幕間
「グッ、アア……ガァッ!」
ギルは痛みに耐えかね、己の腕にかぶりついた。犬歯がメキメキと肉を食み、たちまち血をしぶいた。
しかし痛みは一向に去らない。腕を食むのは己の口でなく、紅蓮の業火であるかのように思える。まったき闇の中、赤く染まった視界が、そんな錯覚を迫真的にさせた。
「グゥそぉ! 誰かァ……誰かいねぇのかァッ!」
ギルは虚空を掻きむしり、やがて土に爪をたて始めた。
手の中になにかいる。蛆のような痛みが這っている。
ギルはそう思いこみ、失われた手を掻こうとして、ひたすら硬い地面を掻きつづけた。爪が裏返り、血がにじんだ。指の皮も間もなくはがれた。それでも痛みはかすか。切られた手の痛みには、遠く及ばなかった。
夜の世界は、永遠のように思われた。ゆえに、この痛みもまた果てがないような気がした。一生を終えるまで、耐え続けねばならない類のものに思えた。絶望的で孤独だった。
だからこそ、燃える腕をかかえ天を仰いだとき、視界の端に見えた光の膜に、心から安堵した。あの長躯の旅人と異形の獣が追ってきたとは考えなかった。光はすなわち救いだった。
「あっ、あ……」
暗いくらい街道の向こうから、闇を払うように橙の明かりが近づいてくる。明かりのなかには幾つかの人影。ギルは手を伸ばした。
やがてその中の一人が、こちらを指さした。ひらりとマントが舞いあがり、蜂蜜色の光を投げかけた。
と思ったのも束の間、一人の輪郭が急速にふくれあがった。マントは蜂蜜色から徐々に白へ近づいた。明かりが逆光になると、輪郭以外はほとんど闇と同化した。
屈みこんだのが男か女かも判然としなかった。
「もし、旅の者。無事か?」
降ってきた声で、ようやくそれが男だと判った。それもほどほど老いた男だろう。ややしわがれた声。異様に落ちついていて、焦りや動揺のようなものは感じとれなかった。
ギルは残った手で、男の袖をつかんだ。
「い、いでぇんだ……。助けて、くれぇ……!」
涙ながらに懇願した。
すると男は、ギルの手をしっかと握りこんだ。
「ああ、助けてやるとも。ひどい傷だな。賊にでも襲われたか?」
「おかしな、奴に、襲われて……獣を連れてて……」
「獣……。大きな?」
なぜそんな事をいちいち気にするのか分からなかったが、話していると気がまぎれるのも事実だった。ギルは痛みに焼けおちそうな頭の中から、できる限りの情報を拾いあげようとした。
「大き、かった……」
「色は?」
「色? わからねぇよ……暗かったから。でも、たぶん、そうだ……明るい色だったとは、思う」
「獣を飼っていた者のことは憶えているか?」
「背の高い奴だったことしか……。ふらふらしてて、動きが、動きが」
「わかった」
譫言めいた言葉を切りすて、男は立ちあがった。
ギルの心臓が爆ぜるように啼いた。シンに置いていかれたことを思い出した。また捨てられるのか。喉を震わし、腕を伸ばした。
すると、そこへもう一つの影が歩みよってきた。その手許にはランプ。頬がうすく光っていた。若い男――少年と言っても差し支えないほどだった。少年はなにがおかしいのか柔和に笑んでいた。
「そんなゴミクズどうするつもりだ?」
慈愛すら感じられる笑みを向けたまま、少年が吐き捨てた。
それに先の男が無感情な声でこたえた。
「救済するのです。慈悲ぶかき我らが神ならば、この者を女神ヘロウの懐に抱かせはしないでしょう」
ギルは「救済」の言葉に、ほっと胸を撫でおろした。
少年はなおも笑んでいたが、その目は灰のように乾いていた。
「そうか。まあ、あんたらの勝手にすればいい。俺は興味ねぇからな」
そう言うと少年はギルを跨いでいった。そのあとを三つの人影が追随した。
男はマントの裏側から杖を抜きだした。そして、その人の肘のような丸い先端をギルへと向けた。
たったそれだけのことだった。
たったそれだけのことが、ひどく緩慢に感じられた。
ギルはその数瞬、痛みを忘れていた。すべての時が凍りついたような恐怖を味わった。
なぜならその杖の先端には、黒いヒルめいたものが無数に蠢いていたからだ。
「恐れることはない。すぐに解放される。痛みからも戒めからも」
「や、やめっ――」
それがギルの最後の言葉だった。
絶叫よりも逃避よりもはやく、黒い触手はギルを蝕んだ。眼球を食いやぶり、鼻腔を埋めつくし、音を裂いて声を奪った。ゆえに痛みは一瞬だった。ギルは永遠の苦しみから、死の覚悟を編むより前に解放されたのだ。
男はそれを見届けるや純白のマントを翻し、少年とは反対の方向へ歩みだした。
そして街道をはずれ、林のなかに杖の先をむけた。木々の間にわだかまった闇の幾らかが意思をもったように蠢いた。
「……我らが神に仇なす者へ」
男は無感動に呟いた。
そこへ闇からの返答があった。
「「「……死を」」」
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