだしたら、なるべく草の生えてるところを歩け。それも丈夫そうなやつだ。すぐに背筋を正してくれる奴じゃねぇと、俺たちの居場所を知られかねん。あるいは地面に張りだした木の根でもいい。とにかく痕跡を消せ。いいな?」


 一同、素直な頷きをかえす。ダウナスは傲岸な男だが、旅に関する嗅覚は優れており信頼できる。魔物を目撃してもとり乱すことなく、冷静に対処法を考えていたようだ。


 しかしダウナスは、そこで話を切りあげた。魔物が現れた際の対処については一切言及しなかったのだ。


 デボラにはその意味が嫌というほど理解できた。


 もしも魔物に襲われたなら、ダウナスは躊躇なく仲間を見捨てるつもりなのだ。ようやく魔法使いと狩人の間に見えてきた信頼めいた繋がりは、欺瞞の汁をふくんだ細い糸に過ぎない。経験に裏うちされた打算だ。


 デボラには、当人が語る本音以上に、彼の人となりが透けて見えるようだった。


 そこに恐怖も羨望も抱くことはなかった。ただ深い哀しみだけが、澱のように胸の底をふさいでいた。


                 ◆◆◆◆◆


「ますます謎めいてきたな……」


 焚火の燃えカスから、細く煙が伸びている。底には炭が溜まっており、誰かがかき回したあとはない。


 その周囲からも、なんの痕跡も見出すことはできなかった。ダウナスとデボラが率先して魔物の移動個所を見て回ったが、足跡ひとつ残されていなかったのである。


「疲れで悪い夢でも見ちまったんじゃねぇか?」


 そう言ったウルの表情はひきつっていた。

 旅人たちの頭上に凝りはじめた鈍色の雲は、それこそこれから訪れようとしている悪夢めいていた。


「そうであって欲しいもんだ。これが夢じゃねぇとしたら、喉笛に刃をつき立てられるよりおっかねぇ」


「まさか……ゴースト?」


 喉を押さえ、ロガンが震えあがった。


「そうであってもなくても、打つ手なしであることに変わりはなさそうだな。我々は魔物とやらを警戒して、前進するしかないんだろう」


「キルフの言うとおりだ。無駄足になっちまったが、とにかく今はここを離れて進むしかねぇ。攻めるより逃げる。それが俺たちに合った性分らしいぜ」


 旅人たちは気だるげに立ちあがり、隊列を組みなおした。


 時間も労力も無駄になったが、今更ダウナスに文句を言うものはいなかった。魔物にたいする恐怖が、仲間への糾弾よりも団結を求めさせていた。


 しかしダウナスが、あえて反感を買おうとでもするように、不意に北西へ針路をとった。小人族の生活圏はさだかでないが、魔法使いたちは山の方角――南西へ向かうものだとばかり考えていたのだった。


「ねぇ、どうしてそっちへ行くの? 来た道を戻るんじゃないの?」


 デボラが訊ねると、狩人は空を指さした。


「見てのとおりだ。今朝も言ったが、じきに雨がくる。しばらくは山へ近づかないほうがいい。土砂崩れや落石のなかで泳ぎたいなら話は別だがな」


「なるほど。だとしても、この方角は山から離れすぎなんじゃないの?」


 森の枝葉にさえぎられ遠方の景色は見えないが、山から大きく遠ざかっているのは感覚的に理解できていた。デボラは毎朝、ダウナスとともに木を登って辺りの景観を確認していたからだ。


「たしかに、お前の言うとおりだ。俺たちは大きく迂回してる。だが、今はこうするべきだ」


「どうして?」


「昨夜の休息地には、俺たちのいた何らかの痕跡が残っているかもしれん。その上を進行していれば、いずれ必ず追いつかれる」


「昨日の寝床を攪乱につかうってこと?」


「そういうことだ。それに魔物は一体とも限らん」


 デボラは思わず足を止めそうになった。


 言われてみればそうだ。敵が一体であるとは限らない。デボラたちの見た姿が、たまたま一体だった。ただそれだけの事なのだ。


「魔物が複数いるとして、どれかが惑わされれば、それだけリスクが減ることになる。どうせ雨があがるまで足踏みするんだ。意味のあることをしねぇとな」


 ダウナスはやはり、こちら側の一歩も二歩も先の考えをもっている。断たれた道を、ただの行き止まりでは終わらせない力がある。


 だが彼の言動には不可解な点もあった。


「計画はよく分かったわ。あなたと旅ができて、本当によかったと思ってる。だけど、どうしてそれを今朝言わなかったの?」


 訊ねるとすぐに冷たい視線が返ってきた。そうくれば無論、嘆息のおまけつきだった。


「面倒だからに決まってるだろ」

「はぁ?」


 デボラは憤ったように返した。

 そこに二度目の嘆息が重なる。


「じゃあ、言い方を変える。説明する必要がないからだ」


「必要ないなんてことはないでしょ」


「いいや、そんなことはねぇ。現に、後ろの奴らは不満の一つも言ってこねぇだろうが」


 デボラは仲間たちへふり返り、その疲れた相貌を見渡した。皆、俯きがちで茫洋として見えた。


「みんな疲れてんだよ。恐怖も不安もある。だから縋りたいんだ。俺の行動を疑わず、正しいと信じてたほうが楽なんだ。俺も無駄な時間と労力は使いたくねぇ。だから説明しな……ん?」


 その時、パタと頭上の葉が震えた。土のうえに丸いシミが拡がった。

 森の妖精が枝葉の天蓋で踊りだしたかのようだった。

 ステップは次第に激しくなり、旅人たちの身体まで濡らし始める。


 不意にダウナスが振り返った。すると、その手が「上」のサインを形作った。


「な……っ」


 デボラが意味を訊ねようとすると、ダウナスは鬼気迫る表情で首をふり、今度は唇に人さし指をあて「黙れ」のサインを送った。


 魔法使いたちはそれぞれ首をかしげたが、ダウナスがするすると木を登りはじめると、大人しく従った。隣の木に登ったロガンとメズが七フィート程度のところで止まると、ダウナスはさらに「上」のサインをだした。


 結局、旅人たちが動きを止めたのは、地上から十二フィートほども離れたところだった。


 降りしきる雨が耳のなかを掻きむしる。景色は鈍色に染まってゆく。曇天はいっそう暗く、夜を思わせるほどに周囲を翳らせる。


 そんな中でも、ダウナスはサインを続けた。改めて唇に指をあてた。それが全員に伝わったかは定かでないが、彼のすぐ下の枝に待機したデボラは、じっと息をひそめた。


 続いて狩人が地上を指さした。

 デボラは指示に従い、地上を見下ろした。


 そこにはすでに霧のような飛沫が漂っていた。灌木や泥の輪郭は、どこか幻影めいて歪んで見えた。


 その中に、いた。

 朧にゆれる黒い影が。


 だが、それは深淵の闇ではない。蒸発する影ではない。

 よくよく目を凝らせば、その色が濃緑だと判る。樹冠の緑になじむような隠遁の装束だ。


 デボラは咄嗟にダウナスを見上げた。睫毛が雨のしずくを弾いた。目があった。


 デボラは胸に手をあて、首をかしげた。

 狩人は、すぐにその意図を理解したようだった。厳かに頷き、剣呑な目つきで地上を見下ろした。


 やっぱり、あれは――


 デボラのなかの疑念が確信へと変わった。


 人間だ。

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